* 10日目の夜 *

夜更けのキャンプの、軽いざわめきを耳にすると心が落ち着くのを感じる。
まだ怯えている新兵たちの地に足のつかないようなにぎやかさと、古参の兵たちののんびりとした話し声。たまに羽目を外しすぎた連中が急に喧嘩を始めたりもするが、もっとも剣呑なのは誰にも聞こえないように囁かれる密談だ。



* * *


この十日間、ずっと担いできた装備をテントの隅に下ろして、シャープは腹の底からふうっと息を吐き出した。
シャープが自分の軽歩兵中隊を率いて出立したとき、彼らのキャンプはずっと後方にあった。もちろんシャープが使っていたテントもだ。いったいどんな魔法が、まるで出発前と同じようにこのテントを整えておいてくれたのかと不思議だった。
ベッドの脇には書き物机のかわりにしていたワイン樽、出てゆく前に洗濯を頼んでおいたシャツや、どこへ置き忘れたのかと思っていた余分のボロ布までもがきちんと畳まれて置かれてある。誰かが特に気をつけておいてくれたのに違いない。
くたくたにくたびれ果ててはいたが、それを目にするとなんとなく嬉しくなって、シャープはひとりで微笑んだ。
シャープが十日ぶりに姿を現したときには、将校連中をはじめ、彼の指揮下にあった兵隊たちもまるで幽霊を見るような目で彼を見たものだった。

ことの起こりは、季節はずれの豪雨だった。
この地方の痩せた地質は、急な雨に耐えられない。あっという間に川は水かさを増して堤や橋を押し流し、偵察のために先行していたシャープたちを中隊から引き離してしまったのだ。
指揮官を失った兵士たちはやむなく大隊に合流し、シャープは腹心の部下とふたりきりで敵の制圧下にある土地に取り残される羽目になった。
そして、一週間あまりが経ち。
誰もが、シャープ大尉はもうこの世にいないか、敵に捕らえられたものとなかば諦めていた、というわけだ。

だが、またシャープは帰還した。見るからに疲れ、頬もそげたようには見えたが、それでもたいした傷もなく生きて戻ってきた。彼らの乱暴な祝福にこたえ、部下たちの差し出すラムをひとくちだけ飲み込むと、その頬にかすかな赤みがさした。
わあっと胸の内にわき上がってきた歓喜を抑えきれず、シャープは叫んだ。
「よう、くそったれども! またおまえらのバカ面が見られて嬉しいぞ!」
「こんなときまで憎まれ口を叩くこたぁないでしょう、サー?」
さすがに呆れた様子で、彼の背後にいた軍曹がたしなめた。だが、罵られたほうの連中は大笑いしている。そうでなければ、涙ぐんでいる。
シャープはいい気分だった。とても、いい気分だった。
おかげでもう一言も口が利けなくなって、それをごまかすためにラムの残りをぐいと流し込み、笑みを浮かべたまま彼らに背を向けた。


