四季散歩
〜四季観劇記〜
劇団四季の観劇記です。
四季の舞台それぞれの魅力を探りながら、改めて感動を味わってみましょう。
一、「ライオンキング」
二、「「オペラ座の怪人」
三、「アスペクツ・オブ・ラブ」
四、「ソング&ダンス」
五、「ジーザスクライストスーパースター」
六、「コーラスライン」
一、「ライオンキング」
まずは、劇団四季の「ライオンキング」について、お話しましょう。この舞台は、すでに、昨年の12月からロングランを続けている作品です。私はこれまで、始まったばかりの昨年12月と、4月のはじめと、二回ほど観に行きました。
劇団四季は、ご存知の方も多いとは思いますが、ひとつの役を複数の俳優が演じているところでもありますので、何度見ても、違った趣が味わえるという長所があります。(見方によっては、演技や舞台の雰囲気が時々によって安定しない、マイナスの印象を持つ人もいるでしょう)私が見た今回も、前回の時とは、メインキャストのほとんどが、まったく別の俳優らによって演じられていたので、はじめとは別の面白さを感ずることが出来ました。
まず、最初にこのライオンキングを見たときは、正直いうと、前評判ほどの大きな感動を味わえたか、といえば、決してそうではなかったのが事実です。想像を絶する演出や構想は、まさに見ごたえのあるものではありましたが、けれども、俳優らの演技が、動物というキャラクターに、必ずしも適合し、彼らがそれを演ずるということにもどこか徹しきれていなかったようにも感じました。それは、決して俳優らそれぞれの演技力の問題ではなく、むしろ演出の側に何かそぐわない面があったようにも思えます。
「ライオンキング」の舞台では、シンバやその父親のムファサ、そして、叔父ライオンのスカーを演じている俳優が、頭部にライオンの人形面をかぶり、また、俳優自らも、特殊メークで、かなりライオンに近い形相をして演じています。確かにその意気込みは客席にいるこちらにも十分に感じられるのですが、たとえばストーリーの途中で、父ライオン・ムファサが、子供のシンバを諭すように語り掛ける場面があります。そこで、なんとムファサ役の俳優は、頭部の被り物を自らはずし、人間の姿のままになってしまうのです。それまでに、観客は、俳優と人形と、二つの顔を持つそれぞれのキャラクターに、ある違和感を感じながらも、少しずつ豚以上に繰り広げられているアフリカの世界に適合しようとこころがけながら、見続けていたはずなのです。それにもかかわらず、それを安易に舞台上で、まさに人間であるその手によって、安易にはずしてしまうのは、はたしてどうでしょうか。恐らく演出側の意図としては、息子に対する父の姿に、通常の闘争本能をまったく見せてはいない、やさしい父性の部分を強調したかったのだとは思いますが、ライオンの仮面を脱ぎ捨てた、人間としての俳優の個性が強調されてしまうようで、あまり共感できない場面だったように思われます。
又、物語の最初と最後に、ライオンの子供の誕生を、他の動物たちが一斉に祝う場面があります。その場面についても、少々違和感がありました。舞台上の世界はまさにアフリカで、それまで、ストーリー全体を通して登場していたのは、「人間である俳優」によって演じられていた「動物」のはずでした。すなわち、あくまでも人間が、動物を演じているという設定であったのです。けれども、ムファサとサラビの間に生まれた子供、そして、シンバとナラとの間に生まれた子供のライオンは、まったく完全にライオンの姿をした人形が(ディズニーアニメそのもので)用られているではありませんか。しかも、その子供を見ながら、父・母ライオン役の俳優は、仲良く手をつなぎあって二本足で立ち、微笑みあっているのです。人間の姿をした動物、動物の姿をした彼らの子供達、それらの姿は、やはり、どこかかみ合っていない印象を受けました。
すなわち、このあたりにやはり、動物を人間が演じる限界を見たような気がするのです。
