* エッジ・オブ・ヘヴン *

空はただ青く高く澄んで、人はそれをただ見上げることしかできない。
どんなに手を伸ばしても届かない。硬質な輝きを放つ青い天蓋をただ振り仰ぎ、人たる身ではそれに触れられないことを嘆くしかない。
人が空の高みに身を置けるようになるまでには、まだ数年を待たなければならなかった。



* * *


俺が初めてそいつを見たのは、ある春の明け方だった。
弟と共同で借りた掘っ建て小屋のドアに、背中をもたせかけて眠っていたのが彼だった。
見たことのない男だった。ここらじゃちょっと珍しいくらい小綺麗な身なりで、それなのに荷物のひとつも持っていないらしいのが不思議だった。
「・・・おい、あんた」
俺は機嫌が悪かった。近頃あまり実入りのいい仕事がなくて女たちにも人気がなく、その晩も馴染みの女にちょっとつれなくされて、酒場の隅ですすけた思いを味わってきたところだったのだ。
呼んでも起きる様子がないので、硬いブーツの先でゴツンと腰を蹴ってやった。相手もさすがに気がついて、慌てて俺を見上げた。
そのときは、ただ、はっきりした顔立ちだな、と思っただけだった。
俺はできるだけ凄味がきいて聞こえるように、相手の頭上からうんと低めた声を絞り出した。俺は年の割に若く見られて、初対面の相手には舐められることがあるから、そうすることがもう癖になっていた。
「あんた。人んちの前で、何してんだ」
「ああ、すまない。誰の家か知らなかった。このあたりは初めてで」
彼はぎこちなく微笑い、ズボンの尻を払いながらゆっくりと立ち上がった。その一挙手一投足から、俺はじっと目を離さずにいた。当節このあたりじゃ、追い剥ぎやら賞金稼ぎやらが幅を利かせていた。俺もまあ、そのはしくれだったわけだが。
すると、彼はおもむろに両手を上げて、ニコリと笑った。寝起きの声は掠れて、囁くように聞こえた。
「悪気はなかったんだ、ほんとうに。あたりが真っ暗になって、困ったと思っていたらこの家が見えてね。・・・町はもう近いのかい?」
どこか胡散臭く思いはしたが、彼は少なくとも泥棒ではない。ちゃちなカギがかかっているとはいえ、ドアを蹴破るなり窓を叩き割るなりすれば侵入はたやすかったはずだ。盗むほどの値打ちものはなにひとつない小屋だが、そんなことは入ってみなければわからないだろう。
「町はあっちだ」
俺はだるい腕を上げてぞんざいに東を指し、行っちまえ、と言わんばかりに吐き捨てた。
嘘はついていないが、それほど近くもない。途中には何も目印はないから、もしも迷ったら簡単にはたどり着けないかも知れない。そんなことも、どうでもよかった。
俺は疲れてた。早く自分のベッドに潜り込んで、審判のラッパが響くまでまででもぐっすり眠りたかった。どうせ明日もろくな仕事はないのに決まっている。
見知らぬ男は、それでもまだぐずぐずしていた。夜明けの薄明かりに、そいつの金髪がぼんやりと浮いて見えた。その髪をくしゃっと掻きやって、彼は困り果てたように呟いた。
「頼む、水を一杯もらえないか? 水筒がもう空なんだ」
そう言えば、彼は小さな水筒をベルトから下げていた。それをぽん、と叩きながら、瞬きもせずに俺を見上げてくる。その目が薄闇の中でチカリと光った。俺はつい、腰の銃に手をやった。相手は丸腰だというのに、なぜそうも過敏に反応してしまったのか、自分でもわからなかった。
彼は咎めるように俺の手の動きを見つめ、それから左右に首を振った。とてもゆるやかに。
「・・・わかったよ。町は向こうなんだな?」
ため息混じりに呟く。俺は黙って頷き、その男が明るくなり始めた東の地平を目指して歩いてゆくのをじっと眺めていた。
50歩ほど歩いてから彼は後ろを振り返り、俺がまだ外にいてぼんやり立っているのを認めると、ひらりと掌を頭上で泳がせて、また東を向いた。それからはもう一度も振り返らなかった。



