『この宇宙をこの宇宙の外から見ると、どのように見えるのか?』
<<<1999年1月16日Sat.>>>
この宇宙をこの宇宙の外から見ると、どのように見えるのか?
ある日、ふと思いついて以来、気になる問題になってしまっていた。
だいたいにおいて、見ることが可能かどうか。
可能かどうかなどお構いなしに、ただ、どう見えるのかについて考える。
でも、宇宙からの脱出についても考えてみたい。
膨張する宇宙って、その端の速度はどのくらいで膨張しているのだろうか?
光速を超えることができるものって存在するのか?
素粒子ってどんなもの?
無の揺らぎ。
この揺らぎを発生させた何らかの外的要因は存在したのか?
この宇宙の外には何か存在するのか?
膨張するこの宇宙の現在確認されている果て付近においてこの宇宙の外にあるものとの何らかの接触らしきものに付いて聞いたことがない。
などなど、とりとめもなく考え出すと限がない。
<<<1999年6月5日Sat.>>>
「月刊アスキー」 4月号と5月号のLOADTESTの中のChiken97改の記事を是非読んでみてください。
私の言いたくて文章になかなかまとまらなかった事柄が、西村氏の手によって表現されています。
なんか非常に無責任ではありますが、あしからず。
<<<1999年8月22日Sun.>>>
「天の川銀河ビジュアル紀行・すばる望遠鏡が見た神秘の宇宙」(NHK/1999.8.18放送)を見た。
我々を形成している物質が、何世代もの星の生死により誕生したことや、宇宙の広大さを再確認した。
そして、この宇宙の誕生のきっかけや、この宇宙の時の流れがどこに帰結していくのか、また、その流れの中における人類・自分の存在とは何なのか、考えさせられる。
現在読んでいる「草原の椅子」 宮本輝 著の中にナンシー・ウッドの詞が引用されている。
引用の引用をさせていただく。
今日は死ぬのにもってこいの日だ。
生きているものすべてが、私と呼吸を合わせている。
すべての声が、私のなかで合唱している。
すべての美が、私の目の中で休もうとしてやってきた。
あらゆる悪い考えは、私から立ち去っていった。
今日は死ぬのにもってこいの日だ・・・・・・。
自分の意志からではなく生を受けた我々が、自分の意志で死ぬときのことを考えるとき(自殺だけではなく、あらゆる状況下での死に至る瞬間)、どういう状況がふさわしいのだろうか。
それは、「自分の存在が、宇宙と一体化した」と感じたときではないだろうか。この感じとは、ただ単に脳内に微量の電流が流れ、ごく少量の分泌物質が分泌されているだけなのだが。
この脳内の出来事を発生させるきっかけが、問題。極端な話、太陽が昇ってくるだけでこの様な気持ちになれるのならば、(いままでの人類の歴史の中で、太陽など自然の事柄を崇拝していた人たちは、「自分の存在が、宇宙と一体化した」に近い感情をもてたのではないだろうか。)いま自分を取り巻いている人工的なものは、ほぼ何も必要としない。
この必要のない物質を、あたかも必要なもののように見せているのは、この資本主義に他ならない。生産力至上主義に帰結している「社会主義」も同様だ。
「自分の存在が、宇宙と一体化した」という感じを毎日持つことができる社会。これこそが、この宇宙の中の存在としての人類のあるべき姿なのではないだろうか。
自然と自分との関係がある特定の(現人神のような)人間によって関係づけられるのではなく、まさに一対一のものとして関係づけられることのできる社会こそが、種としての人類の進むべき道なのではないだろうか。この一対一の片方の一は宇宙であり、もう片方の一は、個としての一でもあり、人類全体としての一でもある。しかも、「対」とは、もちろん、対立は意味しない。自然と一対一の関係として存在する個々人はすべてにおいて平等であり、差別などありようもない。戦争=人殺しも、ばかげたことだ。環境破壊なんてもってのほかだ。
これって、もしかして宗教?。うー、嫌いな言葉だ。
この考えを現実社会の中でどう反映さていくのかを考えるとき、そのギャップは計り知れない。あまり考えすぎると、とっても、あぶない。
