* fragile/24 *
その日は、朝から小雨が降り続いていた。
午前の半分は書斎にこもって事業の見積書に目を通していたディヴィッドは、さっさと仕事に見切りをつけて居間のカウチに戻ってきていた。日が昇りきっても室内が薄暗いから、というのがその理由だった。
書類は読みづらいというのに、本なら読めるのだ。
今朝方、行きつけの書店が届けてきた新刊書の中から、ディヴィッドはまた旅行記を選んだ。夏のさかりだというのにどこにも出かけられず、自宅療養を余儀なくされている男としてはやむを得ない偏向といえた。
今回の本は、壮年の学者が書いたものだった。吸う空気すら乏しい高山地帯の荒涼たる風景と、その山塊の懐に抱かれた青い湖の美しさが淡々と綴られていた。学者自身もひどい高山病にかかり、同行した者たちは何人も死んだという。そんな場所へはとても行けないし行きたくもないが、乾いた筆致に魅力があった。読み進むうちにディヴィッドは、部屋にいながらにして高地の尾根に立っているような気分になった。そこでは空の色も青さを通り越して、限りなく紫色に近く見えるというのだ。
そして本を伏せて、ふと視線を窓の外に移してみれば、目前に広がっているのはしっとりと雨に濡れた緑の庭だ。
世界中のどこと比べてもここより美しい場所があるとは思えない。だが幼い頃から見慣れてきた景色に、今さら新鮮な驚きは感じられなかった。
ディヴィッドはカウチの端に立てかけてあった杖をとり、テーブルの脇まで行って呼び鈴の紐を引いた。
・・・二回。
これという理由もなく彼を呼ぶのにも、そろそろ慣れつつあった。
ちょうどディヴィッドがカウチに戻ったとき、ドアに軽いノックがあった。主の返事を待たず、さっと開かれたドアの隙間からいつものようにショーンの顔が覗いた。
だが、そこから先へ入ってはこず、ぐずぐずと足元を見下ろしたり、後ろを振り返ってみたりしている。また何かつまらないことを考えているな、とディヴィッドにはぴんときた。
「どうした?」
カウチに身を横たえながら声をかけると、ショーンはひどくばつが悪そうに答えた。
「あの・・・すみません。靴が汚れていました」
「外にいたのか」
「いえ。お台所の戸口のところに」
そこにいて、なぜ靴が汚れるのかわからない。だがディヴィッドは深く追求はせず、鷹揚に頷いて笑みを浮かべた。それが、ショーンをどれほど気楽にさせるかということをもう知っていた。
「いいから、入ってこい。気になるなら靴はそこへ脱いでおけ」
「は、はい」
「私の部屋履きを使うか?」
「いえ、とんでもないです!」
勢いよく首を振って、ショーンは言われたとおりドアを入ったところで靴を脱いだ。古い寄せ木細工の床は砂利のついた靴で踏まれるとあっという間に傷だらけになってしまうので、この屋敷の使用人たちは二階へ上がるときはいつも足元に気をつけるよう執事にきつく言い渡されているのだった。
磨き上げられた床で滑らないよう、靴下だけになった足を慎重に運んで、ショーンはカウチのすぐそばまで来た。表情は以前よりいくぶん軟らかくなったものの、彼がディヴィッドに相対するときに笑うことはまずない。もしもすぐに彼の笑顔が見たいと思ったなら、彼と親しい誰かのことを褒めてみるのが近道だ。
さて、呼んではみたものの、何を話そうか。
そう思って室内を見渡すと、書店が届けてきたばかりの本の束が目に入った。それを見て、以前彼に与えた通俗小説のことを思い出した。
「・・・この間の本は読んだのか?」
「えっ?」
「私がやった本だ」
「あ、はい。読みました。ありがとうございました、旦那様」
「どうだった」
「面白いと思いました」
あっさりと感想を述べたショーンは、それからふと唇の端を歪めた。苦笑いを咄嗟にこらえたような顔だったので、気になった。
「何だ?」
「いえ・・・」
ショーンは少しばかり顔を赤くして口ごもったが、ディヴィッドに無言でじっと見つめられると、やむなく、といったふうに言葉を濁して答えた。
「その、あんなに・・・四六時中くっついていたんじゃ、飽きないかと・・・」
「なに?」
「い、いえ。なんでもないんです」
どぎまぎしたように俯いてしまったショーンを見て、ディヴィッドは笑った。そういえば確かに、主人公の恋人たちは暇さえあれば抱き合い、甘い言葉を囁きあってばかりいたな、と思い出しながら。
「ただの小説だろう、ショーン。あの本が売れた頃は、ああいうのが流行ったんだ」
「はい・・・」
そう答えながらも、目をつま先から上げようとしない。
ふと悪戯心が湧いて、ディヴィッドは杖の先で彼の靴下の先を軽く突いた。ぱちり、と瞬きしてこちらを見つめ返したショーンを、指先だけ動かして招き寄せた。
やがてゆっくりとカウチの上に身を乗り出したショーンの手をつかまえて、自分の身体の脇に突かせた。自然と下を向いた顔のまわりに落ちてきた髪が、絹糸の房飾りのように彼の端正な美貌を縁取った。
ショーンは慎重に距離を測りながら目をすがめ、ディヴィッドの唇に触れるだけのキスをした。クスリと微笑ってディヴィッドは、閉じたままの唇の間に自分の唇と、舌を滑り込ませた。
そうしているうち、自分の上に屈み込んだショーンの呼吸が速くなってゆくのを、痛いほど感じた。引き締まった腰に腕を回して促すと、言いつけられもしないのにショーンは片手をディヴィッドの足の付け根に這わせはじめた。いかにもぎこちない手つきなのが彼らしかったが、もしこれがショーンでなければ物欲しそうだと思われても仕方のないような仕草だった。
ふと見上げてみれば、それでもやはり彼は首筋まで珊瑚色に染めて、口腔内を蹂躙するディヴィッドの舌を受け止めている。そっと顎を持ち上げさせると、離れた唇の間に透明な唾液が糸を引いた。しっとりと湿った吐息が、ほんのりと色づいたショーンの唇を震わせた。
「ショーン・・・」
くつくつと、喉奥で笑いながらディヴィッドは囁いた。
「おまえには、もっともっと本を読ませたほうがいいらしいな。・・・とびきり品のないやつを」
そう言われると、ショーンは慌てて起きあがり、丸めた拳で唇を拭ってしまった。
ディヴィッドが彼に向かってまた腕を伸ばすよりも、階下で昼食の準備が調ったことを知らせる鐘が鳴らされたほうが、ほんのわずかに早かった。仕方がないとばかり苦笑して、ディヴィッドは身体の後ろに肘をつきながら言った。
「起こしてくれ。下へ行く」
「は、はい、旦那様」
「さっきのは冗談だ。もし読みたい本があったら、何でも勝手に持って行っていい」
「いえ・・・そんなことは、とても」
「・・・なら、私に断って持って行け」
「はい。ありがとうございます」
そう答えて、ショーンはようやくニコリと笑った。
いま彼を抱けなくても、また次の夜を待つ楽しみがある、と思えたのはこのときが初めてだった。
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ネズミ王国から帰る間中、ずっとこれの先行きを考えていました。
おかげで、あとはもう書く「だけ」です。「だけ」。(遠い目)
10年くらいぶりに「カリビアン」乗っちゃった。
色っぽい船長がいないのが不思議だった。
20031024