* アリア *
自分でもわかってる、俺は汚れてる。
学もないし性根だって褒められたもんじゃない。顔も知らない女の股の間から生まれてきて、物心ついた頃には農園で水桶を担がされていた。俺と同じように、賃金どころかろくに食事も与えられず、がりがりにやせ細ったガキたちがそこには大勢飼われていた。
月に何人かは病気になって、夜のうちに姿が見えなくなった。そいつらがどうなったのか、俺たちには知らされなかった。知りたいとも思わなかった。
いずれ俺たちも同じ運命をたどることになるのなら、わざわざ教えてもらう必要はないからだ。
だが、俺は生き延びた。
初めてまともな服を着せられて農場を連れ出され、遠い町の娼館へ売られたのが12の時だ。
それだって楽な仕事じゃなかったが、炎天下で鞭打たれながら働かされることに比べればずっとましだと、そのときの俺は考えていた。
そして、そこで他人の欲を食い物にすることを覚えた。
俺の欲は、誰かの欲でしか満たされない。
誰かが「欲しい」と思って俺を見るとき、俺はそのかわりに両手を差し出した。
食べ物や貨幣や宝石が、その手の上には載せられた。ときにはまったく役に立たない、花や手紙や言葉が。
俺はその中から自分の欲しいものだけをとり、残りを投げ捨てた。
俺が捨てた中には、ずいぶん綺麗なものもあったに違いない。
15の時、女ができて、俺はその家を逃げ出した。
その女がどうなったかなんて、もう忘れた。
* * *
俺はアトリエの隅のベンチに座り、マラカイトの緑を磨りつぶしている男の手先を眺めていた。
彼はいつものように大きな麻のきれを痩せた身体にまとい、埃っぽい床にじかに座り込んでいた。ゴリゴリ、ゴリゴリと音を立てて、熟練した手つきで乳棒を操っている。きらきらした緑色の粉をときどき指先でかきまわしてみては、まだ足りない、とばかりに黒い眉をひそめ、大きな乳鉢の上に背を屈めなおした。
ミケーレがいないと、彼はずっとこうして顔料を磨っている。でなければ自分の長衣にすっぽりと頭まで埋もれて、部屋の隅でうたた寝をしている。
赤や緑、黄色や青。
彼が作り出す色彩は華やかで、ミケーレがキャンバスにそれを塗りたくると何十万もの値打ちが出た。
だが彼はいつもしかめっ面をしてひどい人見知りで、知らない人間の前では無駄口を叩くどころかほとんど笑いもしない。
生まれつき言葉が出ないのだ。
「・・・そんなことばっかりやってて、つまらなくないか?」
その日の俺は機嫌が悪かった。確か今日はミケーレに呼ばれてたはずだと思って来てみたら日付を間違えていたらしく、彼はアトリエにいなかったのだ。
どこへ行ったんだ、と聞いたら、知らない、と素っ気なく首を振られた。
俺は勝手にアトリエの棚を探して、ミケーレが飲み残していたワインを見つけだした。上等な赤だった。
瓶の口からじかに飲みはじめた俺を、彼は責めなかった。
ただ困ったように眉を寄せて笑って、あぐらをかいた膝の上に抱えた乳鉢の中にぱらぱらと顔料を足した。
彼がごりごりと顔料を磨る、単調な音が昼下がりのアトリエに響くばかりだった。
「おい、エルサレム」
俺はベンチの上にだらしなく寝ころび、遠くから彼に笑いかけた。彼は特に反応しなかったが、かまわなかった。
「本当は知ってるんだろう? ミケーレはどこへ行ったんだ」
知らない、と彼は俺を振り返って、小鳥みたいに首を振った。それからすぐに視線を落として、また砕石に取りかかる。
俺は信じなかった。
彼はほんのガキのころに、ミケーレに買われてきたそうだ。
