ことりの徒然草
日記とまではいきませんが
私が考えていることなどをつらつらと書いてみようかと。
あまりプライバシーが侵されない程度に。
恋するキモチ4
〜エポニーヌ幻想〜
私は自分の「好きだ!」という気持ちを、臆面もなく相手にぶつけるタイプだと思う。
誰にでも。
「言葉で言わなくたって、わかるでしょ」
これが私の原理。
でも今回、私や私が思う人の周りでは、
色々なことがありすぎて、
振り返るほどの時間的余裕も体力的余裕も、精神的な余裕さえないのだけれど、
でも、振り返ってみて、
私の気持ちは、一ミリだって伝わっていないのでは。
と思った。
当たり前のことなのか、プラスに取るべきことなのか、
はたまた自分が素直じゃないからか、相手が鈍いからか、
とにかく何にもわからないけれど、きっと、
私の気持ちは伝わっていない。
さあ、どうする?
私はふと、エポニーヌを思う。
「レ・ミゼラブル」の隠れたヒロイン、エポニーヌ。
愛するマリウスを思い、愛しすぎているから、彼の恋を手助けしてしまう。
彼の「思い姫」へ、手紙を届ける役目をかって出る。
そして、役目を果たしたあと、革命の動乱に巻き込まれ、
流れ弾に当たって、死ぬ。
マリウスの腕の中で。
愛する人に抱かれて死ぬエポニーヌは、ちょっと幸せで、すごく悲しい。
そうでしょう?
マリウスは気がついていないのだから、彼女の思いに。
大丈夫、ムッシュ・マリウス。
痛くないわ
恵みの雨が
つらくないわ
そう、これでいいの。
安らかだわ いつも雨は
花を育てるわ
これでいいのか、エポニーヌ?!
そう思う。
でも同時に、ちょっとあこがれる。
好きな人のために、命をささげられる彼女に。
恋するキモチ3
〜私はイエスがわからない〜
今回の題名も、「ジーザス・クライスト=スーパースター」より頂きました。
マグダラのマリアは、結局最後には、ジーザスを救えない。
ジーザスにはしかるべき「運命」が待っているわけです。
私はあの人を、救えるのか。
いいえ、救えない。
少なくとも救えなかった。
私は誰かを、救えるのか。
はい、努力しだいで。
今まで本当に、誰かの「救い」になれたかどうかはわからないけれど、
誰かの「支え」になってきた部分は、ほんの少しはあるはず。
私は「誰か」の味方でありたいと思っているし、
がんばっている人は応援しているつもりだし、
だから、相談とか話とか、聞くことが大好きだし。
私が「そうしてほしいこと」を、私自身、みんなに実践しようと思っています。
それが、「他人」に対して「他人」ができる唯一の「救い」だと思っているから。
でも私は、あの人を救えなかった。
ヒトとして、友達としてすら、救えなかった。
あのヒトはやっぱり、私のジーザスだ。
私を救える、救世主だ。
大げさだけど、でもほんと。
とりあえず、安眠をください、ジーザス。
私はこれ以上、心を痛めることができません。
私はあなたを、救いたい。
私はあなたが、わからない。
恋よりも命よりも、お互いが健やかに生きる、ただそれだけのために。
私たちは助け合うことが、できないのですか。
恋するキモチ2〜迷い〜
私には仕事があり、愛すべき家族がいて友達がいて、その上趣味もあります。
私には、大切にしなくてはいけないものが、いっぱいあるのです。
だけどなんでだろう、私はソノ人を、思わずにはいられないのです。
大好きなミュージカル、「ジーザス・クライスト=スーパースター」から、一節を引用します。
「いつか思うように生きられる からだも心も」
マグダラのマリアが、ジーザスをこう、なぐさめます。
救世主とあがめられるジーザスが、唯一人間として心を開いているのが、マリアなのです。
私は、その人の、マグダラのマリアになりたい。
今だって、つたないけれど私のできる限り、
私はマグダラのマリアでいられるように努力しています。
どうして、わかってくれないんだろう。
どうして、自分ばかりが大変だって思うんだろう。
どうして、私の苦しみを理解しようとしないんだろう。
私だって悩みはあるし、苦しい。
そういうのって他人がどうこうできる問題じゃないけれど、
言ってほしいんです。
「大変だね」って。
それだけで、私はどれくらい、楽になるでしょう。
私はあなたの愚痴なら、喜んで聞きましょう。
私はあなたが注意することなら、喜んで直しましょう。
そう思っています、本当に。
でも、でも。
私はスーパーマンではありません。
機嫌の悪い時だってあるし、できないことだっていっぱいある。
誰かに寄りかかりたい時だってあるし、泣きたい時だってある。
私が大切にしなきゃいけないものをすべて取り上げて、
その上私を苦しめる。
あなたにそれだけの価値が、あるのですか。
教えてよ、ジーザス。
あなたは私のジーザスに、なれるのですか?
