周磨 要の 「湯布院日記2007」



   周磨要の「湯布院日記2002」     周磨要の「湯布院日記2003」      周磨要の「湯布院日記2004」

    周磨要の「湯布院日記2005」     周磨要の「湯布院日記2006」      おたべちゃんの湯布院レポート

                                                                 Top Page

新規更新原稿は、限りなく下にぶら下がります。スクロールの上ご覧下さい。
湯布院映画祭日記2007ー1

●概要紹介
恒例の湯布院映画祭日記、2007年版のスタートです。まずは、今年の企画からご紹介します。

今年の企画
○日本映画の美の記憶〜大映京都撮影所が遺したもの〜
 映画上映「大魔神怒る」「越前竹人形」「小太刀を使う女」「女殺油地獄」
      「疵千両」「利休」「なみだ川」「怪談雪女郎」
 日本映画職人講座「美術」
  シンポジウム「大映京都撮影所が遺したもの」
  女優・藤村志保 監督・田中徳三 トークショー
  展示「日本映画の美の記憶」〜美術監督・西岡善信の世界〜
○旧作上映「彼女だけが知っている」「見上げてごらん夜の星を」「鬼火」
  (特に銘打っていないが昨年の「いま、蘇る銀幕の明宝(フィルム)たち」の延長線上の企画と思われる)
○おしゃべりカフェ「利休」「鬼火」
○新作特別試写「こおろぎ」
      「かぞくのひけつ」
      「人が人を愛することのどうしようもなさ」
      「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)」
      「やじきた道中 てれすこ」

この他に開会してから急遽登場した素晴らしい隠し玉がいくつかあったが、その紹介はこの後のお楽しみ

●今年のスケジュール
以上の企画をタイムテーブルで時系列に並べると次のとおりになる。

8月22日(水)
 前夜祭 湯布院神楽
      日本映画の美の記憶〜大映京都撮影所が遺したもの〜
                      野外上映「大魔神怒る」
                          以上 由布院駅前広場
 懇親会  乙丸地区公民館

8月23日(木)
 日本映画の美の記憶〜大映京都撮影所が遺したもの〜
   「越前竹人形」「小太刀を使う女」「女殺し油地獄」 上映
   日本映画職人講座「美術」 西岡善信
 新作特別試写「こおろぎ」
          シンポジウム 監督・青山真治 
 パーティー  亀の井別荘 湯の岳庵

8月24日(金)
 日本映画の美の記憶〜大映京都撮影所が遺したもの〜
   「疵千両」「利休」 上映
   おしゃべりカフェ「利休」
 シンポジウム「大映京都撮影所が遺したもの」
           美術・西岡善信 撮影・森田富士郎 照明・中岡源権
   「怪談雪女郎」 上映
   トークショー 女優・藤村志保 監督・田中徳三 
           進行は映画評論家・野村正昭
 パーティー  九州湯布院 民芸村

8月25日(土)
 旧作上映 「彼女だけが知っている」「見上げてごらん夜の星を」
 新作特別試写「かぞくのひけつ」 
          シンポジウム 監督・脚本・小林聖太郎 脚本・吉川菜美
                 プロデューサー・中村有孝
        「人が人を愛することのどうしようもなさ」
          シンポジウム 監督・脚本・石井隆 撮影・佐々木原保志
                プロデューサー・阿知波孝 音楽・安川午朗
 パーティー  ゆふいん麦酒館

8月26日(日)
 旧作上映 「鬼火」
 おしゃべりカフェ「鬼火」
 新作特別試写「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」
          シンポジウム 企画・構成・製作・監督・脚本 若松孝二
                 プロデューサー・大友麻子
                 出演・地曳豪 並木愛枝 大西信満
                    ARATA
        「やじきた道中 てれすこ」
          シンポジウム 監督・平山秀幸 出演・柄本明
                プロデューサー・久保田傑 音楽・安川午朗
 パーティー  ゆふいん健康温泉館

 展示「日本映画の美の記憶」〜美術監督・西岡善信の世界〜
                映画祭開催期間中 由布院駅アートホール


●まずは「総括」
今年の湯布院映画祭の「総括」は「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」に尽きる。堂々3時間10分、「60年安保から連合赤軍結成」「山岳ベースにおける総括リンチ虐殺」「あさま山荘銃撃戦」の3部構成。凄い!凄すぎる!!これを撮らなければ死ねないとの強い意志で、私財をすべて投げうった若松孝二監督入魂・渾身の大傑作だ。
 公開は、今年の12月に名古屋の若松監督所有の劇場(もちろんこれも担保に入っている)で先行ロードショーされ、都内公開は来年2月にテアトル新宿でスタートする。各賞や各種ベストテンで、どちらの年度扱いになるかは不明だが、私としてはどこに行こうがダントツのベストワン確定である。いや、年度ベストワンなんて安いものではない。10年単位に1本の大傑作である。
 これから、湯布院映画祭日記で、今年のいろいろな話題を順次記していくが、かなりの話題がこの映画に連動していくような気がする。例によって、時制にこだわらず話題は何重にもワープしていくことになろうが、冒頭に紹介したスケジュールを参照していただきながら、時の流れのイメージを掴んでいただけると幸いである。
 それでは、次回から、ユッタリ・マッタリと2007年「湯布院映画祭日記」を本格的にスタートさせていただきます。今年は長丁場を予感しております。
湯布院映画祭日記2007ー2

●湯布院までの助走、移ろいゆく環境

とにかく今年も湯布院の季節
「来年も会えるよね?」、昨年の映画祭終了後に「お馴染みおたべちゃん」が涙まじりにネットにアップしていた。確かに1年という期間は、人にいろいろな変化を与える。
「日常に降りてしまった湯布院」という私の感覚は、昨年の日記に記したとおりだが、ここ何年か私を取り巻く環境と、湯布院への想いは微妙に変化を重ねている。
 まず、私は今年の7月から、会社を定年になり月10日勤務の嘱託となった。40年以上も付いていた「職業・会社員」からついに訣別したわけだ。暇がタップリできると思ったら、かえって多忙感が強くなった。いろいろなイベントに参加する機会が増えた。

映芸マンスリー、プレ湯布院の香り
今年の5月から、「映画芸術」誌の製作による「映芸マンスリー」が、月1回のペースでスタートした。上映会の後、関係者のトークショーがあり、若干の意見交換の時間もある。会場は、終了後も多少の飲食ができる乃木坂(乃木神社の前)のシアター&カンパニーCOREDOというユニークな空間だ。野村正昭さんのトークショーが定番で、ゲストトークの進行役も務める。気が付くと「映画芸術」発行人として荒井晴彦さんが、さり気なく後ろの席に座っていたりする。プレ湯布院の趣きである。8月は13日(月)に開催された。(残念ながら、この日は荒井さんは欠席だった)
 ただし、トークショーの後の意見交換は、だいぶ湯布院のシンポジウムとはちがう。我も我もと話したがりやが集合している湯布院と対照的に、参加者はいたって静かである。進行役として困った野村さんが、突如顔見知りの私に振ったりする。初回は、私があまり感心しなかった映画だったので、いきなり振られてゲストの手前もありクサすわけにもいかず、モゴモゴと歯切れ悪くしゃべる破目になった。それ以後、2分程度の気の利いた一言を、常に準備することを心掛けるようになった。これが、今回の湯布院では、良い方向に作用したと思うが、それは後日の話題である。

社会人劇団「マイストーリー」への参加
活弁の飯田豊一先生から、社会人劇団「マイストーリー」に顔を出すことを促された。気軽く出席したら、10月6日(土)の北とぴあ演劇祭の舞台に立つことになってしまった。(何と活弁の「蛙の会」発表会前日である!)定例の会合は毎週火曜日だ。21日(火)に稽古に参加して湯布院に旅立ち、帰った翌日28日(火)にまた稽古。1日おいた30日(木)は「無声映画鑑賞会」、31日(金)は「マイストーリー」の演出家の人の口利きで、芝居を見せていただけることになった。この3日間は、たまたますべて出社日。となると、空白の29日(水)は、日本アカデミー賞会員の無料招待の権利をフル活用する日にあてるしかない。(会員になれたいきさつは後述します)映画鑑賞3本のハシゴを計画する。
 このようにイベント参加がらみの慌しさを経験すると、もう湯布院もその渦の中の一つという感覚しかなくなる。いよいよ日常に降臨した湯布院だ。21日(火)の稽古の後は当然ながらの酒席で、帰宅は午前様となり、翌朝は酒気の残る頭を抱えながらの湯布院行きとなったのである。

「強者どもが夢のあと」、レストラン「チャンピオン」の思い出
以前の日記に記したが、類似のことが2005年の湯布院行き前日にあった。ママが映画好きで、映画ファンの溜まり場、かつては白井佳夫さん率いる「阿佐ヶ谷映画村」の住人の拠点だったレストラン「チャンピオン」でのことである。明日からの湯布院のデスマッチに備えて、私は会合を早めに切り上げ中座しようとしたら、映画ライターの「わたりじゅん」さんやら、現代映像研究会の松島政一会長やらが遅れて続々と現れ、ついつい午前様になった。歴史は繰り返すのでだ。
 今年、レストラン「チャンピオン」は閉店した。経営が悪いわけではなく家主の都合だそうだから、残念至極の限りである。湯布院から帰っての30日(木)「無声映画鑑賞会」の帰りの電車で、その「チャンピオン」のママご夫妻とバッタリ遭遇して挨拶を交わす。人は移ろい、環境も移ろい、世はどんどんと変遷していくんだなとの想いに浸る。「来年も会えるよね?」、そんなことはもうわからない。感傷に溺れてる暇もない。私の人生も晩年、イベントの渦の中で走るだけ走ってやろうと思う。

羽田空港から湯布院へ それでも旅情とときめきが…
酒気の残る頭を抱えつつも、余裕をもって羽田空港に着く。昼飯時である。ロビーの売店を物色する。「味めぐり」という弁当が眼につく。「空港は全国各地の人々が交わる場所」なので「日本全国の名産品を取り寄せて詰め合わせ」たとのことだ。羽田空港限定販売である。なるほど、そういうアイディアがあったか。北海道鮭ハラス・青森帆立貝・長崎鰤照焼・紀州南高梅・鹿児島地鶏・熊本菊地の人参が、彩り良く並んでいる。ついつい生ビールに手が出る。迎え酒効果か、軽く酒気が抜けていく心地になる。ボーッとした頭で、飛行機から高速バスへの長い長い道のりを思い浮かべると、やはり旅情が湧いてくる。祭への期待に胸が高揚してくる。
 福岡空港は、東京の猛暑日が嘘のような26℃で、土砂降りの雨だった。野外上映会が心配になるが、福岡と湯布院は遠く離れている。案の定、高速バスが福岡を遠ざかると好天気になる。それもつかの間のぬか喜び、湯布院に近づくにつれ道路が濡れてくる。とにもかくにも、バスは湯布院に到着した。

●映画祭スタート!

ここにも時の移ろいがあった
由布院駅前広場の地面はかなり濡れていたが、スクリーンの設営は開始されていた。雨のピークは通り過ぎたようで、野外上映決行の構えである。横目に見ながら、宿の「牧場の家」に向かう。入り口でバッタリと「お馴染みおたべちゃん」と出会う。今年はお神楽から全部観ようとのことで、早めに駅前広場へ向かうところだという。この出会いに、すごい偶然というか縁を感じる。
 13号倉庫さんからの情報で親御さんを亡くされたことを聞いていた。後日、耳にしたが、その関係で生活環境が替わり、来年からはフル参加は難しくなるかもしれないとのことのようだ。湯布院の「花」とも「マドンナ」とも形容したい「お馴染みおたべちゃん」が部分参加とは寂しい限りだが、これも時の移ろいの一つだろう。
 予定されていた常連のゲスト寺脇研さんが、仕事の都合で急遽不参加となったことを、現地入りして聞いた。寺脇さんは文部科学省を退官してフリーになった。定収入がないわけだから、案外サラリーマンよりは自由が利かないかもしれない。湯布院映画祭のゲストは、ギャラから考えたらおいしい仕事の方とは言えないだろうし…。(実行委員会の方、失礼)
 好きでもない仕事を続けて定年を迎えた私の45年、でも大組織にいて定収入があって、意識しないままに年金も支払ってくれ、7月から受給者となるわけであるが、これはこれで良かったのかもしれないと思う昨今である。この私の半生の感慨は、ある部分で「実録・連合赤軍」と切り結ぶのだが、それは別途に項を改めてジックリ述べたい。

無念の野外上映中止
前夜祭がスタートした。湯布院神楽から開幕する。例によってビールと焼き鳥などのつまみを調達して、鑑賞する。ところが後段から雲行きが悪くなる。太鼓奏者をテントで保護しなければならぬ降りにまでなってくる。ついに野外上映はギブアップになり、準備時間を取って、本会場の湯布院公民館上映に変更し、模擬店もロビーに移動する。盛り上がりに水をさされ、模擬店の売上にも影響したのではないかと思い、協力のためビールと焼き鳥を追加購入する。予期せぬ飲み過ぎとなった。
 それにしても、やっぱり野外上映の大スクリーンで見たかったなあ、「大魔神怒る」を。

乙丸地区公民館の懇親会 荒井晴彦さんへ私からの一方的仕掛け漫才の開始
「大魔神怒る」上映終了、参加者は三々五々、懇親会場の乙丸地区公民館に参集する。ここで、プログラムにはなかった素晴らしい追加上映があったのだが、詳細は別項としたい。
 地元の青年会の手作り焼肉などで、懇親会は大いに盛り上がる。常連の荒井晴彦さんの姿が見えない。と、思ったら受付近くで目立たないように座ってる。例によって早速ズケズケと近づく。「またお前か」とウンザリした顔で、シッシッというポーズを荒井さんが取るのもパターンどおりだ。
 ここで私の「湯布院映画祭日記」初見参の方もいるかもしれないので注釈する。文字だけだと、荒井さんが横柄で辛辣なのに対して、私が実に丁寧のような感じを受ける。実際は、荒井さんの語りはソフトで嫌味がなく、私はダミ声はりあげて態度がでかい。文字面と正反対の印象になる。文面からこの情景を浮かべるのは難しいだろうが、ま、これから先そんな感じで読んでください。
 荒井さんの側で、倉敷のツタヤ店長にして荒井さんシンパのOさんが、すでに話し込んでいる。「俺のところにはオッサンしかこないんだよな。オッサンはいいよ」とユーモラスにボヤく荒井さんである。
 しばし荒井さんのところから離れてたら、今度は「お馴染みおたべちゃん」が荒井さんの側にいる。「荒井さん、おっさんだけでなく良かったですね」と、よせばいいのに冷やかす。「私、女と思われてないから」と「お馴染みおたべちゃん」。真相は…時節柄で乙丸地区公民館は全館禁煙になったが、常連ゲストで映画祭の重鎮の荒井さんの周辺一角だけは、お目こぼしで治外法権になっていたそうだ。なるほど、荒井さんが隅でつつましくしていたわけだ。愛煙家の「お馴染みおたべちゃん」はそのおこぼれにあずかるべく、お近づきになった次第である。
 今年の、荒井さんへ私からの一方的仕掛け漫才の数々は、これも項を改めて紹介いたします。(でも「実録・連合赤軍」を巡っての対話では、チョッピリ真面目になりました。それも項を改めます)

もう一つの時の移ろい「映画芸術」編集長交代
荒井晴彦さんが「映画芸術」編集長から引いたことにも、時の移ろいを感じる。最終日ゆふいん健康温泉館パーティーのゲスト紹介で、「映画芸術」編集長と紹介されたら、「俺、今ちがうから」とコメントし、脚本家として紹介しなおされていた。「あれ?」と感じた参加者が多かった。当然だろう。私は、昨年の「映画芸術」忘年会で、当人の引退宣言と引継ぎの弁をじかに聞いているが、そうでなければ気が付かないさりげない交代だった。
 「誰になったの?小林(俊道)さん?」と、私は何人かの人に聞かれる。(小林さんは昨年のゲスト参加から、今年は実行委員の一員としてシンポジウムの司会を努めるなどの、活躍をしていた)「武田俊彦さんですよ。従来の編集発行人=荒井晴彦が、昨年のベストテン号から発行人=荒井晴彦、編集人=武田俊彦に変わっていたでしょ」と説明する。「武田さんならいいわね」と「お馴染みおたべちゃん」、武田さんとどこかで面識があるらしい。「でも、編集後記で編集長の後記が一部で、発行人が相変わらずほとんど占領してるんじゃしょうがないよね」と誰かが茶々を入れる。湯布院のお喋り雀は、決して黙っていないのである。

さて、雑談はこれまで、次回から「実録・連合赤軍」を核にした映画祭の中心に迫っていきます。
湯布院映画祭日記2007ー3

まず、最初に一言。「おたべちゃんの湯布院レポート」が、私ののんびりペースとは対照的に、早くも最終コーナーにスパートしています。例によって「要」が時々顔を出しますが、藤村志保さんのトークショーで武勇伝を演じた「要ちゃん」は、浜松の大先輩、もう一人の「T要」さんです。私はあんな武勇伝は演じられません。

●湯布院映画祭の若者たち

湯布院映画祭は中高年の会?
湯布院映画祭は、実行委員も参加者も、中高年が元気なのが目立つ。伊藤雄実行委員長も然り、重鎮の会計担当の横田茂美さんも然りである。常連参加者の高齢化は言うまでもない。
 でも、最初から中高年の会だったわけではないだろう。伊藤委員長も横田さんも、若者の情熱で映画祭を立ち上げたはずだ。参加者も熱くそれを盛り上げたはずである。それが、1年毎に歳を重ねた。気がついたら、みんな中高年になっていたということだろう。
 と、偉そうに言うほど、私は湯布院映画祭を知っているわけではない。私の初参加は1999年の第24回だ。しかし、それ以後も若い新人の継続参加者はほとんどいない。私の常連参加以後に定着した目立った新人といえば、2004年から参加した滋賀の郵便局OBのOさんくらいである。私よりも年長だ。当然、高齢化は食い止められそうもない。何で若返りが図られず、中高年ばかりが常連として定着し、年々高齢化が促進されるのだろうか?

若松孝二監督の若者への檄
最終日の「実録・連合赤軍」のシンポジウムで、若松孝二監督から若者へ檄が飛んだ。いや、若者への檄だけに止まらない。若松監督の怒りのパワーは底知れない。我々の団塊の世代にも飛んだ。「あななたたちは、あれだけ若い頃に怒りをぶつけて何かを変えたのか。戦うべきことは今でもあるだろう。年金の心配してればいいのか!」
 これについては、「団塊の世代」に対する固定的思い込みの誤解がある。シンポジウムでも同じ団塊の世代からの反論もあった。私も、この件に関してはパーティーで、若松監督や荒井晴彦さんと話をして、意義深い時を過ごせた。まあ、そのへんは項を改めてとしたい。
 若者への檄の発端は、「なぜ当時の若者たちが、投石などの実力行使までして戦うのか解らない」という若者の意見だった。「それでは、君は今の世の中に怒りたいことはないの?」「それは、ありますけど…」「じゃあ、何で怒らないの。当時の彼らは怒ったんだよ」「でも…」「あなた、そんなことじゃいずれ親を殺すよ」「それはないと思いますけど…」若者の方はひどく歯切れが悪い。若松監督よりも3.5世代くらい離れている大友麻子プロデューサーから、フォローがある。「親殺しの可能性はありますよ。怒りはある。でも、それが外に向かわない。それは内向するんです。身近な肉親に向けられることはありうるんです」

「こおろぎ」シンポジウムの後日談
とにかく、湯布院映画祭は、若者がおとなしい。いや、中高年が元気過ぎる。初日の「こおろぎ」シンポジウム終了直後の、金鱗湖畔の亀の井別荘・湯の岳庵パーティーでもそれを感じた。
 「こおろぎ」は、人の感性によって、評価が極端にぶれる純感覚的な映画であった。というのは好意的書き方で、シンポジウムでは肯定が1割から2割に対して、否定は8〜9割、早い話が酷評の嵐だったということだ。湯布院映画祭に一般参加者としての経験もあり、今回は晴れてのゲスト参加となった青山真治監督としては、かなり落ち込む状況だったみたいだが、私自身の「こおろぎ」評価も含めて、それはこの後の別項に譲るとして、ここでのテーマは「湯布院映画祭の若者たち」である。
 パーティーでは青山真治監督が、シンパらしい若者に囲まれている。この映画の数少ない支持者であることをシンポジウムで表明した常連の通称キューブリックさんもいる。「何でそれならシンポジウムで言ってくれないの」とか、若者たちに青山監督がボヤき気味に言ってるみたいなので、よせばいいのに私が割り込む。「何で若い人が、良いなら良いと、感じてることを素直にシンポジウムで言わないんですかね。年寄りが元気で喋りすぎるから?それはないでしょう。我々が若い頃はあらゆる局面で、年寄りを突きのけたって積極的に発言したもんですよ。それが若者でした。いや、年寄りが口数が多いんじゃなくて、そんな若者が年取って同じようにやってるだけなんですよ。何で今の若者はそうじゃないのかなあ」
 それでも、若者から積極的反論もないうちに、キューブリックさんとのやりとりで、話は変な方向に捻じ曲がってくる。「監督の『EUREKA』での長時間・モノクロ・ワイドのハンディにあえて挑むチャレンジの精神は素晴らしいですよ」と私が言ったら、キューブリックさんから「ワイドではないシネスコです」とクレームが入った。こういうところは私はキチンとしないと気がすまない。(映画検定1級である!というのは冗談としても、それが私の悪いところかもしれない)「シネスコはシネマスコープの略称で、20世紀フォックスの登録標章です。だから、イタリアはイタリスコープだったり、東映は東映スコープだったりして、シネマスコープの名称は正式には使えません。一般的にはシネスコで通っていますが、それは宅配便が宅急便の通称でまかり通っているのと同様で、宅急便は実はクロネコヤマトの登録標章で、これも他社は正式には使えません」常連の方はご存知でしょうがキューブリックさんは絶対に引かない人なので、引き下がるわけはない。次元の低いところで言い合いになってしまった。聞いていた青山監督シンパらしき若い女性から「とにかく年輩の映画ファンの、つまらないことへのこだわり、知識のひけらかし、そういうのがイヤなんですよね」と言われてしまった。「いや、ベースとしての知識はキチンとするのが前提で…」なんて言いかけたところで、「宴たけなわでございますが…」との閉会の放送があり、気まずく終わってしまった。宿に帰って他の参加者にそのことを話したら、「二人とも、どっちもどっちだよね」と冷やかされた。そうかなあ、ベースの知識は正確にキチンとするのが当然だと思うがなあ…。

初参加の若者Iさんへの期待
話題は遡って、初日の前夜祭にワープする。湯布院に着いて、まず「牧場の家」に入る。いつもながら、馴染みの常連を同室としてくれている配慮がある。ところが、一人だけ始めて見る名前がある。大学生のIさんだ。「映研か何かですか?」と聞いたら、すでに入室していた他の人から「誰でも聞くことは同じだね」と笑いの渦が沸く。Iさんは湯布院という地に関心があり、映画も嫌いではないので、一石二鳥と思い初参加を決めたそうである。東京の国立から来たという。私の住んでいる西国分寺の隣の駅である。奇しき縁である。
 しかし、初参加の若者を取り巻くのが常連のうるさがたの中高年、ダイジョブかいな、映画祭を嫌いになるんじゃないかいな、との危惧も起きる。過去の「湯布院映画祭日記」でも紹介してきたが、常連の中で、映画漬け一辺倒だけでなく湯布院観光にまでリーチを伸ばすのは、私くらいだ。何となく、私がアドバイザーのポジションになる。
 映画祭のプログラムにすべてつきあっていたら観光の時間はないこと、パーティーで金隣湖畔・民芸村・帰りには川沿いの道と、湯布院の町はひととおり巡るが、夜なので周囲の情景はほとんど見えず観光の足しにはならないこと、観光も兼ねるなら興味の薄いプログラムはパスして観光にあてること、私はすでに観ている映画の時間を観光にあてていること、最初に馬車で町の概要をつかんでから目指すポイントを掴むと効率的なこと、町を回るのはレンタサイクルが便利なこと、などをアドバイスする。
 結果的には、どのプログラムも面白かったらしく、途中からIさんは、観光は別の機会と割り切ったようで、映画祭にフル参加していた。Iさんにとって充実した企画だったということだろう(ついでに、私の方も観光時間に当てるつもりだった「利休」の時間帯に、特別隠し玉上映会が登場したので、映画祭参加9年目にして、初めてノー観光・映画漬けを体験したのだった。隠し玉の話題は、これも後で項を改めます)。
 そんなこんなでいろいろ雑談し、私が映画好きが嵩じて活弁の勉強をしていることなんかも話した。最終日の朝、「チケットありますか」と言って10月7日(日)の公演のチケットを買ってくれた。今後、湯布院に定着してくれそうな期待が高まった。私のチケット購入云々ではなく、映画祭初参加して魅力を感じた時に、寂しいのは、終わればみんなとは来年まで会えないということだ。誰かにでも会える機会があるならば、1年も待たずに会いたいということだ。私がそうだった。Iさんも、そんな気持になったということではないだろうか。「それでは10月7日にお会いしましょう」と別れた。来年以後、湯布院にIさんの若い風は吹き続けるだろうか。