* * *


その男のことは、忘れたつもりでいた。
だが、三日ほど後のこと。
町の酒場へふらりと足を踏み入れると、そこに彼がいたのだ。
なけなしの銅貨を払って酒を一杯買い、顔見知りの女と軽口をたたき合って、ふと隅を見ると、見慣れない金髪の男がいた。
あの時の男だと、すぐにわかった。俺のダチのひとりと向かい合って、何か話をしている。マシューって名前で血の気の多いヤツだが、案外まっすぐなところがあって、俺はけっこうそいつが気に入っていた。それだけに、よそ者なんぞとなんの話をしているかは気になった。
カウンターの女におざなりな誘い言葉をかけながら、俺はちらちらとそいつらを見ていた。
すると。
金髪の男がくくっ、と笑ったかと思うと、マシューの耳元に口をつけるようにして、すばやく何かささやいた。それまで笑って話していたマシューは急に笑みを引っ込めて、あたりの気配を窺うや相手の男の背中に腕を回して、するりと撫でた。
俺はびっくりして、あやうく酒にむせてしまうところだった。マシューは俺が見ていたことには気づかなかったらしい。まるで火傷しそうにキツい目をして、相手の顔を見つめている。
「・・・彼、気になる?」
ふと、カウンターの女が言った。俺と話しているときにはついぞ聞いたことのないような、面白そうな声で。それだけで、俺もまた興味をそそられた。
「まあな」
「おとといくらいからこの町にいるわ。メイヤーズに泊まってるんですって。あそこのおじさん、うるさいことは言わないものね」
「メイヤーズに居続けるようなクチなのか?」
「あら。・・・そうねえ、わからないわ。案外偶然だったりして?」
女が挙げたのは、ここらに流れてきた商売女がよく根城にする安宿の名だった。誰もが知っているとおり、面倒さえ起こさなければ宿の主人はおおかたのことには目を瞑ってくれる。そのかわり、食事は出ないし、宿泊客同士のトラブルにも宿側はまったく関知しない。
「・・・でも、ちょっと高いって噂よ、彼」
そう囁いて、彼女はあだめいたウィンクをよこした。もちろん、この店で起こっていることで彼女の知らないことなどない。わかっていて俺をからかっているのだ。
俺は憮然としてカウンターを離れ、別の隅でたむろしている同業者たちと話をしにいった。
マシューと例の金髪男はいつの間にか姿を消していて、ヤツらがいた壁際にはそこだけぽっかりと隙間があいていた。



* * *


俺は翌日も、その酒場へ行った。ダチに貸していた金が少しばかり返ってきて、久しぶりに今夜は浴びるほど飲んでやろう、と意気込んでいた。それこそ彼女が呆れて笑うまで飲んでやろうと。
だが、呆れたのは女じゃなかった。
俺は店に入るとすぐ、窓際の壁にもたれてぼんやりしているそいつを見つけた。
例の金髪のよそ者だ。
酒のマグを片手にぶらぶら近づいて、
「よう」
と言った。
彼は一瞬、不審そうに俺の顔を眺めたが、やがて厳しい表情を崩してニコリと笑った。彼はまるで、魅力という名のランプを自在に点けたり消したりできるコツを身につけているようだった。明るすぎて、目がくらむ。
「君か。この間はどうもありがとう」
「? 俺が何かしたか?」
「方角を教えてくれただろう。・・・水は分けてくれなかったがね」
「なかったんだ。あのうちに、飲める水なんか置いてない」
「どうかな」
水がなくて、あんな町はずれで一日も暮らせるわけがない。案の定彼は納得せず、曖昧な笑みを見せた。笑うと、すこし子どもっぽい顔になる。年はいくつなんだろう?
「あんた、いくつだ?」
興味の赴くままに訊ねると、ちょっと目を見ひらいた。その光彩にランプの光が映って、グリーンの陰影を閃かせた。
「忘れたよ。君はそういうことを気にするのかい?」
「さあ。ちょっと訊いてみたくなっただけさ」
実を言えば、それすら嘘だった。彼の視線は、そうやって俺と話している間も常にスイング・ドアのほうを向いている。誰かが現れるのを待っているのか、でなければカモにできそうな客を物色しているのか。
その視線を引き剥がして、俺の方を向かせてみたかった。
「名前は?」
低くそう訊くと、彼はおもむろに俺に向き直った。俺はそのとき初めて、正面からまじまじと彼の顔を眺めた。
綺麗な顔だった。ここらじゃ見たこともないような、北方系のエキゾチックな顔。すっきりとした頬と高い鼻梁、それから人の心を切り裂くような緑の目。
彼は答えずに、手に持っていた酒を一口ふくんだ。なんとなく思わせぶりに見えたのは、俺の目がもう彼を曇り硝子越しに見ていたからかも知れなかった。すんなりと長い指で、襟元を少しくつろげて見せる。店の中は蒸し暑くも何ともなく、それが彼の常套手段だというのは明らかだった。
それでも、俺は惹きつけられた。日焼けした首筋や顔とは対照的に、シャツの襟元から覗いた彼の肌は抜けるように白かった。指先で色が感じられるわけではないが、ちょっと触ってみたくなった。

