* アナザー・リポート *

MI−6のサバイバル教則なら、暗記するどころかもう身体の芯にたたき込まれている。
鼻と額が床にぶつかるのもかまわず、両腕で耳と頭をかばいながら身を伏せる。足を爆心に向けるのも基本中の基本だ。
次の瞬間、どおん、っと音がして背後のスチールドアがはじけるように開き、爆風が背中と手の甲をチリチリ焦がしながら吹き抜けていった。重いドアが吹っ飛ばなかったのは幸運だった。あれの直撃を受けては、とても無事ではすまなかっただろう。
ほっと息をつく暇もなく、鉄骨が軋む不気味な音が背後で響いた。ビル本体との接点を爆薬に吹き飛ばされた非常階段が、自重に耐えきれず崩壊し始めた音だ。うわああっとかすかな悲鳴が聞こえる。私たちの後に続いて階段を駆け上がりつつあった、追っ手たちの断末魔の声だった。

それに対して私は、ひとかけらの哀れみも抱かなかった。殺さなければこちらが殺されるのだ。

「残り何人だ?」
爆音ですこし遠くなった耳が、同僚の声を拾った。私のほうが窓に近い。私は黒いコンバットスーツの前をはたきながら窓へ近づき、ちらと下を眺めた。
赤い酸化鉄で塗られた非常階段が、ゆっくりと地面へ崩れ落ちてゆく。仲間を助けようとしてか、遮蔽物の陰に隠れていた男たちがバラバラと舗道へ駆けだしていた。
「・・・10人弱、というところかな」
「半分しか上ってこなかったのか」
「そうらしい」
みじかく答えて、窓を離れる。あの浅黒い肌の兵士たちが狙撃用ライフルを持っていないという確信はないからだ。
その隙に私の同僚は、すんなりと長い腕を伸ばしてエレベーターのボタンを拳銃の一発で撃ち抜いた。下へ呼ばれかけていたエレベーターが緊急停止して、どきりとさせられるような甲高いベル音がビル中に響き渡った。このビルはもう取り壊し寸前といった様子で無人らしかったが、それでもまだ警備システムは生きていたのだ。
「一秒ごとに不利になる。連中の数が少ないうちに、ここを抜け出すんだ」
ひとりごとのように、彼は言った。このビルにいったん身を隠そうと提案したのは彼だったが、それが裏目に出てしまった。もっとも、彼の口調には後悔の念などない。結果論など、今この場ではなんの役にも立たないからだ。
彼は斜めに背負ったツールバッグに手を突っ込み、一巻きのワイヤーロープを取り出して、ベルトのフックに取り付けた。

今回のミッションに、ヘリのバックアップは用意されていない。それどころか、ふたりの身体と頭脳以外にはなんの支援もないことがわかっていながら、私たちは危険を承知でこの国に乗り込んできた。陸軍の研究所に籍を置いているとあるマッド・サイエンティストに接近し、彼が開発した毒ガスの構造式を盗み出すのが目的だった。
最新の電子装備に身を包み、このうえない相棒がついていてさえ、たやすい作戦ではなかった。厳重な警戒をかいくぐって研究所に忍び込み、閉鎖されたデータベースに侵入するのはもっと困難だった。
やっと目的のデータを探し出し、モニターをカメラで写すと同時にPDAにも読み込んで、また自分たちの記憶野にもしっかりと焼きつけた。もしもデータを物理的に破棄せざるをえなかったときには、これだけでも持ち帰らなければならないからだ。
長い夜が明けて、ようやく研究所での仕事を終えて出てきたとき、背中から一発の銃弾が追ってきた。
警備兵たちに追われながら、私たちは古いビルの建ち並ぶ旧市街エリアへ逃げ込んだ。すぐ近くに国境の川が見える。その川の向こうは英国の同盟国だ。対岸までは数百メートル、単独渡河できる可能性は充分にある。

15階下で、サブマシンガンの軽やかな銃声が響く。新米の兵士が緊張に耐えきれなかったのだろうか、この距離では当たるはずもないのに弾丸を無駄にしている。私はニヤリと笑った。追っ手に気の弱い男が混じっていることほど、私を心強くさせることはないからだ。
「どけ」
いつの間にかピンク色のゴム塊のようなものをつかんでいた彼が、その手を横に動かした。パテのようにやわらかいプラスチック爆弾だ。さっき階段のジョイント部分を吹き飛ばしたのもこれだった。
親指の先ほどの量を削り取り、豆粒のような発火装置と一緒に、窓にはめ殺しの強化ガラスに貼りつける。私が両耳を押さえるが早いか、彼はまた銃を上げてそれを撃った。
今度は、爆発の規模も小さかった。下部の支えを失ったガラスがばらばらと崩れて、窓の外へ落ちてゆく。ゴウッと風が渦巻いて急に空気が流れ込み、砕けたガラスの一部が私たちの足元まで飛んできた。
彼の黒い靴のつま先が、ジャリッとそれを踏みつける。準備はできたか、と言いたげに私を振り返ったクールな目つきにため息が出た。

