* fragile/26 *

しかし、半時間どころか一時間が経ってもショーンは戻らなかった。
ホールの時計が11時半を打ち、痺れを切らしたディヴィッドはとうとう呼び鈴の紐を引いた。
執事は速やかに呼び出しに応えた。それこそ、彼の老齢では信じがたいほどの素早さで現れたかと思うと、ディヴィッドが何か言うよりも早く口を開いた。
「ディヴィッド様、申し訳ございません。まだショーンが戻って参りません」
いささか面食らって、ディヴィッドは鸚鵡返しに訊ねてしまった。
「まだ戻って来ないのか?」
「はい。誰かを探しに行かせます。もし、なにかお心当たりがございましたら、お聞かせ願えませんでしょうか」
「私にか?」
「はい。なにか言っておりませんでしたでしょうか、ショーンは?」

なぜ私に訊くんだ。
そう言ってやるべきだとはわかっていたが、執事があまりにも深刻そうな顔をしているので思いとどまった。汗の滲んだ額には深い皺が刻まれ、とても冗談など受け入れる余裕はなさそうに見える。とても監督下にある使用人の不始末を報告する執事に似つかわしい表情ではなく、隠しきれない不安と苦渋が、その面には現れていた。
そして、不安というものは簡単に伝染する。

ディヴィッドは正体の知れない灰色の靄を振り払うように、さっと片手を振った。
「いや。なにも聞いていない」
「さようでございますか・・・」
「そもそも、それほど心配する必要があるのか? まさかショーンがスプーンを盗んで逃げたとでも言うんじゃないだろうな」
「いえ、滅相もございません!」
執事は慌てて否定し、ポケットから取り出したハンカチで額の汗を拭った。
「念のために確かめましたが、なくなったものはございませんでした。もとより、そういった心配のない男ではございますが」
「どうしたと言うんだ、バーナード?」
まだテーブルの脇に立ったままでいたディヴィッドは、カウチの上にどさりと腰を落としながら呟いた。片足が曲げられないので、どうしても勢いがつく。硬い腕木にまた肘を打ちつけてしまったが、もしショーンがいれば必ず手を貸して、こんなことのないように静かに座らせてくれたはずなのだ。
そのショーンがいない。
そう考えると、ぽかりと胸に空隙を感じた。

「子どもがいなくなったわけじゃない。そのうち帰ってくるだろう」
「ですが、遅すぎます」
ハンカチをしまいつつ、執事はそれでも言い張った。
「あれは決して不真面目な男ではございません。もし急用でもできたなら、必ず私かディヴィッド様に連絡をよこすはずです。それができない理由が、なにかあるのに違いございません」
珍しく早口に述べ立てた執事は、ふと我に返って足元に視線を落とした。ディヴィッドは黙ったまま、なにがこの冷静な執事をこうまで言わせるのかと考えていた。
ややあって、初老の男は静かに言った。
「・・・このところ、あれは村の者たちによく思われていないようでございました。特に若い者たちは無軌道なことをしたがる向きがあるようで、なにもなければ良いとは存じますが、万が一ということも・・・」
婉曲なその説明を聞きながら、ディヴィッドはその声にまた別のしわがれた深い声が重なって聞こえるような気がした。そのときには、たいしたこととは考えなかった。

(相手の若者とて、もしこのことが人に・・・)

「ああ、わかった!」
ガラガラと音を立てて、松葉杖が床に倒れた。いきなり立ち上がろうとしたディヴィッドが、カウチをがたつかせたからだ。些細なことだと思った。執事は驚いて言葉を飲み込み、半歩ほど後ずさった。
ようやく彼の不安の正体を理解したディヴィッドは、頭痛が始まりかけたのを押さえるように、指先をこめかみに当てた。
「わかった。・・・そういった連中に捕まって、逃げられないでいるんじゃないかと言いたいんだな?」


* * *


執事は、女中たちの誰かに行かせるよりはと、みずから出かけるつもりで帽子を取りに行った。ディヴィッドもじっとしていられず、彼を見送るために廊下へ出た。
そのディヴィッドがちょうどホールを見下ろせる手すりまでたどり着いたとき、どこか下の方でキャーッと若い女の声が聞こえた。パタパタ、と軽い靴音を立てて年かさの女中がホールを横切ってゆく。呼び止めようとしたが、間に合わなかった。
台所のほうで、何か騒ぎがあったようだ。

ディヴィッドはじっと耳を澄ました。この足さえまともに動けば、すぐにも階段を駆け下りて行って、騒ぎの原因を確かめたことだろう。だが、待つしかなかった。

ややあって、執事がホールに現れた。急ぎ足に階段へ向かい、ディヴィッドの部屋へ上がってこようとしているようだった。
「どうした、バーナード!?」
手すり越しに声を投げると、半白の頭がはっと上がった。
「ショーンが戻ってまいりました!」
本来は朗報であるべきだ。だが執事の顔は苦々しげに歪められていた。

「・・・喧嘩をしてきたとかで、ケガをしております。お騒がせをいたしました、ディヴィッド様」
そのケガの程度は、と訊ねないでいるためには、磨かれた木の手すりを指が白くなるほど握りしめなければならなかった。だが、重傷であれば執事はそう言ったはずだ。ディヴィッドは軽く頷いて、低く声を絞り出した。
「後で私の部屋へ来させろ。手当が済んで、落ち着いてからでいい」
「かしこまりました」
軽く頭を下げ、執事はそのまま台所のほうへ引き返して行った。






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申し遅れましたが、管財人のモデルはリー様です。
指輪関係のキャストだと、男やお年寄りには事欠きませんが
女中さんの名前なんかつけようと思った日にゃ大変です。(苦笑)
大事に使わなきゃ、とか思っちゃう。
貴重な資源みたいに。

20031026