口の利けない男のガキなんぞ、育てたところでまともな仕事になんかありつけやしない。たまたま知り合いから彼のことを聞いたミケーレが、その家族に施しをするつもりで引き取ったって話だった。
口減らしに殺されるかわりに、彼はミケーレの庇護下におかれて、読み書きと仕事を教えられた。
彼はミケーレのために色をつくる。綺麗な色を。
そしてミケーレは、おとなしい彼を放埒なパーティには連れてゆかない。
痩せぎすで内気だがハンサムな彼は、ミケーレにとても大切にされている。
* * *
俺は機嫌が悪かった。
麻布から突き出た、彼のむき出しの肘や膝を見ていると、無性にいらいらした。
こんなにも無防備でいられるのは、彼が自分の魅力に無頓着だからだ。
誰かの欲が自分に向けられるなんてことを考えないからだ。
誰かの欲を利用してやろうなんて思わないからだ。
俺とは違う。
彼もそう言った。小さなグラスに鼻をつっこんで、
(エルサレムは違う。あれはただ、私の手伝いをしているだけだ)
俺のことは淫売も同然に扱う男が、彼とは夜中に寝室でふたりきりで抱きあってもキスひとつしないと言う。まるい坊主頭を優しく撫でてやって、ガキのころからそうしていたように抱きしめて、それでふたりともぐうぐう眠ってしまうんだと。
そんなことが信じられるもんか、と俺は大口を開けて笑った。
胸の奥では信じていた。
「なあ、おい。エルサレム・・・」
空になった瓶をゴロリと床に転がして、俺は立ち上がった。
天気のいい日で、暑かった。もっともこのあたりじゃ、毎日のように天気はいい。
俺は酒と気温のせいで汗ばんでいたから、シャツの前を全部はずした。
そのまま近づいてゆくと、俺より先に影が彼に触れて、彼は怪訝そうに顔を上げた。
この暑いのに、彼は汗ひとつかいていなかった。
まるで教会に飾られてる、冷たい石の彫刻みたいに平気な顔をして、俺を見上げた。
俺はちょっと唇を舐めた。
そういえば、ワインは濃かったがちょっと酸っぱかった。
「おまえ、男とやったことあるか?」
彼は黒い目を大きく見開き、慌ててブルブルと首を振った。そのとき初めて俺の格好に気がついたらしく、乳鉢を土間へ置いてじりっと後ろへ後ずさる。逃がすつもりはなかった。いきなり立ち上がられないよう、俺は上からぐっと彼の肩をつかんでおさえつけた。俺の汚れたシャツの裾が、彼の鼻先でひらひらと泳いだ。
彼の、言葉を発することのない唇がぎゅうっと山形に引き歪められ、同じく両端の下がった眉がぴくぴくと神経質に動いた。俺は思わず笑い出しながら、汗ばんだ自分の腹を手のひらで撫でまわした。
おどおどと伏せられる彼の顔を見ていたら、急に喉が渇いてきた。
聖なる都の名前をもらったこの男が、最中にはどんな顔をするのか見てみたいような気分になったのだ。
「じゃあ、女は?」
なんの気なしに聞いたら、今度はこくこくと頷かれた。経験がある、と。嘘だか本当だかわかりゃしない。彼にだって見栄をはる権利くらいはあるはずだ。
俺はガラにもなくドキドキしながら、彼の前に膝を屈めて中腰になり、これ見よがしにシャツの前を大きくはだけた。ちょうど俺の臍のあたりを彼の鼻先が一瞬かすめ、それからぎゃっと声を上げんばかりに逸らされた。過剰な反応だった。意識していなければ、こうはならない。
なんとなく後ろめたい気分を苦笑いで紛らして、俺はシャツを脱ぎ捨てた。
彼はびくびくと背を丸め、主人にぶたれるのを恐れているガキのように腕を上げて、目の前に曝されている俺の身体を見ないようにしていた。
あいにく、俺には自信があった。
