* fragile/22 *

翌週の外出日、ディヴィッドはわざわざ彼に「屋敷に残れ」と命じはしなかった。

それを理由にショーンが来ないならそれでもいい、と思ったのだ。
また反対に、彼は必ず来るはずだ、と思ってもいた。たとえそれが希望的観測に過ぎなくとも。

執事はいつものようにディヴィッドの夕食を部屋まで運び、寝酒の準備まで万端整えてから出かけていった。彼には近くの村に娘夫婦がおり、休みには孫の顔を見にゆくのが何よりの楽しみなのだという。
生け垣の手入れをしていた庭師たちの姿が見えなくなり、ぱたぱたと廊下を行き来する女中たちの足音が聞こえなくなる。階下の窓が端から閉められて鍵をかけられ、犬たちを庭に放し終えたショーンが犬舎からぶらぶらと戻ってくる。ディヴィッドはその姿を窓から見下ろしていたが、ショーンのほうは気づかずにそのまま台所のほうへ歩いていってしまった。
それからしばらくして、ホールの大時計が厳かに六時を打った。
階下からは、もうなんの物音も聞こえなかった。家中がしんと静まりかえって人の気配はなくなり、じっと耳を澄ましてみても窓外の木立が風に揺れる音が聞こえるばかりだった。

ディヴィッドはただ、待っていた。


* * *



夏の夕暮れはどこかもの寂しく、美しかった。太陽は遠く西へ傾いてまばゆい光は失われていたが、まだ空は明るく、まばらな雲がバラ色と黄金に輝いていた。
ディヴィッドは窓辺のカウチに座ったまま、青く暮れてゆく裏庭を眺めていた。ディヴィッドの庭師たちが丹精して刈り込んでいる芝生に、ほの白いキノコが大きな輪になって生えていた。俗に言うフェアリーリングだ。悪戯好きな妖精たちは、ああいった場所で夜更けに踊るのだと言われている。
妖精のことなど思い浮かべると、室内の暗さが少し気になりだした。
杖を取って立ち上がり、卓上のランプに火を灯した。部屋を覆いかけていた夕暮れはたちまち追い払われてしまい、黄色い光の輪が揺らめいて、磨かれた寄せ木細工の床にディヴィッド自身や椅子の影を長く伸ばした。
テーブルには、執事が置いていった食事のトレイがある。大きな銀の蓋で覆われた皿が二枚に、面倒がないようデカンタに移したワインが添えられていた。ディヴィッドはそれをちらと見下ろしたが、食欲はまったく湧いてこず、執事が知らせていったはずの献立すら思い出せなかった。

時間はのろのろと、しかし確実に過ぎてゆく。大広間の時計がボーンとひとつ鳴ったので、半時間が経ったことがわかった。
ショーンが上がってくる気配はない。階下はひっそりとして、なんの物音もしなかった。
ディヴィッドは無理に耳を澄まそうとはしなかった。そこまで執着するほどなら、いっそ呼び鈴を鳴らしてしまえばいいのだ。目の前に垂れ下がった紐を二回引けば、すぐに結論は出る。だが、そうしたくなかった。

ドアにノックがあったのは、もうしばらく経ってからのことだった。
ショーンはいつも、控えめなノックをする。加齢のために耳が聞こえにくくなっている執事などは、彼の倍ほどの強さでドアを叩くのだ。
「入れ」
ドアへ向けて声を張ると、半分ほど開けられた隙間からショーンがするりと滑り込んできて、後ろ手にドアを閉めた。
様子がおかしい、と一目見て思った。
彼はまだ明かりの輪の外にいて、表情が窺えなかった。おかしいと言えば、主人に挨拶もせず入ってきた扉のすぐそばに立ちつくしているのもおかしい。普段はきちんと上まで留めているシャツのボタンをふたつほど外して、襟元をくつろげているのも彼らしからぬことだ。ただそれだけでひどく無防備ななりを見せられているような気になった。
「何をしている、ショーン。ここへ来い」
テーブルの脇に立ったまま腕を上げて呼ぶと、大股に近づいてきた。彼のはっきりとした顔立ちの上で、ランプの光が躍った。
それと一緒に、ツンと尖ったアルコールのにおいが鼻をついて、ディヴィッドは思わず顔をしかめた。