* * *


そうしてテントに戻ると、もう指一本動かしたくない気がした。やっとのことで上着を脱ぎ、どさりとベッドに倒れ込む。空きっ腹に入れたラムは今になって効いてきて、ずっと巡りの悪かった血流がドンドンと音を立てて流れ出すのがわかった。
頬が熱い。疲れているから、すこし熱っぽいのかも知れない。それだけの無理はした、という自覚がある。
もう長靴を脱ぐのも面倒で、そのまま眠ってしまおうかと目を瞑ったとき。
「・・・リチャード、生きてるのか?!」
茶色い明るい目いっぱいに笑みを湛えた工兵将校が、入り口からひょいと顔を覗かせた。
知らせを聞いて駆けつけてきたにしては準備万端だ。彼の手には、酒瓶とグラスが握られていた。
「まったく、なんてこった! 耳を疑ったぞ」
「あたりまえでしょう、マイケル。この俺がそうそうくたばると思われちゃ困ります」
「いやいや、この悪ガキめ。今度という今度はわしらも覚悟を決めたさ。そのくそ生意気な面も二度と見られないだろうとな」
大仰に言いながら、ひどく恰幅のいい将校はシャープの寝転がっているベッドの端に腰掛けた。勧めようにも椅子がないのだ。やれやれとばかり、シャープは上官に対する敬意を表すために自分もベッドの上に起きあがった。彼、ホーガンという男は、シャープの恩人であり、数少ない友人のひとりでもあるのだった。
「いやまったく、信じられん。あの包囲の中から、どうやって戻った?」
「運がよかったんですよ。まあ、俺とハーパーでなきゃ無理だったでしょうがね」
「自慢するんじゃない! まったく、おまえときたら自信過剰な若造だ」
「今日くらいは言わせてください。・・・それは生還に対する褒美ですか、サー?」
にこにこと満面の笑みを浮かべたホーガンにすこし気後れがして、シャープは彼の手にしている酒瓶に目を向けた。いやいや、とホーガンは大仰に手を振りながら、それを身体の後ろに隠してしまった。
「こいつは我が同胞と飲むために持ってきたんだ。優秀な軍曹には、それなりの報償がなくちゃいかん」
「あの野郎にはもったいないですよ」
「何を言う、リチャード。とっておきのスピリッツだぞ。こういうものは、勇敢なアイルランド人に与えられてしかるべきだ」
ちゃぷん、と瓶の中で音が鳴る。微笑みながらシャープは、ホーガンの顔を見返した。
「そして、勇敢なイングランド人は酒もなしにベッドに追いやられる、ってわけですか?まるで12才のガキみたいに?」
それを聞いたホーガンは、今度こそ大きく笑み崩れた。まるで狡猾な悪魔のように開けっぴろげな、邪気のない笑顔だった。
「サー・アーサーが報告を待っておられる、リチャード。きっとうまい酒もあるだろうさ」



* * *


脱いだばかりの上着をまた羽織って、シャープはこの陣営でいちばん大きなテントの前に立った。
サー・アーサー・ウェルズリーが司令所としているテントだ。
警備に立っている兵士たちにチラと視線をくれて黙らせ、シャープはその入り口をくぐった。
正面の、簡易なテーブルの向こうに、この遠征の指揮官である将軍が座っていた。テントの中はまだ明々とランプが灯されており、卓上に広げられたままの地図がはっきりと読めるほどだった。
その地図の上に、まだ使われていないゴブレットがふたつ。焦げ茶色の瓶が一本。待たれていたことがわかる。
だが将軍は、シャープの顔を見ても表情ひとつ変えなかった。これまでに顔を合わせた連中とはえらい違いだ、とシャープは苦笑をかみ殺した。
それでも、身に染みついた敬礼の動作はシャープを裏切らなかった。
「シャープ大尉、出頭しました」
「ご苦労。よく戻った、シャープ」
いかめしい顔を崩さずそう言って、ウェルズリーは手で椅子を示した。おとなしくそれに腰を下ろしながら、シャープは将軍の顔色を窺った。機嫌がいいのか悪いのか、このポーカーフェイスの男はめったに人に感情を読ませない。
ややあって、将軍が沈黙の中に石を投げるように言葉を投げた。
「経緯を聞こう」
「はい、サー。・・・出発して3日目に、川が溢れて中隊とはぐれました。近くに敵の大隊がいたので、隠れ場所にじっと身を潜めていて、隙を見て逃げ出してきました」
「・・・それで?」
「それだけです」
将軍は、冷たい水を湛えたような青い目で、じっとシャープを眺めた。
そして歯切れよく言った。
「君が無事でよかった、シャープ」
「ありがとうございます」
さて、これは褒められているのだろうか? ほんとうに自分の帰還を、彼は喜んでいるのだろうか?
ほんのすこし試してみたくなって、シャープは無礼と知りつつ口にした。
「こちらへ伺えばうまい酒を飲ませてもらえるとききましたが、サー?」
「ほう?」
黒い眉をピンと跳ね上げて、将軍は答えた。
「飲みたいかね、シャープ?」
「ええ、ぜひ。もうずっと酒なんか飲めなかったんですから」
「そうか」
ふむ、と頷いて将軍は、ずんぐりしたブランデーのボトルを取り上げた。トクトクと豊かな音を立ててグラスが満たされてゆく。兵卒上がりの大尉などに飲ませるにはいささか気前がよすぎるのではないかというほど注がれた酒を見て、シャープはちいさく笑った。
どうやら彼は、シャープを酔わせたいらしい、と。