男の理想と女の幻想
〜村上春樹を読み解く〜
少し、愛だ恋だとわめき散らすのを控えて・・・、
今はまっている村上春樹氏の魅力について語りたいと思います。
私は二週間の間に4冊の春樹氏の文庫本を読みました。
「スプートニクの恋人」「国境の南、太陽の西」「ノルウェイの森 上下」です。
今は「ねじまき鳥クロニクル」の上巻を読んでいます。
さて、春樹氏の魅力を一言で表わそうとするならば、
「男の理想と女の幻想」。これに尽きると思います。
インテリで、顔はさほどよくないものの、経済的には少なくとも恵まれている主人公。
(贅沢している場合もあるし、そうでない場合もあるのだけれど、
現実ではお金のためにあくせくしている人間ばかりなのに対し、
春樹ワールドにはそういう人はほとんど出てこない)
なんとなく、力のある人間に気に入られ、損をしないで生きている男。
口をあけて待っていれば、なぜかいい女がやってきて肉体関係をもてる男。
そんな男、ありえないと思いませんか?
でも、春樹氏の世界では、そういう男が少なくともいて、そいつの周りで起こることを物語にしているのです。
そして、男にとって理想的過ぎるその「主人公」はまた、女の幻想であるといっても過言ではありません。
その受動的な男はまた、女をよく理解しているのです。
女の体のこと、「女は子宮でものを考える」(ヒステリーという言葉の元の意味は子宮ですね)ということ、
女は男よりも、たいていの場合想像力がないこと、などなど。
そういうことをすべて受け入れ、愛してくれる。
そんな男、いたら、取り合いです。
その男が元で戦争だって起こりかねないくらい、世界に貴重な、いや、女にとっては貴重な男なのです。
私たち読者は、そんな「男の理想と女の幻想」像である主人公に、時には共感し時にはいらだちながら、
あこがれるのです。
春樹ワールドは、憧れの世界なのです。
恋するキモチ1
文字って恐ろしいですね。
こういうエッセイを書くまでは、そんなに「好きだあ!!」なんて意識したことがなかったのですが、
いざ形にしてみると、気持ちがどんどん大きくなっていきます。
今までは、その人のいいところも悪いところも正当に、事実をありのままに見ることができたのですが、
今は、その人が何をやっても素晴らしいような気がするのです。
「あなたは素晴らしい!」
って、毎日言いたい。
「あなたの素晴らしさを私はわかっているわ!」
って、声を張り上げていいたい。
私が本当に昔、人を好きになったときは、ただただその人の素晴らしさに圧倒させられ、尊敬していました。
私より劣っていることなんてひとつもなくて、何を言われても鵜呑みにしてしまうような、そんな関係でした。
それはそれでよかったし、いまだに、あれほど優れている人が、少なくとも私の価値観において優れている人が、
私の視界に入ってくることはないかもしれないと思っています。
でも、今回はそういうのとは少し違う。
少なくとも、私より読書してない人だろうし、
私よりお金に関して疎いだろうし、
私より漢字を知らないだろうし、
私より苦労していない人だと思う。
それでも、いとおしいと思う。
尊い人だと思う。
賢い人だと思う。
やさしい人だと思う。
それでいいと、おもいませんか?
