* fragile/36 *
「今月は、出物が多うございましてな」
書斎へ招き入れられた老人はさっそくディヴィッドの正面に座を占め、持参した書類鞄から薄い紙挟みを取り出した。ディヴィッドは差し出されたそれを机越しに受け取って、ぱらりと開いた。
安っぽいインクの匂いのするそれは、毎月行われる保険会社の競売で参加希望者に配布される物件の一覧表だった。その会社が売りに出すのは主に不動産関連と美術品の二種類だが、ディヴィッドが投機の対象にしているのは不動産のほうだ。こまかい文字でびっしりと印刷された表には、ところどころブルーのインクでアンダーラインが引かれ、管財人の几帳面な文字で注釈が書き込まれていた。
ディヴィッドはほとんどため息をつかんばかりにしながら、その表を上から順に目だけで読んでいった。
取り壊しの決まった大型店の跡地、農場、それから土地つきの廃工場。
いずれにも入札金額の上限と下限がそれぞれ同じ青いインクで書き添えられ、ディヴィッドの判断を待っている。ディヴィッドは黙ったままペンを執り、その横に簡単な数字を書きつけていった。
三つ目の数字を書き入れるとき、同じ書類を反対側から覗き込んでいた管財人が、静かに口を挟んだ。
「・・・多少高額だと思われるかも知れませんが、今度の干拓事業のために、さしあたって住人たちを立ち退かせる用地として考慮に入れました。10年間の借地代よりは、いくぶん割安になるかと存じます」
そう言われて、ディヴィッドはいったん書きかけた数字に線を引き、それよりもやや高い金額に訂正した。管財人はいかめしく頷いた。
「結構でございます。では、この額での入札でよろしいですな?」
「ああ。・・・何度も言うが、おまえの判断で入札していいんだ」
「そうはまいりません。ご自身の資産はご自身で監督なさるべきでございます」
「よその管財人は、そうは言わないようだがな?」
「では、その者に依頼なさるのがよろしい。少なくとも私は、全権委任のお引き受けはいたしかねます」
漆黒の目に明るい光を閃かせながら、管財人は堂々と言ってのけた。ディヴィッドはその強気さに呆れ、ふうっとひとつ息を吐いた。
彼は果樹園のホルムと同じく、この仕事の専門家だった。知識も経験も申し分がなく、また高潔な人柄でも周囲の信頼を得ている。もちろんディヴィッドの信頼もだ。ディヴィッドは子どもの頃から見知っているこの老人が自分を裏切ることがあるなどとは露ほども考えなかったし、実際もう数十年にもわたって彼はその期待に答えつづけてきた。
だが今、その盤石だった信頼の礎にはかすかな亀裂が入っていた。
ほかでもない、彼がショーンに渡した金のことだ。
理由を聞いてしまえばおそらく、たいした用件ではないのかも知れない。ディヴィッドは楽観的にそう思おうとしたが、どうしてもできなかった。
ショーンの先週の賃金がなにかの手違いで未払いになっていただけかも知れない。あるいは管財人がなにかちょっとした買い物を彼に頼んだのかも知れない。そう信じることができればどれほど楽だっただろう。
それらのすべてを裏切るのは、あのときのふたりの話しかただった。
俯いていたショーンに、老人は語調も鋭くなにかを言い聞かせていた。だがそれらの会話はあたりをはばかるように声を潜めて続けられ、あまり離れていない場所にいたディヴィッドにさえ一言の単語も聞きとれなかったほどだ。
そして、あの金。・・・ショーンの胸元に押しつけられた、数枚の高額紙幣。
すっかりうなだれた彼の、シャツの襟首から少しだけ覗いていた背中がひどく無防備だった。
見てしまったからには、思い出すな、考えるなというほうが無理な話だ。
打ち消しても打ち消しても浮かんでくる最悪の結論を、ディヴィッドは胸のうちでずっともてあましていた。
昔から、主人の淫行を見かねた後見人が、相手の若い愛人にこっそり金をやって身を退かせる、というような話はディヴィッドの周囲にもありふれていた。身持ちの悪い貴族や資産家、あるいはその放蕩息子の周囲ではたえず囁かれているゴシップだ。またそういった話は外聞がよくないだけに誰もが喜んで耳を傾けるし、周囲に広まるのも早い。悪い噂の種は、早くつんでしまうに越したことはない。
だが、この厳格な老人がそんなことを考えるだろうか。まさに先日そうしたように、面と向かってディヴィッドを諫めこそすれ、立場の弱いショーンに対してそんな侮辱的な申し出をするような人物だろうか。
そうでないとすればショーンが要求したのだろうか、あんなはした金を?
おそらくは、この屋敷を去ったあとの口止め料として?
主人の名誉を守るために金をくれと言われて、この忠実な管財人はディヴィッドのかわりに黙って支払いを済ませたのだろうか?
