* 埋み火 *

狭い部屋の壁際には、大きな甲虫の抜け殻のように甲冑が脱ぎ捨てられていた。鈍い鋼色に光るそれは、ゴンドールの白の大将の持ち物だ。
この都のどの建物とも同じ、灰色の石壁。高いところに切られた小窓。
片隅に据えられた簡素な寝台の上には口を開けたままの雑嚢が置かれ、その傍らには小さく畳んだ衣類や薬袋、砥石やほくちといった雑多な品物が積み上げられていた。
これから長い旅に出る男が、手荷物を作っているところだった。


* * *


「・・・仕方があるまい、ファラミア。もう決まったことだ」
「ですが・・・」
「父上のご意向なのだ」
寝台の上にかがみ込んでいた年上の男は、大げさにため息をつきながら肩越しに後ろを振り返った。ちょうど肩の上で切りそろえられたまっすぐな金髪が、疲れたような笑顔にぱらりとこぼれかかった。
「私とてここを離れてはるばる裂け谷へなど行きたくはないが、仕方がない。都の執政殿のご下命とあってはな」
「ですから、私がかわりに行くと申し上げているのです」
「ファラミア・・・」
「ボロミア、ゴンドールの軍団はあなたを必要としているのです。あなたがいらっしゃらなくては兵士たちの志気も上がりません。せっかく奪還されたオスギリアスを、またかの敵の手に渡されたいのですか?」
「そうならぬように、おまえに後を頼んでゆくのだ」
ボロミアと呼ばれた年長の男は無理に笑い、手にしていた革切れを小袋の中に押し込んだ。
「父上はああおっしゃるが、私は知っている。おまえはいい指揮官だ、ファラミア。私がおらずとも、おまえがいれば敵の侵略は防げるはずだ」
「いいえ、私が行くべきです」
もうひとりの男、彼の弟であるファラミアは頑として説を譲らず、薄青い両目に決意をにじませて言った。
「裂け谷までは長い、危険な旅になるでしょう。こんなことのためにあなたが命を懸けていいはずがない」
「それはおまえにしても同じことだ」
「それに、私は以前からかの地を訪れてみたいと思ってもいました。半エルフのエルロンドは世に並ぶもののない伝承の大家ですし・・・」
「では、やはり父上の判断は正しかったのだ」
ボロミアはにやりとして弟を振り返ったが、荷造りをする手は止めなかった。
「おまえのような学者を裂け谷へやったが最後、その伝承とやらを聞き取ることに夢中になって、指輪を持ち帰るという使命も忘れてしまうのではないか?」
「その、使命が・・・」
心配なのです、という言葉を、ファラミアは努力して飲み込んだ。
「・・・お願いです。私を行かせてください、ボロミア。私が出立した後で、父上には私がどうしても行きたがったとおっしゃってくださればいいではありませんか」
「どうしたというんだ、ファラミア?」
今度こそボロミアは不思議そうに眉をひそめて身を起こし、弟の青ざめた顔を見やった。
「おまえらしくもない。父上に背くなど」
「今度は・・・今度のことだけは、どうしても」
ファラミアは俯き、低い声を振り絞った。

今はイシリエンの野伏たちを率いて主にゲリラ的な活動にあたっている彼は、まだ身軽な革鎧をまとっていた。五歳年長の兄、ボロミアに比べるとやや繊細な印象の男だと人々には思われていた。
それは体格の違いによるものというよりはむしろ、彼の穏やかな話しかたや顔つき、また重騎兵の甲冑に身を固めた兄との対比による部分が大きかった。
彼は兄と同様、ゴンドールの執政の息子だ。
だがその父は彼を兄ほどには重く用いず、兄ほどには目をかけなかった。都の執政はその次男を息子とは思っていないらしい、という噂すら、ミナス・ティリスでは公然とささやかれていた。
端から見れば、兄弟はまさに甲乙つけがたいほどの孝子だったのだが。