それから、舞台の第一部は、シンバとナラ役はほとんど子供によって演じられていたのも、少々気になった部分です。劇団四季は、これまでもさまざまなミュージカルで、子供の役でさえも、劇団内の俳優で個性豊かに演じてきたはずです。それらに決して違和感が生じてはいなかっただけに、むしろ、こうした重要なポジションでさえ、劇団外の子役に依存することなく出来たのではないでしょうか。もちろん、本場ブロードウエイでも、子役によって演じられてたものであるので、四季でもそれに倣ったのでしょうが、四季としての特性をこのあたりにこそあらわしてほしかったような気もします。
ただ、不思議なことに、2度目にこの舞台に接したときには、こうした違和感は、あまり感じられなくなってはいました。一度接しているために、それらのものに対して、驚きを感ずることなく、むしろ余裕をもって受け止めることが出来たためでしょう。
また、舞台上のそれぞれの俳優らの、「顔」を直接強調させて見せていることで(上演開始当初より、俳優達のメークが、心なしか動物らしさを強調するというよりは、自らの顔や個性を引き立たせるようなメーク方法に変わっている印象をうけました。)それによってなお彼らの懸命さ、情熱がこちらがわにもよく伝わり、それぞれが、自らの人間であることの限界に挑んだ演技を試みようとしている意欲も観客として、強く感ずることができました。
シンバ役の俳優が、アクロバット的ダンスを息を切らしながらこなし、首から胸にかけて描いたメイクを汗でどろどろに崩しながらもがんばっていた様相も、決して見にくくは感じませんでした。
それぞれの俳優の、役に対する見解が見るほうにも伝わってきて、見ごたえさえ感ずることも出来たのです。
ロングラン公演であるからこそ、こうして舞台上の演出や、俳優達の成長も見ることが出来るのでしょう。再び観劇する日には、更に躍進した舞台を大いに期待してやみません。
二、オペラ座の怪人
『オペラ座の怪人』は、何度見ても切ない物語です。
奇形で醜い姿に生まれついた運命の一人の男の、悲劇のドラマは、見ていて胸が詰まります。その恐ろしいまでの醜い姿によって、人々に恐れられ、自らの心を誰に対しても開けずにいたファントム。クリスティーヌという一人の少女の「音楽の師」として、彼女に稽古をつけながら、やがて一人の女性としても愛し始めて行くのではありますが、彼女は、そのファントムの愛を受け入れず、幼なじみのラウル子爵のもとへと行ってしまう。
自らの心を、自然な形で彼女に伝えることがかなわなかったファントムの、悲しい歌声が、会場全体に響き渡り、人々の個々なる心の孤独感を浮かび上がらせて行くようにも思えます。
四季の俳優達によって演じられるこのミュージカルは、まさに、四季ならではの世界とも言えるのではないでしょうか。それぞれの役者達が、音楽を愛し、芸術を追求しながら挑む世界。けれども、それを真に世の人々に伝えられるのは、彼らの情熱のほんの一握りの部分であって、結局はどんなによい作品であろうとも、一方方向の訴えでしかない・・・。そんな、どうしようもない焦燥感が、ファントムの孤独を共感させ、舞台上に再現させているのかも知れません。
クリスティーヌにだけは、わかってほしかった彼の必死の求愛、それは、単なる男と女の関係による愛情などでなく、もっと広い、人間愛の要求でもあったのです。
ファントムは、自らの醜さを語るとき、幼き日、彼を生み落とした母親からも、嫌い抜かれ、その顔を直視されることもなく仮面をつけられたことを告白します。本来であるのなら、彼をもっともかばう立場の実母からもそうした仕打ちを受けたことで、彼の心は、決定的に他者を疎外して、自らの奥にこもっていくのです。
クリスティーの音楽の師として存在することが出来たとき、恐らくファントムの心には、彼女からは、きっと真実の愛を受けられることを期待していたのでしょう。けれども、結局は彼女さえも、彼の醜さの奥に隠れた真実の孤独、真実の心を理解することなど出来なかったのです。きっとクリスティーの師として、彼女を育てようとしていたときのファントムは、さながら、あの『源氏物語』の中での光源氏が、理想の女性として若紫を育て上げ、やがて紫の上として自らの妻に迎えたように、全身全霊彼に心酔するクリスティーを信じていたようにも思われます。彼女の愛を得られるならば、たとえどんな手段を用いてもかまわない、そんな倒錯した愛の形がやがて、更なる悲劇を生んでしまうことも気づかずに・・・。
