* fragile/1 *

以前からずっと思っていた。この家は、ひとりで住むには広すぎる、と。

玄関ホールから優雅な弧を描いて二階へと続く階段を、ディヴィッドはひどく恨めしい思いで見上げた。表の車寄せからここまで、たった数分歩いてきただけだというのに、松葉杖をつかむ腕がもう疲労を訴えている。左足を固めたギブスは重く、だいいち膝を曲げることすらできない。
「ディヴィッドさま、どうぞ私におつかまりください・・・」
初老の執事が助けの手を伸ばそうとしたのを、彼は苦笑しながら断った。執事のほうがずっと背が低い。ホールの電球を替えるためには脚立があればいいが、長身のディヴィッドを支える役には立ちそうもなかった。彼のほかには通いの女料理人と、数人の女中たちがいるだけの屋敷なのだ。
「いや、上れる。大丈夫だ」
そう言ってやり、まだ心配顔の執事に松葉杖を片方、渡した。磨かれた手すりに体重をかけて、ステップの縁をギブスで擦るようにしながら足を運ぶ。一段ずつ、ゆっくりと。皮肉なことに、折ったほうの足はギブスに保護されていてほとんど痛まなかった。痛んだのは、折らずに済んだほうの右足だ。
長い時間をかけてようやく階段を上りきり、今度は執事の助けを借りて自室のソファに腰を下ろすと、自然にため息がこぼれた。
こちらは捻挫で腫れ上がった右のくるぶしが、また熱をもって痛み出していたのだった。


* * *


事故に遭ったのは先週末だ。
所有地の登記の件で首都に赴いたディヴィッドは、弁護士のオフィスから出てきたところで、いきなり舗道に飛び込んできたバイクに跳ねとばされ、そのまま気を失った。
バイクに乗っていたのは若い学生で、正体もわからないほど酔っていたらしい、と病院のベッドで聞かされた。その学生はディヴィッドの脛骨を叩き折った後、街灯にぶつかって、自分は首の骨を折ってしまったのだと。
自業自得だ、と両足を見下ろしながらディヴィッドは毒づいた。きれいに折れているからすぐにくっつくだろうと医者は言ったが、同時に「低気圧が近づけば必ずわかるようになるでしょうな。便利なことですよ!」とも言われたのだ。
そればかりでなく、背中も腰も首も、およそ痛まないところがない。いや、痛まないまでもひどい違和感と張りを感じて、昨晩は病院のベッドの上でまんじりともできずに夜を明かしたほどだった。
「まったく、冗談じゃない・・・!」
あれから三日、そんなことばかり言っている。
やっと帰館した主人のために飲み物をつくっていた執事がそれを聞いて、哀れむように眉を寄せた。


翌日、執事は彼の前にひとりの青年をつれてきた。
「近くの村に住んでおる男でして、ちょうど今、仕事を探しております。旦那様がよくなられるまででも、お屋敷で使っていただくわけにはまいりませんでしょうか?」
やはり寝不足の頭を抱え、ソファに寄りかかったままで、ディヴィッドは青年を見た。くたびれた麻のシャツと、伸びかかった金髪と、それから物珍しそうにあたりを見回している横顔とを見た。目の色は黒っぽい。あまりよく見えなかった。
そのときもう決めていたのに、もっと知りたくてつい言葉が出た。
「身元は確かなんだろうな?」
「はい。私はこれの親をよく知っておりますので。昔は悪さもいたしましたが、お屋敷のものに手をつけたりするような男ではございません」
「名前は?」
今度は、青年に向かって訊いた。今は火の入っていない暖炉を眺めていた青年が、どきりとしたように顔を振り向けた。まさか本当に雇ってもらえるとは思っていなかったのかもしれない。
「ビーンです、ショーン・ビーン」
そうして、ひどくまじめな顔をして彼は、自分の新しい雇い主を見つめた。

ああ、緑だったのか、とディヴィッドは思った。


* * *


ショーンの仕事は主に、ディヴィッドの移動の手助けをすることだった。
ディヴィッドの寝室と居間は二階にあり、食堂は一階にある。例の階段を上り下りするのが苦痛で、自室に引きこもるか、でなければ一階の応接室にでも寝泊まりするほかないと考えて惨めな気分になっていたディヴィッドは、彼を雇ったことでずいぶん気が楽になった。
「どうぞ、旦那様」
階段の上で、ショーンはすこしだけ身を屈めた。彼の手に松葉杖を預け、ディヴィッドがのろのろと腕を上げる。失礼します、と口の中で呟いてショーンはその腕を自分の肩を抱くように捕まらせ、もう片方の腕でディヴィッドの胴をしっかりと支えた。
ショーンのほうがいくらか背は低いが、体重を預けても不安感はなかった。コトン、コトンと音を立てて、ギブスの足が楽に階段を下りてゆく。執事に着せられたという彼の白い綿のシャツは糊がきいていて、自分のせいでその袖に皺が寄ってしまうのが惜しく思えた。
「大丈夫ですか?」
すぐ耳元で、気づかってくれる声がする。足元から目を離す危険を冒して横を見たが、ぴったりと撫でつけられた髪とつむじしか見えなかった。
そういえば、昨日は髪をこんなふうにしていなかった。やはり執事に指示されたのだろうか。使用人が身だしなみに気を配るのは当然だが、わざわざこんな年寄りくさい頭にすることはない。整髪油の匂いも、近くで嗅ぐと鼻につく。
「ショーン」
「はい?」
呼ぶと、彼の身体にびくりと緊張が走った。下ろしかけていた足が止まって、顔が上げられた。
なにも今でなくてもよかったのに、と思ったがもう遅い。
あまりに近い距離から見つめ返されて、反射的に目をそらしてしまった。そのまま、平静を装って眼下のホールを見下ろしたが、網膜に焼きついた、緑の双眸の残像は消えなかった。
「・・・旦那様、なにか?」
ディヴィッドは、自分の心拍数が上がっていることを自覚したとたん、突然笑い出しそうになった。ショーンがひどく心配そうな声を出すのがおかしかった。今日働き始めたばかりの、この青年のほうがディヴィッドよりずっと緊張しているはずなのだ。
「なんでもない。その、・・・明日から髪は固めなくていい」
「ですが、だらしないと言われて」
「私がいいと言ってるんだ。それとも、普段からこんな頭をしているのか?」
「えっ、いえ、そうでは・・・」
「だろうな。似合わない」
ぴしりと言ってディヴィッドは会話を打ち切り、またそろそろと階段を下り始めた。
ショーンの目に浮かんだ困惑には気づかないふりをした。







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土岐野さんの予告コラージュ見て妄想爆発。ありがとうございました。
時代設定は100年くらい前ってとこでしょうか。
地方のお屋敷に、住み込みの使用人さんたちがいた時代。

続きますが、先は長いのでのんびりとどうぞ。(苦笑)
20030711
20030720再アップ