てるんだ愛し方っC


 樺山ファミリーが買い集めたライト通信
株は200万株にもなる。

 1994年から携帯電話の売り切り制度
が導入され、日本でも大衆に受け入れ
られはじめた。携帯電話はますます
コンパクトになった。値段も驚くほど安価
になった。

 携帯電話の普及に伴い、販売代理店の
成長も目覚しかった。樺山が目をつけた
ライト通信も「HOT SHOP(ホットショッ
プ)」というフランチャイズ店を全国に展開
し、携帯の販売代理店をする会社だった。
社長の名前は軽田という。

 97年に、契約者数が2000万台を突破
した携帯電話は、その後も二桁成長を
続け、2000年には5000万台、そして
現在は7000万台に迫る勢いで伸び
続けている。

 ライト通信は96年2月に株式を店頭
公開して以来、資本市場や金融機関
から積極的に資金を調達し、投資を
続けてきた。そして、その資金を今後
伸びていきそうなネットベンジャービジ
ネスに重点的に出資していく。

 90年のバブルの頃は、ウオーターフ
ロント相場と言われ、湾岸開発が進み
地価が青天井となり土地持ち企業の
価値が膨れ上がるというものであった。

 90年代終わりのインターネット相場は
サイバースペースの開拓が進み一
等地を占めるインターネット企業の価値
が膨れ上がるというものである。

  eコマースと呼ばれるインターネット上
の商業活動は想像を越すスピードで
拡大した。

 神の国発言で有名になった当時の首相
は、 インターネット革命(情報通信革命、
或はIT革命とも言う)は産業革命以来の
経済・社会の大変革だと国民を煽り、ネッ
ト関連株は急騰する一方だった。

 軽田は笑いが止まらなかった。錬金術師
のように、自分が投資した二束三文の
クソ会社の株が信じられないような
値段をつけるのだ。ライト通信も、
設立からわずか10年ちょっとで、
東証の一部に登録することができた。
2000年の初めには、株価が
240,000円を超えるところまで暴騰し、
アメリカの雑誌で最も若い資産家の一
人に選ばれた。

 時代の寵児と、もてはやされていた軽田
は、留まることを知らなかった。ピンは
超一流の有名企業から、キリは歌舞伎町
にあるラブホテルまで儲かりそうな所には
なんでも投資した。

 一晩で数百万を使い、クラブで豪遊し、
連日枯れ果てるまで精子を使い切った。
最低でも一日、5人の女を抱ける日が
続いた。

 しかし、ネットベンチャー全盛の時代は
短かった。元から参入障壁が低かった
ために過当競争がおき、ビジネスモデル
が曖昧な企業は淘汰されるようになった。

 ライト通信も、「寝かせ」といわれる架空
契約が週刊誌に載り、株価は急激に
下落した。株価は下がりつづけ、ストップ
安で売買ができない状態が何日も続い
たのだ。それに加え、NTTのアイモード
人気も手伝い軽田のホットショップの
売上は減る一方になった。

 あわてた樺山が手持ちのライト通信
株を売り逃げしようとすると、一日に
数千円単位で値下がりしていったから、
売ろうにも売れなかった。

 「貴様、田園調布にあるどこぞの
迎賓館を30億円でこうたそうやなあ。
おんどれが、そんな心構えしてるから
貴様の会社の株は下がりつづけ
取るのじゃ。責任とらんかい。貴様
それでも人間か?」

 樺山ファミリーは、ライト通信を恫喝して、
保有株を引き取らせようとしたが、社長の
軽田は樺山の強要をはねつけた。

 軽田にすれば、自社株が100分の1
以下になったのだから、樺山のことなど
かまってはいられなかった。砂上の楼閣
をみているようだった。

 ライト通信株で痛手を被った樺山は、
その損失を取り戻すためもあって、株の
買い戻し要求に応じやすい企業を
厳選するようにした。

 つまり、ワンマン経営者が支配する
同属会社で、収益が比較的大きい割
に過小資本であるといった共通点を
持っている企業だ。

 その樺山の網に引っかかったのが、
柳沢のバーストリテイリングだ。


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