バーッチャルな脳内だけのお遊びにしておこう。
<<<1999年9月4日Sat.>>>
前回、「バーチャルな脳内だけのお遊びにしておこう」などと書いたが、そもそもバーチャルと言う言葉を作り、勝手に線引きをしているのは人間であって、物質の移動形態としては、どれも同じではないか。すべてが現実に起こっていること。(ではないのだろうか?)そう考え出すとまたきりがない。
<<<1999年10月24日Sun.>>>
NHK教育テレビ『写真と生きた20世紀』と言う番組で、カルティエ・ブレッソンが、「今世紀とはどんな世紀だったのか?」
と言う質問に対して、「キリストの誕生日に、どれだけの意味があるんだい。」と答えていた。まさにそのとうりだ。
天皇制に異議を唱え、年号を使用しないように努めている人は、僕を含めたくさん(?)いると思う。が、西暦に関しては
安易に使用してしまう。ほんと、世紀末だなんて騒いでしまうが、今一度、このカルティエ・ブレッソンのことばを、
噛みしめようと思う。
いま、廣松 渉の『マルクスの根本意想は何であったか』(情況出版)を読んでいる。
この中で脳と意識についてふれている部分があるので、近いうちに紹介できたらと思っている。
<<<1999年12月5日Sun.>>>
1999.12.5日付けの朝日新聞、朝刊。好きな言葉が並ぶ。
1面。豊かさ探し 市場変える手 競争より個人の価値観
市場の「見えざる手」でもない、政府の「見える手」でもない、技術者たちの夢が、市場原理を突き破って、情報革新の歯車を動かす。
市場原理に任せるのではなく、個人の価値観を反映する仕組みを作ることで、社会を変えている。
収益や効率だけではない「豊かさ」が、市場を自分たちの手に取り戻すことで実現しつつある。
4面。人、人、それから
わかりやすい時代もあった。農民の政党があったり、経営者の政党や労働者の政党があったりしたりした。
5面。安い輸入衣料作る人々思う
それにしても、せっせと働き続ける人たちの手に入る額は、どのくらいなのか。
9面。ゴミリサイクルは万全か
「拡大生産者責任の下では、例えば廃ペットボトルが処理しきれなくなったら、企業にそれ以上作らせないのが基本。同時に、デポジット制を受け入れたり、ゴミとして捨てる際の費用を負担したり、消費者にも責任が伴うことを忘れては行けません。」
12面。『生きてゆくためのサイエンス』の書評の中で
宇宙は自分を認識する知的生命を生み出すために存在する。
「認識されない宇宙は存在しない」
25面。資本主義に定型はない
資本主義の姿に、みんながまねるべき手本などない。多様な価値を満たす、多様な形の資本主義が、あればいい。それでこそ、市場やグローバル化だけでは実現できない豊かさをつくりだせる。
以上、簡単な抜粋ではあるが、久しぶりにワクワクとさせられた記事で埋まっている新聞だった。
今までのレッテル張りの価値観では、どうにもならない社会が始まろうとしている萌芽が、見て取れるのではないだろうか。
インターネットの普及により、顔も見たことのない人々が、同じ価値観で結びつき社会を変えていく。
また、企業の側も、効率だけではなく、労働のゆとりを重視してくるところも現れてくる。
環境問題は、企業も各個人も意識を変えざるを得ない。
資本主義と言っても、ドイツと日本ではだいぶ様子も違う。社会主義といっても、ベトナムなどどこが社会主義なのかさっぱり解らない。確かに共産党が政権を握ってはいるが。ヨーロッパ諸国で社民が政権を握れば社会主義などという単純な物でもない。
レッテルはどうでもいいのだ。
権力を握っている者たちの思惑を、個の力が越えていく。とでも言えばいいのだろうか。そこでは、その個たちが権力を取ろうとしなければ、その必要性もない。
宇宙や人の遺伝子・脳の仕組みがどんどん解明され、P3の様な2足歩行のロボットが出現し、アイボのような身近なロボットまでもうそこにある。
人々の価値観は、急激に変化していくことだろう。大事な物は見失わないように、心がけようと思う。