たぶん、こんなことの繰り返しだ。俺の人生とか、恋とかは。してみたいと思ったらせずにはいられなくなり、その果てにどんな結果が待っているかなんて考えない。

「・・・なんだ、そうだったのか」
彼はまるでネコのように気だるく笑い、壁にトン、と背をもたせかけた。
「君はぜんぜん興味がないのかと思っていたんだ」
「興味はあっても、金はない」
「それじゃ同じことだよ」
彼はにこやかに破顔して、ひらりと手を振った。憎らしいほど余裕たっぷりな、自分はいつでも待っているから、と言わぬばかりの笑顔だった。
「君はそろそろ友達のところへ行ったほうがいいんじゃないか? 私も人を待っているんでね」
「マシューか?」
「誰だって?」
「昨晩、一緒にいただろう。のっぽで色の黒い、若いのだ」
「ああ、彼か」
ゆるやかに首を振って、金髪の男はまた曖昧に笑った。
「ちょっと話をしただけだよ。見ていたのか?」
「まあね」
ここいらが潮時だろう。俺は最後にもう一度彼の顔をとっくりと眺めて、マグに残っていた酒を干した。彼のつく嘘も真実も、どちらも見きわめたいと思わなかった。まだ、そのときには。



* * *


いつも金になる仕事があるわけじゃなかった。硬くなったパンと水だけで過ごすような毎日でも、それなりに優しくしてくれる女はいた。そういう女に抱きしめられているだけで気分が良かったりもした。
だが、あのよそ者の顔が頭を離れることはなかった。
彼は相変わらずメイヤーズに居続け、うまくやっているらしい。そのことを考えると鳩尾が火に炙られるような気がしたが、どうしようもなかった。
人づてに名前は聞いた。ショーンとかいうらしい。俺と同様、姓は誰に訊かれても答えないという話だった。忘れたか、もともと知らなかったのかも知れない。そんな輩はこの町にはゴロゴロいた。
「・・・そんなに気になるの?」
せっかくベッドに引き入れた女もうわさ話ばかり聞きたがる俺にはさすがに興ざめした顔で、額にちゅっとキスをした。
「本人に聞けばいいじゃない? 知り合いなんでしょう」
「いや、知り合いじゃない」
「じゃ、お近づきになればいいのよ。お酒でもおごってあげて」
女は華奢な両腕で、これみよがしに胸を揺すって見せながらころころと笑った。豊かな胸と飾らない性格は、彼女の美点だ。まだ若いが生まれてからこの商売しかしたことのない女だけに、ベッドでは男がどんな仕草や、言葉を求めているのかがよくわかっていて、それに逆らわなかった。素直な女だった。
俺はくるりと身体の向きを変えて、女の胸に顔を埋めるようにして抱きしめた。くすくす笑う声が、頭上から降ってくる。今夜はもういい、と思っていたのに、そうしているとまたなんとなく身体の芯が熱くなってきた。そっと揉んでみると女の胸は信じられないほど柔らかくて、表面はひんやりとしている。
彼女はクスンと鼻を鳴らして、なだめるように俺の頭を撫でた。
「ルーク、もう時間だから行くわね」
「ああ」
そう答えながらも俺は手を離さない。しょうがないわね、と女はまた笑った。
「朝まで借り切ってくれるの? もちろん、次まで貸しておいてあげるけど」
優しい女だったのだ。



* * *


それからしばらく、俺は町を離れていた。
まだ女の寝床にいるところをダチに探し当てられて、その足で賞金首の追跡に入ったのだ。ケチな強盗だったが、ある町で町長の息子を殺したのがたたって、高い賞金がかかっていた。本人は知らなかったんだろう。撃ち殺してやろうと思ったが地べたに頭をこすりつけて頼むから、生きたままで保安官事務所へ突きだしてやったら、分不相応に厳重な扱いをされて目を白黒させていた。どうせすぐに吊されるのだが、それも自業自得というものだった。
久しぶりにポケットが重かった。いい気分だった。返さなきゃならない金もいくらかはあったが、それは楽しんだ後のことだ。
一緒に仕事をした連中と連れだって、この町でいちばん大きな酒場に入った。大きいといってもたかが知れている。だがこの店はいつもガヤガヤと混みあっていて、普段の俺たちにはちょっとばかり騒がしすぎるのだが、今日はそういった空気が高揚した気分にぴったりだという気がしていた。
俺たちは「頼むから店の中で喧嘩はしてくれるな」と言いたそうな主人から、それぞれ大きなマグで酒を買い、隅のテーブルに陣取った。女を呼ぼうぜ、とダチが言ったが、俺はそのくらいなら娼館へ皆で繰りだそう、と提案した。
そう言いながらも俺は、目の端にちらりと映った横顔に注意を引かれていた。