恋とはどんなものかしら<最終章>
恋をしたかもしれません。
でも、自信がないんです。
今、村上春樹にはまっているし、
恋をしたくてたまらないし、
そういう気持ちは、
私を幾分おかしくしています。
人間の本質を、見抜けなくなっているかもしれません。
でも、恋なんてそんなものなのかもしれない。
冷静に「あの人はここが素敵だから、好きなんだ」とか、
論理的思考で計ることが出来ないような、
そんな曖昧模糊で、でも、
雷みたいに強烈な、
そんなものなのかもしれない。
誰でもいいわけじゃなくて、この世の中の半分いる男性の中で、
私が見つけたその人のために、
いや、その人を思って、
きれいになりたいと祈る。
素敵になりたいと願う。
優しくありたいと思う。
そしてなによりも、
その人が幸せで、健康で、気持ちよく生きる手助けがしたい。
そこに私が必要なのか、私が介在する余地はあるのかわからないけれど。
でも、もしも、万が一、この文章を読んでくれるなら
(たぶんありえないことだけど)
私はこの場を借りてあなたに伝えたい。
というか、面と向かって伝えられるかわからないから。
私が幸せだと感じるのは、
あなたが抱える重い荷物を、分かち合える時だと思う。
恋とはどんなものかしら
恋とはたぶん、
苦しみを、悲しみを、もちろん、喜びを、うれしさを、
共に感じたいという欲望だと思う。
とりあえず今は、
そう思っています。
恋とはどんなものかしら4
今回は「恋」とは切っても切れない関係である「嫉妬」についてフューチャーしてみたいと思います。
私、嫉妬しました。
ついこの間。
あれをきっと嫉妬というのだと思うし、
あそこにいた誰もが、私は嫉妬をしたと、思ったはずです。
男Aがいました。女Bがいました。
私もいました。
彼らは、愚にもつかない話で大いに盛り上がり、
私はといえば、何となく、話の輪に入れずにいました。
正確に言えば、入りたくなんて、無かったのですが。
むかむかしたんです。
いらいらしたんです。
私がAのことを好きなのかもしれない、と、思った瞬間でした。
私はBに嫉妬したのでしょうか。
たぶんそうです。
それは間違いない。
だけどAがすきなのかどうかというのは、また別の問題であるような気がします。
私は取り敢えず、Aのことが嫌いではありません。
それは間違いない。
いつも一生懸命Aの話を聞きたいと思っているし、
Aが楽しくいられるために、私ができることはなにかな、と常に思っています。
それは、すべての友達への、私の思いと一緒です。
だから、これが恋かは、正直なところわかりません。
ただ、これだけはいえます。
私は、いつも一生懸命、人に接しています。
友達ならなおさらです。
だから、同じ気持ちで私のことを見てほしいと、時々思ってしまうのです。
同じように、一生懸命になってほしいと思ってしまうのです。
でもこれは、人間一人一人、持てるエネルギーが違う以上、
かなえられない願望です。
わかっているんです。
でも、嫉妬してしまうんです。
同じ気持ちで、自分を見てほしいから。
嫉妬って、そういうことだと思います。
恋とはどんなものかしら3
あまりにも好評なので、(←違う)もう第3弾です。
さて今回は、私の知人(男)の衝撃の一言からスタートいたしましょう。
「付き合ってる人、いたんですよ。」
ショーック!!!大ショック!!!!!!
堂本光一が飛んじゃうくらいショック!!!!!
私はこの男性と知り合って、もうだいぶ経ちます。
恋が発生する事が有り得ない環境での知り合いなので、
「片思い、敗れたり」っていう類のショックではありません。
ご期待の方、申し訳ございません。(笑)
私がショックだったのは、一人の近しい人間が、恋愛の渦中であることを見破れなかったこと。
女の子の友人でも、付き合っている人がいることを見破れなかったことが、一度だけあります。
でも、彼女とは当時、個人的な話はあまりしなかったし。
気づきようがないといえば、ないわけです。
(負け惜しみにしか聞こえない〜〜〜!!!)