<<<2000年1月4日火曜日>>>
宿題となっていた、廣松 渉の『マルクスの根本意想は何であったか』(情況出版)の脳と意識についてふれている部分の引用である。
【 さて、それでは、マルクス・エンゲルスは「意識」をどのように規定するのか?------正面からお答えする前に、ここでちょっと枕を挿んでおきますと、皆さんのなかにも、彼らは唯物論者であるから、意識というものを脳髄の機能ということで規定するはずだ、と思い込んでおられる方もあろうかと思います。古代の原始論的唯物論のような、微細なアトムという議論は論外として、18世紀のフランス唯物論者や、19世紀の生物学的唯物論者たちの例に照らし合わせても、また自然科学の”成果から”言っても、意識とか精神とか呼ばれるものを脳髄の生理・物理的な機能に還元するのが、いかにも唯物論的に見えます。現に、自称マルクス主義者たちの間にも、そういう意見の持ち主もあります。しかしながら、マルクス・エンゲルスは、こういう議論とはおよそ地平を異にした場面で「意識」というものを規定するのであります。勿論、それは原理的な規定場面でのことであって、ある種の文脈と次元においては、、彼らも脳髄の所産であることを否むわけではありませんが、彼らはいわゆる機械論的唯物論者や、いわゆる俗流的唯物論者の流儀での「意識」論を厳しく斥けます。後期のエンゲルスは、『自然弁証法』のなか
で、「人々は将来、人間の意識を、成程”脳の分子運動”に還元するかも知れない。だが、それによって意識の本質が尽くされるであろうか。尽くせはしまい。」と書いております。意識と呼ばれているところのものを、脳の機能ということで片付けようとする議論は、身体ないしは脳髄を実体主義的に了解する発想の地平にとどまっておりますし、あえて言えば、それはかつて身体に宿る実体としての霊魂が想定していた祈りの構図を脱しきっておりません。また、そういう唯物論者流の一元論、いわゆる科学主義的唯物論流の一元論では、なるほど二元主義の”超克”の一形態であるにしても、それはデカルト流の物心二元化の構図を前提しつつ、一方の元を他方の元に還元してみせただけであり、真の意味での二元性の超克とは申せません。先に紹介しておきましたように、ヘーゲル学派以来の二元性の超克という思考を承けて、マルクス・エンゲルスは、唯心論と唯物論、観念論と実在論の相補的対立の追求をしていたのであり、科学主義的唯物論で自足したとすれば、それはかつて志向した統一の一極を選取したことになります。がしかし、彼らは決してそういう仕方で一極を選取してのではなく、従来の形での唯心論と唯物論
との相補的対立の地平そのものを超克したのであります。彼らがフォイエルバッハ流の唯物論では満足できなかった所似もそこにあります。
本題にもどってマルクス・エンゲルスの意識論を直裁にみるべき段取りでありますが、彼らは「意識」なるものを、かの「人間と自然との統一態」に即して規定します。この統一態というのは、無論、<精神的人間>対<物質的自然>という対峙関係ではなく、まさしく<間主体的-対環境的>=生態学的な関係態でありまして、対象的活動でありかつ協働的聯関である生産の編制基盤でもある関係態でもあります。
「私の環境に関わる私の関係が私の意識である」。「動物にとっては、他のものと関わる彼の関係は関係としては実在しない」。つまり、「動物は対自的には関係しない」。しかるに人間の場合、「或る関係が実在するところ、その関係は対私的に実在する」。-----『ドイツ・イデオロギー』では、このように明言されます。邦訳したのでは、肝心のところが伝わりにくいのですが、「対誰々的に実在する」という言い廻しは、日本人ならば、「誰々に意識されている」「誰々が意識している」と表現する事態を表すものであります。
-----ところで、しかし、意識というものは、決して単に、環境に関わる関係ではありません。『ドイツ・イデオロギー』の援用を続けて申せば、「意識の現実態」は「言語」なのであって、「言語は、実践的な、他の人間に対しても実存するが故にまた私自身に対しても始めて実存する現実的な意識」なのである。「かくして、意識というものは、そもそもはじめからすでに、一つの社会的な生産物である。」伝々。