作品の当初から、どこかファザーコンプレックスを隠し切れなかったクリスティーは、結局は、最後までそのままで、ファントムの心も、又、彼女が選び取った愛の対象、ラウルの心さえも理解しきれずに、子供のままに振舞っていただけなのかもしれません。
凶悪な手段に出れば出るほどに、悲しみを増すファントム・・・。彼の心は、永遠に癒されることはないのでしょうか・・・。
さて、それぞれの役どころを演じていた俳優陣について見てみましょう。まず、ファントム。これまで何度かみたうちで、このファントムの役だけはいつでも今井清隆氏が演じているものでした。彼の深く豊かな歌声は、まさにファントムの悲哀を十分に醸し出し、客席を圧倒させていました。ただ単に「歌う」ということに徹せずに、心の底からの叫びとも感じられ、彼の歌声を聞くだけでも、この舞台に接した甲斐があったような気がします。舞台上で流す彼の涙は、恐らくファントム自身の本物の涙だったのではないでしょうか。
次にクリスティーヌ。クリスティーヌ役はいつも違った女優によって演じられていました。皆、個性豊かに、クリスティーヌをそれぞれの解釈で演じてはいました。ただ、そんな女優達の中に、舞台のはじめの場面でバレエを、バレエシューズで踊っているクリスティーヌがありました。他のダンサー達が皆比較的しっかりしたポアントで立っているにも関わらず、ただ一人だけバレエシューズで踊っていたことは、どうしても気になります。確かに、クリスティーヌ役は、まず「歌える女優」が抜擢されているのでしょう。四季は、歌とダンスとそれぞれの特技を生かして活躍できる場所でもあるので、あの、バレエシューズで踊っていたクリステーヌ役の彼女は、きっとバレエのポアントには、まったくの素人だったのかも知れません。けれども、舞台のストーリー全体を考えると、やはりこれは重大なミスだったようにも感じられます。なぜなら、クリスティーヌは、パリオペラ座のバレエダンサーという設定なのです。そうした設定であるにも関わらず、ただ一人、ポアントを履けていないのは、やはりおかしいのではないでしょうか。オペラ座といえば、おそらく、舞台で踊っているダンサー達のほかにも、補欠要員がたくさんいるはずなのに、ダンサーとしては完璧でないクリスティーヌが舞台上にいるなんて・・・。四季の女優さんも、役者であるのなら、たとえ死に物狂いの努力をしてさえも、そんな落ち度を舞台の上でさらさないためにも、この点について克服してほしかったような気がします。皆さんが見たクリスティーヌは果たして如何でしたか。
さて、次に歌姫カルロッタですが、彼女の歌声は音楽に素人の観客でも、恐らく感動的に聞こえたものと思われます。ただ、俳優によっては、やはり声量不足を思わせる方もいらっしゃたようですので、声の美しさや、音の的確さだけでなく、クリスティヌなど問題にもならぬほどに堂々と歌えるおおらかで豊かなる声量をぜひ、舞台上で見せていただきたいものですね。特に、開幕直後のオペラ座舞台稽古の場面は、圧巻です。彼女の歌声を聞いただけで、まだ、行ったこともないパリのオペラ座のすばらしさが、この日本の観客達にもつたわってるようです。またそれは、同じオペラ座のビアンチ役にしてもおなじこと。この四季の舞台から、改めてオペラに触れようとする人々ももしかしたらいらっしゃるかも知れません。
>四、アスペクツ・オブ・ラブ
先日、遅まきながら、四季の「アスペクツ・オブ・ラブ」を観て来ました。思い出の舞台の話を続ける前に、このミュージカルについて語ってみることにしましょう。
「アスペクツ・オブ・ラブ」、もうごらんになった方々も多いでしょうか。これは、現在「ライオンキング」が上演されている「四季劇場」「春」のお隣、「秋」で行われている舞台です。
