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ノンフィクション


魔女狩り 森島恒夫
            ,82 岩波新書
                 
    と ハリー・ポッター

      

ハリー・ポッターの三巻目の初めの、宿題が面白い。問「14世紀における魔女の火あぶりの刑は無意味だったー意見を述べよ」答えの参考にしたのが「非魔法界の人々(通常マグルと呼ばれる)は中世において特に魔法を恐れていたが、本物を見分けることが得手ではなかった。ごく稀に本物の魔女や魔法使いを捕まえることはあっても、火刑は何の効果もなかった。魔女または魔法使いは初歩的な「炎凍結術」を施し、そのあと、柔らかくくすぐるような炎の感触を楽しみつつ、苦痛で叫んでいるふりをした。特に、「変わり者のウェンデリン」は焼かれるのが楽しくて、いろいろ姿を変え、自ら進んで四十七回も捕まった」

そこで、昔の本を思い出した。
お話の中では「魔女、魔法使い」は変幻自在で、火刑すら楽しむことが出来る。
ところが、現実に30万とも300万とも言われる人が、魔女として火刑になった事実がある。私はこの本で衝撃を受けた。
魔女裁判は人間救済という名目でカトリック教徒を駆り立てた、15〜17世紀。萌芽は13世紀から見られる。
信教と政治が誤って利用され、権力と結びついた結果がそれであった。
そして、人の心の底にある、嫉妬(ねたみ、うらみ、そねみ)中傷、陰口、を受け入れ、裁判を隠れ蓑に利用した。
途中の、自白させる為の拷問、刑罰の残虐さは読むに耐えないが、その原因となった、魔女裁判というものが、形を変えても現代に通じる不気味さを今でも持ち続けている。
戦時中には顕著に現れ、そして不況の深刻化した今、自分を助ける為の魔女裁判が密かに行われることは無いだろうか。
当時、中世の魔女狩りの嵐の中でも、不当な刑罰を弾劾した人も居たことが書かれている。安直で便利な文明のなかで、興味本位ではなく、生きることや命の重さをどんな形で考えているのか、改めて日常を見直す思いがした。

ハリーポッターで「マグル」という作者の作り出した普通の人々は、魔法によって自在に生きる人々を理解することは出来ない。でも又魔法が使えるということが当然幸せとは結びつかずに居ることが共感を呼ぶ所だろう。
壮大で不思議な魔法ワールドを作り出した、J.Kロー
リングのウイットとユーモアの中には、沢山の現実がちりばめられている。


時間と自己  木村 敏

        ,82 中公新書

            

沢山ある本の中でも、いつも側に置いて読み返したい本がある。そんな何冊かの中から、選んでみた。
「時間」というものは不思議な、なんだか分からないものだと思ってきた。科学的な僅かの知識では、宇宙の法則から割り出された単位で、太陽系や地球など全てに関わる時の単位として生活の中で用いているものだと思っていたがそれだけだろうか。それを感じない時も「時間」は存在するのだろうか。日常の時間というのは静止した「今何時」というそれではなく、継続して流れているものなのではないだろうか。
生きているということは否応なしに、先へ先へと流されていき、絶対に逆戻りは出来ない厳しい法則があり、いくらこれが夢であったならと思っても、過去は過去であり、全ての人は時間の中で老いて行く。
「夢であったら」と思うときは不幸であり「夢でよかった」と思えるときは幸せなんだろうか、そんな思いにヒントを与えてくれた、一冊である。

目次
 第1部 こととしての時間
   1 物への問いからことへの問いへ
   2.あいだとしての時間
 第2部 時間と精神病理
   1 分裂病者の時間
   2 鬱病者の時間
   3 祝祭の精神病理
 題3部 時間と自己ーー結びにかえて
        あとがき

このような目次の中に「時間」と「自己の存在」について、人が時間について、意識的に又は無意識に持っている漠然とした思い、時間とは一体何なのかを、分かりやすく説いている。
日常がちょっと変わって見える本。

あとがき より(少し長く引用)

私はつねづね、人間に関するいかなる思索も、死を真正面から見つめたものでなければ、生きた現実を捉えた思索にはなりえないのではないかと思っている。もちろん、この死というのは個人個人の有限な生と相対的に考えられた、個別的生の終焉としての死のことではない。生の源泉としての死、生が一定に軌跡をえがいたのちに再びそこへ戻っていく故郷としての死、わたしたちの生にこれほどまでの輝かしさと、同時にまたこれほどまでの陰鬱さを与えている包括者としての死のことである。わたしたちの生は、その一刻一刻がすべて、この大いなる死との絶え間ない関わりとして生きられているのであろう。
 私たちは自分自身の人生を自分の手で生きていると思っている。しかし実のところは、私たちが自分の人生と思っているものは、だれかによって見られている夢ではないだろうか。夢を見ている人がときどきわれに返るように、私たちも人生の真只中で、ときとしてふとこの「だれか」に返ることが出来るのではないか。こんな実感を抱いたことのある人は、おそらく私だけではないだろう。
 夜、異郷、祭、狂気、そう言った非日常の時々に、私たちはこの「だれか」をいつも以上に身近に感じ取っているはずである。夜半に訪れる今日と昨日の間、昨日と今日の間、大晦日の夜の今年と来年のあいだ、そいういった「時と時との間」のすきまを、じっと視線をこらして覗き込んでみるといい。そこに見えてくる一つの顔があるだろう。その顔の持ち主が夢を見始めたときに、私はこの世に生まれてきたのだろう。そして、その「だれか」が夢から醒めるとき、私の人生はどこかへ消え失せているのであろう。この夢の主は、死という名をもっているのではないのか。
 私たちが科学的心理とみなしているものも、合理的思考と呼んでいるものも、こう思えばすべて夢の中の妄想にすぎないことになる。私たちが時間とか自己とかの名で語っているものも、夢の中以外にはどこを探しても存在しないまぼろしではないのだろうか。
 しかし、たとえはかない夢であってもまぼろしであっても、私たちはいったんこの「だれか」の夢に登場してしまった以上は、この夢の中で生きつづけなくてはならないのだろう。そのためには夢の中の論理をも求めなくてはならないだろう。ただ、私たちが普段たしかな現実だと思い込んでいるこの人生を一つの夢として夢見ているような、もうひとつ高次元の現実が私たちのすぐ傍らに存在しているらしいという事だけは、真理にたいして謙虚であるためにも、ぜひとも知っておかなくてはならないように思う。

今日、地球上で稀に見る凶悪なテロ事件がアメリカで起こった。これが夢であって欲しいと願う人がどんなに沢山いることだろう。テロを企てた人たちも、被害にあった人も同じ今を生きていることを悲劇だと思う。