宝塚の想い出


夢の国からのメッセージ

宝塚の想い出の数々…。宝塚は夢の舞台です。どんな夢が繰り広げられてきたか、過去の思い出を掘り起こし、そして、現在の夢を改めて感じ取りながら、その夢をここに辿って行きましょう…。 **現在のエッセイは… (…随時更新します。待っててね) 「星影の人」 「ベルサイユのばら」 「黒い瞳」



ですから、ここでは、最近見た舞台ばかりでなく、この辺りで、懐かしい舞台風景についてもお話してみたいと思います。宝塚、こんな素敵な響きをもった舞台に、昔ずいぶん触れてきたことがあるので、その思い出を思いつくままに綴りましょう。
まずは今こうして思い出をたどってみると、なぜか脳裏に鮮明によみがえってくるのは、汀夏子さんが主演されていた、「星影の人」という和物の舞台です。私は、特に汀さんのファンだったとか、当時の雪組を特に応援していたというのではないのですが(ほとんど均等に各組とも観劇していたので)、なぜ、あの舞台がすぐに思い出されてしまうのか不思議です。宝塚といえば、一大ブームを呼び起こした「ベルサイユのバラ」や「風とともに去りぬ」など、もっともっと華やかな舞台はたくさんあるのに、あの、どちらかといえば地味で、落ち着いたミュージカルがまずは鮮明に思い出されてくるのです。まずは、その舞台のお話からはじめることに致します。

「(1)星影のひと」


遠い 遠い 空のかなたに
  光る小さなひとつの星
  星は 星は 何を語る
  そっとやさしく 暖かく・・・。
短い命を悔いもなく
  生きて 生きて 生きて・・・。
恋して 恋して 恋をして
  笑顔を 残して 消えていった・・・。
あの人の心がゆれてる
  ああ・・・あ・・・君よ
  星影のひと・・・。


この歌を静かに歌いながら、舞台上から空を見上げるように遠い目をしていた汀さんの姿が今も不思議にはっきりと思い出すことが出来ます。この公演を私は、当時、宝塚の東京公演としては珍しい、新宿コマ劇場で見たのでした。コマ劇場はあの円形舞台で、宝塚大劇場とは演出が若干変えられていたのだと思います。確かに宝塚にしては、とても地味な舞台でした。新撰組という史実は、決して静かでも、情緒的でもない、かなり荒くれ、血なまぐさい記録なのですが、当時の演出は、かなり早世した沖田の心情を強調した美談として描かれていました。確かに沖田は、志半ばにして肺を患い、近藤や土方らに最後までその運命をともにすることは出来なかった薄幸のひとですが、ここまで美しく書かれていることは、もしかしたら当時としては珍しかったのかも知れません。そうした沖田の心の寂しさ、人をその刀で切りながら、こっそり流す涙の切なさを、汀さんなりのあの独特の静かな演技で、見事に演じていたように思います。ただ、彼女は、当時男役にしては身長が決して高いほうではなかったので、どちらかというと、その落ち着いた演技力も相乗して、そこに老成した貫禄が見えてしまい、そのためにかえって、沖田の若若しさ、まだ、青春真っ只中の微妙な心の迷いなどというものは、表現しきれていなかったようにも感じます。もちろん汀さんご自身は、沖田のみずみずしい感性を、懸命に演じようとはしていました。それは観客にも強く伝わっていました。けれども、その役者ゆえの必死な挑戦魂が、却って演技の中に見え隠れしてしまい、完全に沖田自身になりきれてはいなかったような気もします。ただ、宝塚という舞台を見に来る観客は、完全な舞台世界をみるというよりも、それを演じている役者(スター)を見ていることが多い世界でもあるので、その点は、むしろ多くのそうしたファンたちの意識によって許容されていたのかもしれません。また、今もミュージカルで大活躍されている麻見れいさんは、今にして思えばとっても若かったのだろうけれど、その「若さ」を感じさせないくらい堂々と土方歳三を演じられていたのも、強い印象をもって今も思い出されます。汀さんに比べればかなり身長がある人なので、それだけでも、沖田の上司として、又外面的には冷酷非常な新撰組副局長としての貫禄が出せていたのではないのでしょうか。今はもう退団した高宮沙千さんには、その点、若さというよりも実年齢の貫禄が演技に見えていて、それが若い麻見さんをサポートする役割になっていたとも思います。