旅のみやげ話 我が娘の反応
 これまで述べたことを、旅のみやげ話がてらに、帰宅して我が娘に話した。何とも楽しい答えがかえってきた。
「団塊の世代のそういう姿勢を、当人たちはカッコいいと思ってるんだよね。でも、それを親として見て育ってきた子供にとっては、カッコよくないんだよ。反面教師になってんだよね。そんな若者像を、あるべき若者の姿として押し付けられても、迷惑なだけなんだよ」
 なるほど、そういう視点に気が付かなかった。余談だが、人は生物学的に異性の親には、異性として魅力を感じないようにできてるそうだ。自分と類似のフェロモンを発しているので、拒否反応を起こすそうである。遺伝子はできるだけ遠い者どうしが掛け合わさった方が優性になるとの、人の本能に忠実にできているのである。そう考えると、近親相姦が稀な例なのも、何となく解ってきそうだ。
 また、若者が怒らない件については
「60年安保から、ズッと10年以上も若者が怒り続けて、結局何も変わらなかったじゃない。どうせ変わらないなら、怒るだけ無駄だってことが解ったんじゃない」
 と、何とも冷めた答えだった。でも、我が娘の場合は、戦後史を知る、あるいは知ろうとした上での意見である。戦後史なんて知ろうとも思わなければ、関心もないのが、今の若者の大勢だろう。こっちの方は、一般的意見とは、やや乖離しているような気がした。
湯布院映画祭日記2007ー4

●シンポジウムの発言のネタがない(?) その1「こおろぎ」
今年、私としては珍しい経験だったのは、鑑賞直後にシンポジウムで発言したい事柄が全く浮かばない映画に3本も遭遇したことである。「こおろぎ」「人が人を愛することのどうしようもなさ」「やじきた道中 てれすこ」だ。映画大好き人間で、こと映画について語るに関しては口から先に生まれたような私としては、珍しい事態だ。もちろん、その理由は3本とも別々である。

盛り上がらないシンポで無理無理発言
今年最初の新作特別試写作品「こおろぎ」の上映が終わる。シンポジウム会場に向かう道すがら、滋賀の郵便局OBで「失礼します」の冒頭挨拶が映画祭風物詩になったOさんが、例によっての関西弁で「どうでっしゃろ」と話しかけてくる。「こんなに言うべきことが見つからない映画は珍しいです。みんながこの映画をどう言うのか、聞くことに専念します」と答える。
 とにかく、この映画は何なんだろう。盲目の初老の男の山崎努を、鈴木京香が保護者のごとく面倒を見ているうちに、幻想とも現実ともつかぬ脈絡のないイメージが入り組んでいく。いや、見る人が見れば脈絡があるのかもしれないが、私はお手上げだ。
 シンポジウムが始まる。ゲストは青山真治監督ただ一人。常連キューブリックさんの、意外や賛辞で幕を開ける。こりゃあかんと思ったかどうかは知らないが、滋賀のOさんがすかさず否定論を述べる。常連のとりあえずの発言で後はバッタリ途絶える。気まずい沈黙が続く。司会の横田茂美さんが「ありませんか。ありませんか。感想でも、質問でも、ありませんか。何でもいいですよ。ジックリ考えて結構ですよ。待ちますよ。いつまでも待ちますよ」間を持たせるのに必死である。仕方がないから、私が挙手をする。
「見終わって言うべき言葉が何も出てきません。映画が大好きで、映画を語ることなら、口から先に生まれてきたような私には、珍しいことです。何なんでしょう。それがわかれば、言葉も出てくると思います。皆さんの意見を聞いて、それを考えたいと思います」
 いやー、俺もすごいよなあ。発言になってない内容を、発言らしくデッチ上げちゃうんだから。「映芸マンスリー」で野村正昭さんに急に振られてきた成果だろうか。なんちゃって。後述するが、この言い方はかなり青山監督を傷つけたようだ。
 
「解らない」発言の連続から「酷評」の嵐へ
時間の経過とともに、ポツリポツリと発言も出てくる。約1名程度から「凄い映画だ」と万人を敵に回すも我行かんとの絶賛の言葉が出たが、全体としては「つまらない」「よく解らない」発言が連発される。「こおろぎ」は現時点で公開が決まっていないが、「未公開の作品がたくさん控えているんだから、こんな作品で劇場をふさぐことはない」「私が館主だったら買いません」なんてヒドい言葉まで出てくる。

本音か?諧謔か?青山監督の発言
 「解ることが映画のすべてではないでしょう。アントニオーニやフェリーニの映画が、解らないから悪いと言えますか。私はこれ以上解りやすい映画はない『レイクサイドマーダーケース』を撮りました。我ながらよく撮れたと思ってます。でも、誰も認めてくれませんでした。悪いとも言ってくれませんでした。シカトされたんです。だから、今度は解る解らないの次元を超えた作品を撮ろうと思いました。もちろん、真剣には創りましたよ」
 なるほど「シカト」が一番答えるのか。冒頭の私の発言なんて「シカト」そのものじゃないか。こりゃまずかったなあ。
 ところが、ゲストの映画評論家の渡辺武信さんから、さらに厳しい指摘がなされる。「きちんとした映画を撮れる人が、あえて解らない映画に挑戦するのはいいけれど、最低限お客さんに対して見るに耐えるものにする責任はあると思う」

不徹底な収束 結局、私が笑いものに…(?)
ここで、またまた気まずい沈黙が続く。しょうがないから、常連参加者が二巡目の発言で場をつないでいく。キューブリックさんが力説する。「解らないから悪い映画ということはないですよ。もちろん、私はちゃんとできた解りやすい映画も評価します」と「武士の一分」を引き合いに出す。いや、引き合いどころか、延々と「武士の一分」賛歌に脱線していく。
 私も、この際だから二巡目の発言をする。
「皆さんの話を聞いて、私がなぜ語るべき言葉が出なかったのか、なんとなくわかってきました。私は、解るか解らないかで映画を見ません。感じるか感じないかで見ます。良い感じにしろ、悪い感じにしろ、その感じたことを基点にして、言葉が出てきます。この映画は、私には感じるものがなかったということです。もちろん、これまでの話の中で深く感じた人がいたこともわかりました。でも多くの人が、監督が『感じる』映画を意図したにも関わらず、『解る、解らない』の次元で止まってました。そこに問題があると思います」
 これって、ますます青山監督はカチンと来たかもしれない。言葉を変えれば、これも青山監督が最もイヤな「シカト」ではないか。ところが、さらに私は続けてしまった。
 「ここから先は、監督がお怒りになるかもしれませんが、解りやすい映画が認められなかったから、感じるだけの解り難い映画を創るというのは、真剣ではあったといわれてますが、志に問題がないですか。アントニオーニは『女ともだち』という見事なメロドラマを創っています。でも、それが認められなかったから『情事』や『太陽はひとりぼっち』を創ったわけではないでしょう」
 監督から意外な答が返ってきた。
「僕がアントニオーニみたいに立派になれるわけがないでしょう」
 完全な開き直りである。「いや、作家としてのプライドは誰しも同じじゃ…」などと言いかけても、開き直られてはもはや対話は成立しない。間髪を入れず監督は
 「うるさい映画ファンを黙らすのは、こういう言い方がいいんですよ。僕の勝ちね」
 一本とられてしまった。次元の低い揚げ足取りではあるが、通称「蛙の会」の話術研究会会員としては、やられたって感じだ。失笑交じりの爆笑が場内を覆い、結局は私が笑い者になって収束したようだ。
 この低次元の落ちを面白がって、「僕の勝ちね、って言われちゃいましたね」とパーティー会場の湯の岳庵に向かうバスの中で、冷やかし半分に話しかけてきた者がいた。昨年の私設打ち上げ・反省会で、不快な映画祭批判の発言をした人である。次元の低い奴は、どこの場でも次元が低い。
 常連のWさんからは
 「青山真治は海外でちょっと評判とったからって驕ってるよ。何であんな奴に次々と仕事が来るんだよ。3年くらい干してやりゃいいんだよ」 との過激な意見を聞いた。

「過去」の青山真治監督作品について
 「EUREKA」は、私は壮大な作品だと思っている。スクリーンの枠と上映時間という限定のあるエリアで、限定のない人の生というものを、丸ごと切り取ろうとした前人未踏の試みだと思う。4時間を旅した果てに、これは「過去」の清算として、モノクロが最後はカラーになるなと予感はしていたが、そのとおりになった瞬間は鳥肌の立つ感動が訪れるだろうと待ち構えていた。ところが…感動はあったが、鳥肌までには至らない。そこにひとつの?が残った。
 多分、「過去」というものに対する姿勢が、青山監督と私では微妙に違うのだろう。青山監督にとっての過去は徹底したドキュメントで、そこに現在の自己を追い込んでいくのではないだろうか。監督のシンポジウムにおける発言から、私はそんな感じを受けた。
 ひるがえって私は、過去というのはフィクションだと思っている。過ぎ去った絶対的事実は訂正が効かないならば、過去は肯定すべきフィクションとして再構築すべきだと思っている。そのあたりの「過去」に関する認識の違いが、私にとって「EUREKA」は、あと一歩感動が少なくなったのではないだろうか。
 このへんの監督の「過去」の認識について、パーティーでお話をうかがいたかったのだが、ここでも次元の低い話題ですべっちゃったのは、前の「湯布院映画祭の若者たち 『こおろぎ』シンポジウムの後日談」の項に記したとおりである。
 なお、青山監督の絶対の自信作「レイクサイドマーダーケース」は、私はあまり評価しない。確かにうまい語りである。でも、よく出来た演劇のうまさである。映画的にこなれていたとは言い難い。私の見たいのは「映画的快楽」なのだ。

●シンポジウムの発言のネタがない(?) その2  「人が人を愛することのどうしようもなさ」
「人が人を愛することのどうしようもなさ」も、鑑賞後に、シンポジウムで発言すべき言葉が浮かばなかった。確かにこれは、観る人が観れば大傑作なのだろう。喜多嶋舞の体当たりの熱演。炸裂する石井隆のエロスの美学。ある意味で、集大成であり頂点とも形容できよう。今回は名美と村木の話はメインではない。村木は脇役の位置にまで引いている。その分、従来メインだった二人の情念みたいなのは希薄なので、完全にビジュアル的なエロスに徹底している。「ある意味で」「集大成」「頂点」といったのは、そういうことだ。
 しかし、私には困った映画である。私は、石井隆のエロスの美学が、徹底的に感性に合わないのである。純然たる感性について、合わないのを合わないと発言したって、これはシンポにも何にもならない。

一瞬、司会の横田さんを白けさせた私の発言
 シンポジウム会場のつかみはよかった。しかし、意外と発言が出ない。感動が発言に直結する映画ではないからだろうか。シーンとしてくる。仕方なく、また私が挙手をする。司会の横田さんは、敏感に私の雰囲気を感じ取り「ロクなこと言いそうもないな」と、一瞬躊躇するが、他にいないので「しょうがないな」といった感じで、発言を促す。
 「監督の映画は『痛い』んです。私は『痛い』とエロスを感じないんです。私はエロスは『恥じらい』だと思ってます。肉体的苦痛があったら、『恥じらい』なんて飛んでしまいます。監督の『花と蛇』なんてアクロバティックな縛りです。あれでは、苦痛が先立って『恥じらい』の余地なんて無くなります。スミマセン。そう感じてる者もいると思ってください」
 そして、この後に本命の質問を続ける。いや、これはパーティーで話題にする程度のショムない質問なのだが、私にとってこっちが本命なのであることは、まちがいない。エンドクレジットに何と!小さいながら「御贔屓里見瑤子嬢」の名があったのだ!!どこに出演していたかは、全く不明だ。湯布院の地で「お馴染みおたべちゃん」と共に「御贔屓里見瑤子嬢」の名に出会えるとは思わなかった。(変なふうに一緒にしてゴメンネ)
 「あの、最後に質問ですが、クレジットに里見瑤子の名がみえましたが、ピンク映画のスター女優で、私はファンなんですけど、どこに出てたんでしょうか」「あーあ、やっぱり喋らせるんじゃなかった」と、横田さんがウンザリした表情を浮かべる。

しかし、局面は有意義な展開へ
白けきった横田さんは、「里見瑤子の件ですが、監督ですか。プロデューサーでしょうね」と阿知波孝さんに振る。「最後の看護婦役です。画面から切れて顔は映ってません。里見瑤子さんは友達なんで、声をかけたらチョイ役だけど、出てくれました」(実は「最後の看護婦役」という表現は、この映画のネタバレに直結しちゃう。ただし、上映前のビデオレターで出演の竹中直人さんが、見事にネタバレを喋っちゃったんである。シンポジウムで石井監督も憮然としていた。未見の方のために、これ以上は言いません)
 ウォー!「御贔屓里見瑤子嬢」の友達だって!ワーイ!パーティーの楽しみが増えたぞー!なんて心の中ではしゃいでるのは私だけ。横田さんはいい加減ウンザリして「質問者、いいですね。では、他に次の方」とつなぐ。
 ところが、ここで石井監督から「あの、私が答えなくていいですか」と、オズオズと申し出がある。「あ、どうぞ、どうぞ」と司会の横田さん。
「おっしゃるとおり、私の映画は興行側からエロくないと言われてます。でも、これが私にとってのエロスなんです。『花と蛇』にしても、十分に私は『恥じらい』も描いているつもりなんです。でも、エロくない、もっともっとと言われるんです。これは何でしょうね」
 と石井監督ならではのエロスに対する意見が表明された。司会の横田さんも、監督の発言が引き出されて、結果オーライと満足そうだった。
 私が、ここまで踏み込んだ発言をしたのには、ウラがある。滋賀の「失礼します!」Oさんが「監督の映画を見る限り、ギラギラした獰猛な人を想像していたら、繊細な方なんで意外でした」とやって大受けしたが、そのこともあったのである。これが「個人の美意識の違いを、こんなところで言って何になる!」なんて怒鳴りそうな人だったら、私も発言を控えた。本当に石井監督は映画と裏腹な繊細で物静かな方だった。

しばし、パーティーで「御贔屓里見瑤子嬢」の話題
参加者相互でガヤガヤ雑談をしながら、パーティー会場の「ゆふいん麦酒館」に向かう。「石井監督の描いているのはエロスじゃなくヴァイオレンスでしょう」との参加者からの意見を聞く。
 パーテイーの開始だ。乾杯終了で自由歓談の時間になったので、すかさず阿知波孝プロデューサーに突撃する。「御贔屓里見瑤子嬢」の最後の看護婦役は、ほとんどエキストラみたいなものだが、ロケ地が不便なこともあり、瑤子嬢に声をかけたら快諾してくれたそうだ。気を使うことは少ないし、演技の対応力もあるしよかったとのことだった。下世話な話だが「ギャラなんかは?」と伺ったたら、「交通費など必要経費程度ですね。あ、クレジットに出すって断ったかな、ま、いいけど」とのことだった。この後「平成人魚伝説」(公開題名「痴漢家政婦 すけべなエプロン」)「精霊夜曲」(公開題名「淫ら姉妹 生肌いじり」 いずれもピンク映画の題ってスゴいですねえ)やらの話題を出して、盛り上がろうと思ったら、阿知波プロデューサーはビンク映画女優としての瑤子嬢の方はあまり詳しくないようだった。確かに小劇場の舞台やらライブやら多彩な活動をしている「御贔屓里見瑤子嬢」、しかし、そちらの方は、私が詳しくない。残念ながら、この方の話題は盛り上がらなかった。

石井隆監督との対話
 パーティー会場に向かう途中に耳にした参加者の意見をそのまま監督にお聞きする。「監督の描いているものの狙いはエロスでなくヴァイオレンスだと言う人もいるんですが、どうでしょう」
 「いや、エロスです。あれが私のエロスなんです。でもエロくないって言われちゃうんです。ですから変態かもしれません」
 「いや、何をエロスと感じるかは百人百様だと思いますので、すべてのエロスに変態はないと思います」 そんな対話をしたのであった。

荒井晴彦さんのエロス
そろそろ今日も荒井さんに仕掛け漫才といくかなと、会場をキョロキョロする。意外やいない。どうしたんだろう。いや、いたいた。入り口の外の喫煙所にいた。「ゆふいん麦酒館」も今年から全館禁煙になったようだ。さすがにここでは前夜祭の懇親会場の乙丸地区公民館のように、いかな映画祭ゲスト重鎮の荒井晴彦さんでも、治外法権とはいかないようだ。
 顔を合わせたら、いきなり荒井さんに言われてしまう。 「おまえ、相変わらず馬鹿なこと言ってるな。何で『恥じらい』がエロスなんだよ。パンツ脱ぐのいやがる女より、すぐ脱ぐ女の方がエロスがあるだろ」
 なるほど、それが荒井さんのエロスか、正にエロスとは百人百様だ。第25回映画祭のシンポジウムで森崎東監督から、「女は押し倒すもんだ」と言う人として紹介された荒井晴彦さんの面目躍如である。

団鬼六「花と蛇」のエロス
私がエロスを感じる真髄は「恥じらい」と言った。団鬼六の「花と蛇」はその究極だと思う。
 石井隆監督の緊縛と、鬼六「花と蛇」の緊縛は、かなりちがう。石井作品「GONIN2」の喜多嶋舞の緊縛は、ワイヤが柔肌に食い込み、血が滴っている。痛い!これだけ苦痛を感じたら、羞恥心なんて吹っ飛んじゃうだろう。団鬼六の緊縛はちがう。全裸にされて両手を後ろで拘束される緊縛は、恥ずかしいところを隠すことができないというつらさである。いわゆる手ブラで乳房を覆う自由もなければ、はしたない姿ではあっても股間に手の平を添えるということすら許されない。その「恥じらい」を増幅させるためには、肉体的苦痛は最小限にする必要がある。鬼六世界の緊縛は、荒縄みたいなものよりも、肌にやさしい柔らかな絹のしごきのようなものが多い。小沼勝監督を中心とした谷ナオミのロマンポルノの映画化でも、そんな描写が多い。イメージ的に緊縛の「痛み」よりも、全裸の女体をエロチックに彩る衣装のような趣きがある。
 肉体的な責めは、ほとんど生理的苦痛に限定されている。トイレに行くことを許さず尿意を堪えさせる。浣腸責めを施し便意をこらえさせる、といった具合である。この肉体的苦痛だけは、「羞恥心」を増幅させることはあっても、意識させなくすることはない。屈服して放尿・排便に至った時、そんな姿を曝け出す羞恥の極限に突き落とされるからだ。
もちろん、現実には、どんな美女でも、腹中に溜めに溜め込んだものを放出したら、強烈なアンモニア臭、花の曲がるようなメタンガスの臭いで、エロスなんてものではあるまい。だから、団鬼六の世界のエロスは、臭気を伴わない小説や、せいぜい映画までに限られる。映画にしても、即物的な描写は巧みに避けて、リアリズムとは遠いファンタスティックなタッチになる。(もちろん、これはロマンポルノの、私にとっての最良部分を言っている。そうでないグロいものも少なくない)
 良くいえば幻想、悪く言えば妄想の世界こそが、私にとってのエロスの極限ということだ。

エロスと性は「底の丸見えの底なし沼」
私はよく性について、「俺、淡白だから…」と冗談めかして言う。でも、意外と本音で、当たらじとも遠からずと思っている。私は、性というものは、結局は生物学的な遺伝子の継続が本分だと思っている。それ以外の快楽のネタにすることを、深層心理で抑圧しているような気がする。だから、私にとっての究極のエロスは、団鬼六世界の「恥じらい」になるのではないか。(鬼六ワールドでは、レイプは意外と少ないしメインでもない)アンチの人は「寅はやらないから駄目」と否定する(荒井さんなんて、その急先鋒になりそう)「男はつらいよ」シリーズを、私が限りなく愛するのも、そこに関係があるのだろう。これって、石井隆監督よりも、はるかに変態かもしれない。でも、性というものはこのくらい百人百様なのだ。石井監督を変態とも思わないし、荒井晴彦さんのエロスも、それはそれでありだろう。
 生物学的には遺伝子継続、物理的には肉体の摩擦、それだけのことが性なのだが、人の心の中でそれぞれ多様な顔を持つ。それが性でありエロスだ。元「週刊ファイト」編集長の故井上義啓氏が、プロレスを「底の丸見えの底なし沼」と評したが(この人のプロレス論は哲学であり人生論でした)、エロスと性も「底の丸見えの底なし沼」ということができるだろう。

 何だか、やけに妖しくヘビーな内容になりました。今年の映画祭日記は、山場になる「実録・連合赤軍」にまだサワリ程度しか触れておらず、もう一つの大企画「日本映画の美の記憶〜大映京都撮影所が遺したもの〜」の方は、ノータッチである。今年の映画祭は、つくづく濃かったと思う。昨年のベストムービーが、消去法で結局ホンワカした「幸福のスイッチ」になったことを思うと、大きなちがいだ。と、いうことで今年の「湯布院映画祭日記」は、まだまだヘビーにハードに延々と続きます。
湯布院映画祭日記2007ー5

●シンポジウムの発言も話術・話芸の修行(?) その1 日本映画職人講座「美術」
最近私は、シンポジウムの発言も、話術・話芸の修行の一環だと思うようになってきた。「湯布院映画祭」のシンポジウムは、有料の催しである。だから、シンポジウムで発言できる機会も木戸銭のうちだと、以前の「湯布院映画祭日記」で記した。それでいい気分になれば、私としては木戸銭の元を取れる。でも、それだけではいけないだろう。発言を聞いている参加者も、木戸銭を払っているのだ。そうした聞き手にとっても、聞くに堪える発言をしなければいけないと思う。誰とは言わないが、自分だけがよい気分に酔っている常連発言者も、いないわけではない。あからさまな不快発言事件も、今年は2件あった。そのあたりは、かなり後になるが「シンポジウムの発言のネタがない(?) その3 『やじきた道中 てれすこ』」の項で詳述したいと思う。

シンポジウム発言のあるべき姿
しかし、理想的なシンポジウム発言というのは、話術・話芸を志す者にとっても、きわめてハードルの高いものがある。まずは、自分がいい気持になれること。これは木戸銭の元をとる精神から当然だろう。次は聞き手である他の参加者に対し、聞くに足るものであること。言葉としては簡単だが、これを具体的に展開するのはかなり難しい。まず、発言時間だが、2分が目安だろう。素人の話術で2分もたせるのは、なかなか大変である。言いたいことは山ほどあれど、その枠の中に納める整理が必要だ。3分を超えたら、絶対に素人の話術・話芸では持たないと肝に銘じるべきだ。
 このことを言うと、必ず例年どおり滋賀の「失礼します!」Oさんから、「ホントですか、周磨さん、時間計りまっせ」とくる。私も「計ってください。3分越えたら指摘してください。それも私の話術・話芸修行の一環になりますから」と、こう答えるのも昨年どおりである。
 どうも、私は、シンポジウムで長く話すという印象を、一部の人に持たれているようだ。時間を計ってもらえば判るが、決して長い発言はしていない。ただし、対話の時の口数は、私は相手を圧倒するくらい多いのは認める。その印象が、誤解を与えているのだろう。ただ、誤解されることも含めて、私の話術・話芸の未熟さであることは間違いない。
 もっとも、「失礼します!」Oさんあたりになると、長いとか短いとか、内容の要約がどうこうとかを大きく乗り越えて、これはもう天然の見事な話術・話芸である。私は、残念ながらそんな才能はない。努力するのみである。
 シンポジウムの発言は、発言者と聞き手が共に心地よい以外に、さらにもうひとつ大きなハードルがある。ゲストの存在があるからだ。これに加えて、ゲストから有意義なお話を引き出す発言でなければならない。正にシンポジウムは、話術・話芸の厳しい修行の場である。
 前の項で紹介したが、意図しないまま私の発言が結果オーライで、石井隆監督から貴重な言葉を引き出した。ここから後は、私が意識的に仕掛け、うまくいったと思われる例を2件紹介したい。
 なお、Oさんの印象はさておき、私のシンポジウム発言についての努力は、届くは人には届いたようである。「きちんとまとめて話されてますね」「今度はどんな発言をされるか楽しみにしています」と、パーティーで何人かの人に声をかけられたからだ。

