* fragile/34 *

ようやく気を取り直したディヴィッドが居間へ出ていってみると、ちょうど執事がドアを叩いたところだった。
穏和な丸顔に睡眠不足と安堵感とを半分ずつ湛えた笑顔で、執事はショーンの帰館を報告した。
「濡れ鼠になっておりましたが、無事でございました。昨夜は町で泊まったと申しておりまして・・・」
「妹のところにか?」
「いえ、そこまでは。・・・直接呼んで、お訊きになりますか?」
そう言ったところで、ディヴィッドの不機嫌そうな顔に気がついたらしい。彼は充血した青い目を訝しげに瞬かせた。酔いつぶれて眠ってしまったディヴィッドとは違って、この責任感の強い監督者は昨晩ほとんど眠れなかったのだろう。それが彼の仕事である以上は仕方のないことだが、そう考えるとますます気が滅入りそうで嫌になった。
ひらり、と片手を振って、ディヴィッドはその提案を退けた。
「いや、仕事に支障がないならそれでいい。昼食のときに迎えにこさせろ」
「かしこまりました。遅くなりましたが、朝はいかがなさいますか? なにか軽いものでもお持ちいたしましょうか?」
「そうだな。紅茶とトーストだけでいい」
「かしこまりました、では」
どことなくナーヴァスな空気を察したのか、そそくさと出ていこうとした執事を、ディヴィッドはやむなく呼び止めざるをえなかった。
「・・・バーナード、ショーンが辞めたいと言っている」


* * *


だが、昼食の鐘を待つまでもなかった。
執事が出て行ってからすぐ、耳慣れた軽いノックがあった。ディヴィッドはぎくりとして、思わずドアのほうを振り返ってしまった。
「・・・入っていい、ショーン」
そう答えてやると、ショーンはごく静かに入ってきて、失礼します、とぎこちなく頭を下げた。

彼は昨夜よりもっとひどい顔をしていた。
鋭利に切れ上がった目は片方がすっかり黒紫の痣に覆われてしまい、その縁は汚らしい黄色みを帯びている。顔全体の腫れこそ引いてましになってはいたが、頬骨のあたりの擦過傷や額の傷はまだ生々しく赤かった。もう包帯はしていない。額の切り傷は赤黒い瘡蓋にふさがれ、多少のことでは開かないと見極めがついたのだろう。
着替えは、自前のものが間に合ったらしく、ディヴィッドが与えたシャツはもう着ていなかった。普段と同じ粗末な綿のシャツだ。袖が邪魔らしく半分ほど捲り上げてあったが、その端からやはり打ち身の痣が覗いていた。

「どうした」
ディヴィッドは億劫そうに声を低めて訊ねた。ショーンはまっすぐに彼の前まで歩いてきて、両手に捧げ持っていたトレイを大切そうに差しだした。来客があったのだ。
「旦那様、応接室にホルムさんが来ています。少しだけお会いしたいそうです」
「執事はどうした?」
「たぶん地下室だと思います。お昼から酒屋さんが来ると言って、その・・・種類と数を調べに」
そう言いながら、ショーンはディヴィッドの視線を避けて、目を伏せた。右の目はまだ腫れが残っていて半分ほどしか開けられず、無傷の左目のほうも充血して濁っている。
彼がどこで夜を明かしてきたにせよ、執事同様ろくろく眠らなかったに違いない。
「わかった」
ディヴィッドはすぐに杖をとって立ち上がった。

ホルムというのは、果樹園の管理人の名前だった。昨晩の冷雨でリンゴやアンズが被った被害について報告がしたいのだろう。ホルムは気のいい年寄りだが心配性なところがあって、たいしたことでもないのに慌ててディヴィッドの指示を仰ぎにくることがある。とはいえ農作物についてはなんでも知っている熟練の農夫であり、また配下の者たちにも好かれている男なので、それくらいの面倒は大目に見てやらなければならない、とディヴィッドは密かに思っていた。

ディヴィッドが二本の杖の間で振り子のように身体を揺らして歩き出すと、ショーンが慌ててついてきた。
「だ、旦那様」
「なんだ」
「さっきのことなんですが・・・」
「後にしろ」
ドキン、と心拍数が上がったのを感じながら、ディヴィッドは冷たく答えた。ショーンにもうそれ以上一言もしゃべらせたくなかったのだ。
なにを言われるにせよ、うまい返事ができるとは思えなかった。
ぴしゃりと口を封じられてショーンもいったんは引き下がったが、やはりどうしても黙ってはいられなかったらしく、階段上のホールまで出てディヴィッドが差し出す杖を受け取ると、今度こそ退かない口調で切り出した。
「さっきはすみませんでした、旦那様。急すぎました」
「・・・あたりまえだ」
「はい。執事さんにも叱られて・・・次の人が見つかってからでないと」
「馬鹿を言え」
階段の手すりにつかまりながら、ディヴィッドはちらりと彼を振り返った。
「その前に、これが取れる。次は必要ない」
口早にそう言って、灰色に薄汚れたギブスを丸めた指の関節でゴツンと叩いた。ショーンは素直に頷いて、ディヴィッドが彼の肩につかまれるよう、いつものように身を屈めた。
「はい。いつですか?」
「来週か、再来週か・・・医者の見立てしだいだ」
「わかりました、旦那様」
なにがわかったと言うんだ。
そう問い返したいのをぐっとこらえて、ディヴィッドは腕を伸ばした。ショーンがその手を取って、自分の肩に回す。ほんのしばらく前まで雨の中にいた彼の髪にはまだ湿り気が残っていて、顔を近づけると水のにおいがした。傷ついた顔を間近で見ても、まったく関わりのない人間相手になら覚えるはずの嫌悪感など欠片も感じはしなかった。

それどころか、もしこれが昨日の朝なら、ディヴィッドはその頬にキスしたり、ちょっとした悪戯がしたくなって彼を困らせたことだろう。
たった一日、あるいは一晩の出来事が、ふたりの間を遠くしてしまった。なぜこんなことになってしまったのだろうと思うと、ディヴィッドは怒りよりももどかしさを感じた。
「どうぞ、旦那様。・・・大丈夫ですか?」
それは彼の口癖だ。わかっていても耳には快い。支えようと触れてくる手は優しく、あたたかだった。だが今日のショーンは足元をじっと見つめたまま、主人のほうへ目を向けようともしないのだ。
ディヴィッドはもう口を利かず、促されるままに彼の肩に体重をかけて、ゆっくりと階段を降りていった。
実際は誰の助けもなく降りられる階段を。







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たいへん長らくお待たせいたしました。
ちょっと家庭がゴタゴタしたりですとか、仕事探しとか。
NFLの試合放送を見まくったりとか(<夏は野球・笑)。
ま、最大の問題はスランプの壁ですな。
抜け出すドアが見つかるまでは、じっと我慢です。

20031229