確かめるすべはひとつしかないが、ディヴィッドにはまだそれに正面から向き合うだけの勇気がなかった。
ともかく、今日はとても訊けない、と思った。昨晩の酒も残っているし天気も悪い。ひどく気が滅入っていて、ショーンにも管財人にも直接問いただすことなどできそうにない。
明日か、明後日にでも・・・明後日は水曜日で、使用人たちの夜の外出日だ。その日がいいだろう。また夜にはショーンを部屋に呼んで、そのときにならもう少し落ち着いて話ができるに違いない。
そしてもしショーンがディヴィッドの予想通り口をつぐむつもりなら、そのときにはあらためてこの管財人に当たってみればいいのだ。急ぐことはない。どうせまた来月も競売はあり、管財人はディヴィッドの指示を仰ぎにやってくるのだから。
「・・・こちらへご署名願います」
ディヴィッドの疑念には気づいた様子もなく、管財人は枯れ枝のようにしなびた指先で彼のほうへ向けて数枚の書式を並べた。すべて必要事項が書き込まれ、あとはディヴィッドが署名をするだけになった委任状だ。
ディヴィッドは黙ってまたペンにインクをつけ、さらさらと名前を走り書きした。文面をざっと読んでみることさえせずに。
管財人はいつものように、そのディヴィッドのペンの先を見ている。いつかあったように、きめの粗い用紙にペン先が引っかかって、インクがぼた落ちしないかと案じているのだろう。その平静な顔つきからは、ディヴィッドに対する背信など欠片も見て取れはしなかった。
だが案の定、ペン先は紙の繊維に引っかかって染みができてしまった。それほどひどくはなかったので、管財人は渋い顔もせずにその上に吸い取り紙を被せた。ディヴィッドは薄い紙にじんわりと広がってゆくインクの染みを見下ろしながら、ショーンのことを考えていた。
もし今夜にでも彼が、いつかのように屈託のない笑顔で「あのお年寄りに頼まれて、村まで胃薬を買いに行っていました」とでも言ってくれたなら、どんなにほっとすることだろうと。
根拠のない楽観的な考えなどなんの役にもたちはしないが、ディヴィッドはそう願わずにはいられなかった。
心の奥では、わかっていた。
この次に管財人と会って競売の話をするころには、ショーンはもうこの屋敷にはいないだろう。
そのときにはもう、金が支払われた理由を追及する必要などなくなっている。
* * *
それからしばらくして、管財人が用の済んだ書類を鞄に戻していると、当のショーンが胃の悪い老人のための紅茶と、ディヴィッドのためには酒とソーダを持ってきた。いつものように、コンコン、と軽いノックの音を聞いただけでディヴィッドには、それが彼だということがわかった。
少なくとも、村へ使いにやらされたのではなさそうだ。
かすかな苦みを口の中に感じながら、ディヴィッドはぶっきらぼうに声をかけた。
「入れ!」
銀のトレイを両手で持って入ってきたショーンを見て、ディヴィッドは思わずきつく眉をひそめた。
彼は朝よりずっとひどい顔色をしていた。青い、というよりは真っ白だ。目の回りも頬も痣だらけの顔だが、それ以外の場所はまるでまさにディヴィッドが見ていた書類の紙のように色がなく、蝋人形よりも生気がなかった。切れ長の目の上はぶくりと腫れぼったくなって、パテを瞼に塗りつけたかのように見えた。
ざらついた声で、彼は言った。
「飲みものをお持ちしました、旦那様」
「・・・ああ」
「リー様はお茶とミルクがいいと言われました」
「それで結構」
管財人は頷いて答え、机上の書類を片づけて、ショーンがトレイを置く場所をつくってやった。ショーンは慎重にそこへトレイを下ろして、ふたりの前へめいめいグラスと茶器を置いた。
彼の細い指は、まるで中風病みのそれのように小刻みに震えていた。そのために華奢な磁器のティーカップを管財人の前に並べるとき、受け皿とカップがカタカタと音を立てたが、老人はじっとそれを見ているばかりでなにも言わなかった。
もちろん、ディヴィッドもだ。
ふたりとも黙ったままショーンが自分の仕事をする手先を見つめ、赤い目をした彼の顔を無遠慮にじろじろと眺めた。ショーンはその視線に気づいて落ち着かない様子を見せたが、ディヴィッドたちがなにも言わないのでそのまま仕事を続けた。彼の場合は今に限ったことではないが、自分からなにか話そうというつもりもないようだった。
おそらく彼は、意識して手の震えを止めようとしたのだろう。いったんぎゅっと手を握って、また開く。それから改めて両手でティーコゼーを掴んだのだが、その手はやはりまた震えだして、どうしても止まらなかった。
やがてゆっくりとショーンは酒のデカンタをディヴィッドの前に押しやり、
「これでいいでしょうか、旦那様?」
と苦しそうに呟いた。
ディヴィッドはやはり黙って頷き、ショーンはそのときだけほっとしたように頬を緩めて、深く頭を下げたかと思うとトレイを取り上げ、出て行った。
バタン、と背後でドアが閉まるのを聞き、ショーンが淹れていった紅茶を品よくすすりながら、管財人はカップに向かって呟いた。
「余計なことを申し上げるようですが、ディヴィッド様。・・・もう少しましな扱いをしてやってはいかがですかな」
どういう意味だ、と言い返すことさえできず、ディヴィッドは冷たいグラスを取り上げて、ごくりと一口飲みこんだ。
酒でも飲まなければとてもやりきれなかった。
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20040111