9月5日 女は存在しない
金曜日の午前には1300円で映画が見られる、というはなはだ恩着せがましい
政策に敢えて抗うことせず、日比谷スカラでブライアン・デ・パルマ『ファム・ファタール』。
似たようなタイトルをもつ作品の氾濫には辟易するが、オープニングのブロンドの女
(レベッカ・ローミン=ステイモス)が、ホテルのベッドに横たわり、引用された
映画『深夜の告白』を見ているシーンなど秀逸ではある。全体としてもスーパーモデル
から女優に転向したレベッカの魅力に依存するところが大きいのはやむをえないが、
「女は男の症候である」というラカンの命題、スラヴォイ・ジジェクのフィルム・ノワール論
からすれば、このタイトルははなはだ不適切である。主人公の彼女には、「男の症候」
としての要素が皆無であるばかりでなく、自立した主体(S)として「行為」しているからで、
時代の趨勢を誠実に反映しているといえばそれまでだが、私としては作品としての
コンセプトそのものが評価できない。坂本龍一が音楽を担当しているのだが、なぜ「ボレロ」
なのか、パリを舞台としているほか理由が見当たらない。
9月14日 内
山理名vs広末涼子
ほかでもなく『元カレ』(TBS系)のことである。それにしても、
内山の演技は入れ込みすぎではなかろうか。これは役柄の話ではもちろんなく、
女優としての演技のことである。最終回としては、きわめて順当に主人公(堂本剛)
は広末涼子を選んだわけであり、広末に思いを残しつつ捨てるという
東京ラブストーリー方式のほうがが洒脱なのだが、
諸般の事情でそれは不可能であるのはいうまでもない。ここで思い至るのは、
内山の必死の形相での演技は、涼しい顔の広末に遠く及ばないという厳然たる事実であり、
前者の鬱淘しさの前では、後者はそれこそ清涼剤にも似た涼しさを感じさせ、
いまさらながら、間違っても女優としてではなく、名状しがたい広末涼子の偉大さ
にほかならない。
9月17日 マリア・カラス
新宿伊勢丹で買い物、明治通り向かいのスカラで、『永遠のマリアカラス』。
ファニー・アルダンが存外に美しいく、トリュフォーの『日曜日が待ち遠しい』の全編に
流れていた彼女がまとう軽やかさというか、爽やかさとでもいうほかない雰囲気が喪われてはおらず、彼女によってこの映画にもその主題には似つかわしくない
「軽やかさ」が流れている。
『8人の女』のこの上なく下品な演出とは対照的な、カラス本人と親交が深かった監督の
手腕を素直にたたえたい。
9月20日 岸信介
岸信介の孫、安倍晋三が自民党幹事長に指名。彼の祖父
は、初代自民党幹事長である。
初代総裁は、鳩山一郎である。彼の父安倍晋太郎も幹事長だった。山拓との落差はあまりにも大きいので、イメージ戦略とし
ては効果絶大である。しかし、同じく40代で、その座についた田中角栄、小沢一郎(ともに47歳)
と比較すると、その軽量ぶりは歴然であり、ジェラシーの的となるのは間違いない。
9月22日 内
閣改造
信賞必罰という至極当たり前のこ
とさえできない小泉の馬鹿さ加減にあきれる。石原慎太郎の馬鹿息子や川口外相は、あれ
だけ
パフォーマンスが乏しく、 国民の人気も低いかかわらず留任とは・・・。「人事の天才」と褒めちぎる
慎太郎の親馬鹿ぶり、正視に耐えず。そのうえ、みずほ銀行勤務の三男が、
次期総選挙、東京3区から立候補の由。また石原軍団総出で選挙応援するつもりだろうか。
小泉政権のポピュリスムここに窮まれり。
9月25日 ルートヴィヒ
午後3時起床。体調悪く、外出せず、スーパー
にて買い物するのみ。
ヴィスコンティ『ルートヴィッヒ』
をみる。
ルートヴィヒ(ヘルムート・バーガー)は、バイエルン王で、
あのノイシュバイシュタイン城(ディズニーランドのお城のモデル)
を造るなど浪費家で、湖でなぞの溺死を遂げた。
いつものことながら王が唯一愛した叔母役のシルバーノ・マンガーノはいい。