意識ないし精神とは、こうして、身体に宿る実体でも、単なる脳髄的機能でもなく、存在論的な根底的規定の場でいえば、それはまさに、<間主体的-対環境的>=生態学的な関係態の対自化されたものであり、この意味において、「意識とは意識された存在以外のなにものでもない。そして、人間の存在とは彼らの現実的な生活過程の謂いなのである」。-----マルクス・エンゲルスはこのように主張いたします。】
<<<2000年1月29日土曜日>>>
『今こそマルクスを読み返す』(講談社現代文庫)廣松渉 にて、南北格差を解決していく上での考え方が、書かれているところがあるので紹介する。
【資本は、次々に新製品・新サービィスを開始します。どこからが奢侈でどこまでが必需かの線引きはなるほど微妙です。この線は、社会文化的・習慣的な"標準"で決まります。が、この"標準"線そのものが、資本主義社会においては、資本制的商品生産の在り方、供給の在り方によって、基本的に決っせられ、移行します。-----生産は欲望そのものをも拡大再生産する、と言われますが、資本制生産の下においては、資本の妄動が欲望を拡大再生産していく次第です。-----
一般に、新奇な新製品は、必需品ではなく"奢侈品"と見做せます。しかし、その製品の購入・使用が"標準的生活"に繰り込まれるようになると、それは"必需品"ということになります。資本主義は、多種多様な新製品を"奢侈品"から"必需品"に移行させました。それが、いわゆる"生活文化の向上""文化水準の上昇"と呼ばれる事態でもありました。
(略)
現在、アメリカは、人口は世界総人口の20分の1にすぎないのに、世界総生産物価値の4分の1を消費しております。日本の消費水準もそれに準じます。一方には何億という飢餓の民が存在するというのに!やれグルメ志向だ、やれ海外旅行ブームだといいます。こういう"消費"で資本主義経済の繁栄が支えられている次第です。この消費生活は、しかし、自家用車やゴルフ場などと同様、全世界人類の見地からすれば、やはり「浪費」と 見做さるべきではないでしょうか。全人類が平等な消費水準を実現することが可能なら、一時的な格差だということで大目に見て貰う余地がありうるかもしれません。しかし、資源その他の制約上、平等化しようとすれば現行水準を下げざるをえないとすれば、つまり現行水準は可能的平等より高すぎるとすれば、その高すぎる分は奢侈・贅沢であり、浪費的である、と認めてしかるべきです。
(略)
資本の論理に委ねていたのでは、環境・資源・人口の問題を解決しつつ現在の先進国並みの生活水準を世界人類が平等に確立すること、これは、絶対に不可能です。】
この中で私の欲しかった言葉とは、[可能的平等]だ。この可能的平等を南北格差解消のための柱として、いろいろと考えていきたいと思っている。有限な資源と南北格差解消を考えるときの水準との関係、そのように考えるならば、ある程度の生活水準の"標準"が導き出せると思う。
『協議型社会主義の模索』村岡到(社会評論社)を読み終えた。
まず、この『協議型社会主義の模索』の「協議型」はどこからきているのだろうか。このことからはじめてみよう。
【「共同的生産手段で労働し自分たちの多くの個人的労働力を自覚的に一つの社会的労働力として支出する自由な人々の連合体を考えてみよう。・・・・・労働時間の社会的計画的配分は、・・・・・」(『資本論』第1巻第3章)】とドイツ語版を引用し、さらに、【「最後に、共同の生産手段を用いて労働し協議した計画にしたがって自分たちの多くの個人的な労働をまったく同一の社会的な労働力として支出するような、自由な人々の集まりを描くことにしよう。・・・・・社会内での労働時間の配分・・・・・」】と1872年に出版されたフランス語版を引用している。【マルクスはドイツ語版の「自覚的に」を<協議した計画にしたがって>と書き換え、「労働時間の社会的計画的配分」から「社会的計画的」を削除した。(略)<協議>と枠付けされることによって何が違うことになるのか。(略)<協議>と言うからには、必ず複数の主体が前提されることになる。】フランス語版が軽視され、【「計画」は何も形容のない---ということは好みの傾向、たとえば「指令」で歪曲可能な「計画」】になってしまったとしている。つまり、フランス語版のほうを尊重していれば、一方的な計画経済という解釈も行われなかったであろう