あの男だ。

そう思ったら、ほかの連中が話していることが何も聞こえなくなり、それまでは心地よく感じていた周囲の騒がしさがひどくわずらわしくなった。
男は相変わらず葡萄茶のチェックのシャツを着て、帽子を被っていなかった。そのかわりに、しなやかそうな金髪が彼の頭を覆っている。ちょうどランプの光の輪の縁に立っているので、斜めから照らされた髪はやわらかい暖色に輝いていた。
彼には今夜も連れがあった。ここで見つけたのかも知れない。
気にくわない、と思ったのは、相手の男が俺の大嫌いなヤツだったからだ。
そいつは名うての横暴者で、俺たちもいくら人手がないときだって、そいつを誘おうとは思わなかった。誰かが納屋を建てようなんてときにも、そいつが呼ばれるのは一番最後だった。そいつの言うことは10のうち9までが嘘、残りのひとつは罰当たりな言葉だった。この町を追い出されずにいるのはひとえに、ヤツの年取った母親を皆がかわいそうに思っていたからだ。少なくとも、母親にとっては大事な一人息子なのだ。
今夜、そいつは壁際の小テーブルに例の男と向かい合ってしがみつき、何か熱心に話をしていた。相手の金髪男はおとなしく聞いているが、どこか心ここにあらず、という顔つきに見えた。
しばらく見ていると、俺たちのいるのとは逆の隅で、ワアッと大きな歓声が上がった。店の中にいた連中の目は思わずそちらへ引き寄せられ、例のならず者も同様だった。
その潮を逃さず、金髪がさりげなくテーブルを離れた。ぶらぶらと壁に沿って歩き、相手の注意が自分に戻ったと見ると軽く微笑んで、じゃあまた、というように手を上げた。少しも嫌味な仕草ではなかったが、男は飛び上がって怒声を上げた。俺たちのいるところからでも、はっきりと聞こえた。
「おい、逃げるんじゃねえ・・・!」
彼は困ったように顔をしかめ、相手が自分に追いついてくるのを待って、一緒に店を出ていった。店の中でもめ事を起こしたら、二度とここで商売ができなくなるのをよく知っている。ボスに牛耳られている女たちとは違って、自分でトラブルに対処できるだけの機転がなきゃやっていけないというわけだ。
俺はマグを置いた。もう二杯目をやりかけていたダチが、不思議そうに俺を見た。
「小便してくる。先にやっててくれ」
ヒューウッ、と細い口笛がどこかから上がったと思ったら、知った顔の黒髪の娼婦がにんまり笑ってこちらを見ていた。俺の知らないところで、どんな噂が流れているんだろう。それも今は後回しだ。
俺はわざとのんびりと、奴らの後を追って店を出た。



* * *


スイングドアを押して出て、表通りにはもう姿が見えなかったので店の裏手に回った。店の窓から漏れる明かりでは暗すぎて、足元がよく見えない。古ぼけた家具やら馬小屋の残骸やらが積み上げられた、ごみごみした場所だ。神経をとがらせ、できるだけ足音を立てないよう注意しながら暗がりの中へ分け入ってゆくと、低い声が唐突に耳を打った。

「すまないが、今夜は先約があるんだ。さっきも言っただろう・・・」
「知ったことかよ。いいから来い」
「簡単に言わないでくれ。こう見えても約束は大事にしているんだ」
「うるせえぞ」
うっ、と彼が呻き声を上げた。相手が相手だけに気になって、俺は声のするほうへまともに足を踏み出した。がさっと音がして、二組の光る目がこちらを振り向いた。
驚いたことに、彼はもうシャツを半分脱がされかかっていた。暗がりにもほの白く浮かんで見える肌が目に毒だった。露わになった胸板が、はあ、はあと荒い息に弾んでいる。女のような柔らかさはなくとも、その薄い脂肪の層をごつい男の手が下から掬い上げるようにつかんでいるのを見てしまうと、たまらない思いがした。
「おい」
自分でもびっくりするほど、尖った声が出た。
「何してる。そいつは今夜、俺が買いきることになってるんだ」
「なんだと?」
俺が相手のことを嫌っているのと同様に、いやあるいはそれ以上に、相手も俺のことが大嫌いなんだろう。唸りながら彼の胸をドンと押しやり、俺に向き直った。
「いつ戻ったんだ、ルーク? 約束してただと、馬鹿言いやがれ」
「誰が馬鹿だ」
吐き捨てながら俺は無造作に距離を詰めた。もう銃は使えない。俺が今夜はまだ一杯しか飲んでいなかったことも幸いした。俺は素面だが、ヤツは相当聞こし召しているらしく、反射が鈍くなっていた。こいつの、こういうところも人に嫌われる要因だった。安酒に酔って気を大きくしては、ろくでもない真似を繰り返す。
ガンと足を払ってやると、あっけないほど簡単に相手は倒れた。
「くそっ、ルーク、てめえ・・・!!」
ガラガラと古い木材の崩れる音に、ヤツの叫びが重なった。それが収まるのを待ったりはせず、俺はよそ者の男の腕をつかんで歩き出していた。