「雪之丞変化」の美術について
日本映画職人講座「美術」では、西岡善信さんから多くの貴重な話を伺った。美術監督は、脚本を読み込んで美術をデザインしていくが、監督のイメージによって修正を重ねていき、最終的には監督のものでしょうとのことだった。そこで、かねてから気になっていた西岡さんが美術を担当した市川崑作品「雪之丞変化」について質問することにした。私は前衛時代劇とも呼びたい「雪之丞変化」を高く評価するもので、公開当時に「天国と地獄」よりもベストテンで上位に据えたくらいである。
 「美術は最終的に監督のものとおっしゃいましたが、美術そのものが映画の魅力の核になっているものはどうなんでしょう。具体的には『雪之丞変化』です。『雪之丞変化』は、普通にシナリオを読めば、オールスター時代劇超大作という感じですよね。ところが、この映画は、チャンバラでは暗闇の中に白刃だけが浮き上がる、捕り縄が飛ぶ場面なんて、長い黒塀の置くに岡っ引きがいて縄を投げるってイメージが定番なのに、これも暗闇に縄だけがヒューって飛んできますよね。これはシナリオを読んだ西岡さんが、今回はこんなちょっと変わった美術で行ってみようと提案されたんでしょうか。監督から、今度はこんな美術で行きたいから考えてほしいとなったんでしょうか」 西岡さんの話は、かなり興味深いものだった。
 「ああ、『雪之丞変化』ですね。実は崑さんは、あれ、あんまりやりたくなかったんですよ。でも会社は、長谷川一夫300本記念映画で、オールスター大作で、市川崑で行きたいとなりまして…。それなら、普通にやってもつまらないと、いろいろ工夫しているうちにあんな形になりました。芝居小屋を風にはためく幟だけで表現するなんて、面白い試みでした」
 おもいがけない裏話を聞かせてもらった。できあがった作品を見れば、どんな意欲作としてスタートをしたのかと思ったら、あまりやりたくないオールスター大作をあれこれひねった苦肉の策の結果だったのだ。撮影所システムが健在だった時代の、瓢箪から駒ということなのだ。
 「でも、あれが評判よくて、海外でも賞をもらったんですよ。美術ってなかなか賞はもらえないんですけどね」 と、西岡さんは「雪之丞変化」が話題にされたことが、うれしそうだった。ただし、その後に 「美術の賞って、ああいう奇策が評価されやすいんですよね。本当は、溝口健二作品のように地道だけどオーソドックスなものを評価してほしいんですが」 との補足もあった。講座で紹介された授賞作品の市川崑監督TV版「源氏物語」も、低予算を逆手にとった抽象的・簡略化の美術であった。この美術の原点も、たぶん「雪之丞変化」だったのではないだろうか。
 いずれにしても、私はお気に入りの映画を話題にできて心地よく、ゲストの西岡さんもうれしそうで、他の参加者も貴重なお話も聞けて満足するという、文字通り理想的なシンポジウム発言ができたと思う。後のパーティーで、「よい話を引き出してくれましたね」と、何人かの人に声をかけられた。

シンポジウムの発言も話術・話芸の修行(?) その2 シンポジウム「大映京都撮影所が遺したもの」
美術・照明・撮影の関係
シンポジウム「大映京都撮影所が遺したもの」は、美術の西岡善信さん、照明の中岡源権さん、撮影の森田富士郎さんをゲストに開催された。
 まず、美術が完成し、それに命を与えるのが照明で、さらにそれを記録するのが撮影であることが、素人わかりするようにていねいに説明される。

私が、かねて準備した質問
「撮影と照明の関係について質問をいたします。今年、日本アカデミー賞協会の30周年記念ということで、一般人5名に会員の枠が開放され、その中の一人になる光栄に恵まれました。(情報誌「ぴあ」を通じての書類選考によるものである。口の悪い奴は、面接があったら絶対落選したねと、のたまわる)今年1票を投じさせていただきました。その中で、撮影と照明は同一作品に投票してくださいとの1項があったんです。別の作品に投票しないでくださいということでした。アメリカのアカデミー賞では聞かない話ですし、これは、撮影の方として照明の方として当然と思われますか。あるいは不本意な投票規定でしょうか」 この質問も、貴重な話を引き出すことに成功した。森田さんは、まず「芦屋からの飛行」を例に出した。

映画「芦屋からの飛行」について注釈
ここで「芦屋からの飛行」について、注釈を加えておかなければならないだろう。これは、大映京都撮影所がハリウッドを迎えた合作映画の大作である。ユル・ブリナー、リチャード・ウィドマークと、この頃「ウェスト・サイド物語」で人気絶頂だったジョージ・チャキリスが競演している。日本では大型新人女優として滝瑛子が華々しいデビューを飾っている。
 この後、別項の話題で出てくるが、この映画は、当時は飛ぶ鳥落とす勢いの大映社長にしてプロデューサーの永田雅一、通称永田ラッパが、華々しく吹きまくり、不振の大映末期に起死回生の大逆転を狙った作品であった。私としては、思いがけない話題が出てグイグイ引き込まれた。
 ただ、何のことだかわからなかった人が少なくなかったようで、後のパーティーで何人かの人に「『芦屋からの飛行』って何なんですか」と聞かれた。確かに滝瑛子はその後は大成しなかったし、撮影時の話題のわりには興行的には尻つぼみで、記憶に残している人は少ないかもしれない。シンポジウムを有意義にするためには、誰か(というよりは、厳しいでしょうが司会の実行委員)のフォローが必要であろう。それは、後の話題とするが、ここでは先の話を見えやすくするために、とりあえず「芦屋からの飛行」について注釈した。

撮影と照明に関する有意義な話
撮影の森田富士郎さんによれば、「芦屋からの飛行」では照明の中岡源権さんに付す適切なクレジットが無かったそうなのであり、ハリウッド映画にはないクレジットとなったそうだ。
 日本では、美術に照明が生命を与え、撮影がそれを記録する。ところが、ハリウッドにおける撮影監督は、照明とカメラポジションを決めるまでが仕事だそうだ。カメラを覗いて回し記録するのは、オペレータの仕事になるとのことである。
 ここから、日本が撮影と照明が分離した理由が、映画創世紀の流れから現在のようになった経過まで、ていねいに説明される。撮影者が照明をやってもよいのだが、日本映画の歴史的流れで、分離する伝統ができたそうである。また、照明と撮影を別の者がやると、効率が上がり時間的には早くなるとの利点もある。金のない日本映画界の知恵でもあったのかもしれないと、ちょっといじましい話も出る。
 いずれにしても、私は日本アカデミー賞協会会員であることをPRしていい気分になり、森田さんと中岡さんは嬉しそうに撮影と照明の真髄を語り、聞き手の参加者も興味深い話を聞けた。三方一両得の名発言だったと自画自賛したい。

この発言にケチもつく
 とは言ってもこの発言には、かなりケチもついた。日本アカデミー賞協会会員であることに触れた冒頭である。 「おたべちゃんの湯布院レポート」では「ま〜たおっさん自慢しくさってェ」と 「突っ込み入れ」られた。
 荒井晴彦さんなんて、もっとひどかった。
 「アカデミー賞協会会員なんて、自慢してんじゃねェよ。ハリウッドでは、撮影と照明を同じ者がやるなんて常識だろ。映画が好きならもっと勉強しろよ。つまらない質問するなよ」

でも、結果オーライじゃなかったかなあ
ハリウッドの撮影監督は、照明とカメラポジションを決めて、ユニオンの関係もあり実際にカメラを回すのはオペーレータだと、耳にしたことはある。でも、ほとんどの人はそんなこと知らないよね。
 それに、日本アカデミー賞では、何で撮影賞と照明賞が同一作品なんですか?なんてひとごとみたいな質問をしても、誰も関心を持たないだろう。私が30周年記念の年の一般者からの特例会員で、現実に投票の時に疑問を抱いたという背景があるから、質問としてもみんなが興味深く耳を傾けてくれたんだと思う。
 発言の仕方も気を配ってるんですよ。いきなり「私は日本アカデミー賞協会会員で…」なんてぶちあげたら、自慢気で嫌味このうえない。だから冒頭で、「撮影と照明の関係について質問をいたします」とやって、撮影の森田富士郎さん、照明の中岡源権さんがグッと乗り出す雰囲気を作ったのである。確かに、前日の職人講座の延長からか美術の西岡善信さんに話題が集まりがちだったから、お二方の「待ってました」との気合も感じた。
 まあ、おたべちゃんも「湯布院レポート」で、最終的には「結果的にそれが面白いゲストの答えを引き出してくれた」と評価はしてくれた。やっぱり、三方一両得の名発言だったと自画自賛しておこう。

今後の実行委員のフォローに期待
照明の中岡さんは、今年の日本アカデミー最優秀撮影賞・最優秀照明賞について独自の見解で熱弁を奮った。(「おたべちゃんの湯布院レポート」によれば「吠えた」)具体的な映像に細かく触れた内容だった。だけど、今年の受賞作が何だったかなんて、ほとんどの人が記憶にないから、何言ってるかわかりませんよね。そこで僭越だったが、お話の途中で「すみません、『武士の一分』ということでよろしいんですよね」と口をはさみ、ちよっと失礼してしまった。このへんは司会の人が、「会場の方に補足しますと…」とフォローしてほしい気がする。「芦屋からの飛行」の大映の中の位置づけなんかも、それをお願いしたかった。
 最終日の十数名が集合しての私設反省会に、今年は実行委員会の幸重善爾事務局長補佐と小原直樹さんが参加してくれたので、そんな要望を出した。実行委員会も、「武士の一分」の件についてはフォローが必要かな?と思ったが、私が先に言ってくれたとのことだった。「芦屋からの飛行」については、フォローの必要性に気がつかなかったし、そもそも実行委員会の中でも「芦屋からの飛行」に詳しい人がいないんじゃないかとのことだった。
 確かに、化石みたいな古い映画ファンの私だって気づかないことがたくさんあるのに、実行委員会に膨大なフォローを期待するのも酷だろう。でも、エールを送ります。今後もよりよき運営にがんばってください。
 続いては、今年の映画祭の素晴らしい隠し玉についてですが、これも実行委員会のフォロー不足で、一部トホホの残念な結果になったことも交えて、紹介いたします。
湯布院映画祭日記2007ー6

●閑話休題 落穂ひろいのプロレスネタ 他
冒頭に触れた1年の移ろいについてだが、ひとつ忘れていた。「週刊ファイト」の休刊である。(この手の休刊は廃刊と同義語と考えてよい)
 昨年までは、湯布院までの旅の途中の読み物として、「週刊ファイト」最新号と、「グイン・サーガ」最新巻を常に携えていた。
「週刊ファイト」は木曜日発売、湯布院出発は次の週の水曜日なのだが、あえて読まずに旅の友としてとっておいたものだ。(約隔月刊の「グイン・サーガ」も前月刊行ならば、読まずにとっておいた)今年の旅の友に「週刊ファイト」はない。プロレス冬の時代の淋しさをしみじみ感じる。
 湯布院で、昨年プロレス者であることを確認した常連Yさんと、旧交を温める。東京スポーツ(湯布院では九州スポーツ)では、毎週水曜日にプロレス・クロスワードが出題される。これが、プロレス検定1級なみの難問だ。でも、湯布院ではプロレス者二人が知恵を集めた強みを発揮し、この週はアッと言う間に解答を完成したのである。
 あ、それからもうひとつ忘れてたけど、「お馴染みおたべちゃん」が湯布院レポートで、本人が自ら告白してるけど、宿の懇親で「初日は途中からちょっと舟漕いじまった」。これが京都の「おたべ人形」を彷彿させるので、「おたべちゃん」になったそうな。今年は初日から「おたべちゃん」登場でした、ってどうでもいい話かもしれないけど、やっぱりここで話題にしておこう。

●素晴らしい隠し玉(その1) わが映画人生「大映京都を語る」
湯布院観光、キャンセル!
映画祭2日目、この日は10時開映の「疵千両」でスタートする。11時30分に終映予定だ。この後「利休」上映となり、引き続き14時5分から「おしゃべりカフェ」の開幕となる。「利休」は見ているので、この日の11時30分〜14時5分をレンタサイクルしての観光時間に当てるつもりで、まずは若干早めに会場に向かう。
 会場入りしたら、いつもシンポジウム会場になっている2F視聴覚室の階段上り口に、掲示がされている。「利休」上映時間の裏番組として、2005年作品『わが映画人生「大映京都を語る」』上映時間2時間の上映会があるという。司会・土井茂、出演・田中徳三、井上昭とある。大映京都撮影所生え抜きの監督たちだ。これは面白そうだ。観光はヤメ!「疵千両」鑑賞後、視聴覚室に直行する。

『わが映画人生「大映京都を語る」』上映会までのいきさつ
『わが映画人生「大映京都を語る」』は、DVDによるプロジェクタ上映だ。上映前に、実行委員から簡単な前説がある。このDVDは、ゲストの田中徳三監督が、映画祭でぜひ上映してほしいと持参したものだそうで、急だったのでチラシなどで告知できなかったこと、ロビーのTV受像器放映も考えたが、監督から上映会の形をとってほしいとの要望があり、急遽企画したものであることが紹介される。結果として後述するがこれは正解だったと思う。終映後、実行委員の人に聞いたら、この作品はCS放送のTVドキュメンタリー番組で、劇場公開はされてないとのことだった。

映画ファンならこたえられぬ無茶苦茶な楽しさ
『わが映画人生「大映京都を語る」』は、映画ファンにはこたえられない無茶苦茶な面白さに溢れていた。土井茂の司会で、田中徳三・井上昭が座談会をする。大映京都撮影所の三世代の監督の大放談会だ。興味深い話題が、次々と乱発される。これを見れば、映画祭参加者が「日本映画の美の記憶〜大映京都撮影所が遺したもの〜」の企画中のパーティーやシンポジウムで、2倍にも3倍にも盛り上がれるはずである。

戦後の大映とレッドパージ
大映の戦後間もないころ、阪妻・千恵蔵・右太衛門とスターがゾロゾロいた頃のエピソードから始まる。そして、争議からレッドパージに至る。映画関係では「軍艦だけが来なかった」と米軍の弾圧が伝説になっている東宝争議が有名だが、大映京都撮影所もかなり激しかったことを、知らされた。
 これにより、映画界に紆余曲折があり、東宝の巨匠(当時は鬼才と呼ぶ方がふさわしいか)黒澤明が、「羅生門」で大映京都撮影所に乗り込んでくる。ここで助監督の加藤泰との軋轢が発生する。このエピソードは有名だが、我々は映画作家としての個性のぶつかりあいと思っていた。それもあったろうが、座談会では東宝の近代的撮影所システムと、たたき上げ職人の伝統の京都との対立が底流にあったことが強調されていて、興味深かった。

溝口健二と長谷川一夫の静かなるバトル
阪妻・千恵蔵・右太衛門が去り、長谷川一夫御大が重役スターとして乗り込んで、大映の次の時代が開幕する。ここでは、溝口健二と長谷川一夫の静かなるバトルが楽しい。何てったって田中徳三監督は、当時「近松物語」の助監督なのである。臨場感に溢れた逸話が、次々と披露される。
 溝口健二監督は、とにかく徹底的に調べるそうだ。今の物価には、当時は助監督が1万円の安月給だったのに、それを聞いて「そんなにもらってるの?」と驚いたくらい無知だったのに、江戸時代のことはやたら詳しかったそうである。茂平が手代で店に入ったころは、○○文くらいの収入で、だから生活はこのくらい質素で…といった具合だ。
「田中くん、そういうことだから、茂平はいつもの長谷川さんのような白塗りメークではいけません。そのことを話して、長谷川さんにメークを考えてもらってください」
 さあ、当時の田中徳三助監督としては、頭を抱えた。御大の大スターにして重役に、そんなことが言えるわけがない。でも、言わなきゃならない。恐る恐る申し出ると、意外や長谷川一夫はあっさり「わかりました」と快諾した。
 ホッとしたのも束の間、初日撮影の長谷川一夫のセット入り、何と!いつもの長谷川調の白塗りメークではないか!田中助監督は氷りつく。名匠溝口と大スター長谷川の大バトルになるか、監督から助監督に怒声が飛ぶか。田中助監督は縮みあがった。
 ところが、何ごともなく撮影は始まり、何ごともなく「お疲れ」となる。帰り際に長谷川一夫がソッと田中助監督に声をかける。「田中はん、監督、何も言わへんかったやろ」
 以後、長谷川一夫はそのペースを通しつくし、溝口もそのことにはいっさい触れず、淡々と撮影は進んだそうだ。
 「でも、溝口監督は、それとなくうまく長谷川一夫をコントロールしてましたよ。崑さんよりもうまかったな」ということは、「雪之丞変化」で市川崑と長谷川一夫にも、結構バトルがあったのだろう。

勝・雷スによる大映の新時代
この後、市川雷蔵と勝新太郎が、人気スターとして売り出し、大映新時代、いわゆる勝・雷ス時代が始まる。二人とも気さくな人柄で、撮影所の雰囲気としても、作品的な充実度にしても、この時代が大映京都のもっとも良き時代ということで、田中・井上・土井の三監督が一致した意見だった。
 市川雷蔵は、スターらしい高ぶりが、全くない人だったそうだ。田中徳三の監督デビュー作で、助監督時代に世話になったので、カメオ出演を申し出たそうだ。ところが、このカメオ出演が東京本社の試写で大問題になる。スターをノーギャラで手軽に使って何だ!ということだそうだ。まあ、何とか納まったそうだが、このあたりも建前主義の東京と、柔軟な京都との風土の違いを感じる。
これが前例となって、新人監督作品への雷蔵カメオ出演は、定番として許容されたそうだ。こういうフットワークの軽いことをするのは、むしろ勝新太郎の方ではないかと思えるのだが、それが雷蔵というところに、このエピソードの機微を感じる。

大映の衰退から倒産に至る謎と、永田雅一の悪評
こんな風に充実した勝・雷ス時代なのに、この頃から大映の経営が悪化する。本社から、不振だ、経費節減だとヤンヤと言ってくるが、京都撮影所では全く実感が湧かない。このあたりも、東京と京都の温度差が感じられて面白い。
 ここで、当時の社長の永田雅一の話題になる。結局、あの人は、映画以外にも欲があり、金を注ぎこみすぎたんじゃないの、となる。政治に野心を持って献金し、野球に夢中になってロッテ・オリオンズのフランチャイズの東京スタジアム(現在のそれとは別で南千住にあった)まで建設してしまった。本体の映画が堅調のうちはいいが、そっちが映画斜陽でイマイチになったのだからたまらない。
 この東京スタジアムは、旧作上映「見上げてごらん夜の星を」で登場する。千住の下町を舞台にして私の青春とかなりカブり、思うところ多かったのだがそれは別の項に改める。ここでは、ガラガラに空いた球場が映し出されたことだけを紹介しておく。野球で赤字を増やしたのも当然なるかな。もっとも、ある人は、「見上げてごらん…」は松竹映画なので、「意識的に嫌味をやったんじゃないの」との声もあった。
 東宝のように、その金を不動産に注ぎ込んで、直営劇場を確保すればよかったのに、と言っても後の祭りである。かくして、興味深く楽しいエピソード満載の『わが映画人生「大映京都を語る」』は終わる。
断っておくが、これは2時間の長尺である。私の拙い短文(ちっとも短くないよ、とおっしゃる方もいるでしょうが)では、とうていその全貌は紹介しきれない。ほんのほんの一部だと思ってほしい。ある意味で、今年の映画祭の、最大の収穫だったと言える。

観客がたった4人の惨状
ところが、急遽企画した上映会のせいか、私が10分程前に会場入りしたら、誰もいない。ホントにやるのかいなと心配していたら、もう一人お客さんが見えた。何と!観客二人で上映が始まったのである。
 終盤に、もう二人の熟年女性が入場してきた。ペチャペチャと私語がうるさい。注意しようと思ったら、もう一人の人がしてくれた。藤村志保さんの縁で、市川雷蔵ファンクラブから何人かが和服姿も交えて参加していたが、そのメンバーらしい。そんなにマナーが悪いと、天国の雷さまが悲しむよ。いずれにしても、観客総勢四人、残念だ。本当に残念だ。
 これは、実行委員会の完全なPR不足に他ならない。「利休」をすでに見ていて、再見するほど愛着のない人は、できるだけ多くこちらに来てもらって、大いに盛り上がりたかった私としては、誠に残念である。その旨を何人かの常連に告げたら「えっ?そんな企画あったの?」といった感じだった。もっとも、この企画のPR方法には実行委員会内部の裏話もあるようで、それは「利休」の「おしゃべりカフェ」の項で話題にしたい。
 私は、実行委員も参加してくれた最終日の私設打ち上げ会で、前に述べた「ゲストの発言に対するフォローと」「飛び入り企画のPRの徹底」を要望した。「お馴染みおたべちゃん」が「フォローはともかく、こういう企画はちゃんと分かるように告知してほしかったわ」と追い討ちをかける。結局、実行委員から、希望したおたべちゃんへ後日DVDのコピーを送ってくれることになった。言ってみるもんだ。おたべちゃんよかったね。絶対このDVD、映画通ならめちゃくちゃ楽しいよ。

●再び閑話休題(さすがプロの磯田勉さん)
今年の湯布院では、常連ゲストのフリーライター磯田勉さんの顔が見えなかった。伊藤雄委員長に確認したら、今年は来られないとのことだ。常連の皆に伝えたら、残念がっていた。
 その磯田さんから、最近メールが来た。「蛙の会」発表会に来てくれるとの、うれしい情報だった。
 この「湯布院映画祭日記」にも眼を通してくれているようだ。誤りの指摘があった。「芦屋からの飛行」は、正しくは「あしやからの飛行」とのことだった。言われてみればそのとおりだ。きちんと文献にあたって確認すれば明白なのに、お粗末の限りである。いや、私自身が「芦屋からの飛行」と思い込んでいたので、文献を当りなおす気がなかったのは確かだ。
 また「滝瑛子はこの芸名では初めてですが、本名で日活の子役→ニューフェイスだった人です」との御指摘もいただいた。さすがにプロの知識である。もっとも最近は、そんな見識も無いのにプロと称して映画評などを書き殴っている輩が、結構いそうなご時世のようだ。
湯布院映画祭日記2007ー7

●素晴らしい隠し玉(その2) 「スタジオはてんやわんや」
前夜祭の乙丸地区公民館での懇親会で、「飲みながら懇親もしながら、話のタネに気楽に見てください」と、1本の映画がプロジェクタ上映された。昭和32年に劇場公開された中篇「スタジオはてんやわんや」である。私も題名は小耳にはさんで記憶にあるので、ちょっと視線をスクリーンに向ける
 「スタジオはてんやわんや」は、レポーターが大映の東西撮影所を訪れて取材するのが前半、後半は大映スター総出演のかくし芸大会である。TVのヴァラエティショーが氾濫している現在なら、珍しくも何ともない。しかしこの時代、撮影所は内部が知られざる夢の工場で、スターは素顔を見せない神秘の存在だ。これは、貴重なドキュメントである。
 スターが登場の都度、生年〜没年の字幕が出る。鬼籍に最近入った人の没年も記されている。だから、この字幕はリアルタイムの公開時にはなかったはずだ。DVD発売時にリニューアルしたのかな、と思っていたら、何と何と実行委員の手作り入力だという。大変な労作だ。
 これは、いろいろな意味で効果的だった。最近の若い人は、昔の大映スターをそうは知らない。また、半世紀も前の映像だから、知ってるスターでも認識できぬ恐れもある。(可愛い可愛い中村玉緒なんかも出てくるのだ)そのことの鮮やかなフォローになった。
 気がつけば、ほとんどの人が飲むのも懇談もそっちのけで、画面に食い入っていた。勝新太郎の登場は拍手で迎えられる。続いて市川雷蔵にも拍手といった具合で、場内は拍手の渦が爆発し、明日からの企画「日本映画の美の記憶〜大映京都撮影所が遺したもの〜」が、前夜祭でいやが応にも盛り上がった。
 休憩時間の長谷川一夫が、銭形平次の衣装でキャッチボールをしている姿など、楽しい映像がタップリ納められている。(ただ、当時のトップスター長谷川一夫には拍手が起こらなかった。時代ですね)かくし芸大会のフィナーレは市川雷蔵・勝新太郎・林成年(知ってますか、長谷川一夫ジュニアです)のトリオの日本舞踊である。 こうして、盛り上がるだけ盛り上がり、前夜祭は散会となる。この隠し玉企画は大成功であった。
 翌日、このDVDは会場の湯布院公民館ロビーのブラウン管でも再生されていた。引き込まれて見入っている人も見受けられた。そのくらい楽しい一編だった。
 ただ、隠し玉その1の『わが映画人生「大映京都を語る」』は、この方式を取らなかったのが正解だと思う。こちらの方は、ちよっと見には老人がボソボソ喋っている画面の羅列で(失礼!)、たぶんかなりの人はチラッと覗いて、すぐソッポを向くだろう。ジックリ味わえる上映会方式が、最適であった。