そうなんです、私、自信があるんです。
人の「感情の流れ」を掴む力があると、思うんです。
「あの人は恋をしている」とか、わかるはずなんです。
少なくとも昔は、わかったはずなんです。
ましてその知人の男性とは二人で話すことも多いし、
「先に結婚したほうが勝ち」っていうわけのわからない賭けをしているくらいだし、
どうして気づかなかったんだ〜〜〜〜〜、と思うと
めちゃめちゃ悔しいし、ショックなわけです。
私にはもはや、恋愛レーダーすらなくなってしまったのか。
それとも単にその彼の「恋愛パワー」が弱かったのか。
残念ながら前者のような気が、するんですよね。
恋とはどんなものかしら2
慣れないことを考えるのは良くないのかもしれませんね。
久しぶりに風邪をひいてしまいました。
なんだか不安で、でも仕事はいっぱいいあって、でも、いつもよりはものすごい暇で・・・。
意味のわからない文章だな。
まあとにかく、私のような自己愛の強い人間が「恋」について日々頭を悩ませているので、
天気も良くない。これは大問題だ!!!
らしくないことはするもんじゃないのかなあ。
でも一番問題なのは、手っ取り早く好きな人でも見つけよう、という思いが、
あまりにも強いこと。
友達に言われてしまった。
「変な男に引っかかるなよ」と。
そうだ、そうなんだああ。(ライオンキングより)
でもさ、何かに一生懸命じゃない自分、っていうのが、今までの人生になかったから、
不安で仕方がない。
やっぱり、オサちゃんでも萬斎でもいいから、
私の情熱の向かう先が欲しい。
そう思います。
恋とはどんなものかしら
先日、同僚のKちゃんと飲む機会がありました。
彼女は私よりもだいぶ、いや、少しだけ若いのですが、
う〜ん、すごかったですね。
全身全霊、恋がしたくてたまらない、そんな感じ。
最初は「若いなあ」と思っていたのですが、
何日か引きずって考えているうちに、
(今少しばかり時間があるので、余計なことばかり考えてしまうのです)
うらやましくてたまらなくなってきました。
恋とはどんなものかしら
「魔笛」(だっけ?)から言葉を拝借。
「あなたと出会ってから、私の中の細胞のすべてが生まれ変わった気がいたします」
これも、「ガラスの風景」(柴田先生)から拝借。(うるおぼえ)
でも、でも、なんだろう、恋がしたい、気になってきた。
今まで忙しすぎてわからなかったんだけど、自分の生活には、恋がなかった。
そう思います。
だからってすぐに誰かを好きになれるわけじゃないんだけど。
恋とはどんなものかしら
これからの私への、宿題です。
永遠の蒼の天空へ
〜大鳥れいに捧ぐ〜
スターの小粒化が叫ばれる中で、彼女は異質な存在だった。
なぜか。
魂を見せてくれた、初めての宝塚女優だった。
技術的なレベルは年々上がっているこの世界で、彼女は魂で勝負してくれた。
舞台という空間で、魂ほど、観客を魅了するものはない。
役者魂、宝塚を愛する魂、役を理解しようとする魂・・・。
こういう気持ちを表現するのは、ともすれば恥ずかしいことなのだが、
彼女はがむしゃらに「気持ち」を観客に見せてくれた。
熱い女。そんな響きが似合う人だ。
彼女はそんな「魂」を持って、宝塚を巣立っていった。
もちろん、「翼」を伴って。
彼女を迎えてくれる空はいつも「永遠の蒼の天空」ではないはずだ。
暗雲立ち込める黒い空かもしれない。
先が全く見えない、にごった空かもしれない。
でも彼女は「魂」というコンパスで、役者としての「力」という翼で、どこまでも、どこへでも飛んでいけるだろう。
「君のゴールはどこなんだい?」
「どこか、遠いところ」
その目に映る「永遠の蒼の天空」へと、彼女は飛び立った。
応援しつづけたい。
最後に。
みどりちゃん、お疲れ様、ありがとう!
Whiterose Award 2002
私ことりが、独断と偏見で勝手に決めさせていただく、
「Whiterose Award」の季節がやってまいりました。
2002年に演劇界で活躍された方を勝手に表彰するのが、この企画でございます。
たくさんのご意見ご感想、お待ちしております!
★最優秀主演男優賞★
藤原竜也(エレファント・マン)
中川晃教(モーツァルト!)