物語は、言葉で説明するにはちょっと複雑ですね。登場人物の名前も、パンフレット等に記載されているあらすじを読んだだけでは、すんなりと把握しにくい、横文字名前が続いています。まあ、端的にいえば、主人公アレックスの恋の遍歴物語ですが、四季の俳優さんたちは、大人の恋愛模様を、微細に演じていたなあ・・・、というのが、率直な感想です。ただ、ストーリーとして解釈すれば、アレックスほど、真摯な姿勢を持つ若者が、そうそう、恋にばかり翻弄されてしまうことがあるのだろうかという疑問はあります。もちろん、私たちには、恋愛はとても重要な要素ではあるけれど、すべてが、それ中心に動いてしまう、恋愛がまずあって、その他、たとえば、仕事や家族、そして、生きかたそのものまで、恋愛を進行させるための付随的要素としてしか存在していないような、そんな、印象を、この舞台は私たちに抱かせてしまうのです。キスシーンの多さ、恋愛の駆け引きの巧みさには、もう、一人前のつもりであった大人であっても、なにかしら、衝撃的に受け止められたのではないでしょうか。私たちの生活が、恋中心になど決して回っているのではないからこそ、過剰ともいえる恋愛の強調は、日常の煩雑さの中で忘れてしまっていたときめきや輝きを、もう一度思い出させてくれるものであるのかもしれません。舞台は、そういう、非日常の世界を、時には大げさなくらいの様相として私たちの前に展開してくれるものであり、また、それが、生のものであるからこそ、より、大きな感動となって伝わってくるのかもしれません。
ただ、ミュージカルを観なれていない人には、全編が歌によってつづられているこの舞台を理解することに、多少の困難さを感じたかもしれません。四季の舞台には粉のような形のものもおおくあり、たとえば、7月に千秋楽を迎えたあの「オペラ座の怪人」にしてもそうでしたが、この「アスペクツ」は、魔法も怪物も、ミラクルも特に登場するわけでない、日常の些細なつぶやきを音楽に乗せているもので、動きもさして大げさではなく、むしろ淡々とした舞台進行で全体がながれているので、もしかしたら、音楽になじみのない方々にとっては、
わかりにくかったり、途中で退屈さを感じてしまったということもあったかと思います。初めての方には、お勧めしにくい舞台かもしれませんね。
六、劇団四季ソングアンドダンス
実は、この舞台は、観る前まで、あまり気が進まなかったのが正直なところです。数々のミュージカルナンバーを、主要な歌やダンスのみ取り上げて、構成した、いわば、細切れのような舞台になっているのではないか、と、期待していませんでした。けれども、実際の舞台は、まったくそんな不安を忘れさせてくれるほど、すばらしいものでした。全編、余すところなく、それぞれの個性的俳優たちによって、歌とダンスが繰り広げられ、観客に息つくひますら与えないくらい、これでもか、これでもか、と、すばらしい歌とダンスが披露されていました。四季の中心的存在野村玲子さんが、司会のような形で、所々曲紹介や構成説明をナレーションとして入れていたので、観ている側にも、舞台がどう表されているのか、わかりやすく受け止められていると思います。ただ、野村さんの語りの中で、時折、滑舌の悪さが露呈する個所があり、マイクを通して、唾のはじける音が耳障りに感じられる部分もあり、それが、少々残念でした。歌に関しては、まったくそのようなことはなく、むしろ、第二部の終わり近くでじっくりと歌い上げた「エビータ」からのナンバー「アルゼンチンよ泣かないで」は、圧巻でした。また、そのほかの、歌手たちの歌も、どれも満足のいく出来映えで、感情がたっぷりと込められて歌い上げられるそれぞれの歌の中に、一つ一つのミュージカルの舞台、背景、ストーリーが自然と浮かび上がってくるようにすら、思われるほどでした。特に、佐野正幸氏の歌う「オペラ座の怪人」からのナンバーは、氏が最近まで、その舞台のラウル役を演じていたことから、感情移入に感極まるものがあり、相手役の鈴木京子さんが、(彼女も、その「オペラ座・・・」のクリスティーヌ役を演じていたにも関わらず)意外とあっさりと、歌を歌として歌っていたのに比して、佐野氏は、完全にラウルのままに、その歌を歌い、語りあげてもいたのです。また、ダンスについても、どの場面も、ニューヨーク仕込みのダンサー加藤敬二を中心に、ダイナミックに構成されており、ダンサーたちがジャンプやピルエットをするたびに、舞台の四方に汗が飛び散っていたのも、とても印象的でした。久しぶりに全編感動できた、すばらしい出来の舞台だったと思います。
七、ジーザスクライスト・スーパースター