MI−6は、今回のミッションのために使える人材をふたりしかリストアップできなかった。優秀なスパイは何人もいるが、その中でも「パーフェクト」と称されるのは、私と彼、たったふたりだ。私たちが同時に呼び出されるときには、私たちでなければ誰にもなしえないほどの困難な作戦が待っているのだと思わなければならなかった。
私たちはライオンと一角獣の一対にもたとえられることがある。
007と、006。
私と、アレック。
女王陛下と英国に忠誠を捧げた私たちは、これまでにふたりで何度も死線を越えてきた。
新米のスパイと組むやさしい任務よりも、彼としか赴けないような危険な任務のほうが私は好きだった。

* * *

もう何年も前のことだが、一度だけ彼を抱いたことがある。今回ほどシビアな状況ではなかったが、やはり追いつめられて隠れ場所から顔を出すこともできず、じっと息を潜めていたときにだ。
私たちは倉庫の一角に逃げ込み、積み上げられた木箱に背を預けて、ふたり並んで座っていた。もうこのあたりにはいない、と思われたのか、ずっと上空を旋回していたヘリの爆音も遠くなりつつあった。
今にして思えば、私はずいぶんと若かったのだろう。張りつめた緊張感が顔に出ていたに違いない。
(リラックスしろ、ジェームズ)
唇の動きだけでそう言い、彼は私の肩を仲間らしい気安さで抱き寄せた。

私よりひとつナンバーの若い006は、当時すでに局の花形スパイとして知られていた。彼に任せて結果の得られないミッションなどない。冷静にして沈着、磨かれた水のように洗練された物腰の持ち主だが、どんな集団の中に紛れても違和感を感じさせることがなかった。
すらりとした肢体を黒いコンバットスーツに包み、頬を泥で汚した彼は、フォーマルなパーティの客であるときと同じように魅力的な笑みを浮かべた。先ほどの銃撃戦の興奮が残っているのか、この薄暗がりで見ても彼の緑の目はチカチカと光っていた。

(こんなときにはじっとして、体力を温存しておくべきなんだが)
(よく言う・・・アレック)
(ジェームズ、そんなに苛立つ必要はないんだ。リラックスして・・・ほら、別のことを考えていれば退屈な時間なんてすぐに過ぎる)
微笑みながら私の手をとり、可聴レベルぎりぎりの声で囁く。彼の声は天鵞絨か、でなければ極上のビターチョコレートのような甘やかさを秘めていた。騙されているのだとわかっていながら耳を傾けずにはいられなかった。
みずからスーツの前を開き、汗ばんだ肌の上に私の手を押し当てさせる。その上から自分の手を重ねて、アレックは私の出方を窺うようにしばらく動きを止めた。
私の手がスーツの下へゆっくりと滑り込んでゆくと、彼は満足そうに笑みを深めた。クリームをもらったネコのように嬉しそうに、邪気のない笑顔を私に向ける。
(実を言えば、私も退屈でね。このことは報告書には書かないでおいてくれるかい?)
そうして私は、間近に迫った身の危険を忘れた。
ここがまだ敵の基地内であることも、すぐ近くを敵の諜報員がうろついているだろうことも忘れて、アレックに没頭するしかなかった。

お互いに一度も声を立てないままたっぷりと楽しんだ私たちは、夜明けを待って隠れ家を這い出した。
ようやく安全な場所までたどり着くと、アレックは私とはもうろくに話をしようともせず、すぐに報告書を作成しなければいけないから、とあっさり立ち去ってしまった。

あれから一度として、彼の肌を見たことはない。

何度もベッドに引き入れようとしては失敗を重ねた。最初の数回はすれ違いざまに腕をつかんで引き留めるだけでも露骨に嫌な顔をされた。
そんなに気に入らなかったのか、と思うと理由を訊ねるのも気恥ずかしかったが、あのとき、私の下で秀麗な眉を寄せて、必死に声をかみ殺していたアレックの顔を思い出して無理にも自分を慰めた。よくなかったはずがないのだ。
それでもアレックは、私を拒み続けた。
彼がそうする理由はわからないまま、私はもう諦めかけていた。

* * *

ぎざぎざなガラスの残った窓枠に、アレックが躊躇いもなく手を掛ける。手指が傷つくことくらい、生命の危険に比べれば大したことはないと知っている無造作な所作だ。だが私はそれを見ていられず、すこし目をそらした。彼のほっそりとして長い指がとても好きだったのだ。たまに会ってバーで一杯やるときなど、その指の動きに視線が吸いつけられてたまらない気分になることがままあった。
むせび泣くようなベル音は聴覚を圧倒して響き続けている。アレックの言うとおり、一秒でも早くここを出たほうがいい。ジッパーのついた胸ポケットの中で、構造式を写したフィルムが熱くなっているような気がする。気密容器にいれられたそれは、特殊な工具なしに開けようとすれば発火する仕組みになっていた。生データの入っているメモリーチップのほうは、アレックが持っている。コピーをとる時間はなかった。私と彼と、どちらが包囲を突破する可能性は大きいだろうか?
あの黒い顔の連中に生きたまま捕らえられて拷問されるくらいなら、奥歯に仕込んだカプセルを使ったほうがましだ。巴旦杏のにおいのする古風な青酸化合物は、すみやかな死をもたらしてくれるだろう。