●シンポジウムの発言のネタがない(?) その3「やじきた道中 てれすこ」

居心地悪そうな平山チーム
最終日前日の、ゆふいん麦酒館のパーティーで、翌日のゲストが壇上で紹介される。「実録・連合赤軍」の若松孝二監督を中心としたチームは、熱狂的な拍手と掛け声で迎えられる。パーティー会場は熱い熱い空気に包まれる。
 続いてフィナーレを飾る「やじきた道中 てれすこ」の平山秀幸監督のチームの紹介だが、ここでガクッとトーンダウンしてしまう。ゲストのメンバーも、ちょっと難点があった。平山秀幸監督、プロデューサーの久保田傑さん、音楽の安川午朗さん、主演の柄本明さんという布陣だ。
 中村勘三郎さんあたりが来れば、俄然ヒートアップしただろうし(舞台があるからまず無理だが。今回もビデオレター参加だった)、小泉今日子さんが来てもよかったろう。柄本明さんも著名俳優だが、ゲストの常連で、息子の佑さんも、ゲストで来たり実行委員として参加したりといった具合で、身内みたいに湯布院映画祭に縁の深い方である。ありがたみが薄れてしまうのはいたしかたない。(私なんかは「映画芸術」忘年会でも顔をあわせる)柄本さんは、「見慣れた顔ですみません」と、恐縮する必要なんかないのに、シンポジウムで恐縮気味であった。(余談だが、「映芸マンスリー」の月一開催で、私にとっては湯布院ゲストの荒井晴彦さんと野村正昭さんのありがたみが薄れてしまった。人間とは勝手なものだ)
 プロデューサーの久保田傑さんは、城戸賞受賞者で、その自作「福本耕平かく走りき」を監督した人である。こうみると「やじきた道中 てれすこ」のゲストは、結構な豪華メンバーなのだ。間の悪い時とは仕方ないものである。

平山監督、牽制球投げまくり
画面も熱く、シンポジウムも熱かった「実録・連合赤軍」が終わり、フィナーレの「やじきた道中 てれすこ」上映になる。上映に先立っての平山監督の挨拶は、「あのー、湯布院のぬるーい温泉に浸かった気分で、のんびり観てください」と、ここでも居心地悪そうに牽制球を投げる。

シンポジウムが始まる。
「昔、二本立てがありましたね。その一本、それもメインの映画でなく添え物の方、そんな感じの映画を今創ってみたら面白いかなあと…」 冒頭から牽制球である。それでも、途中で「連合赤軍の後なんてねえ…こんなプログラム、誰が考えたの」 とボヤき気味の発言も出る。

私は成功企画と見る
でも、私はこのプログラムは成功だと思った。考えてもみてください。「実録・連合赤軍」がフィナーレであってごらんなさい。熱く盛り上がるかもしれないが、そんな殺気立った雰囲気で、最終日のパーティーになだれ込むのは、絶対にいただけない。血の雨がふるかもしれない。ここは、のんびりムードの「てれすこ」で、やや温度を下げての最後のパーティーって、絶対に正解である。
 作品の好悪は別にして、フィナーレ向きの映画って、はっきりあると思う。一昨年の私の湯布院新作ベストフィルムは「やわらかい生活」だったが、フィナーレがあれだったら「ちょっとー」と思う。やっぱり「寝ずの晩」がふさわしい。昨年の「フラガール」にしても、私自身の評価はさておいて、大正解だ。

私は「てれすこ」嫌いじゃない
私は「やじきた道中 てれすこ」の軽さは嫌いじゃない。昔の二本立ての添え物のムードを平山監督が狙ったとしたら、見事に的を射ていたと思う。
 まずは、スター映画である。中村勘三郎さんの弥次さんの身体表現能力は絶品である。シンポジウムでも受けに受けていたが、柄本明さんの喜多さんの酒乱演技の凶暴さは、報復絶倒であった。小泉今日子ことキョンキョンも赤穂浪士と同数の四十七人の男を手玉にとるチャッカリ女を、気風の良さで嫌味なく表現する。「この、野暮て〜ん」と投げつけて、喜多さんとのこれから先の関係を、余韻をもって感じさせるラストも味がある。
 ただし、これもシンポジウムでぜひ発言したいと思うことのない映画なのは確かだ。喋るとすれば、どうでもいい小ネタの羅列にしかならないだろう。まあ、今度こそシンポジウムは聞き役に徹しようと思う。

目先を変えたシンポジウムの運営
冒頭で司会者から「このシンポジウムは、できるだけ今まで発言されなかった方でお願いします」とコメントがある。正解だろう。私も、特に語りたいこともないし、映画の内容にかんがみて、発言も途切れちゃうこともないだろう。その意味では、発言しやすい作品でもある。案の定、常連を除いた人たちで、淀みなく発言が続いていく。
 シンポジウムが終わる。滋賀の「失礼します!」Oさんから、「周磨はん、喋れなくって物足りなかったやろ」と、声をかけられる。私は「てれすこ」に関しては、全然そんなことはない。物足りなかったのはOさんじゃないのかなあ。
 常連キューブリックさんは、憮然としていた。「人をさらし者にするようなことを言いおって!」とプリプリしている。確かに「常連の発言遠慮」のコメントの時、会場に失笑交じりもあったが、和やかな笑いの渦が少々起きた。でも、このシンポジウムは、私は成功だと思った。私だって「実録・連合赤軍」でこんなシンポジウム運営をされたら、怒り心頭に達したろう。「それなら、前もって言ってくれよ!連赤に備えて、発言を控えてたよ!」となったはずだ。「てれすこ」だから、適切だったということだ。
 Oさんとキューブリックさんの御両者は、かなりこの一件はひきずったようで、ラストの私設打ち上げ会でも実行委員に、「あんなシンポジウムの運営はない」と意見を申し入れていた。でも、それほど発言したい内容なら、「できるだけこれまで発言されなかった人」ということで「絶対」なんて言ってないんだから、挙手して発言しちゃえばいいんである。倉敷ツタヤ店長Oさんなんて、チャッカリ発言しておりました。

フィナーレを汚した最後の不快発言
ただ、Oさんとキューブリックさんの怒りは、一面で分からないことはない。「てれすこ」のシンポジウムの最後に発言した参加者が、延々と不快発言をしたからだ。あんな奴に長時間も喋らせるならば、常連の発言にだって時間を取ったっていいではないか、ということだ。
 「私は、この映画のメッセージは『狸の恩返し』だと思いましたが、どうですか」 その発言者はこんな感じて始まった。平山秀幸監督は、
「映画は映画そのものがメッセージです。だから、あなたがそう感じられたのならば、そのとおりですし、そう見ていただけるのはうれしいことです」
 全く正解である。黒澤明が「メッセージを伝えたいだけなら映画なんて創らず、論文を書く」というような意味のことを言ったような気がするし、淀川長治さんが「映画は眼で観せる」といったのも、そのことであろう。
 ところが、この発言者は、どうも映画には言語化するメッセージがあるべきだと、思い込んでいるらしい。「あなたは無責任だ」「観客を馬鹿にしているのか」あげくの果ては「あなたはキリスト以上のことを言ったんですよ」と訳のわからないことを言い出す。 「参ったな。これ、イジメですか」と苦笑するしかない平山監督でありました。

ついでにもう一件の不快発言について
藤村志保さんと田中徳三監督のトークショーについても、不快発言が一件あった。これは「おたべちゃんの湯布院レポート」に詳しいので、ここでは簡単に触れておく。某TV局の者らしいが、時間が押しているのに自己チュー発言を延々と続ける。もう、終わりかと思うと「それから、もう一つ質問しますが…」と続き、さらに「それから…」と、いつ果てるともなく続く。
 話術研究会「蛙の会」の一員として、そういう時の発言の仕方を教えてさしあげましょう。(これを読むとはおもえないが)冒頭で「時間が押して恐縮ですが、手短にいたしますので、私の意見と、それから3点質問させてください」と、最初に謙虚さを示すとともに発言の全体像を示すんですよ。そうすれば、多少長くても許容する雰囲気が醸成できるんです。もっとも、そんな気配りができれば、そもそも自己チューになんてならないんですけどね。

いずれにしても、「てれすこ」シンポジウムが、映画祭締めくくりのシンポだっただけに、不快発言で極めて後味の悪い終わり方になったのは、残念であった。
湯布院映画祭日記2007ー8

●おしゃべりカフェ「利休」
第2日目に開催された最初のおしゃべりカフェは、「利休」をテーマに、上映後のロビーで開催された。進行は、実行委員会の重鎮で会計担当の横田茂美さんだ。横田さんがまず口火を切る。
 「『利休』が公開された同じ年にもう一本、利休映画(「千利休 本覚坊遺文」)がありました。つまらない映画だったのに、キネ旬ベストテンではそっちの方が上でした」
 ということで、早くも横田さんの「利休」への入れ込みようが感じられる。でも、ロビーはあんまり熱くならない。「どうしようもない話でも何でもいいですよ」と横田さんが水を向けるので、私がこの時間は裏番組の「わが映画人生『大映京都を語る』」を見ていたこと、これが映画ファン必見のしろもので、観客が4人なのが残念だったことを喋った。さらに、こんな意見を述べた。
 「『利休』と『千利休 本覚坊遺文』は、全然ちがうタイプの作品なんで、比較にはならないでしょう。『本覚坊遺文』は、奥田瑛二の本覚坊と中村錦之助の織田有楽斎の目から見た利休像で、三船敏郎の利休は、象徴的存在でしたよね。『利休』は、ズバリ、三國連太郎の利休の映画ですから」。横田さん、間髪を入れず、「いや、これは山崎努の秀吉の映画です!」。
 利休に独自の見解を有し、かなり入れ込んでいるのがここでも垣間見えた。一瞬、裏番組の「わが映画人生『大映京都を語る』」を大きくPRしたのはまずかったかなとのことが、頭を横切った。
 後日、実行委員の人から、こんなエピソードを耳にする。「とにかく、横田さんは『利休』に入れ込んでましてね。でも、『利休』は見た人が多いでしょうし、その中でもう一度見ようという人はそうはいないでしょうから、PRしなくてもある程度の人数は『大映京都を語る』に流れると思ったんですよ。」
 これが、完全な誤算で、PRが少ないために企画を全く知らなかった人までいて、『大映京都を語る』は観客4人という惨状になったのである。

●おしゃべりカフェ「鬼火」
電力会社は悪者かいな
大先輩の浜松のT要さんは、昔この「鬼火」を見ているそうだ。「要ちゃんの映画だよ」と言われる。何でも電力会社の集金人の話だそうだ。興味を持って見始めたら、ガス会社の集金人の話だった。
 ラストで、ガスを止められそうになった一家が心中するエピソードがあるが、すでに電気は止められていて、家の中は真っ暗闇だった。その中でガスの炎が鬼火のように燃え盛る画面効果が狙いだろうが、何だか電力会社の方がガス会社より非情で悪者みたいじゃないか。映画のメインとは関係ないことだが、気分はよくなかった。

昭和30年代は時代劇か
「鬼火」は昭和31年作品である。日本が高度経済成長に本格的に突入し、風景がガラリと一変するのは、昭和39年の東京オリンピックが境だが、それ以前の時代を知らない人にとって、この時代はもはや時代劇にしか見えないかもしれない。
 「鬼火」は、ガス会社の集金人が勝手口を訪れることから、思わぬ各家の立ち入った事情を目にし続ける映画である。また、ガス料金を払えない家の人妻に、見返りに迫ったりもする。今の時代から考えると、勝手口からスイスイ入れるのも驚きだし、プライバシーからも、治安上からも、大問題なのだが、当時はそれが当然だったのである。(そもそも今は銀行振込で集金人もほとんどいない)
 ゲストの映画評論家の渡辺武信さんは、建築家でもある。昔の家は、玄関・通用口・縁側・勝手口とあり、正式の客は玄関、ちょっと目下は通用口、御用聞きとか集金人は勝手口、スーッと縁側に入れるのは親しいつきあいの人と、家の造りが生活スタイルに密着していたと、解説がある。現在は、一戸建ても含めて全体にマンション風で、入り口は一つに限られ、すべての人の出入りは分け隔てなく、インタフォンでチェックされる。そういう生活スタイルだ。昭和30年代を、時代劇として、見ざるをえないわけだ。
 「鬼火」のおしゃべりカフェはそんなことで、当時の生活風俗の話題で、T要さんとW(ダブル)要で勝手に盛り上がってしまい、進行役の人から「あのー、映画に則した話題でお願いします」と、注意されてしまった。

●「見上げてごらん夜の星を」に思うこと
「貧乏映画」について
昨年おしゃべりカフェで、私は「貧乏映画」なる言葉を一部で流行らせてしまったが、「鬼火」もまぎれもない「貧乏映画」の一篇である。いや、この時代は大なり小なり「貧乏映画」の氾濫だった。その意味でもう一本の旧作上映の昭和38年作品「見上げてごらん夜の星を」は、東京オリンピック直前の、最後の「貧乏映画」と言えるだろう。
 工場で働きながら、定時制高校に通う坂本九が主人公だ。この時代、高校に進学できるのは、半数強しかいない貧しい時代である。半数近くは、義務教育を終えたら自立しなければならなかった。それでも学びたい者は、働きながら定時制高校に通うか、教習手当なり奨学資金なりが支給される企業内学園のようなところに進むしかなかった。
 昭和38年、私もこの映画の坂本九と似たような貧しさで、中学を卒業したら企業内学園に入学した。一口に団塊の世代と言い、全共斗世代というが、一般に言われているそれは、半数強の高校進学者の中の、さらにその中の半数弱の大学進学した裕福な人間に過ぎないのである。その一部が、今でもほとんどの言論を牛耳っている。このあたりの話は、「実録・連合赤軍」についての項で深く関わってくるので、ここではそういう事実の提示だけに止めておきたい。
 ちなみに、もう一人の貧しい主人公の中村賀津雄が、副業で深夜の建設現場で働くあたりも、オリンピックに備えてのホテル建設ラッシュの時代相をよく現していた。また、これも余談だが、若き日の菅原文太が、ヤクザっぽさの影が微塵もない定時制高校の熱血教師を演じていたのには、ちょっと驚いた。

なつかしい千住の風景
「見上げてごらん夜の星を」の舞台は、下町の千住だった。お化け煙突の名で親しまれた今は無き千住火力発電所も出てくるし、「わが映画人生『大映京都を語る』」の項で紹介したが、東京スタジアムも出てくる。
 私は千住の借家住まいの貧乏人の小倅として生まれた。だから、千住火力発電所(発電所廃止跡の変電所に昭和42年から45年まで、勤務もしておりました)も東京スタジアムも、身近かなものとして感じた。その他にもなつかしい地名・場所が「見上げてごらん夜の星を」に頻発して、胸がいっぱいになるものがあった。
 現在は、東京郊外の国分寺に住んでいるが、借家住まいの貧乏人の小倅には、土地があるわけでもなし、だからバブルの恩恵にあずかることもなし、地方から出てきた者とおんなじで、小金をせっせと貯め込んでも二十三区内に住めるわけもなく、郊外に「ねずみ小屋」を購入せざるをえなかっただけのことである。

再び、昭和30年代は時代劇か
「見上げてごらん夜の星を」は3日目の12時43分に終映、次の特別試写「かぞくのひけつ」開映は12時45分で、やや余裕がある。昼飯時なので博多ラーメン屋に入ったら、冒頭に紹介した国立の大学生のIさんとバッタリ遭遇する。餃子とビールで(もっとも昼から酒かっ食らうのは、チョイ悪親父の私だけだが)、しばし上映映画談義になる。
 「見上げてごらん夜の星を」は、懐かしく私の青春時代そのままだったことを話す。当然、Iさんにはピンとこない。「本当ですか?」という表情である。「鬼火」も含めて、Iさんにとっては、この生活風俗は「時代劇」としか見えないようだ。昔の文化・生活風俗に興味があり、論文のネタにはなりそうであるとのことだ。最終日の私設打ち上げ会でIさんは、旧作ベストフィルムに「見上げてごらん夜の星を」挙げていたから、その観点から得るところがあったということなのだろう。Iさんの目には、当時の「現代劇」がそんな風にしか映らないということだ。

いよいよ最終コーナー?
還暦を迎え、月10日勤務の会社嘱託になり、年金受給者にもなった人生の節目に、「見上げてごらん夜の星を」でわが人生を振り返る気分になった翌日に、「実録・連合赤軍」と出会う。映画に則したことだけではなく、わが人生への総括にも思いが至った今年の湯布院であった。
 いよいよ、私にとっての「実録・連合赤軍」への思いのたけ(映画だけに止まらぬ話題にまでエスカレートする気もする)の、心情吐露開幕だ。いや、まだまだ落穂ひろいが少なからずある。それを済ませてからにしよう。これがまた、長い道のりになるかもしれない。今年の湯布院は、私にとって本当に中身が濃かったのだ。
湯布院映画祭日記2007ー9

「落穂ひろい」のあれこれを紹介します。

●藤村志保さんのこと
今年の映画祭の最も華やかなゲストは、藤村志保さんである。「大魔神怒る」「なみだ川」「怪談雪女郎」の3本が上映され、トークショーがあり、パーティーにも連日お付き合いいただいた。
 志保さんといえば、上品で清楚な美貌が持ち味だ。その持ち味がバッチリ出たのが「大魔神怒る」である。そして、残り2本では、それだけに止まらぬ作品選定がされているところに妙味があった。
 「なみだ川」は、しっかり者でいながら、どっかオッチョコチョイなところがある志保さんとしては珍しいコミカルな役だった。特に、もっともらしく説教めかして語ってるつもりなのに、諺とか言い伝えを頓珍漢に間違えるあたりが笑わせる。ただ、その時は笑ったが、現時点では私も失念して具体的に思い出せず、そのおかしさを採録して紹介できないのが残念である。
 同類のギャグは「男はつらいよ」で寅さんがよくやるので、ま、こんな感じということで寅さん語録を紹介します。「緑は異なるもの味なるもの」→「縁は異なもの味なもの」、「灯台の根元は暗い」→「灯台下(もと)暮らし」、「明日道聞こうと思ったら夕べ死んじゃった」→「朝(あした)に道を聞けば夕(ゆうべ)に死すとも可なり」etc…。こんなのもあった。「さくら、緑とってくれ、緑」「何?」義兄の博が横から「紫(しょうゆ)のことだろ」ま、そんな感じのボケを、寅さんならぬ志保さんが連発するのだから、そのおかしさが想像できるだろう。
 そして「怪談雪女郎」、清楚な美貌の志保さんが、意表をついて雪女を演るから、これは怖い!凄い!となる。「女優・藤村志保・三つの顔」とでも呼びたいヴァラエティに富んだ好選定だった。
 ただし、私は志保さんとは全くお話をしなかった。一昨年の富司純子さんといい、どうも私は女優さんとは話さないで終わることが多い。女優さんって見てる分にはいいが、監督・脚本家・プロデューサーなんかとちがって、私は何を話したらいいかわからないのだ。潜在意識に、スクリーンの中の憧れの存在に納め、生身の人間を感じたくないという気持が、あるのかもしれない。

映画にゆかりのTシャツで闊歩
ここ何年かの恒例として、今年も私は映画にゆかりのあるTシャツ着用で闊歩し、映画祭期間中は気分を出した。
 前夜祭 不器用Tシャツ:背中に高倉健サンのイラストと「自分生き方不器用ッすから」の文句が大書してあり、袖には健サンの啖呵がある。何年か前に何人かの人に注目を浴びたので、今年はつつましく前夜祭での着用である。
 第1日 澤登翠さんのTシャツ:澤登さんの直筆サイン入り(洗濯のたびに薄れつつあるが)、活弁修行の身としては、まず初日はこれでしょう。
 第2日 「反逆児」Tシャツ:監督・伊藤大輔、主演・中村錦之助の名作のポスターがプリントされたもの。本当は大映京都の作品のものがあればよかったんだけど、こちらは東映作品。そこで嫌味にならないように2日目に選定した。といっても、これだけでは意味不明なので補足する。2日目のパーティーは民芸村の庭である。私は民芸村では、甚平衛と雪駄の着用で、毎年気分を出すのを慣例としている。だから、2日目のTシャツは昼間だけの登場になる。大映さんに気を使い、東映は控え目にしたというわけだ。
「そういうTシャツをどこで買ってくるんですか」と何人かの人に聞かれた。「不器用」と「反逆児」については、原宿で娘がみつけて「お父さん、こういうの好きでしょ」と買ってきてくれた。父の心を知るいい娘である。「澤登さんTシャツ」は無声映画鑑賞会の特売コーナーで購入したものだ。
 第3日 「トイ・ストーリー」のウディのTシャツ:今年の春に娘とディズニーランドに行った時に買った。ほんとうは「パイレーツ・オブ・カリビアン」のキーラ・ナイトレイが欲しかったんだけど、それは見つからなかった。ちなみに私は、ジョニ・デよりもオーリーよりも、このシリーズは断然「キーちゃん」である。(そんな風に呼ぶのは私だけか)「パイレーツ・オブ・カリビアン」は女優キーラ・ナイトレイの成長の歴史だと思う。3日目のパーティー会場は洋風の麦酒館だ。だから、邦画しか上映しない湯布院映画祭であるが、あえて洋物を選定した次第である。ちなみに前夜祭と1日目は、野外上映(今年は不備に終わったが)や金鱗湖畔などの屋外なので、下はラフにバミューダとサンダルでリラックスしたが、屋内の麦酒館では通常のズボンと靴を履いた。
 最終日 寅さんTシャツ:今年のGWに3番目の初恋の人(?)とデートした柴又の「寅さん記念館」で買った。(何だ、そのデートとは、と野次馬根性を出した人は、私の「映画三昧日記」に足を伸ばしてください。と、悪乗りしてPRに走るさもしい根性)前は小さい「男はつらいよ」のロゴだけだが、背中には寅さんのイラストと「それを言っちゃおしまいよ」と大書してある。湯布院初お目見えはこの「寅さん」と「ディズニー」の2着、としたら、邦画の砦の湯布院映画祭のトリは、やっぱり「男はつらいよ」でしょう。下は半屋外の健康温泉館なので、ここもラフにバミューダとサンダルで済ませた

荒井晴彦さんへの一方的仕掛け漫才の数々
今年も荒井晴彦さんに、数々の一方的仕掛け漫才をやってしまった。Tシャツネタは、それに事欠かない。澤登翠さんのTシャツで、「断っておきますが、これはベティ・ブープではありません」(イラスト化すると何だか似てるんですよね)ウディのTシャツでは、「判ります。荒井さんの嫌いなディズニーの『トイ・ストーリー』ですよ」。寅さんTシャツでは、「荒井さん、今日は切り札がありますから。いざとなったら後ろを向きます」と、背中の「それを言っちゃおしまいよ」を見せる。民芸村パーティーの甚平衛と雪駄姿では、「ちなみに、私は民芸村の土産物屋の売り子ではありません」とやった。
 荒井さんは例によって苦笑まじりにウンザリし、「おまえって、ホントにアホだな」「おまえって、ホントにバカだな」と繰り返すのみだった。

●荒井さんへ、真面目な檄も飛ばしました
荒井さんのディズニー嫌いは、「争議あり 脚本家 荒井晴彦 全映画論集」の「クロニクル」で知った。ディズニーランドは「ビールも売ってないし…」と散々だ。西武園のビアガーデンで、幼い娘さんが奥さんに、「ディズニーランドより西武園のがいいと言ってるのを聞いて、「正しい」と論評している。でも、荒井さんにとって西武園の方がいいのは、単にビールの有無に過ぎないような気がしないでもない。
 「全評論集の『争議あり』は画期的な企画ですね。でも、自分が丸裸にされてるような感じがするでしょう」
 「まあな」 と、まんざらでもない感じの荒井さんである。ここで私は檄を飛ばす。
 「『映画脚本家 笠原和夫 昭和の劇』『シナリオ 神聖喜劇』『争議あり』と、ベストワン級の映画本を毎年連打したのに、ここのところないですね。期待してます」
 「どれも、大したことないよ」 最後までシャイな荒井さんであった。

連赤がらみだが、ここでは軽い話題
「実録・連合赤軍」の真の熱さは、後でジックリ述べていくが、ここはTシャツがらみの軽い話題です。
 開始早々に、最前列に陣取って気合い入りまくり滋賀の郵便局OBのOさんは、スックと立上り恒例の「失礼します!」の挨拶から、熱弁が開始される。半分その勢いに押された若松孝二監督が、「まあまあ、お座りになっていて結構ですよ」と促すが、「いや、立って話さないと調子が出ません!」と意気軒昂なOさんだった。
 シンポジウムが盛り上がらなかった時の盛り上げ役を自認し、それ以外の発言は控えめなゲストの映画評論家の渡辺武信さんも、「今回は敢えて!」と積極的に発言を求める。やはり立っての発言だ。みんな、熱い!熱い!!
 私の席は、中央より後ろ寄りだった。発言の時に「後ろの方は、よく見えるようにお立ちになって発言してください」なんて言われたら困るな、と余計なことを心配した。何たって寅さんTシャツである。背中に「それを言っちゃおしまいよ」の文句である。何を熱く真面目に語ったって、私より後席の人は大爆笑になっちゃいますよね。そして、前の人は何がおかしいのか、さっぱりわからない。まあ、おとなしく私は座って発言できたので、ことなきをえました。