神聖ローマ帝国が30年戦争によって、名実ともに崩壊し、領邦国家となったドイツが
宰相ビスマルクを擁するプロイセンによって再統一され、ドイツ帝国が成立する。
その過程で、旧教国であるバイエルンのたどっ
た運命が背景である。
イタリアの国民国家形成を背景としているのは、同じくヴィスコンティの『山猫』である。
9月26日 ルーシー・リュー
夕方、池袋は新文芸座にて、『シカゴ』、『チャーリーズエン
ジェル・フルスロットル』
二本立て。両者ともに出演しているのが、ルーシー・リュ―である。CEでは、
いわずと知れたアレックスとして、シカゴでは、ロキシー(レニー・ゼルウィガー)の
審理がおこなわれる裁判所の前で、夫とその弁護士を射殺し、プレスの注目を
ロキシーから一転奪ってしまう、ハワイのパイナップル成金を親にもつ妻としてである。
いつも思うことだが、深夜タレント姜尚中は彼女に似ている。それはど
うでもいいことで、
エンドロールの直前、レニーとキャサリンの歌う「I MOVE ON」で、不覚にも涙ぐんでしまう。
9月27日 堤清二そして/あるいは辻井喬
エリック・ロメール『冬の物語』。
深夜、ザ・ホワイトハウス。首席補佐官レオ・マクギャリーを気に入っているのだが、
現実のホワイトハウスに彼のようなディーセントなスタッフがいるのかはなはだ心もとない。
セゾングループのかつての総帥、堤清二が教育テレビでインタビューを受けていた。
NHKアナウンサーの手厳しい質問にきわめて穏やかに答えていたが、80年代の消費社会を
デザインしたといってよい彼の言葉は貴重である。かつての彼と現在の文学者としての
辻井喬には一貫して関心をもっている。
9月28日 モーリン・オハラ
ジョン・フォード『我が谷は緑なりき』。リストレーションされたDVDの画面に映るモーリン・
オハラは信じがたいほど美しい。
明石屋さんま主演「さとうきび畑の歌」。演出は滅茶苦茶で、真剣に論じる気には
なれず、さんま自身が『ライフ イズ ビューティフル』のロベルト・ベニーニに比肩できる
といえば間違いなく大袈裟であることはわきまえている。しかし、あれだけのキャスティング、
それなりのバジェットだけに惜しまれるというほかない。アメリカ軍が沖縄を解放したといわんばかりの演出には閉口するが、「国体護持」という純粋に観念的
なことばのために、多数の人々が死ななければならなかったとすれば、天皇という観念および実体は有害である。
9月29日 暗殺者の森
午前中から新宿郵便局、TUTAYAで所用をすませ、ハンズで細々と買い物。
宮崎県のアンテナショップで、鯵の開き、ソーセージ、スモーク・レバーなど買う。
帰って、国会中継を見ながら午睡。
BS2でベルトルッチ『暗殺の森』を見ようとするが、夕餉のときにのんだ久方ぶりの
安価な発泡酒のせいか、睡魔におそわれ、DVDに録画していたのを幸い、再び寝てしまう。
9月30日 小倉智昭、この喜劇的なる者
おのれの頭上に漂う疑惑の影、自らの頭部を覆う曖昧さには徹底して無頓着でありながら、世界という散文、あらゆる事象にたいして明晰な判断を、毎朝、正確
にはウィークデーだが、下してみせる。自分が判断できないことの前には沈黙しなければならない、という至極当たり前の倫理か喪われてしまった。キャス
ター、アナウンサーなどと名乗る者たちのあいだにこの症候が蔓延しているように思われる。自らの「知」の確かさが、あたかも絶対知に到達しつつあるかのよ
うな厚顔無恥さ加減にはつくずく辟易させられる。久米宏と比べても、小倉のパロールのあつかましさは筆舌に尽くしがたく、むしろ小倉にこそ引退してもらい
たい。
『暗殺の森』は本当にすばらしい。秘密警察のエージェントである主人公が、暗殺の任務を帯びてパリに「ハニームーン」に出かける途中列車のシーンなど必見
である。BS2でベルナルド・ベルトルッチ『ある愚か者の悲劇』。