彼が顔の前に上げている腕をそっと取り上げ、手の甲で胸や腹を撫でさせた。困り果てたように彼は視線を下げていたが、自由なほうの手では自分の膝をつかんだまま、俺を押しのけようとはしなかった。
「・・・ミケーレは夜まで帰ってこない。そうだろ?」
彼はなにも言わなかった。たぶん、口が利けたとしても答えなかっただろう。
俺は唇だけで笑い、彼の腕を引っ張って立ち上がらせた。部屋の隅には俺がさっきまで寝転がっていたベンチがある。丈夫な木製で、男がふたり乗っかったくらいではびくともしないことは何度も実験済みだ。
素直にそこまでついてきた彼は、俺がもぞもぞとベンチの上に腰を落ち着けるのを、所在なさげに立ったまま待っていた。どうしていいかわからなかったのだろう。あるいは、なにを求められているのか。
俺は慌ただしくズボンを蹴り脱ぎ、明るい中で裸になって、もうなにも言わずに彼の手を引いて傍らへと招いた。彼は粗末な麻の布を背中へ放り上げ、それでもまだ俺の顔は見ずに、ベンチの上に片膝をついた。
いい天気だった。アトリエの窓にはカーテンがなく、白茶けた漆喰の天井に反射光が躍っていた。
俺は、黙ったまま自分の上にのしかかってくる彼の肩越しに、その光を見ていた。
彼は下手だった。信じられないほど下手くそだった。
だが不思議なことには、その筋ばった手指であちこちいじりまわされると、俺は感じて悲鳴を上げそうになった。
乱暴じゃない。繊細でもない。
彼はなにかを確かめるみたいに、強い指先で俺の身体を触った。骨も筋肉も、腰も肩も胸も、唇の形も鼻梁の線も彼の指にぜんぶ覚えられてしまいそうなくらいだった。
こんな愛撫のやりかたは知らなかった。
「ウ、アッ・・・やめろ、エルサレム!」
ついに耐えかねて、俺は叫んだ。ぎょっとした彼がいきなり手を離したので、なんだか物足りないような気がした。
俺は混乱し、汗をかいていた。肋の内側から叩かれるように、心臓がドンドンと鳴っていた。
どうしてあんな大きな声を出してしまったんだろう?
それが悔しくて、俺はぷいと顔を背けて目をつむった。
閉じた瞼の裏に、明るい日差しを感じた。
それが急に翳ったかと思ったら、ふわりと彼の手が俺の目の上を覆った。やはりさらさらとして、やけに気持ちのいい手触りだった。
うっすらと目を開けると、絵の具の色素がこびりついた指の間から、どことなく悲しそうな彼の瞳が見えていた。
「・・・大丈夫だ。続けろよ」
誘ったのは俺なんだから、と俺は唇を歪め、彼の掌の内側にちゅっと音を立ててキスをしてやった。
すると、彼はほっとしたように目を細めて、緑色の筋の浮いた指で俺の頬を撫でた。
たぶん、細かい絵の具やにかわの粉が、彼の手にはついているのだ。
俺はもう一度目をつむり、その感触を追った。
こいつがしゃべれて、なにか気分を台無しにするようなことを言ってくれればいいのに、と思いながら。
* * *
俺が予想したとおり、ミケーレは日が暮れるころになっても帰ってこなかった。
ワインの酔いもすっかりさめて腹を空かし、ため息をつきながら俺がアトリエを後にする頃には、殺風景な土の床には金色の夕日が長く射し込んでいた。
その中で、彼が静かに絵の具を磨っていた。普段とかわりばえのない、静かな動きで。
ミケーレの気持ちがなんとなくわかったような気がした。
俺には汚せない。
* FIN *
■INDEX■
なにを書いているんだ、と。
考えるな、考えたら恥ずかしくてアップできなくなる!
行っとけ〜〜!!<自分に言い聞かせてます
20040223
20040224足してみた。