●「越前竹人形」のこと
以前にビデオで見ているが、スクリーンでは初見参である。やはり、大映美術はスクリーンで堪能するに限る。雪深い山村のロケセットの雄大さは、ブラウン管では味わえない。
 シンポジウム「大映京都撮影所が遺したもの」で、「野面(のづら)」というものが紹介された。屋外のシーンをセットとホリゾントで撮影所内で撮る手法だ。「越前竹人形」の山場の川の畔が野面だったと聞かされ、驚嘆した。
 ビデオ観賞の時にも思ったが、山下洵一郎は、やはりミスキャストとの印象は変わらなかった。二枚目過ぎる。これでは、妻の若尾文子に一指も触れないのは、単に父の元愛人だったからという凡な意味合いにしかならない。以前にこの役を中村賀津雄が演じた舞台中継を見た。そこでは、容貌魁偉な小男で、やや知恵遅れ気味の感もあった。そんな「美女と野獣」的な屈折がもたらす奥行きの深さは、ここでは望むべくもなかった。

●「小太刀を使う女」のこと
 私の今年の映画祭の旧作上映ベストムービーである。ポスターで見た限りでは、際物に近い京マチ子の女剣戟ものといった感じだった。ところが、これが西南戦争裏面史の堂々たる大作で、娯楽映画の王道でもあった。
 臼杵の武家娘の京マチ子と、維新の志士の船越英二は愛し合っているが、船越が脱藩して姿をくらまし、別れが訪れる。明治維新が到来し、京マチ子の弟の小林勝彦は商人の娘の中村玉緒を嫁にして、転身に努力する。時代の流れに乗れない京マチ子は、商家の中では浮いている。当然、嫁と小姑とは折り合いが悪い。
 そんな時に、不平士族が西郷隆盛を押し立てて西南戦争が勃発し、臼杵に侵攻してくる。新時代で居場所がなかった臼杵の士族にも、出番が出てくる。京マチ子と中村玉緒の立場も逆転する。商家の女将なら堂々としていた中村玉緒もこうなるとオロオロするしかなく、京マチ子は水を得た魚のように、義妹を叱咤激励する。
 このドラマは、スタート時点から着地点が明確である。最後の危機を乗り切る切り札は、当然ながら京マチ子と船越英二の再会だろうし、嫁と小姑の和解でもあろう。そこに、どう巧みに着地させるのか。そこに至るフィクションに、歴史的事実をどうからませ、スターの持ち味をどこまで発揮して、魅力的に見せるかである。これぞ、大衆映画の王道だ。
 「小太刀を使う女」は、この三拍子が見事に決まった。私は、こういうキチンとできた王道大衆映画が好きである。撮影所システムは、まず最低限これができた上で、初めて監督として認知される。大島渚にしたって、こういう語りがキチンと出来た上での変化球なのだ。青山真治監督が「レイクサイドマーダーケース」あたりで自己満足してる場合ではないのである。
 ただ、これはちょっと安易だと感じた箇所がひとつあった。西郷軍とそのシンパの無頼漢に、京マチ子と中村玉緒が取り囲まれたシーンである。この難関を切り抜けるのは百も承知だ。どう切り抜けてみせるかが、映画話法の腕である。ところが、京マチ子が小太刀の技だけで切り抜けてしまう。多少の小太刀の使い手としても、こんなに強くちゃ何でもありになっちゃう。「緋牡丹博徒」じゃないんだからねえ。
 まあ、そのへんは片目をつぶって、やはり私は、これが旧作上映ベストムービーだった。

●「女殺油地獄」のこと
五社英雄監督の遺作である。さすがにパワーがない。ハッタリとケレン味しかない五社映画にパワーがなくなったら、もうおしまいである。溝口健二だったらさぞ凄かっただろうなあと、余計なことを考えてしまう。
 1992年の作品である。青山真治監督が、「映画は80年代で、全て出尽くしたと思う」とシンポジウムで語っていたが、こんな映画を見ると、全面的に共感する。
 何だか青山監督の話題ばかり出てくる。シンポジウムやパーティーで、私とはだいぶ不協和音が生じたが、やっぱり印象に残る映画作家だったようだ。青山監督、私、決してシカトしてません。

●「疵千両」のこと
「疵千両」は面白かった。封建主義の武士道の理不尽さを芯に据えたガチガチの因果ドラマだが、斬り合いがユニークだった。とにかく一刀両断で決まるなんてことはないのだ。ぶつかり合い、すれ違い、お互いに浅手の傷を負い続けていくのである。致命傷ではないから、全身傷だらけでハーハーと、こけつまろびつ果てしなく傷つけあっていく。壮絶な体力消耗戦だ。
 武士の日常を丹念に描くことを通じて、斬り合いとは非日常の命のやりとりであることを際立たせた「たそがれ清兵衛」を、私は「恐るべき新しさ、まだ時代劇でこんな手があったか」と絶賛したが、うっかりしたことは言うものではない。斬り合いの命のやりとりの壮絶さは、はるか昔の昭和35年に「疵千両」で見事に描かれていたのだ。
 監督は田中徳三。田中監督は『わが映画人生「大映京都を語る」』で、「永田雅一は、話題作・意欲作には外部監督を招請し、お仕着せ企画を社内監督に押しつけた」との意味のことを語っていたが、今見直すとそのお仕着4大監督、いわゆる「三一システム」と呼ばれた森一生・三隅研次・田中徳三・池広一夫が、残した作品群の膨大な成果に、眼が眩むばかりである。

「彼女だけが知っている」のこと
昭和35年松竹作品、63分の中篇だ。それだけの中にレイプされた小山明子の苦悩、娘のプライバシーを踏みにじっても社会正義を貫かんとする刑事の笠智衆(このハードボイルドぶりが、いつもの笠とは別人のように素敵だ)、関係が屈折していく小山明子と婚約者の渡辺文雄、「第三の男」を彷彿させる大団円etc…と、濃密に詰め込んでいる。
 監督は高橋治、初期の松竹ヌーベルバーグの一員だったが、何となくフェイドアウトしてしまった。もっと活躍してほしかった映画作家であったことを痛感した。

●「かぞくのひけつ」シンポジウム
前に私は『今年、私としては珍しい経験だったのは、鑑賞直後にシンポジウムで発言したい事柄が全く浮かばない映画に3本も遭遇したことである。「こおろぎ」「人が人を愛することのどうしようもなさ」「やじきた道中 てれすこ」だ。』と書いた。シンポジウムのある新作特別試写は5本だから、早い話が「発言したい事柄が」「鑑賞直後に」浮かんだのは、「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」と「かぞくのひけつ」の2本のみだったことになる。その貴重な一本に、これまで全く触れることなく、ついに落穂拾いまで来てしまった。
 ゲラゲラとタップリ笑わせてくれたが、基本は王道のドタバタ喜劇で、改めて特筆することは、無いといえば無い。そのへんが落穂ひろいのアンカーにまで至ってしまった所以かもしれない。
 主要登場人物は、浮気癖が抜けない桂雀々、猛女の奥さん秋野暢子、愛人のちすん、息子の高校生の久野雅弘、彼のガールフレンド谷村美月の4人。舞台は大阪の<十三(じゅうそう)>で、コテコテの関西弁が乱れ飛ぶ。山場では、一つの部屋に会ってはならない面々が、続々と参集してきて、チャイムの度にクローゼットに飛び込んだり飛び出たりの大騒動になる。チャップリンの遺作「伯爵夫人」でもこんなシチュエーションがあったが、スラップスティツクのド真ん中を行く楽しさである。
 だが、私の言いたいことのメーンはそこではない。核は王道ドタバタでありながら、調味料は21世紀的なのである。高校生に全く性に対しての気後れがないところだ。父親の浮気を息子が知った時、昔の高校生なら悶々とするだけだが、ここでの久野雅弘は、堂々とちすんの前に出向き「別れてくれ」とキッパリ言うのである。ちすんはちすんで、それならばとばかり、もっと目立つ場所へと押し出ていく。そこから抱腹絶倒のドタバタが始まる。
 久野雅弘の気後れの無さは、新世紀の高校生のオープンな性解放によるものだ。何せガールフレンドの谷村美月は、「仲がいいのにキスもしない、本当に好きなの」と、久野雅弘を自転車の荷台に乗せたままラブホテルに突っ込む過激さだ。この冒頭のギャグは、効果的にラストでリフレーンされて使われる。
 めったに誉めない荒井晴彦さんも、この映画の楽しさには好意的だった。ただ、いつの時代かはっきりしないのが難点と指摘していた。私の感想は反対で、古典のスタイルに、新世紀の調味料をまぶした好作品だと思った。
 そこを強調して、私はシンポジウムで発言したいと思った。だから、真っ先に発言した。ゲストは小林聖太郎監督(脚本も)、共同脚本の吉川菜美さん。中村有孝プロデューサー。初っ端からの好評に小林聖太郎監督は大喜び、「ありがとうございます。この映画のポストカード差し上げます。あ、別に誉めた人だけにというわけじゃありません。遠慮なくご意見をお願いします」と、映画そのままにユーモラスな人だった。
 続いて常連の「失礼します!」Oさんやキューブリックさんが発言するが、こちらは辛口が続く。さんざんの辛口の後に「すみません、ポストカード下さい」と、次々とやって場内は大爆笑となる。この映画そこのけのスラップスティックぶりは「おたべちゃんの湯布院レポート」に詳しいので、そちらでどうぞ。

やっと落穂ひろいも全て終わったようです。さあ、「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」です。長い長い総括の「道程」になるような気がします。ただ、10月6日(土)社会人劇団「マイ・ストーリー」、10月7日(日)「蛙の会」と、公演の連チャンが目前に控えて参りました。状況によっては一拍おくかもしれません。
湯布院映画祭日記2007ー10

突然ですが、会場の都合で10月7日(日)「蛙の会」発表会は延期することになりました。同じプログラムで後日に開催いたしますが、その節は改めてご案内いたしますので、よろしくお願いいたします。

●「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」シンポジウムの私の発言
前にも述べたが、とにかく「実録・連合赤軍」のシンポジウムは熱かった。次々と挙手する者が続き、私は後ろの方に座っていたこともあって、なかなか指名されない。これは時間切れで発言できないかなと危惧したが、終わり近くに何とか滑り込めた。おかげで、頭を整理する時間がとれたので、そこそこまとまった形の発言はできたと思う。
『凄い映画です。今は呆然としています。ちゃんとまとまったことが言えるかどうかわかりません。
 若松監督の「連合赤軍」ということで、私は政治的・論理的・観念的な映画を想像していました。(「天使の恍惚」のようなものを想像していた)ところが、これは若松監督の映画の中では「胎児が密漁するとき」「犯された白衣」の系列の「密室の狂気」の映画でした。(荒野を密室に見立てた「処女ゲバゲバ」も含んでいいかもしれない)その密室劇がよりスケールアップし、よりヴァラエティを拡げたのが、この映画だと思いました。映画的な映画でした。
 総括が行われる山岳ベースは密室です。そして、ここではあさま山荘も密室として描かれていました。あえて、機動隊などの外の動きを全く見せていませんでした。
 山岳ベースの密室は、日常性が遮断された中で、狂気が培養されていきます。一瞬、日常がもどるのは、永田洋子が山を降りて、坂口弘との恋に終止符を打つ時の微笑みです。この日常感が山岳ベースで少しでもあれば、リンチ虐殺の悲劇は起こらなかったのではないかと思えます。
 一方、あさま山荘の密室には、卑俗な日常性が、ドッとなだれこんできます。親や親類の声をマイクで流す説得というか泣き落としは、もう悪しき日常の馴れ合いそのものです。そんな中でクッキー一枚をめぐってのブルジョア論争で、仲間内で銃撃戦になりそうな密室の狂気も再現されていきます。この対比は凄いです。
 いよいよ最終決戦直前に、赤軍兵士は牟田泰子さんに「何があっても、奥さんは中立であってほしい」と懇願します。逆に牟田泰子さんからは「この後、裁判になっても決して私を証言台に立たせないでほしい」と懇願されます。一瞬の赤軍派の沈黙も凄いです。彼らにとって、これからの機動隊との銃撃戦は戦争です。その決死の覚悟の時に、牟田泰子さんからは「裁判」という日常の言葉が発せられます。一瞬の沈黙のあと「わかりました」という赤軍兵士の、この狂気と日常のせめぎあいも凄いです。
 日本人は密室の中では、なぜ殺しあうのでしょう。「連合赤軍」のはるか前には、新藤兼人さんの「陸へ上がった軍艦」の海軍という「密室」で、「アメリカと戦争しているのか、海軍と戦争しているのかわからなくなった」という言葉が出ます。「連合赤軍」の後にはオウムという「密室」で、やはりポアという名のもとに仲間を殺しています。
 60年安保から連合赤軍結成までの第1部、そしてあさま山荘以後、その後の赤軍派の軌跡からイラク戦争に至るまでの膨大な歴史の紹介。戦後とは、日本人とは何なのか。それは、この二つの密室の中に凝縮されていると思います。それを考えることによって、見えてくると思います。考えます。これからも考え続けていきます」
 これだけの内容をしゃべったんだから、この発言ばかりは、多分3分には納まっていなかったと思う。私もそれだけ熱かったのだ。

若松孝二映画のフットワークについて
この感想の後、私は一つ質問を付け加えた。
 『私は、連合赤軍は「共産同赤軍派」と「京浜安保共闘」が連合して結成されたと聞いていました。ところが、この映画では当時のラジオニュースを流したシーンでは「京浜安保共闘」の名前が出てきましたが、映画の中は「革命左派」という言葉に統一していました。「革命左派」が正しいんでしょうか』 (当時のラジオニュースで、「中京安保共闘」の言葉も流れていたから、各地域に「安保共闘」があり、その総称が「革命左派」なのかなとも思った)

若松監督の答えはあっさりしたものだった。 『ああ、あれは既成政治勢力がうるさくクレームをつけてきましてね。現実に歴史的事実だからいいじゃないかとも思ったんですけど、そんなつまらないことでやりあってもしょうがないんで「革命左派」にしました』
 それから私の感想に対しても、ちょっと補足があった。 『牟田泰子さんという名前は、映画にもその他の関係するところ一切にも「管理人夫人」で統一して、全く出しておりません。いろいろな事情がありましたから』 とのことであった。
 たぶん映画完成にあたっては、関係者とのハードルをクリアする膨大な難関があったのだろう。若松孝二監督の細かいことにこだわらぬフットワークの軽さを見せられた。

低予算を逆手に取り、若手俳優を追い詰める凄み
重厚でありながら、細かいことにこだわらぬ若松孝二監督の軽々しいフットワークは、ここでも十分に発揮されていた。
 あさま山荘を密室として、外部の動きをいっさい描かないというのは、予算上の問題もあると思う。それを逆手にとって見事な効果をあげた。しかも、これはセットでなく監督所有の別荘でのロケだそうだ。「どんどん壊せ!構わない!俺のものだ!」と、現場では監督の怒号が飛んだそうだ。
 山荘ロケだけに止まらず、監督の怒号は全撮影期間を通じ、凄まじかったそうだ。総括リンチ殺人が起きてもおかしくないくらいの、激論が戦わされ、緊張感が漲ったそうだ。ゲストの若手俳優陣の、地曳豪・並木愛枝・大西信満・ARATAの眼が、完全にイッちゃってるのを見ても、その過激ぶりが想像できた。
 前に連合赤軍を題材にした「光の雨」があった。ただ、こちらは、連赤の映画であるとともに、赤軍兵士を演じることに挑戦した若手俳優の話でもある。この二重構造は、俳優陣にとって救いだったろう。裕木奈江や山本太郎の演技が、永田洋子や森恒夫としてはちょっと甘いなと感じても、それ自体がリアリティになるからだ。「実録・連合赤軍」の方は、ガチンコのリアルが要求される。そんな逃げ場はない。

これをとらなければ死なない!
若松監督は、『突入せよ!「あさま山荘事件」』を見て、あまりにもひどくって頭きて、自分が連合赤軍を撮らなければ死ねないと思ったそうだ。最後の映画との思いで、全財産を抵当に入れたそうだ。この映画は、監督所有の名古屋の劇場で年内に先行公開される。「俺のコヤだから、好きなだけ上映できる」と豪快に笑っていたが、もちろんそれも抵当に入っている。あさま山荘に見立てた別荘も当然抵当である。(余談だが、以前荒井晴彦さんが「ピンク映画で財産を作っちゃったのは、あの人くらいだよな」と嫉妬まじりにボヤいていたが、それは若松監督を決して貶めるものではなく、その面の才能も有することへの称賛といって差し支えないと思う)

●今後の大いなる脱線宣言
『突入せよ!「あさま山荘事件」』を、私はそれなりに評価する一人である。若松監督はともかく、何だかこの映画を貶すのが、ある種の映画ファンのステータスみたいになってるのは気に入らない。「おたべちゃんの湯布院レポート」でも『ま、あれはねェ。若松さんでなくたって来ますわな。100%警視庁サイド映画なんだから。あそこでは連合赤軍は、単なる「犯人」でしかないし』と、一顧だにされていない。
 ちがいますよ。全然ちがう。若松監督があさま山荘を「赤軍兵士」の「密室」としたように、団塊の世代だけど外国にいて、全共斗運動の渦中から遠く何の思い入れもない「アメリカ人」原田眞人が、連合赤軍を単なる「犯人」とすることで、警察というもう一つの「密室」を描いたものです。
 団塊の世代とはいっても、全共斗でいい気になって暴れたのは3割程度の大学生のエリートでしかない。私は、「見上げてごらん夜の星を」の若者のように、働きながら学び、食うために望むと望まざるとに関わらず、公益事業を勤め上げ下級管理職で定年になった男である。こういう数多い人間に、言論の場はほとんどない。いまだに一部エリートが言論を独占し、それが全共斗世代と称して、世代の象徴になっている。
 「映画芸術」に書かれた寺脇研さんの『突入せよ!「あさま山荘事件」』批判は、私にとって腹立たしいものだった。私には、大学出のエリートの高級官僚は、いかに「現場」というものを知らないのかを、証明したような一文と感じた。
 いけね!早くも熱くなり過ぎた。これらのテーマは、項を改めて詳述します。ここで言いたいのは、「実録・連合赤軍」を二つの「密室映画」と捉えた私が、私を取り巻く世界を「密室」として捉え直すこと。「狂気」と「日常性」の対比を通して、私の「人生」を「総括」しなおすことである。一見、映画とはどんどん無関係な方向に限りなく脱線していくかもしれませんが、私にとっては「実録・連合赤軍」がキックとなっての、考察であり「総括」であることは、ここに宣言しておきたいと思います。もの凄〜い長丁場になりそうです。
湯布院映画祭日記2007ー11

●「現代好色伝 テロルの季節」
若松孝二監督の低予算を逆手にとった過激派映画に、71年の旧作「現代好色伝 テロルの季節」がある。「実録・連合赤軍」は、大スケールの題材の割には、多分かなりの低予算だと思うが、「テロルの季節」は典型的なピンク映画の規模で、その中でも超低予算の部類に入る作品だと思う。ところが、堂々たるスケールを有していると共に、ピンク映画としての魅力も見事に取り込んでいる。これは、是非ここで紹介しておきたい。
 公安に目をつけられた過激派学生の話である。公安が、学生の住まいの近くに部屋を確保し、四六時中の監視を開始する。学生の方は、連日のように女を連れ込んで、やってやってやりまくる。映画の9割はそんな濡れ場だ。ピンク映画の王道である。でも、延々と続くと、さすがに張り込みの公安だけではなく、我々も食傷気味でウンザリしてくる。「こいつは、もう堕落した」と公安も見限り、張り込みは解除される。それでも、濡れ場は延々と続く。そしてある時、男は女をすべて部屋から追い出し、リュックに爆弾を詰め込み、国会議事堂に向かう。議事堂爆破!もちろん、爆音と白っちゃけた画面でそれを表現するのだから、金はかからない。予算は小さく、テーマは大きく、若松孝二監督のフットワークの良さの象徴のような佳品だった。

●若松監督の次回作構想
「これを撮ったら死んでもいい」との遺作宣言とも思える監督の発言があったので、「もう映画は撮らないんですか?」との質問も出た。「いや、撮りますよ。死ぬまでにまだ3本は撮りたいな」と意気軒昂だった。その直後に「山口二矢なんて、絶対に撮りたい」との発言が出た。私は鳥肌が立った。若松孝二と山口二矢!なんたるコラボレーションか!私は大いなる拍手でエールを送った。ところが、拍手は私一人だった。昭和も遠くなりにけりを痛感した。
 ということで、ここで山口二矢(「おとや」と読みます)の解説をしなければならないようだ。60年安保闘争で騒然としていた時代、愛国党総裁の赤尾敏を崇拝する17歳の少年の山口二矢が、演説会場で時の社会党委員長の浅沼稲次郎を、壇上で刺殺した。歴史に残る暗殺事件である。逮捕された山口二矢は獄中で自決し、キッチリ決着をつけた。
 パーティーでこの企画について、私は若松監督に質問した。「山口二矢を描くならば、当然ながら浅沼稲次郎を描くのは避けて通れませんね」監督の構想は、私なんかの想像を超えた壮大なものだった。「もちろん浅沼稲次郎も描きます。あれが戦後革新の没落の第一歩だったと思ってます。あの暗殺で、革新というものの意義がどんどん希薄化し、村山内閣で終焉していくのを描きたいと思ってます」社会党に象徴される戦後革新の没落とは何かを描く壮大な構想である。これは、絶対に実現を熱望したい。

たたき上げの若松孝二監督への期待
1947年生まれで今年は還暦の私に対し、若松監督は1936年生まれで、一世代上の人だ。団塊の世代の人間ではなくエリートでもない。高校中退で上京した典型的なたたき上げだ。だから私は「実録・連合赤軍」の斬新な視点に期待した。私は期待どうりの成果があったと思った。
そこで、この映画に対して、パーティーで意見なり質問なりをする時は、団塊の世代とはいっても自分なりのポジションを明確にして発言する必要があると思った。シンポジウムでも「あななたたちは、あれだけ若い頃に怒りをぶつけて何かを変えたのか。戦うべきことは今でもあるだろう。年金の心配してればいいのか!」と、監督の檄があった。それに対し参加者から「あの時代の大学進学者は3割程度です。全共斗が団塊の世代の代表ではありません」との反論もあった。
 私も、そんなたたき上げの若松監督に、団塊の世代を全て一緒くたにしてバッサリやられてはかなわんとの思いがあった。同じたたき上げの私として、パーティーで是非聞きたいことがあった。
 以下は、そこにたどりつくまでの前段だが、少々長くなるのを承知で、私の人生回顧にお付き合いいただければ幸いである。

●再び「見上げてごらん夜の星を」の話題へ
ここで再度「見上げてごらん夜の星を」の話題にもどる。あの中の団塊の世代の貧しい若者たち坂本九や中村賀津雄(実年齢は少し上)に私は近い位置にいる。義務教育を終えたら自立しなければならない者は当時は4割程度はいたのである。
 しかし、そのまま町工場に勤めるだけでは忍びない今流にいうならそれなりの偏差値を有する者も、少なくなかった。そんな人間は坂本九のように定時制高校に学んだ。そして、もう一つの選択肢は、なんらかの手当てをもらいながら、学べる企業内学園だった。
 高度経済成長前夜の反映であろうか。この頃は、そんな企業内学園が多かった。高校であったり、職業訓練所の延長であったり、形態はさまざまだったが、とにかく3年程度、手当てを出して職業教育と共に高校相当の高等教育を施し、卒業したら社員に採用するのである。造船会社、印刷会社、製靴会社など、こんな教育機関は各社で盛んだった。鉄道学園なんてものもあったと思う。私は、電力関係の東電学園入学という選択肢を取った。

「キューポラのある街」石黒ジュンへの熱い想い
16歳当時の私が、熱い視線を注いだ映画に「キューポラのある街」がある。私と同年代の中学3年生の少女が、貧しさの中で、考え悩み苦しみ、前向きに生きる道を選択し、人生に踏み出していく。この映画の吉永小百合、というよりは映画中の石黒ジュンの眩しさに、徹底的に圧倒された。(ちなみに吉永小百合の実年齢は私より2歳上で、団塊の世代ではない)
「湯布院映画祭」の常連になるくらいの日本映画好きの私だが、「キューポラのある街」に出会っていなければ、どうなったかわからない。東映チャンバラを卒業し、「リオ・ブラボー」「ナバロンの要塞」「ベン・ハー」というスケールの大きい洋画群に圧倒され、「日本映画なんてチャチでつまらない」と生意気に思いかけた年頃だった。「キューポラのある街」が、それを覆した。自分と同年代の少女が、スクリーンの向こうにキラキラ輝いている感動、こんな感動は逆立ちしたって外国映画にあるもんか。私は目覚め、日本映画にも眼を向けるようUターンしたのだ。

