* fragile/20 *
食事が済むとディヴィッドは、また枕に頭を預けて横になった。
病み上がりのせいか、ほんの一杯飲んだだけのワインがひどく効いたようだ。身体がぽかぽかと温かく、目をぎゅっと閉じると後頭部がどこか深い場所へ沈み込んでゆくような気がした。
そろそろ、例の水薬を服むのはやめよう、と思っていた。
あれを服むと身体が妙にだるくなる。今夜はこのままでも充分、ここちよい眠りにつけそうだ。
「ショーン、今夜は薬はいい」
食器を下げ終えて、主人の様子を見るためにいったん戻ってきたショーンに、ディヴィッドは言った。ショーンはふと眉をひそめた。
「ちゃんとお服みになったほうがいいです」
「いや、もういい。余計に具合が悪くなる」
そう言われて、ショーンは困ったような顔をしながらも、わかりました、と答えた。慣れた手つきでディヴィッドの上掛けを丁寧に直し、冷えやすい足元をきちんと包み込む。ディヴィッドは肌触りのいい寝具にすっかり保護されて、丸くなったネコのように安楽な気分でいた。
「・・・おやすみなさい、旦那様」
ショーンの声が降ってくる。
低く掠れた、すこし疲れたような声だ。ショーンにとっても、もう一日は終わりに近づいている。
わがままな主人がおとなしく眠りにつけば、彼はやっと息がつけるのかも知れない。ディヴィッドから解放されて、ショーン自身の趣味や楽しみや、生活にまつわるもろもろの出来事に戻ってゆくのに違いない。
そう思いはじめると、もう少しだけ確かめたくなった。
彼が自分のものである、ということを。
ディヴィッドは重い瞼を片方だけ開けて、せっかく整えられた上掛けの下から左腕を出した。ショーンに近いほうの腕だ。
その腕を伸ばし、指先をちょっと動かして呼ぶと、ショーンは素直にディヴィッドの上に身を屈めた。後ろへ撫でつけてあった髪が、端正な顔の両側にはらりとこぼれ落ちてくる。ショーンの髪自体にはほとんど癖がないが、その生え方はすこし上向きで、おかげで彼の髪は伸びかけのときがいちばん落ち着かないらしかった。
その髪に指を差しこんで彼の後頭部を捕まえ、ゆっくりと引き寄せる。ショーンは抗わなかった。マットレスが沈んで、ピンと張ったシーツに皺が寄るのを気にしながらベッドに手をつき、引き寄せられるままに顔を近づけてくる。いつかと同じように、鼻先が触れ合うまで近づくと目を閉じて、ごくりと喉を鳴らした。すこし顔を傾けて、片側の頬にかかる髪を邪魔そうに掻き上げる無造作な仕草に艶があった。
ショーンの唇は温かく、柔らかい。
軽く舌をからめ、口腔内に引き入れて吸ってやると、きつく閉じられた瞼がかすかに震えた。
「・・・ん」
ディヴィッドの脇についていた腕に力がこもって、マットレスが深く沈んだ。彼の後頭部を押さえていた腕をするりと滑らせ、薄い耳や髪を愛撫しながら頬に手を当てる。皮膚の薄い目の周りを親指の先でそろりと撫で、そのまま鼻梁の脇を伝って唇の端へたどり着かせた。ディヴィッドに翻弄されている唇の間に指を入れられると、ショーンはうっすらと瞼を上げてディヴィッドを見た。
それから、彼はゆうるりとキスを逃れて、ディヴィッドの指先を前歯の間に挟み、軽く吸ってからすぐに離した。舌が動いたはずみに、ぴちゃ、と小さな水音がした。ディヴィッドは気だるく微笑った。
「慣れてきたな、ショーン・・・?」
ショーンはそれには答えず、やはり頬を赤らめつつ身を起こした。濡れた唇を舌先でぺろりと舐め、乱れた髪を手櫛でざっと整えて、言い訳のような呟きを口にした。
「旦那様、もうお寝みにならないと・・・私は下で仕事がありますから」
「ああ」
また目を閉じ、すぐそばで見ていたショーンの顔の輪郭が緑色の輝線になってぼうっと瞼の裏に浮かび上がるのを不思議に思いながら、ディヴィッドは言った。
「行っていい。・・・いま、ちょうどいい気分だ」
「はい、旦那様。おやすみなさい」
頭上のどこかで、ショーンがほっとしたように笑った気配がした。
* * *