(2)ベルサイユのばら


さて、宝塚といえば、なんと言ってもベルサイユのばらという大ヒット作をなくしては語ることは出来ないでしょう。これからは、その作品について少しずつお話して行くことに致しましょう。
「ベルサイユのばら」は、ご存知の通り、フランス革命を題材とした池田理代子氏の少女漫画を原作とした、それはそれは華やかな舞台、美しいドレス、フランス社交界のきらびやかな世界・・・、まさに宝塚のために用意されたミュージカルといっても過言ではないくらい、宝塚にふさわしいものでしたね。初演は、大滝子さんのフェルゼン、初風諄さんのマリー・アントワネット、榛名由梨さんのオスカルだったと思います。(ずいぶん昔のことですね) このときはファンの間では話題になっていたものの、それほど爆発的人気にと結びついたというわけではありませんでした。それが、大ブレークを巻き起こしたのは、なんと言っても2作目の、オスカルに安奈淳、アンドレに榛名由梨を起用した、花組の公演だったように思います。


 朝風にゆれる後れ毛
 見せながら
 りりしい姿
 遠ざかる
 なぜか憂いの影秘めて・・・
 忘れぬ人を
 恋い慕う
 白い面影 美しく・・・
 オスカル
 オスカル
 君は心の白バラか・・・



身分制度という絶対的な運命の前に、かなわぬ恋に身を焦がし、せつなさに胸をいため続けているアンドレ。彼がただ一つ出来るのは、自分が仕えるオスカルを影から見守り、命に代えても彼女に忠誠を誓うこと。恋の苦しさに身もだえしながらも、必死に絶えるそのアンドレが、渾身の思いを込めて歌うこの歌を、榛名さんは、舞台上で目を涙でいっぱいにしながら、切々と歌い上げていました。こうして当時を思い出すと、今も彼女の悲しげな心の叫びのような歌声が、歌詞とともによみがえってきます。
第一作がアントワネットとフェルゼンの恋を中心に描いていたのに対し、この第二作目は、このアンドレの切なく悲しい恋を前面に押し出した演出だったので、宝塚には特に縁がなかった人々の心にも、訴えかける部分が強かったのかもしれません。身分違いの恋、それは、特にわが国では江戸時代から、近松門左衛門の戯作文学などにも、多く描かれて、死を以ってしか結ばれ得ない恋愛物語が人々に強く支持されつづけてきました。(近松の作品には、心中ものも数多く書き残されていますね)(これは、実際江戸時代の厳格なる身分制度によって、恋する二人が引き裂かれていた現実が存在していたからでもあるのです)オスカルに対するアンドレの苦しみが、日本人に特に強く伝わって行ったのも、恐らく、そうした歴史的文化的背景が起因していたとも言えるでしょう。彼が、男でありながら、身分が上の貴族の女性、しかも、自分が仕える屋敷の男勝りの姫君を愛してしまったことに、大きな悲劇が生まれていたのです。そしてその女性こそが、フランスの女王マリーアントワネットを警護する近衛連隊長、オスカル・フランソワであり、彼女は、アントワネットの恋人・フェルゼン伯爵をひそかに恋している・・・。叶わぬ恋が、くるくると虚空を空回り、誰もが胸に切なさと苦しさを抱いている・・・。宝塚の乙女達はこうした苦しみを見事にその舞台上に表現していました。
革命前夜、アンドレの心を受け入れたオスカルが、最初で最後の一夜をともに過ごすとき、二人が歌うあの歌、



 愛、それは甘く
 愛、それは強く
 愛、それは尊く
 愛、それは切なく
 愛、愛、愛・・・
 ああ、愛あればこそ
 生きる喜び
 ああ、愛あればこそ
 世界はひとつ
 愛ゆえに 人は美し


この「愛あればこそ」の歌は、今も時折歌われていますね。当時、安奈淳と榛名由梨の二人は、演出の今は亡き長谷川一夫氏からずいぶん厳しい注文を受けていたと聞いています。二人がこの歌を歌い上げるシーンは、観客側からは非常に美しい、幻想的なラヴシーンとして認識されたものでしたが、当の二人にとってはかなりきついポーズだったようで、苦労したとのこと。それでも、そうした努力の成果が、今でもなお語り継がれる宝塚の代表的作品として、見事に仕上がって行ったのでした。


さて、「ベルサイユのばら」第三作は、オスカルとアンドレを主役と配した第二作目とは、少し視点を違え、悲劇の王妃といわれたマリーアントワネットとスウェーデンの伯爵フェルゼン公との悲恋物語でした。もちろん、第二作同様、オスカルとアンドレの恋も、描かれてはいましたが、なんと行ってもその中心的視点は、王妃の生涯そのものでもありました。
そんな、重く、深い宿命の悲恋をテーマとする趣旨は、まず、峰さを理らの小公子役の歌姫らによって、オープニングに歌われた