イエス=キリストの最後の七日間を舞台に再現した、ロックオペラ。舞台は、色彩の乏しいエルサレムの荒野で、そこへ現れたジーザスが、人々に乞われるままに、教えを説き、やがて、救世主となっていく。けれども、そんなジーザスに次第に不安を覚えていったユダは、ジーザスを愛しながらも、彼の行く末を案じ、エルサレムの権力者らに、ジーザスの居所を教えてしまう。とらわれたジーザスは、十字架にかけられて、磔の刑となり、真の神と化していくという物語である。この舞台で何よりも印象的だったのは、ユダ役を演じた芝清道氏といえるだろう。彼の表現力は観ている観客を次第にエルサレムの世界にいざなっていく不思議な力を含んでいる。舞台が始まる前からオープンになった舞台上には、荒涼としたエルサレムの大地が広がっている。色のない、殺伐としたその情景は、当時のエルサレムが、いかに救いのない荒れ果てた国だったかを象徴しているともいえるだろう。その大地に突然登場して、歌い出すユダ。彼の歌はとても唐突で、観客はいったい何が起こり始めるのか、理解に苦しむままに、歌うユダを見つめている。それが、その歌によって、ユダの苦しみ、ジーザスへの思いを、まざまざと知らされるようになり、われわれ観客はユダの心を自らの心にそっと置き換えて、舞台の世界に自然と没入していくのである。ユダの裏切り、ユダの心変わり、それらはミケランジェロのあの「最後の晩餐」にも表されているように、よく知られていることではあるのだが、そのユダの心の内側には、こうも激しい葛藤があったとは、舞台を観る前までは、われわれはもしかしたら気づいていなかったのかもしれない。そう、思えるほど、芝氏の演技は、迫真に満ちている。涙を流しながら、愛する師、ジーザスを裏切るユダの心のひだが、手に取るように、そして、迫り来るような力強さでここには表されているのである。また、この物語の主人公、ジーザスを演じている柳瀬大輔は、特にジーザスという人物の偉大さを端的に表しているとは、決していいがたいが(偉大さを有している人物に特有の背後にある深み、というものが、彼の延期からはどうしても感じられない。まだ、若き俳優ゆえの、度量のなさ、ともいえるかも知れない。)けれども、ジーザスが、荒涼としたエルサレムの世界を見据える目には、とても印象深いものを感じる。冷静に、決して感情的にならず、静かにその世を見つめる目。精神的に上に立つものゆえの、俗世を脱却したような超越した存在たらんとするジーザスの存在表現が、そこには的確に表されていたといえるだろう。芝氏の人間だからゆえの苦しみとは全く対照的な、すべての感情を押し殺し、否定しようとするジーザスのあり様がありありと伝わってくる。キリストの存在を、視覚的には、的確に演じきっているといえるだろう。さらには、マグダラのマリアを演じた保坂(この役は、ダブルキャストであるので、鈴木京子さんもまた、演じているのだが、筆者が観たのは、保坂さんのマリアだった)は、ジーザスへ寄せるマリアの思いを優しく、愛に満ちた歌声で表している。ただ、先に上演されていた、劇団四季の「アスペクツオブラブ」という作品で、ローズを演じた彼女が、そのままジーザスの舞台に再現されていることも決して否定できない印象でもある。もちろん、同じ人間が演じているのであるから、それは当然のことではあるのだが、歌い方や、表現のし方が、ローズのいたわりを歌い上げる様子とほぼ同一のものであるような感じも観客は受けてしまう。
感情を歌い上げる力のある女優だからこそ、単調で均一的な表現にならず、それぞれの役柄に会わせた役作りにさらにまい進して欲しい。
六、「コーラスライン」
その昔、一人の演出家が実在のダンサー達の過去を元に作り上げたというこのミュージカルは、もうこのミュージカルの世界では古典の範疇に繰り込むことが出来るほど世界各国で上演されつづけている作品である。
改めてストーリーを問うまでのこともないが、それは、ブロードウエイの新作ミュージカルのオーディションに集まったダンサー達のオーディション風景が土台となっている。オーディションに集まった無名のダンサーたち。ダンスの世界で生きていくために乗り越えなければならないこのオーディションという壁に、それぞれが懸命にぶつかっていく。