★最優秀主演女優賞★
大竹しのぶ(欲望という名の電車・太鼓たたいて笛ふいて)
麻実れい(オイディプス王)
★最優秀作品賞★
こまつ座「太鼓たたいて笛ふいて」
★Whiterose 賞★
春野寿美礼(宝塚歌劇団・花組)
●総評●
本当は女優賞も男優賞も一人に絞りたかったのですが、
そんな事出来なかった〜。
みなさんとてもすばらしかったです。
どういう風に素晴らしかったかは舞台感想のページに書いてありますので、
読んで頂けると嬉しいです。
なぜわたしは野村萬斎が好きか
これは、わたしにとって命題のようなものですね。
「なぜ野村萬斎が好きか」。
わたしが萬斎さんに興味を持ったのは、割と最近です。
「あぐり」もチョコチョコ見ていた記憶はあるのですが、
印象には残っていない。
まあ、当時は多分中居君とかキムタクとか、そっちが好きだったんだと思います。
若かったし。
初めて彼を意識してみたのは、映画の宣伝のために出演された、「王様のブランチ」でした。
なにかに「ビビビ」ときた。
分析すると、「郷ひろみのモノマネをする野村萬斎」にビビビときたわけです。
郷ひろみのモノマネは、私の十八番。
(名誉のために言っておくと、わたしは萬斎さんよりずうううっと年下です)
なにか、似たものを感じました。
極度のナルシストな私は、基本的には自分と同じ匂いのする人を好きになります。
それは友達であっても恋愛感情であっても同じ。
似ているから理解できるというのは、きっとあると思う。
似ている部分が多ければ多いほど、一緒にいて楽なのではないかとも、思いますね。
話が私の最も不得意とする「恋愛談」に行きそうなので戻しますが、
とにかく、「同じ匂い」に強く惹かれた。
それから、映画に行って、狂言を観始めて、今に至るわけです。
萬斎さんは、どこが素晴らしいのか。
これも命題。
わたしは彼の「熱さ」が好きかな。
私は狂言については「ド素人」ですし、芝居についても演出についても、全く何も知らないのですが、
彼の仕事にはすべて、「熱」があると思っています。
「あれもやりたい。これもやりたい、こうやったら面白いんじゃないか」
という気持ちが伝わってくる。
完璧ではないぶん、まだまだ伸びる可能性を秘めている、そんな人です。
あとは、彼のやりたい「ビジョン」のようなものに、共感しているというのもありますね。
彼は世田谷パブリックシアターの芸術監督になって、「演劇の再融合」を目指しています。
彼の持っている、古典の技術を現代演劇にも生かしたい、というのが一つの方針なんですが、
そうあって欲しいなと思いますね。
「日本人特有の美しさ」を、後世まで伝えるには、幅広い人に古典の良さや技術を見せたり、継がせたりする必要性があると思います。
私は基本的に、日本特有かと思われる世襲制度に異議を感じていますから、
出来れば、可能性のある若者に、古典芸能の門戸をもっともっと広げてあげて欲しい。
そう思っています。
ここにくると萬斎さんの考えとは、違うと思うのですが。
とにかく、まとまらないのですが、彼には日本の演劇界を背負って立つだけの、度量と技術が備わっている、
といったら、
大げさでしょうか。
忙しいということ
「忙しいという漢字は心が亡くなると書く」
と、昔からよく言われますが、果たしてそうでしょうか。
私は、忙しいことはいいことだと思っています。
やることがたくさんあるということは、
自分が何をすべきか、または他人が自分に何を求めているかがわかっているか、
またはそれを模索している表われだと思うからです。
忙しくないと、人はじきに考えることもしなくなるのではないでしょうか。
「自分がここで何をすべきか」
「自分には何が出来るのか」
というのは考えているだけでは始まらないし、
他人との関わりで始めて見えてきたりするのだと思います。
そしてそこで始めて、人は本気で考えるのではないでしょうか。
私は今、自分に何が出来るのかということを、よく考えます。
たいしたことが出来るわけじゃないのですが、私にしか出来ないことって、きっとあると信じています。
だから、たくさん働いて、たくさん何かに触れ、たくさん考えていきたい。
