* ブラインド *
たったひとつだけ、思い出すだけで後悔に胸が灼けるような記憶がある。
もう二度とあんな思いはしたくない。
ただそれだけだ。
* * *
夜更け、ふと目が覚めてみると、傍らに彼がいなかった。確かにこの腕に抱いて眠ったはずなのに、とぼんやり考えながら、自分のテリトリーの中にいるときならではの気楽さでゆるやかに周囲の様子を確かめる。もちろん、どこにいたって確実に安全な場所などありはしないが、たまには割り切って休めなければ、神経が焼き切れてしまう。
3時間ほど眠ったはずだ。昨日まで滞在していた中東との時差を考えても、体内時計は夜明けはまだ遠いと言っている。裸の首筋や肩に触れる空気はひんやりと冷たい。
耳を澄ますと、低いモーター音が聞こえた。隣室へ通じるドアの下から、かすかな明かりが漏れていた。
私はベッドの上に広げて放り出してあったガウンを引っかけて、彼を捜しに出かけた。
リビングは、彼の好みに合わせて無機質なしつらえにしてあった。ガラスとジェットブラック、そして花の咲かない観葉植物に飾られた、だだっ広い吹き抜けの部屋だ。南側いっぱいに切られた窓にはいつもブラインドが下ろされている。せっかくの眺望がもったいないと思うのは私ばかりではないだろう。この部屋に戻ってくるごとにそれをやんわり指摘するのだが、明るすぎて落ち着かないよ、と彼は笑うばかりだ。
もちろん、彼がそうしたいというなら私に異存はない。
ドアを開けると、白い壁面にぽつりぽつりと灯された間接照明が行く手を照らしてくれた。私が土産として彼に贈った花束が、まだテーブルの上に置いたままになっている。彼も私も、それをわざわざ花瓶に生けてまで長持ちさせようというほどの執着心は持ち合わせていない。どうせ枯れるものなのだから。
それでもまだ室内には、バラの甘酸っぱい芳香が漂っていた。私はテーブルの端までのんびりと歩いていって、その花弁にそっと指を触れた。冷たかった。
「・・・すまない、ジェームズ。起こしたかい?」
先に沈黙を破ったのは彼だった。
広いテーブルの反対側に座った彼は、最近よくそうしているようにノートパソコンを開いていた。私がいない間は暇だからと、珍しく彼にせがまれて買ったものだ。最新の情報端末を扱い慣れたスパイの目には、まったく無害なおもちゃのようなマッキントッシュ。
私はゆっくりとテーブルを回って、彼の隣に立った。彼は微笑んで、私を振り返った。彼がかけている眼鏡の縁がキラリと光る。あの大けが以来、視力が弱くなってしまって戻らないのだ。日常生活に不自由はないが、こうしてものを読むときなどは眼鏡があったほうが目が疲れないのだという。
私の罪じゃない。わかっていてもなお、やはり胸は痛む。
ちらりと見ると、彼のパソコンの画面はそれこそ無害な、インターネットの最大手ポータルサイトを表示していた。いくつかのリンク先は色が変わっていて、彼がすでにそこを参照したことを教えてくれた。株価指数と国際ニュース、それから地図サービスのリンクだ。
アレック・トレヴェルヤンともあろう男が?