めぐりて三たび
咲くばらの花
やがて散るさだめと知れど
香りも高く
色とりどりに
三たび咲く
ばらの花
三度咲く
ばらの花

というばらの賛歌の中に、強く歌い上げられていました。
やがて、主役達の登場です。

白きばら一つ
ひそやかに咲く
静かに
かぐわしく
香り、咲く・・・


と、真っ白な軍服に身を包んだオスカルとアンドレが登場し、自らをこうして白きばらにたとえて歌い上げ、やがて、舞台中央から、真っ赤なばらの衣装をあでやかに着こなしながら、アントワネットとフェルゼンが、競りあがってきました。


赤き ばら一つ
誇らかに咲く
美しく かぐわしく
香り 咲く・・・


そう、このオープニングの歌に表されているように、アントワネットが、異国の伯爵フェルゼンと愛し合いながら、決して結ばれなかった恋、そして更には、あの1789年フランス革命の嵐の中で、見事に断頭台に消えて行った気高いすがたが、この第三作目の舞台には、そのまま表現されていたのです。特に、アントワネット役の初風諄は圧巻で、第1作に続くこの作品で、歌と芝居との両方で彼女の力量を思う存分発揮していたと思います。


女心の哀しさは
愛におびえ
愛を愛し
貴方を信じたい
愛が
ほしい
永遠(とこしえ)の
強い 強い
愛が欲しいのよ
いつかは
別れの
恋とは知れども・・・。


フェルゼンを恋しながら、切々と歌い上げるその歌声は、役者初風ではなく、まさにアントワネットそのものだったかも知れません。宝塚には珍しい、ふっくらとした体格も、アントワネットの気品につながって、重厚ささえ感じさせていました。
それを受けるように、フェルゼン役の鳳蘭は、フェルゼンの心情を力いっぱい歌い上げていました。


この世では
結ばれぬ
愛と知りながら
この胸に
燃え上がる
愛は哀しい
ああ、君を抱きしめ
交わすくちづけ
今は
それも幻よ
夜の暗闇に
一人見る夢
人は皆
背を向けて
冷たいまなざし
離れても
変わらない
二つのこころ・・・


彼女も、高い身長としっかりした骨格によって、宝塚の男役にありがちな、線の細さを感じさせない重厚感を醸し出し、高貴な女性アントワネットをしっかりと受け止め、フェルゼンたる姿を堂々と見せてくれました。鳳蘭の特徴でもある、あの、眉間にしわを少し寄せた悲しげな表情を、今も記憶にとどめているファンのかたがたもきっと多いことでしょう。「王妃さま・・・」と胸の底から搾り出すような哀しく切ない呼びかけは、大劇場全体に反響し、観客の一人一人の心にも、ずっしりと伝わったものでした。
最後の場面で、宝塚の象徴とも言えるあの大階段を舞台の中心に添えた演出で、王妃アントワネットが、処刑台に向かって行く場面では、現世での恋をあきらめ、自らの運命を真っ向から受け止めて、きっぱりと死んで行こうとする強い決意と意志と、そして、誰にも触れさせなんとする、気高さとが、その後姿に表現されていました。アントワネットの死を意味する舞台の暗転が、観客を圧倒させていたのです。


「ベルサイユのばら」の舞台を通して、宝塚に興味を持った人もかなり多くいたようで、この舞台をきっかけとして宝塚に入団を決意した人も、現役のタカラジェンヌの中にもかなりいるようです。そう、実際、この「ベルサイユのばら」の大ヒットを契機として、宝塚音楽学校への入学志願者が激増し、競争率も20〜40倍になったということも聞いています。