●石黒ジュンのその後
まぶしいくらいに輝いて、働きながら定時制高校に通う道を選択した石黒ジュンのその後は、「続・キューポラのある街 未成年」で描かれる。前作の浦山桐郎の凝縮された純情の煌きに比較すると、手堅いだけの野村孝演出はやや分が悪いのだが、それなりの佳作として私は評価している。
 働きながら学ぶまじめな子は大歓迎だと、おいしいことを言う工場の経営者も、時とともに豹変してくる。何ったって残業もままならない定時制の学生は、工場にとって扱いにくい存在になる。重圧に脱落していく仲間を横目で見ながら、歯を食いしばって信ずる道を進むジュンの姿は切ない。

●私の同種体験
似たような体験は、私もないではない。東電学園は学校法人ではない。中学を卒業し3年間学んで社員に採用されれば、社内では高卒と同等に扱われるが、世間的な学歴では中卒である。私の卒業後かなりたってから、科学技術学園高等学校(通称「科技高」)と提携し、最終的には東電学園卒業と同時に科技高卒業の形態にはなったが。
 社会的にも高卒でありたいと、私は思った。会社も自己啓発を奨励した。2年生の時に、通信制の日本放送協会学園高等学校(通称「NHK学園」)に入学した。通信生は4年であるから、入社後も2年間は学ばねばならないが、勤務上の配慮はできる限りするとの会社方針だった。
 しかし、人間が作る職場である。方針は方針に過ぎない。現場の管理職が点数稼ぎのために方針を無視すれば、それまでのことだ。入社すれば変電所の休日関係なしの交替勤務があり、夜勤もある。一方、通信制高校は休日を中心に開講しているスクーリングに、出席しなければならない。当然、夜勤の休暇を届け出る場合もある。
 せこい管理職だったのが不幸ということもあるが、交替の人に早出してもらえとか何とか、休暇を取らせたくない対応なのである。私としては、同僚に迷惑をかけずに、堂々と休暇でスクーリングに出席したいと思うが、時間外手当削減に汲々としているせこい管理職にあってはかなわない。そんな環境で、とにかく私は卒業までこぎつけた。

物言わぬ(言えぬ)団塊の世代の存在について
そんな風に「見上げてごらん夜の星を」の坂本九も、「キューポラのある街」の吉永小百合演じた石黒ジュンも、私も生きていった。彼や彼女のような団塊の世代は、今どうなっているのだろう。高度経済成長の基礎部分を、恵まれることなく支え続け、今だって発言の場なんて全くありはしないだろう。
 それが、団塊の世代の半数以上だ。そっくりかえってマスコミの中で、聞いた風な御託を並べているのは、世代の中の特殊な3割程度に過ぎないのだ。そんな全共斗世代を、団塊の世代の代表とするのは、断じてまちがっている。
 せめて、石黒ジュンは、素敵な母親として還暦を迎えているのだろうか。そんな架空の少女の行く末に想いを馳せるほどに、石黒ジュンは私にとって永遠の存在なのだ。

●映画の友に高卒は皆無だった
私の10代後半から20代前半、65年〜70年の頃、映画は斜陽の坂道を真っ逆さまに転げ落ちている時代だった。工業高校卒業を中心とした電気関係の現場で、そんな映画に見向きをする奴なんていない。「映画なんて、見てるの、まだあるの、時代はテレビだよ」蔑みの目でみられたものだ。そして周りは麻雀と酒(ゴルフはまだ高級な娯楽だった)、私は酒席で何とか職場内の顔をつなぎながら、社外に映画の友を狂おしく求めたものだ。

●もしも私が機動隊なら…
社外の映画の友は、ほとんどが大学生だった。同年代の社会人はまずいなかった。いわゆる全共斗世代の威勢のいい連中の只中に置かれたこともあった。
 挑発するつもりはなかったが、「じゃ、もし俺が機動隊員だったらどうするの」と議論のいきかがかりで発言した。「それなら、ここから叩き出す」、会の中で、そんな風に言われたこともあった。
 挑発ではないのだ。この頃、私は社会に出て、高度経済成長期前夜の技術社会の進展を目の当たりにしていた。それは、この後にくる高度管理社会の序曲でもあったのだが…。(このあたりは、項を改めて詳述します)そこで痛感したのは、威勢のいい理論も結構だが、電力・通信・交通etc(今流にいうとインフラ)が確立されていなければ、どうにもなるまいとの感慨である。防災・治安というのも、そこに密接に関わってくる。何でもぶっ壊せばいいという全共斗流に、私がもうひとつ完全に馴染めなかったのも当然だ。
 中学を卒業して学べる場として少年工科学校もあった。卒業すると自衛隊に入隊するのである。どちらかと言えば虚弱な私にはありえないが、そうでなければ一つの選択肢にもなりえたのである。ならば、自衛隊員は人間ではないのか。機動隊員は存在を否定されるのか。職業に貴賎はあるのか。そんな思いが私にはあった。
 この時代どんなに映画を愛していても、自衛隊員がこうした中に入ることはできなかったろう。今は自衛官を堂々と名乗った丸山哲也さんがキネ旬「読者の映画評」の常連となり、「キネ旬友の会」でも活き活きと映画の友と語り合っている。健全な時代になったものだ。(でも、これを「日本の右傾化」なんて言う奴もいるんだろうな)

●文化は大学卒業者の独占物か?
映画評とか話術の修行とか、現在の私はいろいろ文化的な趣味に関わっている。そこで思う。大学を出ていない人間は、稀なのだ。当然のように「ところで大学はどちらで…」なんて会話が飛び出すと、かなりイラつく。ここでも、未来の坂本九や石黒ジュンはいないのである。物言わぬ6割以上の団塊の世代が、時代から黙殺されているような気がしてならない。
 団塊の世代の偏らない実像が、明らかにされる日はくるのだろうか。

●全共斗世代は何をしたか
それでも私は当時、まだ同年代の全共斗に期待した。3割程度とはいえ、ほとんどの若者が決起したのである。これは、何かが変わるはずだ、変わらなければならない、と信じたかった。なぜならば、大学以外の世界では、高度経済成長に向けて、管理社会が着々と進行しつつあり、若者を取り巻く環境は、ますます窮屈になっていったからだ。
 ところが、「連合赤軍」のような尖鋭化したものは別にして、ある時期から熱病が覚めたように運動からほとんどが離れ、社会に散っていった。そして、高学歴エリートとして、我々のような者の上に立つ管理職になって、高度経済成長の走狗となったのだ。前に紹介したようなせこい管理職を先輩として見習って、踏襲していった奴も少なくはない。
 一口に団塊の世代といい、「全共斗世代」とくくられることに対する私の腹立たしい思いを、少しは理解していただけただろうか。
 しかし、欺瞞は斗争中からすでにあったのだ。彼らが権力の象徴とした機動隊員、これは同年代の高卒の若者なのである。エリートが、恵まれない貧しい者に対して牙を剥いて、階級斗争もへったくれもあったものではない。

●「われに撃つ用意あり」のこと
若松孝二監督作品で、私が興味深くみた作品に「われに撃つ用意あり」がある。全共斗崩れで、今は新宿ゴールデン街の無気力な酒場のマスターに落ちぶれた原田芳雄が、ベトナム・ボートピープルの少女をヤクザから救うことでリベンジとしたいとの、いい気な自己満足のしょうもない映画だ。ただ、私は彼を執拗に追う蟹江敬三の刑事に目を惹かれた。映画の中では、本来悪役のポジションの存在だが、このたたき上げの刑事に、若松監督のシンパシーの視線が感じられたのである。さすが、大学出のエリートとは程遠いたたき上げの若松監督だけあると、そこだけは感動した。

パーティーで若松孝二監督と、これらのことにを話題にした。その対話の中で監督自身の人生の重さを感じた。その後の、荒井晴彦さんとの対話でも、また荒井さんの人生の重さを感じた。私の人生を振り返り、ひとりひとりの人生というのは、一筋縄でいかないくらい、重い重いものだと感じた。人の考え方や感じ方は、自分も他人も、ちょっとやそっとでのことで変わることない無限に重いものなのだ。そんな調子で思いをいろいろに馳せながら、今年の「湯布院映画祭日記」は、どこまで転がっていってしまうのか見当がつきません。続きは次回ということで、今回はここまでにします。
湯布院映画祭日記2007ー12

●若松孝二監督との対話
パーティーでは、まず自分の人となりを若松監督に話すことから始めた。
「私は団塊の世代です。あの頃は、4割程度が義務教育を終えたら自活しなければならない貧しい時代でした。私もその中の一人でした。企業内学園に入り、叩き上げの下級管理職で定年になりました。ですから、団塊の世代でも、全共斗世代ではありません」。 そして、かねて伺いたかった「われに撃つ用意あり」のことを質問した。
 「監督のキャリアを見ますと、やはり叩き上げの方です。そこで『われに撃つ用意あり』という映画について伺いたいんですが、私は全共斗くずれの原田芳雄の主人公よりも、『俺は新宿の治安を守り続けてきた』と自負する蟹江敬三の叩き上げ刑事の方に、シンパシーを感じるんです。監督の描き方にも同様のシンパシーを感じたんですけど、どうなんでしょう」。
 「ウム、警察にも良い人はいますよ。良い人もいれば悪い人もいる。しかし、そんなことではないんですよね。警察という権力機構自体が悪なんです。僕は警察権力に随分いじめられてきたし、闘ってきた。そんな機構の中では、結局は良い人も悪い人も無いんです!」。次第に監督は熱くなってくる。
 さらに、私は、権力の象徴とされた機動隊員が貧しい高卒の若者で、そこにエリートで恵まれた大学生が牙を剥くネジレ現象についても、監督の意見を伺った。答えは実に一言で明快だった。「だから、奴らはイヌなんだ!」。キッパリと一言のみだった。恐ろしい眼の光だった。
 私は、それ以上なにも言えなかった。身をもって警察権力と半世紀以上闘い続け、今も闘い続けている若松監督の骨にまで染み付いた感覚に、何が言えるというのだろう。でも、私が共感したからではない。40年間、首都圏の電力安定供給に携わってきて、今も関連会社の嘱託で末端くらいに関わっている身としては、治安維持はすべて悪という感覚を持てるはずも、またないのである。

●荒井晴彦さんとの対話
荒井晴彦さんは「実録・連合赤軍」をあまり買っていないと洩れ聞いた。そこで、その次は荒井さんの意見を伺いに向かう。「革命を志した若者が、何で殺しあうことになったか、それが何も描かれてないじゃないか!あれじゃ単なるアクション・ドラマだよ!」。批判の舌鋒もかなり熱い。タジタジとなりながら私は少々反論する。「具体的に描かれてないにしても、映画のイメージの中に内包されてると思いますが…」。「それにしても、お前は何だよ!『密室』とか何とか、映画ファン的な抽象的なことばかり言って!おまえなんか真っ先に総括されちゃうよ!」。よせばいいのに、そこで私はまぜっかえしてしまった。「案外、私みたいなのが一番うまく立ち回ったりしてね」
 その瞬間、荒井晴彦さんからスゴい眼光が飛んだ。「お前なんかに何が解る!」と、その光は語っていた。私の錯覚かもしれない。瞬時でその眼光は消え、「あのな、お前…」 と、いつものシニカルでソフトな口調に戻ったのではある。
 連合赤軍と似たような修羅場をくぐり、大学を除籍された荒井さんの人生の重みをそこでも感じた。荒井さんにとっては、一世代上の若松孝二監督が、何も解らないで連合赤軍を撮っているとしか、思えないのかもしれない。ここでも、それに対して私の言えることは、何もないと思った。

私もそんな眼をしたかもしれない
人は、己の人生の重みに土足で踏み込まれたと思った時、そんな眼をするのかもしれない。「湯布院映画祭」で、私もひょっとしたらそんな眼をしていた時があった気がした。
 台風で閉じ込められた2004年、いわゆる「台風クラブ」における懇親会の時である。「黒部の太陽」が話題になった時だ。滋賀「失礼します!」Oさんと、キューブリックさんが、口を揃えてこの映画を否定した。否定なんて生易しいものではなかった。「熊井啓が資本に身を売った映画」「くだらない経済成長賛歌」、あげくの果てにそんな映画を評価する私の人格まで、否定されかねない論調になってきた。私の「黒部の太陽」の評価は後述するが、多分その時の、猛反論を開始した私の眼の光は、若松監督のように、荒井晴彦さんのように、「お前なんかに何が解る!」とギラついていただろう。
 この年の「おたべちゃんの湯布院レポート」が、この日のことをこんな風に記載している。
「ここでも熱いロートルたちの議論・熱戦が火花を散らし、メッタクソ面白かったのだ。好悪を超えて、こいつら、ホンモノである。(中略)いや〜〜〜〜〜。いくつもの時代を超えてきたやつらは、やっぱりとめどなく面白い。」。多分、「黒部の太陽」の大激論の情景のことだと思う

●何故、映画を幅広く楽しめないのか
自分にとって10年に1本の呼びたい映画というのがある。「実録・連合赤軍」はもちろんそれだ。「キューポラのある街」もそれである。そして、当然「黒部の太陽」もその1本である。こう聞くと、ヘーッと怪訝な表情をする人は少なくない。
 一般的に多くの映画ファンは、一人の人間は同傾向の作品群を、偏向的に誉めなければおかしいと思い込んでるようだ。冒頭で紹介したレストラン「チャンピオン」のベストテンで、私が「モンスターズ・インク」と「ピアニスト」を、共にベストテン入りさせたに、「そういう神経は理解できない」とある人に言われた。
 1965年の私の洋画ベストワンは「サウンド・オブ・ミュージック」である。2位は「8 1/2」だ。こういう者もあまりいなかったようだ。「サウンド・オブ・ミュージック」を一押しする人は、「8 1/2」みたいな難解映画はどうも…といった感じだし、「8 1/2」を最高という者は「サウンド・オブ・ミュージック」を歯牙にもかけないのである。だが、タイプは違えど、どちらも映画の魅惑の究極を行っていると、私は思うのだ。
 1993年の日本映画では、「月はどっちに出ている」派と「学校」派にはっきりと分かれた。私は両方ともベストテンに入れた。どっちがいいか?ではなく、どっちもいい!となんで言えないんだろうか。

●「黒部の太陽」の私の評価
「黒部の太陽」は、前人未到のテーマに切り込んだ壮大な作品であり、これを越えるものは未だもってない。いや、こういう手堅いテーマそのものを取り上げる試みすら皆無なのである。
 この映画の素晴らしさは、短文で語れるものではない。かつて私は、400字120枚程の「石原裕次郎論」を書き、ワープロとコピーで超ミニコミとして配布した。(発行部数20部程度か)その中でも「黒部の太陽」への言及は十数枚に及んでいる。だから、ここではその良さを箇条書きにする程度にしたい。
 1.技術文明は凶器である。人の死なない進歩はありえない。そのことを、事故死を出さずダムも完成させるとの必敗の挑戦を通じて、深淵に迫ったこと
 2.近代産業・高度技術の底辺を支えるのは、ヤクザまがいの組織であるという日本の産業構造の二重性を抉ったこと
 3.近代産業の上層部の決着も、日本では、最後にヤクザまがいの腹芸で決着がつくことの指摘
 4.それでも、あらゆる矛盾を乗り越えて、完成した時の建設の喜びは、確実に人間の本能として存在すること
 5.建設過程はどうあれ、完成物は間違いなく不特定多数を潤すこと

このテーマは、十分に今でも有効である。「停電はダメだ、電気料金は上げるな、環境を守り地球温暖化を防止せよ、と言いながら原子力発電に反対する欺瞞」「過激派に同調して新東京国際空港に反対しながら、いまでは空港の恩恵に最もノウノウとあずかっているエリート・インテリの欺瞞」そういうものに通底しているのである。
 もちろん、「黒部の太陽」は完璧な映画ではない。映画的処理のために著しくリアリティを欠いたシーンもあるし、何といっても現在の映画人はインテリ集団でしかないから、叩き上げの私から見て、全面的にシックリするものができるわけがない。しかし、文化が高学歴者の独占物である限り、とにかくこういう世界に迫ろうとしただけで、それは評価せざるをえないのだ。
 だから、この映画の安易な否定・黙殺には、基幹産業・エネルギー問題に一生携わってきた私としては、「お前なんかに何が解る!」との気持が滾ってくるのだろう。

●あれれ?何で映画プロパー希望だった私がこんなこと言い出したの
と、ここまで書いて来て、あれ?何で俺、こんなに熱くなっちゃったんだろうと、自分で不思議になった。私は映画が好きだった。でも、飯を食うために好きでも何でもない(むしろ技術系は大嫌いだった)仕事をしなければならなかった。単なる飯の種だけに過ぎない基幹産業・エネルギー問題に、ここまで熱くなったのは何だろう。ただ、それを考え直す前に、しばらく私の「映画愛」について考えてみたい。
 キネマ旬報の「読者の映画評」で常連になりながら、私より実績のない者が次々とプロデビューしていったことに対して、これまで過去の「湯布院映画祭日記」でも、嫉み・妬み・僻みの悪態をつき続けてきた。私は金のために、仕事で時間を奪われるのがたまらなかった。「俺に24時間を映画のためだけに使わせてみろ!こんなもんじゃない!こんなもんじゃないぞ!」と、心の中で叫びまくっていた。その苛立ちが、これまでの悪態のもとであったのだ。
 プロの方から言われたこともある。「あなたはなぜキネ旬の読者評にこだわるのか」「もう読者評からプロデビューできる時代じゃない」イケイケを煽るプロの人もいた。でも、私は学歴もコネも無い(学歴がないからコネも無いのであるが…学歴の威力とはそういうものなのだろう)。そんな風に言うプロの人が、じゃあ何かを紹介してくれるのかというと、そんなこともない。商業誌にデビューしかかったと思ったら、訳の解らぬままフェイドアウトになったこともあった。わずかな望みでも、キネ旬読者評常連からのプロデビューに望みをつなぐしかないではないか。しかし、それもここ何年かは没原稿を積み上げるハルウララ状態だ。私の苛立ちはつのる一方だった。

●スコーンと消えたプロへの執着
今年7月に定年になり、月10日勤務の会社嘱託となったら、スコーンとそんな苛立ちが雲散霧消してしまった。今は、別にプロにならなくても、24時間を映画に使ってかまわなくなったのだ。そうか、プロデビューにそんなこだわることなんて、微塵も無かったのだ。
 月10日勤務の会社嘱託して残ったのは、「団塊の世代」大量退職対策として、嘱託して残った方が若干有利になるように、会社が制度改革したからである。経済的に辞めたら困るわけではない。私のつつましいライフスタイルでは、企業年金と厚生年金で十分だ。辞めたら困るほどの嘱託賃金額はもらっていない。(もっとも、そんなに大量にもらったら、年金受給どころか、年金積立者の方に回ってしまうわけである)だから、嘱託契約を解約する気になれば、いつでも自分から申し出ればいいのだ。
 私が、以前に映画評論家の大高宏雄さんに手紙を出し、大高さんはそれをネタにキネ旬2002年9月下旬号「ファイト・シネクラブ」で
「今、プロの映画評論家というものは、魅力的に映っているのだろうかとも思った。(中略)そのあたりの過酷な現実というものを、周磨さんは認識されていない。かつて竹中労は、書くメディアがなくなってもガリ版刷りで書き続けると喝破した。今はガリ版の代わりにインターネットがある。表現方法はいいくらでも考えられるのではないか。」 と書いた。
 今この一文に、私は全面的に共感している。プロでないから、金の心配をすることはない。だから、変に不本意な気を使うこともない。そして、13号倉庫さんのご好意で、こんなに素晴らしい発表の場を与えてもらっている。正に大高宏雄さんの言われた理想形になったのだ。

○もう一つのプロデビューへのこだわり
私がプロデビューにこだわった要素はもう一つある。
 通常のプロのサイクルは、@執筆依頼を受ける→A掲載を前提にされた原稿を書く→B原稿が掲載される→C原稿料を受領する、ということだと思う。私は今だに、このサイクルを完遂した経験は、映画に関してはない。
 原稿料をいただいたことはある。昔の「映画評論」誌の読者論壇は、掲載されれば原稿料が来た。賞金のような形で、応募論文でお金をいただいたこともある。
 商業誌から、掲載を前提に原稿依頼をいただいたこともある。ただし「映画芸術」誌である。編集後記で編集長自身が言明しているし、何人かの執筆者も書いているように、「映画芸術」は原稿料の無い雑誌ということで知られている。
 私が、前述サイクルを完遂した経験は、「三菱電機技法」1982年6月号「東京電力褐け店所給電所自動給電システム」のただ一度である。ただし、これは三菱のエンジニアとの共同執筆であり、たまたま私が本店の担当ポジションにいただけのことで、周磨要ではならぬ必然性もない。原稿もメーカーさんの原案を私がチェックするという程度のものだった。それでも、過去に映画の関係で取得した原稿料と比べると、最大の金額なのである。
 私は映画が好きで、それは社内でも衆目が知るところだった。「キネマ旬報」の「読者の映画評」の常連であることも、知る人には知られていた。下世話な話だが、映画に興味のない奴でも、「どのくらい稼いでるの?」という興味は示すのである。そのくらい「キネマ旬報」は、映画に関心のない者にも知名度が高く、大きいのである。
 映画は夢を売る商売である。だから、私も前述したサイクルの完遂の経験も無く、原稿料は「三菱電機技法」が最大だなんて、夢のないことは言いたくない。「キネマ旬報」の「読者の映画評」が一枚1円でも出していれば、「ま、タダってことないよね」とニヤッとして、想像を膨らまさせることもできる。しかし、こんな現状では黙りこくるしかない。それなりに名の通っている周磨要が、こんな状態なんて夢のないことを言いたくないではないか。「プロになりたい」というのは、そんな私と映画に対するメンツもあったと思う。
 一部の親しい人には、実態を話す。原稿料がないどころか、持ち出しのボランティアみたいなもので、はっきり言って自分の原稿が掲載された「キネマ旬報」だって、本人に通知はないし、掲載誌だって店頭で購入しなければそれが判らないとのことを話した。聞いた友人は唖然とする。「新聞で3行くらいの原稿が載っても、あいさつなりがあって、何かくれるよ」と。「載せていただくだけで名誉であると、有難がる世界なんだよ」と、私が答える。
 冷静に考えると、こんな「キネマ旬報」に象徴される映画評論界の実態は、内部の人は何とも思っていないが、「密室」の「狂気」ではないか。と、すれば、私がプロとなっていたら、その「密室」で「狂気」を培養して何も感じない人間になってしまったかもしれない。
 私にとって「食うための仕事」は、実は映画という「密室」の「狂気」に対して、バランスを保つものだったかもしれない。山岳ベースの密室の外に出た永田洋子の微笑みに相当する価値あるものだったのかもしれない。

関係ない御託を延々と並べて、やっと無理無理「実録・連合赤軍」にこじつけやがったな、と思う人も多いだろう。でも、これは掛け値なしに「実録・連合赤軍」をキックにした私の思考の旅なんです。次回以降もこんな調子で、「仕事」と「映画」を通じての、私の人生に対する思考は続いていきます。
湯布院映画祭日記2007ー13

●中間的整理
「実録・連合赤軍」の山岳ベースを、私は「密室」と位置づけた。そこで「狂気」が培養されていったとした。そして、永田洋子の山を降りた時の「日常」の微笑みが、もし「密室」にもう少しでもあれば、悲劇は避けられたかもしれない、と述べた。
 一方、第2の密室「あさま山荘」の「日常」は、泣き落としのような卑俗な形で雪崩れ込んでくる馴れ合いそのもので、「密室」の純粋性を、クッキー1枚レベルに歪めてしまう悪しきものであった。
 それを踏まえて、私は、私が狂おしく憧れ求め続けた「映画」を「密室」、金のために好きでもなくやってきた「仕事」を「日常」として位置づけた。

ここで、やや長くなるが、私の「日常」であった「仕事」について、半生を振り返ってみたい。

●私は仕事人間だったのか?
私は、「仕事」を「面白い」と思ったことは、ただの1度もない。本当に金のために時間を奪われるのが、辛くて仕方なかった。24時間、「映画」に使い尽くしたかった。
 でも、周囲の反応は、全然別だった。私は、仕事を楽しそうにやっていると思われた。楽しくはない。楽しくはないが、楽しく「思おう」としてやってきたのは事実だ。どうせ、金のためとはいえ、やらなきゃならない仕事だ。だったら、「楽しい」と思ってやった方がいいに決まっている。「泣いて暮らしても一生、笑ろうて暮らしても一生」と言うではないか。金のためにやらなきゃいけないヤな仕事ならば、「楽しい」と「思い込んで」やるしかない。それは、紛れもない事実だ。
 だから、それなりに(映画愛よりも大きかったことは断じてない)熱を入れたのかもしれない。私は、亡妻によく言われた。「あなたみたいに、会社のことを家庭に帰って熱心に話す人はいない」娘は言った。「お父さん、結局は大嫌いって言ってるけど、技術の世界が好きなんだよ。仕事が好きなんだよ」
 そんな風に思われていたとしたら、嫌なことを無理して愛そうと思ったことに、骨がらみに囚われてしまった哀れな男の姿が浮かんでくる。切ない限りだ。