、ということだ。よって、本来マルクスが、説いた<協議型>が本来の社会主義の姿と言うわけである。ちなみに、自宅にある(『資本論』大月書店)ではどうなっているかというと、「自分で意識して」となっている。
このように、この本の全体が、重箱の隅を突っつくような論法で貫かれている。なにか本末転倒と言うか、マルクスの言っていることを証明するために、革命と言うものが必要と論じているようにさえ思ってしまう。
ソ連邦の「失敗」を考慮に入れながら、これからの社会主義を論じていこうとするならば、特にマルクスの言葉を借りなくても、いろいろな場面での権力の分散化と、分散化された中でのさまざまの自治の中での問題の解決・計画立案・実施、更に自治同士で協力・協調をしていくということは、当然のことと思う。
しかしながら、なかには<生活カード制>なる構想が提起されていて、生産だけではなく分配の方にも注意点を置き、貨幣による社会のさまざまな矛盾を解決していこうと言う試みには、興味をひくところがある。「市場型社会主義」=生産力主義の社会主義批判にも共鳴する。だが、果たしてこれは、インフレ等の問題は大丈夫なのだろうか。加えて、本書の中ではソ連邦や東欧の事例には触れてはいるが、現在も現実に存在している「社会主義国」の経済問題、特に、なぜ生産力主義へとひた走ってしまうのか?などには触れていない。資本主義に包囲されている中で、「社会主義国」はどうすべきなのか?まず、この事こそ、具体的に<生活カード制>とからめて論じていくべきではないのだろうか。
さすがに、<生活カード>の弱点として@<生活カードの給付基準>ついての社会的合意形成の困難さ A人間は、生活が保証されていると怠け者になるのではないか B<生活カード>管理の安全面 C国際関係 が述べられている。
前掲の『今こそマルクスを読み返す』にも【貨幣廃止を拙速に要求する先行思想家たちは、貨幣経済の物象化された視界に幻惑されて、貨幣さえ廃止すれば商品経済体制を克服できるかのように安直に考えているむきがありました。】とある。
話としては、廣松の[可能的平等]あたりから、人類全体の今後の在り方を世界規模で考えていく方法のほうが、自分たちにとって本当に必要なものは、何なのかを見つけやすいのではないだろうか。新しい価値基準を作り出し、資本の論理に包囲されている「社会主義国」の方向性を本来あるべき方向へと導き、自らも浪費の制度からの脱却を図っていく。
まあ、これをきっかけに、社会主義における経済や貨幣制度、果てはe-cashの可能性などにも触手を伸ばして考えていけたらなあ、とは思っている。
とはいっても、すでに頭は爆発寸前。pit in が必要だ。旅の本でも読み更けよっと。
<<<2000年5月20日土曜日>>>
いつもならば読み飛ばしてしまう株式のページ。
5月19日朝日新聞・夕刊より。経済気象台『曲がり角に来た世界』より全文転載。
【 世界潮流を示す「キーワード」のうち、「グローバリゼーション」と「アングロサクソン流市場経済」
の2つの流れがそろそろ問題を露呈し始めたようだ。
昨年末にシアトルで開催された世界貿易機構(WTO)閣僚会議が非政府組織(NGO)の抗議行動もあって決裂、
先月中旬のワシントンでの国際通貨基金・世界銀行会議でも、NGOが「グローバリゼーション」のもたらす環境・
労働条件の悪化、貧困・人権問題で抗議行動をしたことは記憶に新しい。確かに、先進諸国では「情報技術(IT)
革命による新時代の到来」が連日もてはやされている一方で、アフリカでは、シエラレオネでの反政府勢力による