では、ここでちょっと余談にはなりますが、その宝塚音楽学校について、少し、お話してみましょうか・・・。


宝塚歌劇団の団員となるためには、まず、併設されている宝塚音楽学校に入学し、二年間の訓練を受けなければなりません。でも、これがとっても難しい。入学試験科目は、通常の学科試験などでなく、バレエ、声楽、そして面接が課せられていて、それぞれの受験生が将来、宝塚歌劇団の団員としての素養があるかどうか、をじっくりと見られます。 例年40倍以上の倍率がある、つまり、40人に一人程度しか合格できないので、本当に宝塚を目指している女の子達にとっては、とっても大変な難関です。バレエのレッスン、声楽のレッスンを日々こなし、どんなに技術を磨いても、上には上がいる。たとえば、全国コンクールで一位をとった人なども受験してくるわけですから、レベルはとても高い。けれども、その技術さえあれば、絶対合格できるかといえばそうではなく、まったくバレエや歌の経験のない人でも、時々(まれではありますが)ぽっと合格したりします。審査は、あくまでも、「将来のタカラジェンヌ」の素養を見ようとしてるので、「磨けば光る」人材を探しているわけでもあるのです。 何も準備せず、友達の付き合いで試験を受けて、合格し、それで、スターになった人たちも過去にたくさんいるので、やはり、審査員の目は節穴ではありません。だから、ごまかしが利かない。本当の自分を素直に出すしかないですね。 さて、試験ですが・・・、それはバレエと声楽、そして面接の3項目に渡って行われます。受験生は、試験当日、まずはすぐにレオタードに着替え、胸には受験番号をつけます。 そして、番号順に、それぞれの試験会場に、移動します。バレエからの組、声楽が初めの組、と、その順はそれぞれに違いますが、皆緊張した面持ちで受験に臨むのです。近年受験生の数kが非常に多くなり、 ひとまず、中断。つづきは、またあとで・・・) 月組「黒い瞳」



久しぶりに宝塚をみましたので、その感想もつづっておきましょう。
宝塚は、あの華やかな舞台がなんと言っても最大の特徴ですので、できれば、直接劇場に足を運んで、なまの感動を体で味わいたいものですが、チケットの入手困難な状況で、それが叶いにくいので、今回は、先にBSで放送されたものを手がかりに、お話を進めていきたいと思います。(筆者注・どなたか、方法を教えていただけるとうれしいです・・・。もし、よろしければどうぞよろしく)
宝塚の最近の動向については、まったく無知だったのですが、「黒い瞳」を観て、やはり宝塚は健在だなあという、嬉しい思いを抱きました。特に、「黒い瞳」の中で、ひときわ目立っていたのは、紫吹淳という生徒(宝塚の場合、団員について、「生徒」という呼称を用いているようですので、ここではそれに習って「生徒」と呼ぶことにします)でした。作品の内容が、(ご覧になったかたがたにはお分かりと思いますが)帝政ロシア時代の貴族と、それに対抗しようとするヤイーク・コサックとの対立を主として構成されており、そのコサック(女帝エカテリーナを中心とする貴族社会に対抗しようと、世直しのために旗揚げを試みる平民集団)の首領が、彼女、紫吹淳でした。主役(月組のトップでしょうか)の、真琴つばさが、従来の正統派宝塚男役のタイプとすれば、紫吹さんは、随分個性的で、これまでの宝塚のいわゆる「正統派」スタイルから、何か抜け出ているような、そんな印象を受けます。宝塚の男役といえば、男を表現していながらも、どこか中性的で美しい、文字通り、夢の世界にいる王子様のような作られ方ばかりだったのが、彼女の場合、汚れ役も平気でこなし、そこに、女が演じている男を超えた、より激しい男らしさ、男くささのようなものを強調できている、また、それが可能な役者であるようにも思われます。宝塚の舞台で、あのような「男」を演じられる男役を、久しぶりに見たような気がしました。彼女の舞台を、またいろいろと観て、その成長を楽しみにしていきたいと思っています。
さて、その「黒い瞳」の、別の基軸には、宮廷側の貴族で、地方へと任官した、真琴つばさ演じるニコライという青年と、ヤイークコサックの娘、マーシャとの身分を越えた恋物語も存在します。ただ、身分を越えた、といっても、マーシャは、生後すぐに貴族の手にゆだねられ、なに不自由なく生活している娘です。そのマーシャを、風花舞という娘役が演じており、マーシャの可憐さ、純真さを精一杯表現しているという印象が、見ている側にも伝わってきました。ただ、舞台上でのマーシャの設定年齢に、風花さんが、懸命に近づかせようとする努力ははっきりとうかがえるものの、彼女が必死になればなるほど、それがどこかから回りしてしまっているような、そんなところも見えてしまいました。もう少し、無理なく、自然に演じてもよかったのではないかな、とも思われます。(そうした、無理な部分が、第二幕のショーの方では、一気に解消されて、彼女本来持っている魅力が、うまく表現されていました)。また、初風緑の演技も、役柄ゆえのことではあったのでしょうが、全幕のなかで、常に、斜に構えた態度で、微笑みすらどこか皮肉を込めたような、不気味な様相を呈して、光っていたように思われます。特に、あの雰囲気からにじみ出てくる感じは、なにかの不満や悩みを抱えながら、それに対してまっすぐ考えることを拒絶して、暗い影となってしまっている、現代の若者の影にも通ずるところがあるようで、過去のストーリーの舞台の中に、今の時代だからこそ表現できる現代性が、あらわされていたようにも思われます。


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