●若いうちに貴重な企業体験 その1
確かに神の配剤なのか、私は企業から、若いうちに面白がれる体験を与えられたのは事実だ。
 入社して数年は、たたき上げ人間のパターンで、額に汗して油に塗れて、変電所の機器を点検したり、変電所の運転員などをやっていた。
 ところが、昭和46年、何故か他の同期生よりも若い24歳で、電力系統指令の仕事に辞令が出た。電力系統指令といっても、何のことか分からないが、鉄道の指令所をイメージしてもらえればと思う。電車は、それぞれ運転士がいて運行しているが、勝手に走ってはえらいことになってしまう。そこで、全体をコントロールする指令所がある。映画なら「交渉人 真下正義」の舞台を思い浮かべてもらえばよい。
 電力も鉄道とそんなには変わらない。発電所・変電所・送電線が、複雑に網の目状に存在しているのが電力系統だが、電車と同じで、発電所が勝手に発電したり、変圧器や送電線を勝手にスイッチングして止めたり使ったりしていたら、収拾がつかないことになる。
 そこで、テレメータやスーパービジョン、現地の状況の情報の電話収集を通じて、適切な指令を発し、無停電の電力安定供給を図る。現地から離れた所からの情報を総合し、「現場状況」を把握する技術知識とともに、「イメージ力」が問われる職場である。
 私は、東京の下町地区を司る指令の仕事であった。激務であるが面白いことは面白いと、言えぬこともない。

●若いうちに貴重な企業体験 その2
そんな私に、さらに分相応な場が転がりこんできた。7週間泊り込みの本店主催の当直責任者研修の話である。もちろん、そんなキャリアも技術もないが、当初参加の予定の人が病気で不参加となり、上司が支店の枠の権利を放棄するのも勿体無い、ひとつ若い者が行ってこい、と恐れ多い話になってしまったのだ。当然、参加者は20歳代も独身も私のみ、最年長の受講者は50代で私の父親といってもいい年代だった。
 研修の終盤の見学会は、私にとってかなりのインパクトだった。見学先は横浜地区の新鋭LNG(液化天然ガス)火力発電所と東京ガスのガス・センターだ。両者は隣接している。ガス・センターは制御電力を隣の発電所から受けており、発電所は燃料の供給をガスセンターから受けている。緊密に連携して共に不可欠な存在なのだ。そのようにして、電力供給もガス供給も支えられている。
 この膨大なシステムを支えるのは、膨大な人員である。多くの叩き上げの人間も必要だ。そんな恩恵の上にあぐらをかいて、そんなことへの認識があるのかどうか定かでなく聞いた風な言論を吐く人間に、疑問を感じたのも事実だ。
 この後、都会の地下の広大な洞道を歩き、縦横無尽に走る地中線の量感にも圧倒された。日常生活というものは、こうした多くの人の昼夜を問わぬ働きにより、維持されているのである。

●若き日の「本陣殺人事件」評
そうした気持の反映だろうか。私は昭和50年、28歳の時にこんな「本陣殺人事件」評(高林陽一監督作品で、何と!二枚目時代の中尾彬が金田一耕助に扮している)を書いている。キネ旬「読者の映画評」の没原稿であるが、ここで紹介してみたい。

喰って寝て交わる事に精力を費やすのは動物でもする。それ以外に自己を賭けるのが、人間の人間たる美しさであると私は思って来た。だがこの映画では、それを人間の恐ろしさとして提示する。
 主人公一柳賢蔵は、「プライド」のために殺人を犯しそして自殺する。弟の三郎は、常に自分を見下げていた兄が手をついて頼んだという「優越感」からその計画に加担し、探偵小説マニアの「誇り」から積極的な証拠隠滅をはかる。人間には「心」がある。その心のためにはどんな事でもやってのける。人間に心があるのは、美ではなく醜なのかもしれない。
 話は変わるが、これまで私は、技術畑の仕事よりも文化畑の仕事の方がより人間性にあふれていると思って来た。技術畑の仕事とは人間の精神をさておいての物理性追求でしかないからだ。
 だがどちらの仕事にせよ、この世の中で生きていくには誰しも自己を偽らねばならぬ時がある。その時文化畑の仕事では、保身のために際限なく自己を正当化することが可能である。しかし技術畑の仕事では、科学的真理という歯止めがある。それを超えた時、いかなる弁明も自己欺瞞の認識を打ち消す事はできない。良心の痛みなしに非人間的な事ができる非人間的な仕事は、実は文化畑の方かもしれない。
 「本陣殺人事件」と、前述した最近の私の心境変化とは、何の関係もない。関係もないが奇妙な共鳴を起こし、何とも言い様もない感慨を抱かせられたのである。

●「怒りをうたえ」の鮮やかなワンカット
当時の全共斗を中心とした若者は「革命を起こす」とかで、やけに威勢がよかった。しかし、こうした緊密に組み上げられて動いているベーシックな社会構造の維持に対する展望はあったのだろうか。
 宮島義勇監督の昭和45年製作の全共斗運動のドキュメンタリー「怒りをうたえ」に、こんな印象的なワンカットがあった。ヘルメット・ゲバ棒スタイルの学生の大集団が、山手線の線路上を完全に占拠し、インターを歌いながら行進する。当然、山手線は完全麻痺だ。ところが、その一段上の路線で新幹線は、平然と運行されているのである。政治も経済も、その中核は粛々と進められており、所詮は若者の革命ごっこに過ぎないということが、鮮やかにワンカットに集約されているのである。
 宮島義勇が意識していたか否かは定かではない。しかし、映画の原始的なパワーを見せ付けられたワンカットであった。

●「軍靴の響き」のこと
これに関連して、この当時に印象に残ったPF(ポリティカル・フィクション)で、半村良の「軍靴の響き」がある。自衛隊の特殊部隊が、首都圏の拠点変電所の数箇所に、原始的な投石器で同時に事故を起こし、大停電を発生させる。それを過激派学生の犯行とデッチ上げ、再軍備・徴兵制へと一気に雪崩れ込む小説だ。
 技術を熟知すれば、自然現象では想定外の同時多発事故を仕掛けることにより、原始的な手法でこのようなことは可能なのだ。半村良がどこで仕入れたか知らないが、電力系統に対する知識のリアリティに、私は背筋が寒くなった。(もちろん、現時点では、電力系統はこの当時より拡大に巨大化しており、この手は全く使えない)半村良は、新宿でバーテン経験があるそうだから、多分酒席の雑談あたりが情報源だろう。人は酒席だと、企業機密に対しても、案外無防備になるものだ。
 これに比較すると、小松左京の「日本沈没」では、かなり前に廃止になった千住火力発電所が近未来にもあったりして、電力系統の知識に関しては、かなりお粗末だった。企業とは太いパイプがありそうな小松左京にしては意外だが、オフィシャルな窓口からの情報では、なかなか真髄はつかめないということだろう。
 当時は「軍靴の響き」のリアリティにゾッとしたが、全共斗でそんな首都圏の息の根を止めるような大停電を画策する者は、皆無だったようだ。今ふり返ればすべては「革命ごっこ」に過ぎなかったようである。
 「実録・連合赤軍」は、「密室」で「革命」の「狂気」が「純粋培養」されていることを描いた。それを通じて「密室」の「狂気」は、「革命」の現実性を「希薄化」していくことも描いていたと思う。この話題は、また後述します。

この後、やや長くなりますが、私が金のための「日常性」と位置づけた35年の「仕事」の中で、忘れがたい思い出を、5つ紹介します。おつきあい下さい。

忘れがたい思い出  その1 自動化システム
24歳で電力指令マンになった私に、昭和52年の30歳の時、新たな局面が訪れた。従来、電話が主流だった電力系統指令にコンピュータ・システムを導入し、オンライン信号化を図る開発チームの仕事を命じられたのである。
 単純に言えば、従来、一つの地域にある膨大な変電所の多数の運転員に、電話で指令していたものを、一箇所で集中制御してしまうということだ。
 中央指令所で発電所の出力を集中的に制御することは、すでに実現していた。私は後にその仕事にも付くのだが、最初に当直指令席についた時、先輩に「おっ、今日は初フライトか」と声をかけられた。初フライトと形容されるような、パイロットに匹敵する高度なものであるということだ。それを全変電所に拡大しようというのである。気の遠くなるような仕事である。支店から本店へと、私はこの開発に8年ほど携わった。もちろん、その程度で完成するヤワなものではない。チームは転勤で部分的に人が入れ替わりながら、延々と継続・拡大していった。
 53歳の時、私は下町の地域指令所に管理職として戻ってきた。そして、定年を迎えた55歳の時に、長い実証期間を経た後、第一号のシステムが、本格運用としてスタートするのに立ち会えたのである。私は、感無量だった。会社は、何て粋な人事をしてくれたんだろう。
 ある人がTVドキュメンタリーで言っていた。「自分の一生は瀬戸大橋の橋桁一つを造ったことで終わった」と…。ビッグプロジェクトというのはそうしたものだ。でも、それでいいではないか。いや、それだからいいのではないか。それを生きた証と思うことは、決して空しくはない。これは私の「黒部の太陽」への思いにも通底する。

●忘れがたい思い出  その2 陸上自衛隊富士学校の人達
38歳から約4年、私は我が母校の東電学園で、教育関係の仕事についた。ただし、後輩の高等部生徒の面倒を見る仕事ではなく、社員の管理者研修の仕事である。
 そこで、私は陸上自衛隊の富士学校の方々とお付き合いすることになる。そして、鍛え上げられた統率力・行動力に圧倒される。電力会社の管理職研修と陸上自衛隊の富士学校との関連を、説明しておきたい。例えば、阪神・淡路大震災のような修羅場における配電線の復興なんかの局面は、戦争同様である。短時間の間に電柱をどんどん建て、速やかに架線していく。戦争の場合は、これを妨害・破壊する敵があるのだから、もっと過酷だ。軍隊組織は、極限状況の対応として学ぶ必要があるのだ。他社ではあるが、阪神・淡路大震災で電気が最も早く復旧したのは、これと類似の研修の成果だろうと思う。
 連合赤軍の山岳ベースでの軍事訓練とは、いかなるものだったのだろうか。「実録・連合赤軍」に見る限りは、児戯にしか見えなかった。どこまで、本格的に軍事訓練というものを学んでいたのだろう。鉄壁の統率力・行動力を目の当たりにしてきた私には、甘いとしか言いようがない。この程度で良しとしたのも「密室」の「狂気」が作り上げてしまったものだろう。

●忘れがたい思い出  その3 東京大停電の恐怖
41歳から約7年間、私は発電力を管理する中央指令所の仕事を、本店では当直副長、さらに全電力会社が共同しての全国組織では当直長というポジションで参加した。
 私が42歳の時の電力ピンチは、もはや記憶にある人は少ないだろう。時はバブル絶頂期、電力需要は毎年うなぎのぼりに増加し、発電所は造っても造っても追いつかない自転車操業に追い込まれる。
 平成2年、こんな状況下で、歴史的猛暑が日本列島を直撃する。この年は、空梅雨で梅雨明けも早く、異例の渇水でもあった。ニュースは、連日のごとくに電力ピンチ、水不足を伝え続けた。
 中央指令室には、連日マスコミのカメラが入り続けた。「うちはスタジオかい」と所員のボヤきまがいの声も出たくらいだった。勤務に付く時、今日は生きてこの指令室を出られるのだろうか。そんな薄氷を踏む思いの夏であった。
 TVニュースには、実によく出た。6時のNHKニュースに映ったので、「7時のニュースはビデオ録画しとけ」なんて家に電話したものだった。ところが、7時のニュースでは映ってないことが多い。6時は粗編集で、顔の悪い奴は7時でカットされんじゃないの、なんて冷やかされたものだ。確かに、電話で必死の応対をした後、疲れきった顔でガックリ首を落とすカットなんて、士気の上からも切られて当然だよな。指令所が頼りなく見えちゃうもの。それでも、記念として何カットかニュース録画が残っている。今夏をふり返っての報道特集では、結構沢山映っていたのも、懐かしい記念だ。
 大停電は回避できた。「地獄を見た」と形容されたこのことも、今では忘れ難い思い出である。

●忘れがたい思い出  その4 阪神・淡路大震災
平成7年、日本全土を恐怖のどん底に叩き込んだ阪神・淡路大震災の衝撃の時、48歳の私は、全国組織の指令所の当直長で夜勤についていた。
 送信されているテレメータ情報は、恐るべきことを表している。発電機が大量に脱落しており、地震の大きさを端的に示している。しかし、驚くべきことに別のテレメータが、その時点で電気が余剰になったことを示しているのである。発電力以上に、電気を使うお客さまが壊滅しているということなのである。
 電気が足らないのでなければ、当面は他社が助ける余地は少ない。とりあえずは関西電力に頑張ってもらうしかない。この時、想定外の情報が入る。四国電力がピンチになる。四国は電源地帯の揺れが激しいが、お客さまの被害は少ない。電気が足りない!私はその対応に追われる。阪神・淡路大震災の隠れたエピソードである。
 一段落し夜勤を明けて帰宅する。その時、マスコミで関西地区の惨状を知る。世間の認識もそんなものだったはずだ。この日の10時頃、社会党は山花離党なんてお家騒動をやっていた位だ。
 阪神・淡路大震災にこんな形で関わったのも、忘れ難い思い出である。

●忘れがたい思い出  その5 Y2K問題
平成11年〜12年、というよりは、1999年〜2000年といった方がいいだろう。私は52歳、銀座地区の指令所の管理職だった時、Y2K問題に遭遇した。
 Y2K問題も、もう記憶にある人は少ないだろう。コンピュータの年号は、二桁で認識しているものが少なくない。すると、99年から00年に切り替わる時、どう暴走するか想像できないという問題である。
 こんなことは、どのシステムエンジニアも判っていた。年号は4桁で認識させた方が良いことも判っていた。それを、メモリ削減というケチな経済性から、2桁にしてしまったのである。2000年になったらどうするの?その時は誰かが考えるよ。こうして、2桁のシステムは全世界に溢れかえり、2000年を迎える破目になる。
 正直に私は、現代の「バベルの塔」になりうると感じた。すべてのエンジニアが判っていたということ、それがケチな経済性追求のために、その時は誰かが考えるだろうと無責任さが、こんな状況を造ってしまったということ、人間の愚かさの端的な現れではないか。
 2000年1月1日を前にして、全国のシステムエンジニアが総動員され、死に物狂いの改修が進められた。しかし、これで大丈夫と保証できる人は誰もいない。
 こうして、12月31日から1月1日にかけて、電力会社は管理職全員と関係技術者を総動員した非常災害対策本部が設置される。31日の0時を控え、緊張の空気が本部に張り詰める。最も早く2000年に0時を迎える先進都市シドニーの状況が、ニュースで伝えられる。何もない。若干、安堵の雰囲気が漂う。
 ニュースは、ミレニアムに沸き返る街の風景とともに、インフラを司る各所の緊張も伝えられる。0時目前、JRを中心とした鉄道の全列車が、ホームに入り停車する。全国の空港に航空機が着陸する。今、日本の空に1機も航空機は飛んでいない。行き詰まるような緊張が走る。0時を迎える。1分、2分、3分…何も起こらない、起こらない…。社内放送されている中央司令室からは、期せずして拍手の渦が沸き起こる。
 何の因果で正月に非常災害対策本部に詰めなきゃいけないんだとの思いもあった。この年、私は家内を亡くした年だった。娘一人を置いての出勤も不安だった。(娘の方は仲良しの同級生を呼び込んで、二人でミレニアムを満喫するんだと、呑気なものではあったが)
 今、思い返すと、これも忘れがたい思い出になった。これを経験したことも、結果的によかったと思っている。対策本部解散の時に、支店長が名言を残したので紹介をしたい。
「何もなくて良かった。私たちは、1000年に1回の、夢を見たんだと思いましょう」

●再び思う、人生って重いんだよな
延々と、私の会社生活40年(東電学園も含めて)、私がたかが金のために費やしてきた「日常性」の思い出におつきあいいただいた。たかが金のための「仕事」であり「日常性」であったにも関わらず、やはりこれだけの思いでいっぱいになる。膨大な時間の積み重ねが、人間を創っていくということだろう。
 信念を貫いて生き抜いてきた若松孝二監督や荒井晴彦さんの、波乱万丈な膨大な時間の堆積は、私の想像を超えた重さに溢れているだろうと思う。改めて、パーティーでのお二方の、瞬時だが見せた眼の輝きに畏怖する思いだ。

●「日常性」と「密室」は、実は裏腹な存在
これまで私は、金のための「仕事」を「日常性」、恋焦がれてきた「映画」を「狂気」を培養する「密室」と位置づけてきた。だが、それは逆転可能な存在なのである。
 どんな組織でもそうだが、特に大組織は必ず「密室」性を持っている。その「密室」の中では、やはり「狂気」は培養される。その意味では、「日常性」と称した私の会社生活でも、「密室」の「狂気」を感じたことはある。「日常性」から照射したら、おかしいと感じることはないわけではない。
 具体的に紹介するわけにはいかないが、最近マスコミを賑わした原子力発電の小トラブル隠し、点検データ改竄などが象徴している。これは、技術的には大きな問題ではないが、「隠し」「改竄」が大きな問題になっている。技術的に大きな問題でないからいいだろうという感覚が、「密室」の「狂気」なのである。

●再び「実録・連合赤軍」に回帰して
ずいぶん寄り道をしてきた。「実録・連合赤軍」の二つの密室を通じて、「密室」と「日常性」を定義してきたが、これはいつでも反転可能な存在だということなのだ。
 「密室」は「狂気」も培養するが「純粋な心」も生み出していく。「日常性」は「密室」の「狂気」に歯止めをかけるのに必要なものでもあるとともに、「純粋な心」を「卑俗な価値観」で貶めていく。しかも突如「密室」と思えたものが「日常性」そのもので、その逆もありうる。このせめぎあいとバランスに、人生というものがあるのではないだろうか。
 「実録・連合赤軍」が迫ったのは、そんな人生の深淵である。次回から作品に即することに戻り、もう少し考え続けてみたい。
湯布院映画祭日記2007ー14

●番外
「掲示板」でCADさんと以下のような意見交換がありましたので、ここでも紹介しておきます。

こんにちは。
おもしろく読ませて貰っています。ただ、一点だけ記述内容に疑問があります。

>連合赤軍と似たような修羅場をくぐり、大学を除籍された荒井さんの

とありますが、桂千穂さんの「にっぽん脚本家クロニカル」によれば荒井さんが大学を除籍された直接の理由は学生運動とは別の所にあるようです。
我々の中にあるあの時代やあの時代を生きた人達を祭り上げる気持ちが美しき?誤解を生むフィルターとして機能している好例だと思うのですがいかがでしょうか?(CADさん)

う〜〜ん。私が勝手に作り上げた「荒井晴彦幻想」だったんですか。何で、私にこんな幻想が出てきたか、考えてみました。
 まず「身も心も」という映画の印象からきた先入観念。その先入観念に基づいてのキネ旬読者評に掲載された舌足らずな私の「皆月」評に対しての、荒井さんの「映画芸術」誌上の厳しい批判の内容。2000年「湯布院映画祭」パーティーで話した時の、荒井さんの学生運動時代の話題。最終的に映画祭パンフレットの記載が決定的になりました。
 ところがパンフレットを再確認したら「早稲田大学在学中は学生運動と映研の二足の草鞋を履いていたが、大学を抹席になる」としか書いてない。学生運動で抹席になったとはどこにも書いてません。完全に私の思い込みでした。思い込みって恐ろしいもんですね。(周磨)

●「日常性」と「密室」は、どちらも「密室」である
これまで、「日常性」と「密室」は、対比すべきものとして語ってきた。実は、対比されるべきものではなかったのだ。どちらも「密室」である。「あさま山荘」という「密室」に、「家族の泣き落とし」という「日常性」として対比したが、こちらの方も血縁・地縁社会という「密室」なのである。人は、いくつもの「密室」を抱えて生きているということなのだ。

●山岳ベースキャンプの「密室」の恐怖
「実録・連合赤軍」は、山岳ベースキャンプの「密室」の恐怖を、とことん描きつくした。革命理論から、徹底的に自己批判・自己改革を迫る森恒夫の総括は、徹底的に正しい。正しいはずだった。ただし、言語は所詮、言語に過ぎない。空無化する空しさは乗り越えられない。私に言わせれば、高度技術社会という「物理的現実」の認識が欠落しているからだ。
 だが、「密室」は森恒夫に、そのことを目覚めさせはしない。苛立ちを「殴る」という行為で乗り越えようとする。ここから「狂気」の第一歩が始まる。理論は高邁だが、それと遥かに落差のある愚行がエスカレートする。
 痛みだけでは、自己批判は完遂できない。失神することにより近づく。暴力は失神に至るまで継続される。肉親の情を乗り越えねば、革命は完遂できない。弟に兄への暴力を強要する。女が美に拘るのは、ブルジョワ精神だ。自らで顔を殴り、顔面破壊することを迫った永田洋子は、その後に鏡をつきつける。思想の高みと、やってることの低劣さの落差の凄まじさ。これは子供のイジメと同次元だ。
 子供とは、社会経験が乏しい分、徹底的に残酷になる。そこで大人がブレーキをかける。でも、この「密室」に大人はいない。ついに、総括では不徹底であると、「処刑」という言葉が発せられる。言論は、殺人の場へと転換する。

●「密室」の中の勇気
あさま山荘の陥落寸前の時、兄を死に追いやった弟が号泣して、生き残りの赤軍兵士に訴える。「俺たちは勇気か無かったんだ!もっと勇気をだせばよかったんだ!!」
 これは、かなり意識的に撮られていたシーンだった。単なる映画中の赤軍兵士への訴えという以上に、テンション高く演出されていた。音楽も高まっていた。映画的リアリティから言えば、かなりのフライングだった。当然、これはシンポジウムで論議の的となった。
 若松孝二監督は言った。「これは、映画中の台詞である以上に、観客全員に向けて言ったことだし、聞かせたいことだった」と力説した。連合赤軍という大きな問題を、「勇気」という陳腐な言葉で括っていいものかとの、意見もあった。
 私は、納得した。世の中をすべて「密室」と捉えた場合、その中で自足し、「勇気」を持たなかったことが、すべての社会悪の根源ではないのか。社会保険庁の問題しかり、賞味期限切れの食品販売しかり、最近の相撲部屋リンチ事件しかり、OBとして恥ずかしい限りだが、電力会社の「データ隠し・改竄」もしかりだ。ひとごとではない。みんな、自分の周りをふり返ってほしい。「密室」の外から見ればおかしいと思っていても、「勇気」がないから「密室」の論理にぬくぬくとしていたことが、本当に無いですか?ノウノウと「無い!」と言う人がいれば、もう脳天気な人としか言いようがない。
 映画的リアリティを破壊しても、「勇気が無かったんだ!」と叫ばせた若松監督の姿勢を私は全面的に支持する。私は大きな感銘を受けた。

●「密室」の価値
ただし、「密室」により純粋培養される「狂気」は、絶対に必要だとも思う。綺麗ごとで動くほどに社会を維持するのはヤワではない。
 中越大地震は、柏崎・刈羽地区の運転を当面不可能にさせた。原子力発電反対派は勢いづいている。今年の夏は何とか大停電がなかっただけなのに、一気に原子力発電全面停止に突き進みたい勢いだ。
 私は、地震の直後に思った。大停電は乗り切っても、代わりになるのは火力発電所だ。地球温暖化対策はどうするのか?京都議定書はどうするのか?マスコミも、原子力に逆風が吹いたとはしゃいでる場合じゃないだろう。すぐ、地球温暖化対策について問題視しなければいけないはずだ。最近になって、京都議定書に定められたCO2排出枠を緩和してくれと電力会社が申し出て、初めてニュースになった。こんなこと、電力会社が申し出る前に、馬鹿でも判るだろうが!
 ドイツは原子力発電を放棄したと、シタリ顔に言う輩がいる。そのドイツは原子力大国のフランスから電力を輸入している。日本は島国だ。電力は輸入なんてできないのである。
 1973年の中東戦争によるオイルショックによる節電対策で、繁華街のネオンが消え真っ暗になったのを、もうみんな忘れているだろう。あの後、中東情勢が大きく揺れても、そんなことは再現しない。苦い体験に基づいて、日本の電力は石油の全面依存はやめた。石油1/3、LNG(前にも紹介した液化天然ガス)1/3、原子力1/3、という石油情勢に右往左往せずビクともしない体制を整えたからだ。原子力を廃止に追い込んでハシャいでる場合じゃないのだ。
 何で水力が出ないの?という人がいよう。中国のように膨大な水量を誇る河川は、残念ながら日本は無い。黒部のように、あるいはその前の佐久間のように、大いなる犠牲者を出して、大いなるダムを作りますか?(この二つの開発については、歴史に残る優秀ドキュメンタリーにもなっており、映画ファンにも無縁とは言えまい)それだって、日本の国土の水力には限界がある。
 後は、日本の燃料資源・国土に応じた電気の使い方を模索するしかあるまい。でも、ドップリ電気漬けの便利感覚で麻痺した者に、電気消費量を減らせ!使うな!ってのは無理だよな。いや、一つだけ手があるんだよ。電気料金を十倍にしちゃえば、使わなくなるんだよ。
 ずいぶん、乱暴な論理を展開した。「密室」の「狂気」の論理というのは、百も承知だ。でも、こんな視点を、単に「狂気」とバッサリ切りますか?