「それで、川向こうの兵備はどの程度だ?」
「よくわかりません。昼間はずっと隠れていたので」
「だが、野営の火くらいは見えただろう?」
「そう・・・見えた限りでは、2個大隊くらいだと思いました。確かではありませんが」
「斥候を出してある。朝には戻るだろう」
そういった、重要だが当たり障りのない話をしながら芳醇な酒を舌の上で転がしているうちに、シャープの頭の芯には眠気が忍び寄ってきた。
酔うには早すぎる。だが思考が麻痺して、まともな答えを返せなくなるのも近いような気がした。
泥のように疲れていた身体にアルコールが浸みてゆく実感があった。分刻み、いや秒刻みに瞼が重くなってゆく。戦況に有益と思われる情報を必死に思い出そうとするが、目の前で重厚な扉がバタバタと閉じてゆくように記憶が断ち切られてしまう。
あれっ、と思ったときには遅かった。
ぐらりと傾いたシャープの頭を、いつの間にかテーブルを回ってきていたウェルズリーが抱きとめていた。
「・・・眠いかね、リチャード?」
ああ、やっとファーストネームを呼ばれた。
「ええ、サー」
「さすがの君も疲れたか」
「ええ・・・でも、生きて帰れました」
「ああ。生きて帰った」
汚れて黒っぽくなった金髪を、ウェルズリーの指がくしゃり、と掻き回す。そのまま顎を持ち上げられて唇を重ねられ、その心地よさに抗えなかった。
穏やかなキスを受け止めていると、うとうととした眠りの淵に引き込まれそうになる。
「君がそのへんをウロウロしていないと、私もつまらんよ」
ため息を吐き出すようにして言った将軍の顔は、シャープには見えなかった。だが肩を抱かれるようにして無理に立ち上がらされ、ひどい酔っぱらいのようにベッドのある隅へ押し込まれると、さすがに目が開いた。
この一角には明かりがない。帳の向こうに透けて見えるランプの光が、ウェルズリーの姿を黒く浮き立たせていた。
ゆっくりとその影が、シャープの上に覆い被さってくる。今朝方、きれいになった川を渡る際に水浴びはしたものの、着たきりだった服や埃のにおいはシャープ自身が気になっていたところだ。だが、将軍は躊躇う様子もなくシャープの上着を脱がせ、あおのいた首筋に顔を埋めてきた。

ほんとうにへとへとで、眠い。
自分の体臭が気になるし、だいいちここは野営のテントだ。誰に気取られるか、わかったもんじゃないというのに。
それでも、この人がしたいんだったら、してもいいかとも思う。
シャープの判断能力は、もう疲労と酒精に騙されて遠くへ逃げてしまった。追いつけないほど遠くへ。

やさしい愛撫が、小雨のように肌の上を滑ってゆく。普段ならもどかしいと感じるようなその感触が、今夜はひどく快い。半分眠りかけているようなシャープには、舌を絡め取られるようなキスさえ夢の中の出来事のようだった。
胸の中に、軽く甘い風が吹いている。久しぶりに嗅いだウェルズリーのにおいが、その感覚をますます深くした。それがただ彼の軍服に染みた虫除けのにおいであることなど、なんの関係もなかった。
「リチャード・・・?」
低い声が、なにかを促すように耳元で囁く。だがもうシャープは目を開けていられなかった。されるがままに受け止めながら、気を失うように眠りに引き込まれてゆく。腰をつかまえて揺すぶられ、耳朶をゆるく噛まれて、とても気持ちがいい、と思った。
「・・・もう君には会えないかと思ったぞ、リチャード」

確かにそう言われたと思ったが、やはり夢かも知れなかった。


* FIN *





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あ、砂袋いります? 吐いた砂は堤防へでも持っていきましょう。
つか自分の理性を疑う昨今です。こんなものを世に問う日がこようとは・・・。
そんな大げさな、ってツッコミはご容赦。不評だったらすぐ下げちゃうしな。
ちなみにこの話には本編があります。長くなりそうです。<また?!

20030820