その弟が、身体の横で握った拳を震わせるようにして頭を垂れている。
ボロミアはさすがに荷造りを続けてなどいられず、彼の前に立って、戦場の塵と汗に汚れた金髪をじっと見下ろした。
ファラミアは、しばらくなにも言わずに、自分のブーツのつま先を見つめていた。
それからようやく、地面に向けて重い口を開いた。
「・・・とても悪い予感がするのです、ボロミア。このままあなたを行かせたら、に、二度と・・・会えないような気がして」
「ファラミア、馬鹿なことを言うな。こんな時代だ、戦に赴くたびに我らは」
「わかっています!」
くすんだ色の髪を激しく振って、ファラミアはぱっと顔を上げた。普段は高地の湖のように冷たく冴えている青い双眸が、このときばかりは熱をもち、うちに秘めた炎を映してきらめいていた。
「ですが、ひとつの指輪は、エルフたちですらもてあますほどに危険なものだと聞いています。強い魔法の前には剣など役に立たないのではないでしょうか」
「ファラミア」
「私が行くほうがいいのです。私なら、たとえ帰らずとも父上は・・・」
「ファラミア!」
ボロミアが、叱るような声を出した。

それを聞いたファラミアは一瞬ぎくりと表情をゆがめたが、すぐに気を取りなおし、吐き捨てるように呟いた。
「父上ばかりではありません。私もあなたを失いたくないのです」
次の瞬間、彼はいきなり腕を伸ばして兄の身体を抱いた。
ガツン、と大きな質量が胸にぶつかってきて、ボロミアは思わず息を詰めた。武装したままのファラミアの革鎧やベルトの金具が、鎧下の薄いシャツしか着ていないボロミアの肋骨にぐいぐいと押しつけられた。
「ファラミア、落ち着け・・・」
ボロミアは掠れた声を吐き出し、弟の身体を押しやろうとした。だがファラミアは聞こうともせず、ボロミアを抱きしめている腕にさらに力をこめた。彼はまた痛そうに顔をしかめて、自分にしがみついて離れない弟の肩や背中を、なだめるように撫でさすった。
ふたりとも、しばらくそのまま動かずにいた。
オスギリアスの兵営でもこの部屋のある奥はとても静かで、遠くから兵士たちの動き回る物音や馬のいななきが聞こえてくるばかりだ。
その静けさの中に、ファラミアの囁きがぽつんと落ちて、波紋をつくった。
「愛しているのです、ボロミア・・・」
「・・・ああ、わかっている。私もだ」
「いいえ、あなたはご存じない。私は・・・私があなたに抱いているのは、兄弟としての愛情などでは・・・」
そう告げる言葉は、ファラミア自身の耳にもひどく遠く聞こえた。
まるで空気がガラスになったように重く、言葉がどこへも響いてゆかない。口に出した告白はいつまでもファラミアの目の前にあるようで、目をつむっても消せなかった。

もうおしまいだ、と胸の中でささやく声がする。
ファラミアは苦い思いをかみしめた。

「・・・私はどこかで道を踏み間違えてしまったんです」
「よせ、ファラミア」
「死ぬまで黙っているつもりでした。でも、もう・・・」
そのあとは言葉が出てこない。ファラミアは、兄の髪に自分の高い鼻梁を埋めた。
ボロミアは驚いて目を見ひらき、荒い息をいくつかついた。信じられない、とその表情は語っていたが、彼の首にぎゅっとしがみついているファラミアには見えなかった。
くぐもった声が、ボロミア、と呼んだ。切ない響きだった。
「行かないでください。私には耐えられない」
そう言うと彼はゆっくりと身を引き剥がし、ほとんど鼻と鼻とが触れ合うほどの距離でボロミアの顔を見つめた。涙に濡れた双眸に、ボロミアは言葉もなく見入るばかりだった。やがて、ファラミアはごくりと喉を鳴らし、唇を重ねてきた。
ボロミアは抗わず、その口づけを受け止めた。
どうしようもなくぎこちない口づけだった。技巧もなにもありはしなかった。互いに女性との経験は豊富なはずが、がちがちに緊張しているファラミアはただ溺れている男が酸素を求めるようにボロミアの唇をむさぼるばかりだったし、ボロミアのほうはといえば、拒みもしないがファラミアに応えようともしない。だがお互いの歯が当たって音が鳴るたびに、彼の眉間の皺は少しずつ深くなった。
「ボロミア・・・」
ファラミアは荒い息を弾ませながら唇を離し、ぐっと奥歯をかみしめたかと思うと、ボロミアのシャツの襟元に手を掛けた。ビリ、と布地が裂ける音がして、胸の結び紐がだらりと垂れ下がった。その下に覗いているのはボロミアの肌だ。ゴンドールの執政の嫡男として、子ども時代を過ぎてからはファラミアでさえ見たことはなかった。
たまらず彼はそこへ唇を押しあてた。ふわり、と鼻先に汗のにおいが漂ってきて、その生々しさに目が眩みそうになった。
頭上で、そのボロミアが深く息を吐いた気配がした。
震えながらファラミアは、相手の脇腹のほうへそろりと手を滑らせていった。
ボロミアはやはり、動かなかった。