ディヴィッドが風邪で寝込んでからずっと、ショーンは居間のカウチを寝室へ持ち込んで、その上で毛布にくるまって眠っていた。満足に動けないディヴィッドが夜中に目を覚ましてバスルームへ行きたくなったときなど、眠い目をこすりながら起きてきて、介添えをした。喉が渇いたと言えば、グラスに白湯を注いで差し出した。急に気温が下がり、ディヴィッドが悪寒を訴えれば湯たんぽをつくって持ってきもした。
だが、その夜。
ふと夜更けに目が開いてみると、ショーンがいなかった。
満月が近いらしく、窓から差しこむ月明かりが室内をぼんやりと照らしていた。
部屋の隅に、いつものようにカウチは置かれている。だがその上には人らしい輪郭がない。ブランケットが畳まれて置かれているだけだ。
ディヴィッドが充分に回復したと判断して、付き添いをやめたのだろうか。いや、あの執事にしてもショーンにしても、ディヴィッドになんの相談もなくそうするとは思えない。
気にはなったが、どうすることもできなかった。
枕元に立てかけられていた杖を引き寄せ、意思のない物質を動かすように足を一本ずつ動かして、ベッドから下ろした。ひやりとした夜気が肌に触れる。ショーンがいればガウンを着せかけてくれるのだが、ベッドの上に広げられたそれを拾うのもひとりでは億劫だった。
「・・・ショーン?」
呼んでみたが、答えはなかった。コツン、コツンと杖を突いて寝室を出て、居間を見回す。そこもやはり無人だった。
不自由だったが、いないものは仕方がない。今さら呼び鈴など鳴らして、寝ている連中をたたき起こすのも気が引けた。
暗い中をひとりでバスルームへ行き、また戻ってきて、普段はあまり使わないソファにぐったりと腰を下ろした。面倒なことをし、考えてもいるうちにすっかり目がさえてしまって、このまましばらく起きていようかという気分になったが、室内には明かりすらない。
さあ、どうしようか?
ベッドへ戻って寝直したほうがいいのはわかっていた。夏とはいえ深夜から明け方にかけてのこの時間は少し底冷えがして、ようやく治ったばかりの風邪にもよくないに決まっているのだが。
ディヴィッドはソファからどうしても立つ気になれず、まるで言い訳のように、夜の静けさの中で耳をじっと澄ました。初めはなんの物音もしない、と思っていたのだが、微風がざわざわと木立を揺らす音や、遠くの森に棲むフクロウの声に気がつくと、自分のほかにも目を覚ましているものがあることに心強さを感じた。
しばらくそうしていて、手足も冷えかけ、そろそろベッドに入らなければならないと真剣に思い始めたころ。
ディヴィッドの犬が、一声吠えた。犬を可愛がっていたディヴィッドには、それが黒い雌犬の声だとすぐにわかった。臆病でもなく、無駄吠えもしないいい犬だった。
警戒したような声ではなかったが、こんな夜更けになぜ吠えたのか、気にはなった。
杖を突いて窓辺へ行き、半分だけ引かれたカーテンの間から庭を見た。
黒い人影が庭を横切って、足早にこちらへ向かってきていた。踏まれた芝生が音を立てないのは、夜露に湿っているからだろう。それでもその人影が窓の近くまで来ると、ざくざくという足音がかすかに聞こえた。それほど、あたりは静まりかえっていたのだ。
人影は、ディヴィッドの寝室の下でいったん足を止めて、窓を見上げた。居間の窓から見ていたディヴィッドには気づかなかったらしい。
ショーンだった。
すぐに彼は顔を下げ、母屋を回り込んで、使用人たちの棟のほうへ行った。それきりなんの物音もしなかったが、ディヴィッドは彼が自分の部屋の窓から入って、何事もなかったようにここへ上がってくるのではないかという気がした。
待つ時間は、ひどく長く感じられた。実際にはほんの数分というところだろう。
やがてホールの階段がみしり、と軋む音がして、ディヴィッドは自分の予想が正しかったことを知った。
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いまや、これほど書きやすいシリーズもない!って
くらいになりました。(苦笑)
おとめちっくだし。
豆バカ推奨かと思いきや、案外旦那様も人気があるようで、
こんなことでは日本の将来がやや不安です。
20031005