主人を待たせておいて、酒を飲んでいたのだ。

そのこと自体は咎めるつもりもなかったが、安い酒のにおいは好かなかった。
「・・・飲んできたのか」
苦々しげに言うと、ショーンははい、と俯いて、普段より赤みを増したような唇に拳を当てた。そのつもりで眺めれば、静かに伏せられた目もともほんのりと上気していて、彼は意識しているはずもないのに艶めいた色さえ刷かれて見えた。
あまり酔っている様子ではなかったが、まったくの素面というわけでもなさそうだった。ディヴィッドの冷ややかな視線を当てられて、赤らんだ顔を上げることもできずにいる。やっと出た声も、まるで草の葉が触れあうようにかすかなものだった。
「・・・すみませんでした、旦那様」
「何がだ」
ディヴィッドは鋭く問い返した。
「私を待たせたことがか? それとも酒くさい息のことか? 酔わなければ我慢できないほど嫌だと言うなら、私の相手などしなくていい。部屋へ帰って、荷物をまとめろ」
「だ、旦那様・・・」
「嫌なんだろう? 私と寝るのが」
松葉杖の先でショーンの胸をトンと突き、ドアのほうへ顎をしゃくって見せる。ショーンは杖で殴られると思ったのか思わず一歩後ずさったが、それ以上は逃げなかった。ディヴィッドは杖を下ろして、じっと彼を見据えた。ショーンが何かを言おうとしているのがわかったからだ。
もしも彼が解雇されたくないと思っているなら、それなりの弁解が必要だと思った。ディヴィッドは眉間に厳しい皺を刻んだまま、相手が言葉を選ぶのを待った。

ショーンはしばらく口をつぐんだまま、じっと自分のつま先を見下ろしていた。それからやりきれなさそうに首を振り、床に向かって呟いた。
「リ、リラックスしろといつも言われるので・・・」
「なんだと?」
「酔っぱらってしまえば大丈夫だと思ったんですが・・・それも怖くて」
「怖い?」
それ以上は答える言葉を知らない、というようにショーンがまた頭を振る。金色の淡い光が周囲にまき散らされるのを見て、ディヴィッドはこうしているうちにもどんどん日は暮れてゆくのだ、ということを思い出した。
急に時間が惜しくなった。
カツン、と音を立てて杖を動かすと、ショーンは反射的に目を上げた。彼の双眸は本来なら極上の翡翠を思わせる硬質な輝きを放っているはずなのだが、その目が今夜ばかりはしっとりと、サテン地のような沈んだ光沢を見せていた。
「持ってこい」
卓上のトレイからデカンタとグラスを拾い上げ、彼の腕に押しつけるとそのまま寝室に続くドアへ歩いた。ショーンはおとなしくついてきて、ディヴィッドのためにドアを開けた。

ランプは居間に置いてきてしまった。ものを見分ける助けになるのは、窓から差しこむ薄明かりだけだ。
ディヴィッドはベッドに腰を下ろし、邪魔な杖を床に投げ捨てると、ショーンの手からグラスを取って酒を注がせた。
本来、ワインは食事と一緒に楽しむものだ。だが何事にも例外ということはある。
ディヴィッドはろくに味わいもせず、一息にグラスを空けてしまった。軽いワインは喉ごしがよく、やがてじんわりと血管に流れて、身体のすみずみにまで行き渡るのがわかるような気がした。
ショーンはまだデカンタを手に持ったまま、ベッドの脇に立っていた。もう一杯をなみなみと注がせて、サイドテーブルに置かせた。
「ここへ座れ、ショーン」
片手で促すと、彼はただ従った。徐々に酔いが回ってきたのか、動作がやや億劫そうだった。
「どれくらい飲んだんだ?」
「は、半パイントくらいです・・・」
半パイントのジンが、ショーンをどれだけ酔わせられるものか、ディヴィッドは知らない。
肩を抱き寄せ、手を取ってクラレットのグラスを握らせると、ショーンはちらりと目を上げて、躊躇うようにディヴィッドを見た。頷いてやるとちょっと匂いを嗅いでみてから、ごくり、と一口飲みこんだ。まるで酒が舌を灼くのを嫌がるような飲み方だった。
「これはそんなふうに飲むものじゃない」
彼の手ごとつかまえたグラスを唇に上げて、手本を見せようと少しすすった。最高のとは言えないまでも、まずまずのクラレットだった。軽くて繊細な香りだが、その底には意外なほどしっかりとした味わいがある。
今度はショーンもゆっくりとグラスを傾けた。おずおずとしたその様子を見れば、こんな酒を飲んだことがないのは明らかだった。彼のような階級の若者が好むような酒ではなく、また好んだところで容易に入手できるものでもない。

そうして幾度か交互に味わい、やがてグラスが空になる頃には、ショーンが飲んできた安酒の匂いもさほど気にならなくなっていた。
「もっと飲みたいか、ショーン?・・・」
グラスを取り上げつつ囁いたが、ショーンはぼんやりと俯いたままだった。ショーン、ともう一度呼ぶと、やっと気づいてこちらを見た。
暗がりに沈んだ瞳に感情は読みとれなかったが、かすかに唇が動いた。なんと言ったのかは聞き取れなかった。
ディヴィッドはもうワインを忘れて、かわりにショーンの唇をゆるやかに貪りはじめた。







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さて、どのくらい飲んだことにしようかと思ったものの、
あたしの基準じゃお話にもならず。(苦笑)

唐突ですが、キノコがダイスキです。かなり詳しいです。
しかもバラマニアでして、いずれも無駄に年季が入ってます。
ふたつ並べるととっても聞こえの悪い趣味ですが、こればっかりは。

20031013