まず、始めに気付くのは、舞台がブロードウエイというせいだろうか、最終選考の場だというのに、ダンサーたちにが、とかく日本には多くありがちな、いわゆる慇懃な態度というものが一向に感じられない部分である。審査員であり、演出家のザックの厳しい目が見つめる中でも、彼らはそれぞれ、思い思いの態度(立ち姿)で舞台の上に立っている。足を肩幅に広げて休めの姿勢で立っている者、手を腰に当ててポーズをとる者、恋人と腕を組む者…。比較文化論をする気は毛頭ないが、それぞれの独自なる姿勢や、言葉遣いの端々から、この舞台が、まさに今観客である我々がいるところの「日本」ではなく、「ブロードウエイ」なのだと、実感できる空間を的確に表現しているとも感じられる。
さて、そうした半ば(日本における、「審査」の場に鑑みると)相当不真面目に見えるような態度で立つそれぞれの個性溢れるダンサーたちも、オーディションのダンスシーンでは、それぞれが他と同調しながら、一糸乱れぬ絶妙な踊りを繰り広げる。舞台の上に暗黙のうちに規定される「その他大勢」の居る「場」となる「コーラスライン」の内側に、すなわち、スタートしてでなく、決して目立ってはならないダンサー集団の一員としての大勢の中に選ばれるために、ダンスは、決して他より目立たず、しかも完璧に、「その他」という集団の中に同調して踊らなければならない。ここでは個性は消去されるべき特質なのである。そんなダンサーとして、踊りを始めると、それぞれの「個」が消え去り、集団が生まれる。
審査員は、その中から突出した個性を容赦なく、落として行く。ダンサーとしての経験がない者、ダンスの下手な者、ジャンプが他と同じレベルにまで達していない者…。ダンサーたちは、ダンスをしながら、決して目立つ存在とならぬように、細心の注意を払いながら、落とされる恐怖と戦っている。
さて、そんなダンサーたちに、審査員ザックは、インタビューを試みる。彼らの過去を問いながら、オーディションを進める。ここで露にされるそれぞれのダンサーたちの過去は、けして「その他大勢」という枠でくくられるような者ではない。それぞれに、個々の生まれがあり、生い立ちがある。ザックはその生き様を、徐々にダンサーたちから聞き出しながら、「集団」から「個」の存在を引き出している。
四季のダンサーたちにとっても、このミュージカルは決して他人事ではないのだろう。公演中に販売されているパンフレットの、ごく簡単な出演者プロフィールを見るだけでも、それぞれが実に個性豊かな「過去」を持ち、この今の舞台に立っている状況が推察できる。だからこそ、彼っらの演技には熱がこもる。ダンサーとして夢を実現させたい…その想いが、配役を超えて、生の感情としてこちら側にも伝わってくる。
ただ、この舞台は、「ミュージカル」である。ただ単にダンサーとしての素質のみで、この舞台をつくりあげようとしているのであれば、実際の観客は決して満足しない。今この舞台を見つめている観客は誰もが「未熟なダンサーのオーディション」を見学に来ているのでは決してなく、「完成されたミュージカル」を堪能し様としているからだ。ダンスのシーンには満足できても、
そこで歌によって表現される心の叫びが、ぐいとこちらの心にも届くように伝わってこないと、
このミュージカルは、完成された舞台とはならない。その点において、四季の舞台はいささか問題もあるように思えてし方が無い。(特に、キャシーの歌が、ダンスシーンと共に最高潮の盛り上がりを見せて欲しいその時に、不発な感じをどうしても受けざるを得ないのには、残念でもあるのだが…。)その辺りが、今後の四季にとって課題となる点でもあろう。
過去から何度も再演されつづけているこのミュージカルが果たして5年後、10年後に新しいダンサーたちの夢を担ってどう再演されていくか、その点を考えると更に期待がわいてくる。
今、「無名のダンサー」役を演じている四季のダンサーたちの今後の活動、そして、それを今この時に、こうして見つめている我々観客の人生も、その時までにどう変化していくか…。さまざまな期待と可能性を信じて、今後も来るべき21世紀の未来に向けて、上演されつづけて言って欲しい作品でもある。
つづく・・・。
*
このページは
です
無料ホームページをどうぞ