* * *


町の通りへ出る前に、ちょっと後ろを振り返った。人目に付くところへ出る前に、彼が身じまいを済ませたかどうかが気になったからだ。
案の定、彼はまだシャツの前をはだけたままでいた。剥きだしになっていた肩や腹は隠したものの、片手を俺に奪われた状態ではボタンを留めることもままならず顔をしかめている。
手を離して、少し待ってやると
「ありがとう」
とささやいて、ボタンを留めにかかった。震える指ではうまくいかない。手伝ってやろうと手を伸ばしたら、ぎくりと肩が動いた。いささか胸が痛んだ。
「・・・こんなところで、何もするわけがないだろう」
「あ、ああ。すまない。君が怖い目をするものだから」
そう言われたことは無視して、彼の手を振り払い、かわりにボタンを留めてやった。彼はおとなしく両脇に手を下ろして、俺の顔をじっと見ていた。酒場の窓から漏れる、黄色い光がその目に反射してチカチカ光っていた。まるで、暗がりで黄色く光るネコの目のようだ。
「わ・・・私は、君に礼を言うべきなのかな」
曖昧な口振りでそう言ったのは、たった今逃れてきた男より、俺のほうが上客というわけではないかも知れない、と思ったからだろう。オオカミのあぎとからようやく逃げ延びたと思ったら、また別なオオカミが待っていた。そんな気分でいたのかも知れない。
だが少なくとも、俺はあいつよりは紳士的な男であるつもりだった。
「礼なんか要らない」
ボタンをかけた胸ぐらをつかんで顔を近づけると、不安そうにぐっと眉をひそめて、じりじりと後ずさろうとした。俺は素早くその腰に腕を回して、逃げられないように引き寄せた。引き締まってはいるが、女に比べればがっしりした腰回りだ。それでも俺の気はそがれなかった。むしろ、実際に腕の中にしてみると、しなやかに張りつめた身体の質感に意外なほどそそられた。滋味のある食べもののように、芯まで貪ってやりたい気分だった。
「言っただろう。今夜は俺があんたを抱くんだ」
片腕を取って、銀貨のつまったポケットの上に押しつけた。彼は意外そうに目を見ひらき、ようやくほっとしたように身体の力を抜いた。くくっ、と喉の奥で彼が笑うと、もう幾日も髭を剃っていない俺の頬に不揃いな金髪がぱさぱさと当たって、こそばゆかった。
「・・・私は宿へ帰る。ずっと泊まってるんだ」
「メイヤーズか」
「ああ。二階の三番目の部屋だ。・・・君は、少し遅れてくるといい」
「一緒に行く」
彼が俺の評判に気を使おうとしたのはわかっていたが、俺は肩をすくめて断った。
さっきの男は、今頃かんかんになっているに違いない。だいいち淫売宿の壁なんて、紙も同然の薄っぺらさだ。遅かれ早かれ、どうせ知れてしまうものなら、男らしく堂々と入っていったほうがいい。
「君がそれでいいなら、私はかまわないさ」
暗がりだったので、彼がどんなふうに笑ったのかはよく見えなかった。ただ彼は俺の腕をそっとふりほどき、何事もなかったかのように落ち着いた足取りで先に立って歩き出した。