●「狂気」の限界
最近、相撲部屋のリンチ殺人が話題を集めている。これは論外にしても、相撲部屋という「密室」にはそれなりの「狂気」は必要だと思う。「狂気」がなければ、絶対に並外れた強い力士は育つことはあるまい。
 かくいう私のサラリーマン社会の「密室」だって、ずいぶん非人間的なひでェ話は、履いて捨てるほどあった。でも、極限状況を乗り切るのは、絶対に「狂気」が必要なのだ。
 はっきり言えることはひとつある。「殺し」たらいけないということだ。昔、二所乃関部屋を脱走した後の初代若乃花が、先輩の力道山に捕まりボコボコにされたという逸話が残っている。でも、若乃花が横綱になった暁には、むしろ美談として語られているのだ。生きていればこそである。
 サラリーマン世界では、命のやりとりまではないが、「この野郎、ブッ殺してやろうか」と上司に殺意を抱くのは珍しくない。いや、私も定年時には下級管理職だったんだから、殺意を抱かれていたはずだ。でも、退職や自殺に追い込むまでに至らなければいいのである。恩讐を乗り越えて、先輩・後輩の呉越同舟で、「あん時はひどかったよ」と、OB会ですべて笑い話になるのだ。ただ、最近はその一線を弁えない者が、多くなったような気もする。
 私は、「密室」も「狂気」も、一面では必要なものと、今でも思っている。グダグダの日常性だけでは、断じてダメなのだ。

●佐々淳行のこと
佐々淳行のことを、パーティーで若松孝二監督と話題にした。若松監督は言った。
 「結局、新左翼壊滅のマスコミ対策に、佐々淳行は成功したんだよね。あさま山荘を劇場化し、総括リンチ殺人を最も効果的な形で露出したんですよ」
 なるほど、佐々淳行の実像に結びつければ「突入せよ!『あさま山荘』事件」に腹を立てるのも解らないではない。「お馴染みおたべちゃん」も、この映画に関しては佐々淳行にこだわりがあるようだ。
 「突入せよ!『あさま山荘』事件」は、佐々淳行の実像とは別物として考える映画だと思う。ただ、それ以前に私は、佐々淳行の「危機管理論」を高く評価する者なのである。私だけではない。彼の「危機管理論」は、責任あるインフラをあずかる者のバイブルというべき存在なのだ。
 細かく紹介してもしょうがないので、一点だけについて、要旨を述べる。「未確認情報は、未確認とはっきり付記して、速やかに流せ。また、受信した者は未確認情報であるのだから、情報訂正がきたら咎めてはいけない」これは現場の人間として、眼から鱗が落ちた。事故などの非常時は、情報が輻輳する。ところが経営層は、正確な情報を要求する。後で訂正すると怒られる。だから、完璧な情報確認に手間取り、ズルズルと時間が経過する。マスコミから、大組織は動きが鈍いと叩かれる遠因は、そんなところにあるのだ。

●私の「突入せよ!『あさま山荘』事件」評
ということで、私は、前に長々と紹介したように35年も首都圏電力安定供給に(喰うための仕事とはいえ)エネルギーを注いできた人間であり、佐々淳行によい印象を持ちこそすれ、悪印象はないのだから、否定的な人との資質の溝は埋めようもない。無益なやりあいはよしましょう。当時に書いた私のキネ旬読者評投稿原稿(第一次審査通過だったかな?)を紹介します。こんな風に感じる奴もいると思って下さい。

冷静に見つめ直せば「あさま山荘」は奇妙な事件だった。警察が発砲した数少ない威嚇射撃は、連合赤軍の体に一発もかすることなく、彼等の多数の銃弾は二人の警察官と一人の民間人を射殺し、二十名以上の警察官を負傷させ、彼等は無傷で逮捕される。諸外国が見たらどう思うだろう。奇跡なのか?喜劇なのか?映画はこれを、あまりにも日本的な人間喜劇として描く。
 危機管理とは無縁の日本馴れ合い社会、そこに闇雲に銃を乱射する異分子が投げ込まれる。この映画は連合赤軍をそうしたシンボル以上として描くことはない。否定肯定はさておいて、団塊の世代で彼等に何のシンパシーを持たないのは意外だし、青春時代をアメリカで過ごした原田眞人監督ならではの視点でもあろう。
「職場」は「仕事」をする所であるし、「仕事」とは今ある課題を最良の方法で処理することだ。それならばこの映画の警察は「仕事」をしていない。人質救出・犯人逮捕の「仕事」より、政治家と警察官僚、警察庁と県警、二機と四機の面子が優先し、事態はどんどん課題処理とかけ離れる。
 これは日本社会の縮図だ。終身雇用の馴れ合い社会、日本の職場は、仕事以外のすべても共同せざるをえない村社会だ。職場は「仕事場」と共に「遊び場」なのだ。「遊び場」ならば「課題処理」もさることながら、「面子」もかなり重要である。日本社会に危機管理は本当に馴染まない。サラリーマン生活三七年、今年に定年を迎える私の実感だ。
 早いカット割り、かぶさりあう台詞、「呪縛」に続き原田監督は、どこかユーモラスでスピーディーな社会派映画の独特な語り口を完成させた。特に突入前夜の緊張感を役所広司の一人オーケストラで表現したのは見事だった。
 また、サブエピソードだが、警察の優柔不断をなじるかと思えば、突入後の進展が滞ると一転慎重論になるマスコミの対応も、やっぱりこの国は危機管理と無縁なことを補完する。
 いずれにしても「呪縛」から「光の雨」「KT」そして「あさま山荘」と、日本の社会派映画も、やっと「すべて右翼・自民党・保守反動が悪いのよ」との山本薩夫の頸から、自由になったようだ。

●技術屋とSF作家は右翼?
自衛官の丸山哲也さんが、自然体で映画ファンの輪に入っているのを「健全な時代」とし、自衛隊の統率力・行動力を評価し、佐々淳行の「危機管理論」を大いに認める。こいつ、こんな右翼だったのかと、あきれてる人もいるかもしれない。ただ、改めて思うと、技術屋は所詮すべて右翼になるのではないかという気がしてきた。
 若い頃の筒井康隆が、「俺は右翼だが、SF作家はみんな右翼だ」てな意味のことを言って物議を醸した。私は以下のように解釈して納得した。
 科学とか技術とか、それに伴う社会のありようというのは、どんな不都合な経過で現状に至ろうが、まずそれを前提として認め、そこから想像の翼を広げるのがSF(サイエンスフィクション)である。(もちろんニューウェーブSFなどの例外はある。為念)現状を一旦は肯定するというのを右翼(保守)とするならば、SF作家は右翼と言わざるをえない。
 技術というのも、その経過はどんなに悪しき形をとっていても、現状を良しとすることで始めるしかない。そもそも技術は、人間を幸福にしようとして開発されたものよりも、まず殺人兵器としてスタートすることの方が圧倒的に多いのだ。
 電力で言えば、このせまい国土に、富士川を境にして50HZと60HZの二種の周波数が存在しているのは、決して感心すべき状態ではない。でも、こうなってしまったのは認めるしかない。周波数を統一するような、もはや膨大で不可能な試みをするのではなく、世界に類を見ない大規模の周波数変換装置の開発という方向に、行かざるをえないのである。
 過去の経過はさておき、現状を認め、そこから一歩を踏み出す。それを右翼的というなら、技術屋もすべて右翼的と言わざるをえない。

●「現場」感覚について
「突入せよ!『あさま山荘』事件」は「黒部の太陽」と同様に、「現場」の感覚が比較的よく表現されていたと思う。(あくまでも比較的であり、高学歴・インテリが創る映画表現というものには、所詮限界がある)
 ただし、これも私の社会経験と個人資質から出た感覚であり、たとえば「原田眞人」に「ある種のエリート意識」を感じたと掲示板に書き込んだおたべちゃんにすれば、多分、「現場」感覚なんて感じなかったでしょう。人間の感覚とは、百人百様なんだと思う。
 寺脇研さんは、「映画芸術」2003年冬号の「日本映画ベストテン・ワーストテン選評」で、「突入せよ!『あさま山荘』事件」について、こんなことを書いている。
 「わたしだって役人をしていれば、『オレが組織を動かしている』式の錯覚に陥ることがないとは言えぬ。それは、『うちの会社はオレで持っている』という新橋あたりの居酒屋に満ち満ちる声と本質的に変わらないヒロイズムだろう」
 ああ、文部科学省の高級官僚(当時)には、こういう風にしか物が見えないんだなあ、と私は感じた。こういうヒロイズムを持つのは、役所なら高級官僚、会社なら経営層や上級管理職である。良しにせよ悪しきにせよ、マスコミの前に立ち、「言論」を展開する人間である。はっきり言って、こういう人達は高学歴エリートで、「現場」なんて知らない。「現場」が分かっているように、レクチャーされているだけである。そのレクチャーをするのが、現場を知りそれを「言語展開」できるような研鑽を重ねた私のような「下級管理職」なのだ。
 そんな人間にとって、ヒロイズムなんてありようもない。むしろ、「現場」の苦労を知るだけに、知らない人間にレクチャーするための「言語展開」に苦心惨憺している仕事が、時に空しくなるくらいだ。つくづく「言語」や「表現」は、一部の高学歴エリートに独占されていると感じる。

●「踊る大捜査線」について
「踊る大捜査線」シリーズは、大変な人気を集めた。だが、映画通の間では、ほとんど黙殺に近い。これは、どういうことなんだろうか。
私はこんな風に思う。このシリーズの根底にあるのは、「事件は会議室で起きてるんじゃない!現場で起きてるんだ」の名台詞に象徴される事態である。「どうして現場に血が流れるんだ!」というのもあった。これが、圧倒的な支持を得たのだと思う。世の中は、「言語」なんかを操っている一部高学歴インテリよりも、下積みの「現場」の人間の方が、圧倒的に多いのだ。だが、映画を言語化する者は、一部の高学歴インテリなのだ。「踊る大捜線」が映画通の中で、黙殺(一部に冷笑なんかもある)されるのは必然だろう。
 私も「踊る大捜査線」が大傑作だなんて言っているわけではない。ただ、優れた大衆映画として、もう少し評価してしかるべきだと思うのだ。

●私の学歴に関するトラウマ
結果的に、私は「仕事」と「映画」という二つの「密室」を生きて、定年を迎えた。それを選んだ決意も、学歴問題に深く関わっている。
 社会人になっての20代前半、「映画」に限りなく情熱を注いだ。「映画評論」「キネマ旬報」の投稿の常連となり、数々のコンクールでも授賞した。(ナンバーワンがなくいずれも準優勝程度だったのではあるが)飛ぶ鳥を落とす勢いだったと思う。しかし、それまでだ。後一歩…後一歩がどうにもならない。
 こんな時、「キネマ旬報」が編集部員を応募した。ところが応募資格に冷徹にも「4年制大学卒業」と記してあった。折りしも、映画の友人が、大学を卒業し就職する時期であった。「映画友の会」の友人が合格して、キネ旬に入社した。これは、かなりのトラウマになった。
 彼よりも、私が勝れているかどうかは知らない。そんなのはリングに上がって(応募して)勝負すればいいことだ。ガックリきたのは、学歴がなければ、リングにすら上げてもらえないということだ。

●「仕事」と「映画」、二つの「密室」を生きる決意
人は無責任にこう言う。「学歴なんて関係ない。俺には学歴がなくてもその資格はあると、リングに乱入しちゃえばいいじゃないか」「淀川長治さんや佐藤忠男さんみたいな人もいるでしょう」
 ぜんぜん分かってない。淀川長治さんや佐藤忠男さんは例外的天才でしょう。私は、それ程の自惚れはない。この時、やや冷静に考えた。私は東京電力にいる限り高校卒業として処遇(その後、高専卒処遇の社内資格を取得)されるが、その核の傘を離れたら、通信制高校卒業に過ぎない。(定時制高校卒業者が差別されていた時代だ。通信制なんて屁のつっぱりにもならない)かくして私は、「仕事」と「映画」、二つの「密室」を生きる決意に至った。

選択は正解だったと思おう
還暦の定年を迎えて、結局、これは正解だったと思っている。
 私が羨み嫉妬したキネ旬編集部員になった「映画友の会」の友人は、その後転進して、ある一時期は飛ぶ鳥落とす勢いだった著名映画雑誌の編集長に就任し、休刊後も誰かの紹介で業界紙の仕事をしている。高学歴で業界内のコネクションを得ていれば、食いっぱぐれはないということだ。私みたいな無学歴の者が映画業界に乱入していたら、野垂れ死にになっていたかもしれない。
 もう一つは「仕事」という「実業」の視点から、「映画」という「虚業」を見ることにより、映画を見る眼は深まったと思えることだ。二つの「密室」を生きた成果だと思う。「虚業」と言ったので誤解されると困るが、これは「映画」を貶めているのではない。ここで、白井佳夫さんの名言を紹介しておこう。
 「映画は影である。影に過ぎない。しかし、素晴らしい影である。この影は現実よりもはっきり現実を映し出すことがあり、時に現実すら動かすのである」
 ただ、私の評が、「実業」の精神を真に活かしているかは定かでない。ある編集者の人からは、「結局、実業のが上なんだぞと、自分を一段高みにおいて『虚業』を見下しているに過ぎない」と、言われたこともあった。
 そして、卑俗な話だが年金受給者となって、私の選択はつくづく正解だったと思っている。東京電力と再就職の関連会社を定年まで勤め上げた成果である。叩き上げの唯一の有利な点は、年金納付の時期が早いことだ。特に私は東電学園の頃からだから、15歳の時から納付している。納付期間は大学卒とは7年、大学院卒とは9年の差がある。年金支給繰り延べで四苦八苦し、生涯生活設計を立て直している高学歴者を横目に見ての、悠々自適である。まあ、少しはいいこともなくっちゃね。

私の偏見 学歴コンプレックス
二つの密室を生きていく中で、私はキネマ旬報「読者の映画評」の常連ではあり続けた。その中で、私よりはるかに実績の無いものが、次々とプロデビューしていった。理由は分からない。何てったって「映画」という「密室」の話なのだから。
 偏見を承知であえて言うが、端的に私が無学歴だという理由に尽きると思う。初期のキネ旬ニューウェーブでの森崎東映画をめぐっての論争で、私は無学歴を堂々と公言しているのだ。
 故石原郁子さんとの何通かの手紙のやりとりで、このことを話題にした。石原さんは書いていた。「プロデビューの話が来た時、特に学歴は問われませんでした」当然である。石原さんは、当時は教師だった。教師なら高学歴に決まっている。
「読者の映画評」からのプロデビューは、なぜか鬼塚大輔・中西愛子と、教師が多い。学歴確認の手間がはぶけるからだろうと勘繰っている。でも、映画とは、いろいろな人の視点で語られるべきなのに、教師に偏っているのはどんなものだろう。教師の世界って、「特殊」でかなり「虚業」に過ぎないんじゃなかろうかって、これ、やっかみ半分の嫌味ですので、まともに取らないで下さい。
 でも、今はすべて恩讐の彼方、少し前の「スコーンと消えたプロへの執着」の項で述べたように、今はプロにならなくったって24時間映画に使える自由を留保しているのだから。

「映画」の「密室」での、ちょっと不快な話 その1
9月の「映芸マンスリー」で、ちよっと不快な2件の事象に遭遇した。誤解のないように言っておくが「映芸マンスリー」が不快だったのではない。冒頭で少し紹介したが、「映芸マンスリー」は素晴らしい催しである。同時期に始まった「ミーム・シネマ・サロン」がトークショーゲスト不在の回が続いて、単なる回顧上映会に過ぎなくなり失速気味なので、よりいっそう頑張ってもらいたい。
 私の原稿が、市販雑誌に掲載される話が進んでいた。が、会場である人から、それがダメになるかもしれないと聞かされた。内容が悪いなら仕方がないが、そんな次元ではない。「湯布院映画祭日記」で、私が、その雑誌に協力的なある監督に、不快の念を与えたことが想像されるとのことなのである。その監督がクレームをつけてきたたわけでも何でもない。単なる「慮り」「気配り」に過ぎないようだ。「密室」だなあ。それもイヤな側面だなあ。
 まあ「スコーンと消えたプロへの執着」であるから、以前ほどはカッカすることはないが、愉快な話でないことはまちがいない。

●「映画」の「密室」での、ちょっと不快な話 その2
9月の「映芸マンスリー」では、珍しい出会いもあった。ピンク映画大賞の投票者の一人の人が来場したのである。ピンクのエキストラを済ました後、ここに来たとのことで、充実した表情である。早速「映画芸術」のビンク映画の連載が話題になる。
 「今の人の『バニシング・ピンク』は、青森の人なんで、新作の話題が少ないのが物足らないですね。周磨さんの、何で終わっちゃったんですか」 と、私に聞かれても困る。確たる説明もなく、何となく最終回を通告されたのという「密室」的状況なのだ。
 「まあ、最初から1年ということだったんですから、それ以上に続いたことで良しとするしかないんじゃないですか。でも、品川信道さんは、私の11回を越えて13回に至ってますが…。まあ、品川さんは元なみおか映画祭の企画選定委員、私はタダの人に過ぎませんから…」 と、自嘲気味に答えるしかないのである。
 これも、「スコーンと消えたプロへの執着」であるから、以前ほどはカッカすることはないが、愉快な話でないことはまちがいない。

●「仕事」が私を癒してくれた
「映芸マンスリー」の翌日は、9月の出社日のうちの一日だった。前にも記したが、私は7月から再就職先の東京電力の関連会社を定年になり、その会社と月に10日間勤務の嘱託で1年契約している。職場は地元の多摩地区で、東京電力の多摩地区の指令所からお仕事をいただいている。
 出社早々にリーダーに言われる。「来年7月以降も、嘱託契約をお願いできますか」確かにチームに体調不良の人が出て、厳しい状況なのは理解している。来年の人事計画はそろそろ下調整しなければならない時期である。「いいですよ」私は快諾した。
 あれれ?こんなはずではなかったはずなのだ。そもそも私は、定年になったらスッパリ「仕事」と縁を切り24時間「映画三昧」のつもりだった。嘱託として残留したのは、退職の条件が若干良くなるので、ケチな欲をかいちゃっただけである。「仕事」がしたいわけでもないし、辞めて経済的に困るわけでもない。
 好条件で退職を済ましたのであるから、今は、私はいつでも24時間「映画三昧」の権利は留保している。この種の契約は、雇用している会社の方から解除しようとすると、勤労者保護の観点から様々な制約があるが、雇用されている側から解除を申し出る分には、何の制約もない。まあ、好条件で退職しておいて、すぐに解除を申し出るのは、社内規則上は可能だが、私にはそんな仁義にもとることはできない。1年間の契約満了まで勤め上げてから、24時間「映画三昧」に耽るつもりでいたのだ。
 それなのに何で二つ返事で快諾なんてしちゃったんだろう。そして何故か、このことで精神的にすごく癒されもしたのである。

●これからも、二つの「密室」で生きていこう
考えれば、醜女の深情けのように、私は「映画」という「密室」に恋焦がれてきた。でも、「映画」の側は、そんな私を全くお呼びじゃなかったのだ。「君を必要だ」と言ってくれたのは「東京電力グループ」だったのだ。癒されたというのは、そういうことだと思う。
 「仕事」といっても、嘱託だから大したことをするわけではない。基礎的な記録データをコンピュータ処理して、指令所の所員がオンラインの業務にできるだけ専念できるよう、サポートする程度である。
 最も比重の高いのは、事故復旧訓練のトレーナーの「仕事」だ。団塊の世代の叩き上げは、高度経済成長の狂ったような設備増設に次ぐ増設で、綱渡りのような電力安定供給を続けてきた。(工事担当者なんかで、激務によるノイローゼから自殺したのではないかと囁かれた例もあった)設備も今ほど良くなく、事故も多かった。団塊の世代は修羅場をくぐってきたのである。
 今は、設備もよくなり、電源も充実し、事故もほとんど発生しなくなった安定した状況である。それだけに、危機管理のうえから「事故復旧訓練」が必要なのだ。「訓練は仕事である。自衛隊はこれまで、幸いにも実戦参加したことがないから、演習が仕事だった。電力の指令業務も同様に、訓練が仕事なのだ」こんなことが、言われる時代である。
 私の業界に限らないと思う。「団塊の世代」の大量定年退職が、世間で技術継承の面で問題となり、企業が何らかの形で残留を依頼しているのは、高度経済成長の修羅場をくぐってきたのに、価値をみているからではないだろうか。
 契約延長を快諾したのは、もうひとつ大きな理由がある。やはり「密室」は複数所有した方が、有意義だと思えてきたからだ。一つの「密室」の「狂気」を、もう一つの「密室」の「日常性」が歯止めをかけ、その逆もまた真のような気がしてきたのである。
 多摩地区の指令所は、張り詰めた雰囲気に包まれている。9月とはいえ残暑が厳しい。電源の充実も、今年の夏は中越地震で柏崎・刈羽地区の原子力発電所の無期限停止で、先の見えない危機的状況が、これから何年も続きそうである。東京大停電を予感させる電力不足ピンチは、過去のものではなくなるかもしれない。この指令室の緊張感、やっぱり私には、この「密室」の空気が必要なのかもしれない。
 「金のため」であり「一度も楽しいとおもったことのない」「仕事」を、還暦になって初めて自らの意思で選択し、携わることになった。「仕事」に必要とされなくなった時のいつか、24時間「映画」という「密室」に閉じこもる日はくるであろう。それまでは「映画」と「仕事」という二つの密室をバランスさせることにより、充実した生を満喫していきたいと思う。

●「お馴染みおたべちゃん」へのエール
最後に「お馴染みおたべちゃん」へエールを送りたい。
 おたべちゃんの「湯布院映画祭レポート」のフィナーレ「自己批判なし、自己肯定だらけの総括」は、今年もジンと来た。いや、ジンとではなく、美しいと感じた。
 親の介護を決意し、「まだ『あたしが誰か』を年寄りが理解できてるうちに同居に踏み切った方がいいと思った。(中略)世話してもヘルパーさんとかひどけりゃ近所の手伝いの者とか思われたりする前に、日々飽和していく彼と彼女の記憶にしっかりあたしってのを焼きつけとかねば、あたしの数年が可愛想だと思った」 と宣言して、あえて「だんだん映画が観られない状態」に踏み込んでいく。「美しい」と思った。美しい心がなければ、決してこんなことは書けない。
 「映画」と「家庭」という二つの「密室」を背負って生きていく。その方がいい。絶対にその方がいい。「本物の女にならねばと思った。女に磨きをかけて、人間に磨きをかけて、50を目指して、本物になるのだ。ざまをみさらせ。その時、泣くな」
 なれるよ。絶対になれるよ。そのためにも「映画」だけの「密室」に閉じこもらない方がいいよ。「一人になって大の字になって寝られる日まで、絶対に死ねない。死なない。24時間365日を、再びあたしの時間にできるまで、石にかじりついたって生きてやる」
 そう、そんな時間は、最後には誰にでも来る。その頃は私もきっと、「映画」という「密室」だけに閉じこもり、元気な爺さんをやってるでしょう。

還暦で定年を迎え、会社嘱託になった節目の年の「湯布院映画祭」で、「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」を始めとした刺激的な作品群に出会い、シンポジウムやパーティーで多くの人と対話を重ねた結果、思いがけず人生の総括をするような「映画祭日記」になってしまいました。素晴らしい体験を与えてくれた実行委員会やゲストの皆さま、楽しい時間を共有させてくれた参加者の皆さまに、深い感謝を捧げて、今年の閉幕としたいと思います。

長い間、ありがとうございました。
●ぼくら新聞舎より
 2007年の「周磨要の湯布院日記」も、無事完結いたしました。ご愛読の皆様、周磨さん、お疲れ様でした。尚、「周磨要の映画三昧日記」「周磨要のピンク映画カタログ」は引き続き、好評掲載中です。そちらの方もご覧戴きますよう、宜しくお願いします。(2007.10.21)


周磨要の「湯布院日記2002」    周磨要の「湯布院日記2003」      周磨要の「湯布院日記2004」

 周磨要の「湯布院日記2005」    周磨要の「湯布院日記2006」      おたべちゃんの湯布院レポート

                                                                 Top Page