これはきっと悪い夢だ。でなければ、誇り高き執政の嫡男が、よりにもよって実の弟にこんな無礼を許すはずがない。
そう思いながらもファラミアは、もう一度ボロミアの赤く日焼けした首筋に顔を埋めようとした。


そのとき、ゴンゴン、と木のドアが叩かれて、ファラミアはぎくりと肩を揺らして振り返った。ボロミアのほうは動じなかった。その場に凍りついて動きを止めた弟の身体を押しのけるようにして、
「誰だ!」
と大声で誰何した。
ドア越しに答えたのは、彼の父親の近衛兵だった。
「大将殿、デネソール候のお召しです。すぐにお越しいただきたいとのことです」
「どちらにだ?」
「広場脇の天幕においでです」
「わかった。すぐに伺うとお伝えしろ」
伝令の兵が慌ただしく駆け去ってゆくと、ボロミアはゆっくりと視線を巡らして、ファラミアを見た。
ファラミアは打ちひしがれたように顔を伏せ、小刻みに肩を震わせていた。豊かな髪がその顔の両側に垂れていて、表情は見えなかった。
ボロミアは彼の傍らに歩み寄り、ぽん、とその頭に手を置いた。
ファラミアはびくりと身を固くしたが、顔は上げなかった。・・・上げられなかったのだ。
「ファラミア・・・」
そう呼ぶ声は優しく、ものやわらかで、それだけにファラミアの胸を打った。数万の兵たちを鼓舞する演説のときとも、伝令の兵と話すときともまるで違う、深く穏やかな声だった。
「私はもう行かねばならない。父上が待っておられる」
「・・・はい」
ようやく答えた声は、苦い涙に濡れていた。それでもボロミアはほっとしたように微笑んで、弟の柔らかな金髪をくしゃくしゃに掻きまわした。
それから、その頭をつかんでぐいっと上向かせた。
ファラミアは、自分が泣いていることを隠そうともしなかった。涙は彼の頬から唇の端へと流れつき、そこから顎の先を伝って胸元へしたたり落ちていった。
その顔を見つめながら微笑を深めたボロミアは、濡れた頬にそっと手をあてた。剣だこのある戦士の指だが、ファラミアにとってはどんな貴婦人の愛撫よりも優しく、甘やかなものに感じられる指だった。
「ファラミア、愛しい弟よ・・・」
そう呼びかけられて、ファラミアは耐えきれずにぎゅっと目を閉じた。
胸の中にわき上がったもやもやとした羞恥と熱に、身体の芯を炙られるような気がした。

すると、ふっと唇にかすめるような口づけの感触があった。
驚いて目を開けると、ちょうどボロミアの顔が離れてゆくところだった。
「ボ・・・」
「裂け谷へは、私が行く」
さっと身を離しながら、ボロミアは灰色の壁に向かって言った。胸元のほつれたシャツの上から素早く袖のない胴着をかぶって、身なりを整える。頬のあたりにはかすかに朱を散らしていたが、ふうっと息を吐いて振り返ったとき、もう彼はゴンドールの白の大将の顔をしていた。
そして、彼はさらりと言った。
「戻ったときにはこの続きをしよう、ファラミア」
突然殴られたとしても、これほど驚きはしなかっただろう。
ファラミアはその場に立ちつくしたまま、大股に部屋を出てゆくボロミアの背中を見送った。

その約束がかなえられることはきっとないだろうと、そのときからファラミアは思っていた。
はじめから、夢だったのだ。


* FIN *





■INDEX■


暗いお話だったので当初は限定公開のつもりだったんですが、
「インクルージョン」を書いたら、少し気持ちが楽になりました。

お話の元ネタは、年末にたつきさんと交わした萌えメール。
あたしが書くとこんな感じになります。<たつきにゃーへ私信(笑)
あたしは原作至上主義者ですが、執政家関連については
ボロミアへの愛ゆえに映画版の設定がビバです。

20040125