* * *


宿へ入り、ひどく軋む階段を上がってゆく間、誰の顔も見なかった。酔客が吐いたらしい汚物が、踊り場の隅ですえたにおいを放っている。俺は思わず顔をしかめたが、前を歩いている男は気にした様子もなかった。この宿ではこんなことは日常茶飯事なのだろう。
階段を上がりきると、暗い廊下にドアが並んでいた。いずれもふさがっているらしく、どのドアも閉まっている。奥のどの部屋からか、キャーという甲高い歓声が聞こえた。ほかの部屋はおおむね静かで、俺はまだ夜が浅いことを思い出した。
「こいつが、なかなかの難物なんだ」
彼の言葉を裏づけるように、カギはガチャガチャとひどい音を立てた。その間だけ、女の嬌声は低くなった。
どうぞ、と言われて入った室内は、とても殺風景だった。壁際に作りつけのベッド、粗末なテーブルと一脚だけの椅子。染みだらけのカーテンが窓辺にぶら下がっていた。
彼は、その窓に歩み寄ると外の通りをちらと眺め、カーテンをぴったりと閉めた。月明かりまで閉め出された室内は、インクを流したように暗くなった。
「・・・こんなに暗くちゃ、あんたの顔が見えない」
むっつりと言うと、彼が低く笑った気配がした。
「いま、明かりをつけるよ。そのほうがいいならね」
カタカタ、棚の上を探っていた彼は、すぐに蝋燭立てとマッチを見つけて、火を点けた。彼が窓辺のテーブルにそれを置いてこちらへ向き直ると、その表情は黄色い明かりを背にしてほとんど俺には見えなくなった。
そう、窓と自分の間に明かりを置くのは、外から狙い撃たれないための防御策でもある。自分の影を窓に映さないためだ。俺もいつでもそうしている。彼が特別用心深いからというわけでもない。
俺は後ろ手にドアのかんぬきを下ろして、部屋の中央に進み出た。彼はじっと動かずにいる。俺の出方を待っているのかと思ったら、そうでもないらしかった。
「先に値段を決めないか」
もの憂く言って、テーブルに手を突く。
「君はずいぶん金持ちみたいだからね。私が全部欲しくなる前に、決めてしまったほうがいいんじゃないかな」
「いつも前払いなのか?」
「そうだね」
否定も、肯定もしない。ただ薄く微笑んで、俺が何か言うのを待っている。
でなければ銀貨を差し出すのを、待っている。
俺はその空気を振り払いたくて、ポケットに手を突っ込んだ。こうしてみると、夕方それを手に入れたときには感じなかった心細さを感じた。
数枚を掴みだして、枚数も数えずに拳に握って差し出した。彼は素直に手を出した。ちゃりん、と音がして、銀貨の表に光がはぜる。それに刻まれた貴人の顔よりまだ彫りの深い、彼の顔がニコリとする。燭光の影になってはいたが、顔の輪郭でそれとわかった。
「返せなんて言わないでくれよ」
「つまらなかったら、言うかも知れない」
「なら大丈夫だ」
おしゃべりを楽しんでいる余裕は、実を言えばもう俺にはなかった。薄い壁一枚隔てた隣の部屋で、ガタガタと物音がする。隣の客が帰ってきたのだろう。それすら気にならなくなるくらい楽しんでやろう、と心に決めていた。いかにも手慣れたふうに場をつくってゆく、彼の余裕が憎らしかったのだ。
いきなり手をつかんで引き寄せ、ベッドの上にどさりと投げ倒してやると、彼はびっくりしたように目をぱちぱちと瞬かせた。どこまで演技かわからない。俺の性急さをたしなめるように、やんわりと抗議の声を上げた。
「乱暴にしないでくれ。夜は長いんだ、そう焦ることは・・・」
最後まで言わせず、俺は彼の上に覆い被さって唇をふさいだ。彼はちょっと躊躇ったようだが、すぐにキスを受け入れて、俺の背中に腕を回した。
ついさっき留めてやったボタンを、引きちぎるばかりの勢いで外してゆく。彼は何も言わなかった。俺には好きなようにさせ、片腕で俺の首にしがみついて、自分はキスに夢中なふりをしている。
そう、ふりをしているだけだ。
その証拠に、俺の腹の下に敷いた彼は、なんの反応も示していない。俺のほうはもうズボンの前が窮屈なほど突っ張っているというのにだ。
俺がそこをぐっと掴んでやると、彼は一瞬息を詰め、それと一緒に苦痛を逃がすようにゆるく吐いた。俺を責めようとはしないが、まだ熱くもならない。焦れて、布越しにきつく揉みしだくと、これも嘘としか思えない甘い吐息を漏らした。
彼の口腔は、俺と同じ安酒の匂いがする。だがまったく同じというわけでもない。薄く弾力のある唇を甘噛みすると、何とも名づけようのない彼自身の体臭がその底に潜んでいるのがわかった。俺はとても過敏に、そして強欲になっていた。今夜じゅうに彼のすべてを手に入れてしまいたくて、彼の言うとおりいささか焦っていたのだ。
身体だけじゃ物足りなかった。もちろん、目に見えるものだけでも足りなかった。彼の胸の奥に手を突っ込んで、それこそ心臓を掴みだしてやりたいくらいだった。
慌ただしく彼の衣服を剥いで裸にし、自分もシャツを床に脱ぎ捨ててまた彼の上にのしかかると、彼は諦めたように目を閉じて、俺の頭を引き寄せた。こつん、と額と額を当てて、急ぎたがる俺をなだめようとする。
「そう急かされたんじゃ、感じられないよ。・・・ああ、もちろん、君が私を気持ちよくさせたいと思っているなら、だがね。そうでないなら、まあ、・・・手加減してくれと頼むしかないんだが」
「違う」
日焼けしていない、白い胸元に吸いつきながら、くぐもった声で答える。
「あんたにも気持ちよくなってほしい」
「それじゃ、もっとゆっくりやってもらわないと」
「止められない」
本音だった。俺はズボンとブーツとを一緒くたにベッドの下に蹴り脱ぎながら、性急に彼の片足を肩の上に抱え上げた。ちらちら揺れる蝋燭の明かりでは、奥がよく見えない。さすがにそのままではまずいだろうと、唾液で濡らした指先で探ると、きつく引き締まった入り口がすぐに見つかった。ぐい、と押し込もうとすると抵抗が強い。彼は慌てたように俺の胸を押し戻し、だめだ、と言った。
「ま、待て、待ってくれ・・・まだ、君の名前も聞いてない」
時間稼ぎのためのおしゃべりだ。そうだとわかっていても、俺はちょっと動きを止めた。最中にほかの男の名前なんか呼ばれたんじゃ興ざめだ。
「俺はルーク」
「ルーク。福音者だな」
彼はほっとしたように微笑みながら口元を緩めたが、ここらの男の洗礼名なんてどれも似たりよったりだ。きっと彼も、何度もその言葉を口にしてきたに違いない。
「あんたは?」
「・・・」
「なに? 聞こえなかった」
異国ふうのその名前は、確かに聞き取りにくかった。以前、馴染みの女に教えてもらったことも忘れて、俺は真面目に聞き返した。
そうしているうちにも、彼は自分の後ろへ回した手をゆっくりと動かしていた。なんだか妙な匂いがすると思ったら、彼の身体の脇には固く栓をした小瓶が転がっていて、その中身もなんとなく推測できた。
彼の足を膝裏から掬いあげるように持ち上げて、彼の指がその”仕事”をしているところをじっくりと眺めた。彼は見られたくないようで、急いで指を引っ込めようとしたが、俺はその手を捕まえて続けるように促した。彼は諦めたようにため息をつき、またゆっくりと指を動かしはじめた。黄色く遠い燭光の中でも、そうする彼の頬がはっきりと紅潮しているのがわかって、ゾクリと痺れるような快感が腰から背中を駆け上がってきた。
「・・・ルーク、そんなに見ないでくれ」
ついに耐えかねて、彼は情けない声を出した。俺はせいぜい強面ぶった調子で、彼の頬を軽く叩いて脅しつけた。
「あれこれと注文の多い淫売だな? あんたは俺が買ったんだ。客のいいようにするのがあんたの仕事じゃないのか」
それもまた、言葉遊びに過ぎない。彼が何を言おうと、結局は俺のほうに主導権がある。それでも彼はおとなしく口をつぐんで、反射率の狂ったような緑の目でじっと俺を見上げた。俺の心に感情の波を立たせる、不思議な目だった。
「・・・君の好きなようにしていいよ。ほら、・・・もう」
大丈夫だ、と。
彼はオイルに濡れた指でゆっくりとそこを押しひろげて見せ、そうしながら恥ずかしがるように暗いほうへと顔をそむけた。それも演技だったかも知れない。もう、俺にはどうでもよかった。
俺はそそり立った前を片手で扱きながら彼の足の間へ押しあて、勢いよくぐっと押し込んでいった。最初はうまく入らなかったが、少し腰を沈めて角度をつけると難なく飲み込ませることができた。
「・・・くっ、うう・・・」
苦しそうに、彼が歯を食いしばる。俺が邪魔したせいで、馴らしかたが足りなかったのかも知れない。途中まで押し込んで抵抗の強さにいったん諦め、ゆるやかに二度、三度と抜き差ししながら奥を目指した。視界の隅で、宙に投げ出された彼の足指がぎゅうっと曲げられてゆく。物理的な刺激のために、彼の中心が硬くなって俺の下腹に当たる。その反応だけは嘘じゃない。
そっくり全部おさめて、荒い息を整えながらしばらく休憩した。彼の中は驚くほど熱くて狭く、俺をぎゅうぎゅうと締めつけてくる。痛みだか快楽だか判然としない鋭い刺激に、目眩がしそうだった。
大きく仰け反った首筋に、まるで吸血鬼のように吸いついた。彼はびくり、びくりと体を震わせながら、俺の下でじっとしている。やがてふうっと大きく息をついたかと思うと、シーツを掴んでいた指を引き剥がすように離して、俺の胴を抱いた。
「ルーク、君みたいなサイズで乱暴にされちゃ、たまらない。頼むから、ゆっくり動いてくれないか・・・?」
俺はこめかみに汗がにじみ出すのを感じながら、彼の望みどおり、できるだけゆるやかに腰を打ちつけはじめた。



