ミスチルメンバーを幕末に
例えてみました。
適当にやってるんでさらっと読み流してください。
まずは誰でも知ってる有名な
新撰組隊士から。
しかも、有名どころで。
☆桜井和寿=土方歳三☆
土方歳三<ひじかた としぞう>(1835-1869)新選組
1835年5月31日、武州多摩郡石田村で土方隼人の四男として誕生。
1863年、上洛浪士組に参じた土方は、
近藤勇、沖田総司と共に京に残留して新撰組発足の礎となった。
その後、芹沢鴨や新見錦の両局長を粛正して、
近藤一門の結束を固め、新撰組の副長として、手腕を発揮した。
新撰組を一夜にして有名にした池田屋騒動では、その導火線なった古高俊太郎への拷問で、
五寸釘を足の甲に打ち貫き、百目蝋燭を傷口に流れ込ませた。
五稜郭の総裁選で、榎本政権の陸軍奉行並となり、新撰組を離れて市中の警備に当たった。
1869年5月11日、箱舘戦争の激戦において、
わずかな手兵を率い、馬に乗って出陣し、
刀をかざして敵中に斬り込んだとき、銃弾が土方の胸を貫いた。
享年35歳

土方歳三↑。

桜井和寿↑。
ギターの田原= 相馬主計
詳細不明。おれもようしらん。調べるのもめんどくさい。
相馬主計↑。
ベースの中川敬輔= 篠原泰之進(しのはらたいのしん)
諸士取扱役兼監察役
文政十一年(1828)筑後国生葉郡高見村百姓、篠原元助の長男として生まれる。
幼名を泰助と称し篠塚友平、秦河内と称したが、維新後の通称廃止にともない秦林親と改めた。
幼少の頃から武を好み有馬家に仕え、
安政五年六月十五日に有馬右近に随行し江戸赤
羽邸 に入る。
以後王事を尽くさんが為、東奔西走し、文久三年横浜で、
佐野七五三之助、加納
道之助、服部武雄らと
盟約を結び元治元年十月伊東甲子太郎らと新選組に加盟し上洛する。
新規隊士募集で増員した為、役職編成替えが行なわれて、
諸士取扱役兼監察役並びに
柔術 師範となる。
近藤勇の二度にわたる広島芸州入りに随行し、伊東らと行動を共にして、
慶
応三年、御陵衛士を拝命して隊を離脱し、
高台寺塔頭月真院に移る。
この時期に、斎藤一
とともに高台寺に移っているので、
武田観柳斎殺害の可能性はありえない。
慶応四年十一月十八日、油小路の闘いで虎口を脱して、
十二月十八日、近藤勇を伏見街道
藤森神社付近で狙撃する。
鳥羽伏見の戦いでは、薩摩軍とともに戦い、後に赤報隊に参加
、偽官軍事件に連座するが、
難を逃れて、明治四十四年六月十三日没する。

篠原泰之進↑。
ドラムの鈴木英哉=永倉新八(ながくらしんぱち)
松前藩江戸定府取次役の子として生まれる
神道無念流・岡田十松、心形刀流坪内主馬から剣を学び、その道場で島田魁と出会う
そのうち試衛館を知るようになり、そこの近藤勇らと親交を深めるようになる
新選組が結成された後は、副長助勤として二番隊隊長を務め、
また沖田総司、斎藤一とともに剣術指南方として若い隊士を指導したりした
しかし、甲陽鎮撫隊が甲州勝沼で敗戦した後、意見が合わなくなった近藤と袂を分ち新選組を離脱する
そして、靖兵隊を組織し、各地を転戦する
その後、単身江戸に潜伏し、元松前藩医杉村松柏の婿養子となり、杉村義衛と名乗る
明治以降は北海道に渡り、監獄の剣術師範等を務めた
晩年は小樽で悠々自適の生活を送り、新聞などに自分の記事を発表したり、盟友達の石碑を建てるなど
新選組を歴史に残そうと活動した
享年77歳

永倉新八↑。