忙しい中で考えたことの中にきっと、私の未来が見えるはずだから。
でも、忙しすぎる方は注意してください。
私も4ヶ月ほどほとんど休みがなくて、体調を壊しました。(体は丈夫なのですぐに直りましたが)
疲れが顔に出るのは、他人にも心配を掛けるのでやめましょうね。
ことりとマナー
私は一人でいると、恐ろしくマナーを意識します。
友達といると、どうしても大声で話してしまって、無駄にテンションが高くて迷惑極まりないのですが・・・。
マナー。
例えば、公共のトイレはきれいに使うとか、お年寄りには席を譲るとか、
そのあたりは当たり前ですね。
私は人と同時に出入りするようなときは必ず道を譲るとか、
(友達には基本的にしませんが)
下手をしたらホストと見まごうばかりに、マナーを意識します。
イギリスでは信号無視してばかりでしたが、それは「郷にいらば郷に従え」というものです。笑
そして、やはり気になるのが劇場でのマナーですよね。
よく行く場所ですから。
大衆演劇は、見る人のマナーが悪すぎます。
私は昔クラシックのコンサートによく行っていたので、
それと比べると、雲泥の差です。
もちろん、コンサートでよくある、楽章と楽章の間に咳払いするのは、とてもいやですが。
咳する必要なんかないはずなのに、自分はここで休みが入るのを知っているんだぞ、とばかりに咳をするので、
腹が立ちますね。
でもそれは他人に迷惑を掛けてないので、よいのです。
宝塚観客は、あまりマナーがよくありません。
上演中は飲食禁止なのに平気でジュース飲んでいるし。
この間四季を観に行ったときはもっとひどかった。
隣が親子だったのですが、父はビール飲みながら見ているし、
息子は「アイス食べたい」を連呼しているし。
「こんな子供を連れてくるな!」
って言いたかったです。
狂言も、最近はひどい。
能楽堂はさすがに敷居が高いようでマナーもさすがですが、
公会堂や劇場の狂言は、なんだかなあ、という感じです。
別に萬斎さん観たさに行ってもいいではありませんか!!!
狂言に足を運ぶ理由は、古典芸能への興味でなくてもかまわないと思います。
見てそれからどう出るかが、問題なのであって。
萬斎さんの出てないところは帰るとか、寝るとか、そういう行為は芸術に対する冒涜ですよね。
登場してからしゃべるのもいかがなものでしょう。
もちろん声をあげて笑うのは間違っていません。
にぎやかな作品中にしゃべるのもいいとして、
登場は、非常に「静」を意識しているのだから、しゃべらないでほしいです。
ちなみに、遅刻はマナー以前の問題で、犯罪です。
ことりと文章
本を読むのが好きです。
暇だからどんな本でも読む、という「読書家」の方とはちょっと違いますが、
かなり考えながら文章を読みます。
筆者は何を言いたいのか、どんな人なのか、考えるのが大好きです。
文章って、ストレートに「その人」が表れると思っています。
小学校の時、つづり方を習いますが、文章の組み立て方はそれほど習わないし、
だから、かなり個性が表れると思います。
例えば、
「僕の家の庭に、一輪のばらがこっそりと咲いていた。」
と
「一輪のばらが咲いていた。僕の家の庭に、こっそりと。」
とは、印象が違いますよね?
これは技術的な問題ですが、内容も、やっぱりその人を表している。
作文でテーマが与えられても、ポジティブシンキングな人は、そういう文章を書きますし、
ネガティブな人は、文章もネガティブ。
話をするよりもむしろ、
文章を読んだほうがその人の人となりは、わかるような気がします。
ですから、エッセイなんかを読むと、ものすごく「その人」がわかった気になってしまいます。
「あんたのことなら何でも知ってるわ」
って。
でも、それって怖いことですよね。
エッセイを本にすると、読んだ人には「自分」の弱いところもなにもかも、知られてしまうんです。
裸になるのと同じこと。
エッセイを出版するのと、ヌード写真集を出版するのは、大差ないということになります。
それでも人は文章を書く。
私を知ってほしいから。
私を知ってもらえば、私が何でここにいるのか、わかる気がするから。
人はきっと、さみしいから、文章を書くのですね。