* * *


朝方、俺がふと目を覚ますと彼はカーテンを開けた窓辺に椅子を引き寄せて座っていて、白みはじめた空をぼんやりと見上げていた。
裸の上にシャツを羽織っただけの姿で、その裾から覗く白い腿がひどく肉感的だった。昨晩は飽きるほど貪ったというのにまた自然に前を触りたくなって、俺は自分の正直さに笑い出したくなった。
「何を見てるんだ?」
寝起きの掠れた声で訊くと、彼は俺のほうは見ないままでひっそりと笑った。
「別に何も。・・・このあたりは雨が少ないんだな。空気が乾いてる」
「土地も痩せてる」
「もっと緑の多いところのほうがいいな」
彼は呟くように言ったが、それが何を意味しているのか、俺にもぼんやりとわかった。
この町は永住の地に向かない、と言っているのだ。
俺は裸のままベッドを抜け出して、彼のそばへ行った。木地がざらざらした椅子の背越しに後ろから抱きしめると、彼はだるそうに腕を上げて、俺の腕をはたはたと叩いた。
「こんな商売が、いつまでもできるわけじゃない。金を貯めたら、私は家がほしいんだ・・・」
そうしたら犬を飼って畑を作って、もしかしたら結婚もして、こどももできるかも知れない。
彼は眠そうにそう呟いて、また窓の外に目をやった。何が彼にそう言わせているかもわからないまま、俺は彼を抱いているしかなかった。
俺のうちへ来いよ、と言いたかったが言えなかった。
俺には金がない。