国連平和維持軍兵士の拘束や、ジンバブエでの反白人闘争の激化、飢餓・エイズ問題などその混迷は深まるばかりである。
これら光と影の事象の世界同時進行に人間の愚かさを感じるのは筆者のみではあるまい。
「グローバリゼーション」や「市場経済」の進展は本来、人類に幸せをもたらすものであるが、現時点では、
どうも急速に世界を二極対立の方向に向かわせているように思えてならない。。いわく市場と国家の対立、
富める国と貧しい国との対立、経済成長のもたらす豊かさと環境・固有文化破壊の対立、民族・エスニシティー
主義の主張と普遍的人権主張の対立、米国覇権主義と各国の利害の対立等々。世界経済が上昇している時はこれらの矛盾・
分裂現象も覆い隠されているが、世界同時不況などいったん事が生じると問題は一挙に表面化しよう。
その意味でも、バブル気味な米国経済の軟着陸は当面の最重要課題である。
人間の欲望を是認する限り、「自由」と「平等」は本質的に矛盾する概念で、その両立には欲望をコントロールしうる
倫理観の確立が大前提である。しかし、自由と豊かさの増大が人の倫理観を希薄化するのも人間世界の現実である。
世界新秩序は幻想か。】
時を同じくして、同じ問題の上に立ち、私たちの今後の在り方に具体的な方向性を示している文章がある。
その序文。
【Matrix Vol.022
「もうひとつの経済システム」の試み
──地域貨幣とNPOバイアウト
Text: HotWired Japan編集部
ITによって情報化・高効率化・加速化されたグローバルな金融・経済は、自由主義市場という「神」の権威をますます揺るぎないものとし、国家を超えて世にあまねく君臨しようとしているかのように見える。
それは数々の恩恵をわれわれに与える一方で、貧富の差の拡大、経済危機・通貨危機の誘発、環境破壊などの深刻な被害をもたらす側面も持っている。しかし、いかに深刻な弊害があるとしても、われわれには他の選択肢はあり得ない。この枠組みの中で、ひたすら勝者を目指すしかサバイブする道はないと思われてきた。
ところが、この巨大な奔流に、これまでにはなかった傍流を引こうとする試み、あるいは資本主義の枠組みを拡張しようとする試みが、市民レベルから芽生えてきている。
LETS(Local Exchange Trading Scheme、地域貨幣)は、富が富を生む仕組み――すなわち金利――を廃した「お金」を一定地域内に導入することで、グローバリゼーションの波から最低限の市民生活を防衛しようとする。果てしない成長を前提とするがゆえに起こる破滅的な環境破壊を止めるには、金利のない(もしくは時間経過と共に価値が減ずる)
「お金」による新しい経済原理が必要だと考える人々も増えている。
NPOによるインターネット・サービスの買収というビジョンを提案するのは伊藤穣一だ。彼の論文『NPO Buyout』にインスパイアされた松山太河は、IPOからNPOへというキーワードを提示する。インターネット・サービスの真の所有者はそれを経営する私企業ではなく、ユーザにあるのではないかという観点から、コミュニティ・サイトなどでは、株価の最大化ではなく、ユーザ・ベネフィットの最大化を純粋に目指すコーポレイト・ガバナンスが求められると主張する。
お金、株式会社、資本主義。そんな、誰も変えられないと思い込んでいたものを変えようとする、小さいながらも刺激的な挑戦を紹介する。
】
として、
【 001. 西部忠インタビュー
――地域通貨「LETS」がもつ意味
002. 対談:伊藤穣一 × 松山太河
――NPOによるインターネットサービス
003. LETSを実践する
――『千葉Peanuts』の挑戦 】
と続いている。本編は、
http://www.hotwired.co.jp/ まで。是非、保存しておこう。
『協議型社会主義の模索』村岡到(社会評論社)を読書中に、「生活カード」に関連して、いくつか地域通貨についてのサイトを訪れたことがある。大変興味深い実験である。
<<<2000年6月15日木曜日>>>