そんなことを頭の隅で考えながらアレックを見つめた。
彼は私と同様に、脊椎を防護するためのエアクッションを首と背中の後ろに装着し、細いワイヤーロープを窓枠にしっかりと固定した。このワイヤーが切れたなどという話は聞いたことがないが、基部が壊れたのではお話にならない。
アレックはちらりと私のベルトを見て、腰のフックがきちんと閉じられているかどうかを確かめた。そしてまるで猫科の獣のようなひっそりとした足取りで、破れ窓に歩み寄る。非常ベルは鳴りやまない。
「アレック」
低く呼びかけると、顔だけでこちらを振り返った。
「アレック、今夜は予定があるのか?」
「・・・?」
怪訝そうに眉をひそめた彼の向こうに、パッパッと白い埃が上がる。私たちがこの窓から脱出するだろうことを見越して、まばらな斉射をかけてきているのだ。非常ベルの甲高い音に紛れて銃声が聞き取りにくい。
「ホテルのラウンジで19時に会おう。あそこの支配人を知っている。最上階の眺めのいい部屋を用意してもらうよ」
「・・・何を言っているんだ、ジェームズ。今のこの状況が見えないのか?」
「こういうときでなければ君は、私の言うことを真剣に聞いてくれないからね」
「馬鹿な」
アレックは呆れたように呟き、金色の頭を軽くふった。普段はきちんと後ろへ撫でつけられている髪が、今は塵芥すら含んでぱさぱさと音を立てた。
「ボンド、ジェームズ。子どもだって知ってる名前だ。英雄じゃないか。君ほどの男が、なにを意地になっている? ベッドの相手に不自由しているわけでもないくせに、いつまで私に執着するつもりだ」
「必要とあれば、いつまででも。今度が最後にならなければ、だが」
できるだけのんびりと聞こえるように、私は声のトーンを落とした。アレックの前で余裕のない様を見せるのはみっともないと思う気持ちが、的はずれな方向へ働いている。
「もう何十回も言ったと思うが、アレック。私は君が好きだ。何が気に入らなかったか知らないが、もう一度くらいチャンスをくれてもいいだろう?」

私が言い終えるか終わらないうちに、ベル音が止まった。ほんとうにもう時間はない。軍隊と警察と野次馬たちとが、このビルめがけて殺到してくるまでに。

「・・・まったく、信じられない男だな。度胸が据わっているというよりは、人生を舐めているとしか思えない」
大げさなため息をつきながら、アレックはこぼした。どちらにしても私には神のご加護があるんだよ、と言いたいのをぐっとこらえて、私は彼の目を見つめたままで胸ポケットに手を当てた。
すると、アレックがすこしだけ声を和らげた。
「いいとも、ジェームズ。考えよう。君があのときみたいに、私を焦らして弄んだりしないならね」
「なんだって?」
そんなふうに思っていたのか?
愕然とした私が聞き返したときには、もうアレックは軽々と窓枠を飛び越えていた。
私もすみやかに彼の後を追い、銃弾が飛び交う空へ身を投げた。慎重に距離を測ったから、ワイヤーロープは数メートルの高さで私の身体を跳ね上げるはずだ。そのタイミングを逃さずにフックをはずして着地し、遮蔽物の陰に転がり込まなければならない。騒ぎを聞きつけて集まりはじめた一般市民たちはいい隠れ蓑になるはずだった。彼らが派手な騒ぎに気をとられてウロウロしてくれればその分だけ、私たちを追う目は少なくなる。
案の定、私たちのダイヴィングを見た連中が、わあっと歓声を上げた。馬鹿みたいにぽかんと口を開けた若い兵士が銃撃することも忘れて立ちつくしているのが見えた。
アレックの姿はもうどこにも見えなかった。すでに着地し、身を隠したのだ。彼が捨てたワイヤーが私の頬をかすめ、びゅんと涼しい音を立てた。
頭からまっすぐに落ちてゆきながら私は、アレックと過ごす夜のことばかり考えていた。


* FIN *





■INDEX■


「豆Sharpe。」のべち様に捧げます。要らないとおっしゃっても勝手に。
そりゃまあ、べち様の書かれる孔雀アレックたんには遠く及ばないにしても、
キメキメ目指して書いたんで、どうか許してください。
逆に、007はへたれました。あーあ、やっぱりか。

20030906
20030907あがきの微修正<アップする前に直せよ
20030921名前の表記を「ジェームズ」に変更〜。