翌週、俺はこれまで断り続けてきた隊商の護衛の仕事を買って出た。のろのろ進む馬車の脇につき従って、顔も肺の中も埃だらけになるわりには実入りの少ない仕事だ。隊商という、遠くからでも追い剥ぎを惹きつける甘い蜜を無事に守り抜くのは、それこそ運に頼るしかないという点もあった。こちらの人数を上回る相手に襲われたのでは、万に一つの勝ち目もないからだ。
それでも、いつでもその仕事はあった。隊商を仕切る商人に気に入られさえすれば、昇給も望めた。
俺はそのために2週間町を離れ、どうにか無事に戻ってきて、かつての同業者たちの冷ややかな視線を浴びた。俺は目先の金に目が眩んで、男らしくない仕事に手を出したヤツだ、というわけだ。
俺はつとめてそれを無視し、まっすぐにメイヤーズへと向かった。

宿の亭主に断りもなく、ぎしぎしと軋む階段を一段とばしに上がった。彼の部屋は手前から三番目だ、と覚えていた。赤いガウンを羽織った女が、階段の上がり口でハイ、と声をかけてきた。髪を結い上げていたので最初はわからなかったが、以前から顔だけは知っていた娼婦だった。
「おい、まだあいつ、あの部屋にいるのか?」
「あいつって誰よ?」
のんびりとした南のなまりで、女は聞き返した。
「あの野郎だよ、金髪の」
「ああ、ショーンね。いるわよ、まだ。とにかく昨夜は声が聞こえてたわ」
ショーン、そう、ショーンって名前だった。
俺は胸の中でそう呟きながら女に背を向け、中に誰がいるかなんて考えもせずにドアをノックした。
答えはなかった。
「出かけてるんじゃない? お昼ご飯よ、きっと」
くすくす笑いながら、女が言う。それならそれで、帰るのを待ってやろう。そう思いながら勢いよくドアを開けると、俺たちの稼業じゃ慣れっこになった鉄くさいにおいがツンと鼻先に漂ってきた。

彼は、部屋の真ん中に裸で転がっていた。ぽっかりと見ひらいた目にはなんの感情も見て取れなかった。
白い胸と、脇腹に一発ずつ弾痕があり、そこから流れ出した血が赤黒く床を染めていた。
俺は戸口にがっくりと膝をついて、その光景を眺めた。背後で、女が長く尾を引く悲鳴を放ったのも薄いベール一枚隔てた世界の出来事のように、遠く聞こえた。
震える膝を叱咤して立ち上がり、彼の身体に手を掛けると、その冷たさにぞっとした。バリッ、と音がして固まった血糊が剥がれる。硬直したその身体は抱きしめることもできず、ただ目を閉じてやって、額にこぼれかかった髪を後ろに撫でつけるのが精一杯だった。
たった一度しか抱かなかった相手だった。
名前だって、ろくに覚えちゃいなかった。
それでも、俺は身体を折るようにして泣いた。がやがやと集まりはじめた野次馬たちのひとりに腕をとられて、そのまま保安官事務所へ連行されてもまだ、自分の立場に気がつかなかったほどだ。
俺が護衛していた隊商のリーダーが呼び出されてきて、確かに今朝まで一緒だった、と証言してくれるまで、俺は鉄格子の中に入れられる羽目になったのだ。
俺はまだ呆然としていて、それに腹を立てる余裕もなかった。
むしろ一人きりにされたことをありがたく思ったほどだ。
人目もはばからず泣きわめくことができる場所など、ここのほかには考えつかなかった。



* * *


俺が稼いできた金は、彼の棺を作るために使われた。彼の持ち物の中からは、小銭一枚見つからなかった。誰が彼を殺ったにしろ、そいつは彼の金をまるごと持ち逃げしたのだ。
復讐してやりたかったが、ついに犯人はわからなかった。事件の後で急に羽振りのよくなったヤツがいるという噂も聞かずじまいだった。そもそも、彼は金なんか持っていなかったのかも知れない。考えようにも、俺が彼について知っていたことはほんのわずかだった。
こんもりと盛り上げた土の塚には、木の枝を十字に縛っただけの墓標が突き立てられた。彼の名前は綴りがわからなかったので、刻まれなかった。迫りくる夕暮れの中で、俺は皆が立ち去った後もしばらくそこに立ちつくしていた。

彼が、もう少し待っていてくれたらよかったのに、と思う。
俺は、もう少し待っていてくれ、と言ってやればよかったのだ、とも。
緑の谷間を夢見ていた彼の、うっとりとした横顔を思い出す。あのとき彼は確かに、幸福そうだった。いつかそこにたどり着けるだろう、と遠い夢を見ていた。

「残念だったな、ショーン」
俺は苦いものを噛みしめるようにひとこと呟いて、粗末な墓標に背を向けた。
もう二度と口にすることのないだろう、美しい名前だった。



* FIN *





■INDEX■

また無駄に長くなっちまいました。
しかも暗すぎ。
死にネタがお嫌いなちみ先生、ほんとうにすみませんが
こんなものでもお納めくださいますか・・・?

ここまでおつきあいくださった皆様、ありがとうございました。
うちってこんなのばっかで、あたしったらもう。

20031005