6/11付、朝日新聞の「天声人語」から、その抜粋。
【 ---ブラジルの先住民保護区への支援活動にのめりこむこと10年。---「熱帯森林保護団体」代表の南研子さん(52)
は、毎年必ず数ヶ月ずつ現地に入る。---南さんが魅せられた先住民の暮らしは、日本人の想像を絶する。文字もなければ貨幣もない。
年齢を数えないから、いつまでも若々しい。泣く、笑う、怒るといった感情表現は豊かだが、幸せとか不幸とか寂しいといった、
ややこしい概念は存在しない。だからだろうか、いじめも犯罪も自殺もない。ある部族の言葉には、過去形も未来形もなく
現在形しかない。昨日を悔い、明日を憂うということがない。すべてが「いま」に集約され、密度の濃い時間が流れる。
ストレスをかかえ、空っぽの「いま」をやりすごすだけの日本人の日々と、どちらが良き人生なのか、と南さんは思う。
大人になるための通過儀礼は厳しい。少女は隔離された暗い部屋に約一年間こもる。誰とも口をきかず、自分と向き合う。
少年は呪術師の調合した毒を飲む。肉体の限界を試し、死と向き合う。カネと時間に振り回され、自分とも死とも対話しない日本人と比べ、
遅れているのはどちらか。---】
この文章を読んだとき、オウムを連想した。先住民のしていることを実際に日本で実行したならば、それは犯罪だ。
先住民の生活の中には、今まで脈々と受け継がれてきた宗教的観念が、息づいているのだろう。
「信ずるものは救われる」そんなことばがある。
ある価値観を信じてしまえば、それはそれで、 その人は幸せに違いない。
人々はそうやって生きてきた。だが、信じられるものがない。いまの多くの人には・・・。
と、抽象的アリ地獄へまっさかさま。
そこへ、より科学的な指摘として月刊ASCII 6月号のBOOK REVIEWより抜粋。
澤口俊之著 『わがままな脳』 への布施英利氏の書評だ。
【--- 最近の脳科学の進展には驚くべきものがあり、これまで哲学やその他の学問が取り組んできた学問にも
、脳科学は明確な解答を用意しつつある。
たとえば文学や哲学が長い間格闘してきた「私とは何か?」というテーマ。脳科学は、今やそれに答えることができる。脳の前の方、前頭連合野というところの「ワーキングメモリ」という働きが「私」の正体だというのだ。ということは、
ここを操作することで「私」を変えることも可能になる。
「人間の本性に関しては、はっきり言って哲学の出る幕ではなく、人間生物学(人間進化生態学)の独壇場になってきているし、心や意識などの問題に関しては、脳科学が哲学を過去の学問に追いやってしまった。」
--- 「思考」は分子のレベルで解くことができる。--- 脳細胞は、電気の流れとともに、いろいろな脳内物質
で働いている。感情も思考もそれらの分子で左右される。だから脳にある物質を与えることで、思考も感情も変わる。世界が変わる。
そもそも脳とは何か。著者の答えは的確かつシンプルである。脳とは「世界を作る臓器」だという。
まず、脳は世界を再構築する。そうやって、脳の中に世界の地図ができあがる。また脳は、世界に働きかける。そうやって都市や社会ができあがる。
世界を作るのが脳なのだから、脳のことがわかれば世界がわかる。
--- かつては哲学が「諸学の学」だった。しかしいまや、脳科学こそが諸学の学である。】
これからは、化学物質や電気信号などの直接的な刺激によって、脳をコントロールし私が世界が作られていく
のだろうか。副作用のない快感物質の投与により憎しみや暴力・殺戮などの行為は姿を消し、生産活動に義務感は消え、資本の呪縛から解放される。使い方によっては、まったく逆にもなるが、もしそうであるならば、それは人類の類的限界だったのだ。さっさと滅びてしまえば良いのである。
<<<2000年12月3日日曜日>>>
<<<2000年12月10日日曜日>>>
”ゆらぎ ”に関してsite巡りをしていたら、”ゆらぎ ”の発生する面(そう!面なのだ!!!)
からいくつもの宇宙の元になる胞子が生まれている図があった。
宇宙っていったいいくつあるの?