ありえない。
私が入ってくるまでに彼がなにを見ていたのか、あるいはこのパソコンでなにをしていたのか、知りたいと思ったが教えてくれるつもりはなさそうだ。問いつめたところで彼は笑って否定するばかりだろうし、ましてや彼がそんな痕跡をパソコンのデータに残しておくとも思えない。
どうせ立証できないなら、疑うだけ無駄というものだ。
そんなつまらないことで、彼の機嫌を損ねたくはない・・・。
「こんな夜更けに、旅行の計画か?」
笑いながら背中から抱きしめると、彼は照れたように頭を振った。
「いや、こういった地図がどれくらい正確なものかと思ってね・・・」
「だいたいは正確さ」
「そうらしいな」
「99%までね。そのおかげで、残りの1%のごまかしが怪しまれずにすむ」
私は彼の肩越しに手を伸ばして、液晶の画面を指先でかるく弾いた。ガラスの薄い画面がかすかにへこんで、虹色の波紋が浮く。彼は笑いながら私の手を退けさせて、ノートを閉じた。
「よしてくれ。壊れてしまう」
「また買えばいい。最近は民需品もいい液晶を使っているんだな」
「ああ、ありがたいことにね」
パソコンの電源はつけたまま、彼は立ち上がって私に向き直った。すい、と優雅な手つきで眼鏡が外されると、見慣れたグリーンの瞳がこちらを見ていた。あたたかい微笑みを湛えて。
「・・・おかげで、役立たずな元スパイでも部屋にいながらにして情報を得ることができる。それなりにね」
彼はその台詞がなるべく自虐的に聞こえないよう、気をつけて言ったつもりらしかった。私に関する限り、それは逆効果だった。
正面からぎゅっと抱きしめると、彼は素直に頭をもたせかけてきた。その手にはまだ眼鏡を持ったままだ。私がそっと引き取って、背後のテーブルへ置いてやった。以前は私と同じようにジムで身体を鍛えていた彼だが、今ではそんな必要もなくなったので筋肉は明らかに落ちてしまった。それで肥満したというわけではない。むしろ、昔よりも一回り小さくなったような気がする。
あの病院のベッドの上で、ほとんど死にかけていた彼を見てしまったから、余計にそう思うのかも知れない。
じっと抱いていると、寝間着がわりのシャツの下で彼の心臓がトクトクと動いているのが感じられて、なんとなくほっとした。馬鹿な話だ。
私は自分に言い聞かせるように囁いた。
「外へ出られないのはつらいだろうな、アレック?」
「贅沢を言える身分じゃないよ」
彼は間髪入れずに答えて、私の背中へ長い両腕をまわした。顔が見えなくても、彼が微笑していることは声の調子でわかった。
「私にはここしか残されていないんだから」
「最近、またヤヌスの残党が動き出しているという噂も聞くがね」
「私は聞いたことがないな。ガセネタじゃないのかい?」
その組織のかつての首領は、心から驚いたように顔を上げた。いささかオーバーすぎるリアクションだ、と私の本能が警鐘を鳴らす。私がそう思ったことも、もちろん彼には見抜かれているはずだ。
それでも彼は知らぬふりで、ありえない、と首を振った。
「それに、もしも私が生きていることが当局にわかれば、逮捕されて確実に死刑だ。・・・まあ、自業自得だと言われるだろうがね。私をかくまった君にとっても身の破滅だ」
「今さらだな」
「かつての同僚に追われる羽目になるのは、なかなか厳しいことなんだぞ? 私はよく知っているんだ」
彼は冗談めかして言い、私の腕から慎重に身を引き剥がした。私の手首を押さえた指はひやりと冷たく、先ほど触れたバラの花弁を思い出させた。
その冷たい手を上げて、彼は私の頬を両側から挟んだ。ほとんど高さの変わらない彼の顔がゆっくりと近づいてくる。互いの鼻がぶつからないよう、私は少し首を傾けてキスを待ちうけた。
彼の唇は冷たく、そして甘かった。
* * *
胸に残って消えない後悔がある。
ただもう一度だけでいい、問うてほしい。
彼のためなら英国をも裏切れるか、と。
ほとんど祈るようにして私は、そのときを待っている。
* FIN *
■INDEX■
すすすみません、あたしが書くとどうしても暗く・・・。
アレックたんごめん。
未来はなさげな彼らですが、だからこそ束の間の幸せを。
20031216
20031217ちょっとだけ修正
20031224誰も気づかなくとも自分が気づく。