もう、頭がくらくらしてきたぞ。
<<<2001年4月14日土曜日>>>
『<心>は なぜ進化するのか?』 A.G.ケアンズ・スミス 青土社 を、ようやく半分ほど読み終える。生物の講義を受けているようで、相当こたえる。
脳の内部構造などの図解に関しては、『脳を究める』 立花 隆 朝日文庫 の方が断然わかりやすい。
並行して、『ここまでわかった宇宙の謎』 二間瀬敏史 講談社+α文庫を読了。「宇宙ひも」と「ヒッグス粒子」の話が興味深い。
<<<2001年5月18日金曜日>>>
最近の、脳の研究というものは、すさまじい勢いで進んでいるらしい。
前述の『脳を究める 脳研究最前線』によると、
1〜2年前NHKなどで見た、脳のCGをふんだんの取り入れた番組の情報が、既に相当古いらしい。
特に注目したいのが、ケミカルマシンとしての脳の研究である。従来のように、
「脳は、本質的に電気信号による情報処理マシン」であると考えられていたものから、
「そもそも、電気パルスが電気パルスが情報を運ぶというと、デジタル信号が飛び交うコンピュータのごときものが
脳だと思いこんでしまう人が多いが、そういうイメージは誤りである。神経細胞には、神経繊維という"電線"にあたるものは
あるが、重要なのは、電線同士をつなぐシナプスでどのように情報物質が放出され、受け止められるかということなのである。
電気パルスは、神経末端にあるシナプスに情報物資を放出せよと伝える伝令にすぎない。つまり、神経細胞は、
"刺激を受けて情報処理をして化学物質を放出する装置"と考えた方が、より真実に近いのである。」という側面に注目
するという方向に進んでいるようだ。もっとも、どちらを重要視するにしても、研究室はかなりの熱気につつまれている
そうである。
<<<2001年6月1日金曜日>>>
<<<2001年6月3日日曜日>>>
2001.05.27 朝日新聞 リチャード・ドーキンス『虹の解体』への新妻 昭夫氏の書評より。
【『 利己的遺伝子』の読者の多くが、その衝撃的な内容に目を奪われ、見落としていた一行がある。
大脳の発達のおかげで、「地上で唯一われわれ〔人間〕だけが、利己的な遺伝子達の専制支配に反撃できる。」
ことを、彼は慎重に強調していた。人間以外の動物は確かに「不思議」を危険と見なして回避し、
想像力を発揮することはない。(でなければ淘汰されてしまう)。人間だけが大脳の機能として
「不思議を驚く感性」を発達させ、そして感動をわかちあう装置として芸術や科学を構築してきた。
この感性が、悲しさを共有する同情心と表裏一体をなして、人間を人間たらしめている。】
以上が、書評からの抜粋であるが、このことが果たして「反撃」なのだろうか、と疑問に思う。
ただ単に、手のひらで踊らされているだけに過ぎないのではないか、とも思えるのだが・・・
<<<2001年7月1日日曜日>>>
『精神と物質』立花 隆・利根川 進 (文春文庫)を読了。
遺伝子操作で、いろいろな事が出来そうである。
たとえば、特定の条件でのみ、意味のある遺伝子があり、その意味そのものを作り出すように遺伝子操作した
遺伝子を人知れず拡散する。しかも、その遺伝子に、時限装置を仕掛けておく。
つまり、現状では、全く表面的には解らない、遺伝子レベルまで解析しないとわからない遺伝子を
どんどん組み込んでいく。すぐに現象が現れる訳ではないので、まったく知られないうちに瞬く間に感染し、
世代交替が進んでいく、何世代か後に、発言し急激に進化、あるいは後退、いろいろな現象が考えられる。
とか、思ってしまう。まあ、平凡な一個人が、思うことなので、かなりのひとが、
同じようなことを思っているにちがいない。
この本の中で、特に興味深いところは、" 第8章 「生命の神秘」は、どこまで解けるか"の最後の方。
後々、紹介していきたい。
<<<2003年2月22日土曜日>>>
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