* fragile/37 *
その後、夕食の直前までは一度もショーンの顔は見なかった。
管財人が帰った後でグラスなどを片づけにきたのは執事だったし、居間へ戻ったディヴィッドはすっかり憂鬱な気分になっていて、わざわざ彼を呼んでまでことの真相を究明したいという気にはとてもなれなかったからだ。
だが、階下で食事の時間を知らせる鐘が鳴ると、やはり彼は現れて、いつものようにディヴィッドが階段を降りる手助けをした。
「・・・どうぞ、旦那様」
やはり掠れた声でショーンは言い、ディヴィッドがつかまれるように肩を傾けて差しだした。その青白い横顔を一瞥し、ディヴィッドも普段と同じように彼の腕をつかんで引き寄せた。ショーンはどこかが痛むようにディヴィッドの顔は見ないままでぐっと顔をしかめたが、抗議の声を上げることはなく、主人の腰に腕を回してゆっくりと階段を降りはじめた。
コトリ、コトリ。
硬いギブスの足先を見つめながら、ディヴィッドは振り向けばすぐそばにあるはずのショーンの顔を見ないようにするのに努力した。階段下のホールでは、執事と女中が心配そうな顔つきで、彼らが降りてくるのを見守っている。今日に限って揃ってそうしているのは、やはり今朝のことがあったからだろう。おかげでショーンになにも訊ねない言い訳はできたが、気まずいことに変わりはなかった。
こうして片腕で抱いているとショーンの身体は暖かく、ほのかに草の葉のにおいがした。今日の天候にはあまりふさわしくない、青い夏草か葉もの野菜のにおいだ。彼の衣類からか、指先からか、どこからそのにおいがするのはかわからなかった。もうすこし近づけばわかるのに、とディヴィッドは苛立たしさを感じたが、普通の人間ならこれ以上はあり得ないほど、彼とディヴィッドは身体を密着させているのだった。
かわりに、言葉を使った。
「・・・午後はなにをしていたんだ?」
足元を見下ろしたままディヴィッドが訊ねると、シャツの下でショーンの腕の筋肉がさっと強ばったのが感じられた。彼はすぐには答えず、またコトン、と一段降りてから、ようやく重たげに口を開いた。
「すみません、調子が・・・身体の調子が悪かったので、また休みをもらいました。すみませんでした」
「もういいのか」
「はい。すみませんでした、旦那様」
そこでようやくディヴィッドは、彼の顔に目を向けることができた。階段の半ばでしばらく足を止め、痣だらけの横顔を至近距離からまじまじと見据えてやると、ショーンはひどく居心地が悪そうに目を背け、階下のホールでこちらを見上げている執事たちが気になるような素振りをした。ディヴィッドはそれを無視した。
「確かに、さっきよりはましになったな。あのときは死人が出たかと思ったぞ」
「し・・・死人ですか」
ショーンはいたたまれないようで、ディヴィッドの視線を避けるように自分の片手を上げ、血の気のない頬をごしごしと擦った。下でなにかが動いたと思ってディヴィッドが視線を動かすと、ふたりが動かないのを心配した執事が階段のステップに片足をかけようとしているところだった。気の利かない男だ、とディヴィッドは思ったが、まさか責めるわけにもいかない。
「・・・大丈夫でございますか、ディヴィッド様?」
執事が下からおそるおそる声をかけるのに強く頷いて見せ、ディヴィッドは重い足を一歩前へ踏み出した。ショーンは慌てて手を下ろして彼の身体を支えなおした。
そうして三人揃って階段の下まで降りつくと、ショーンは素早くディヴィッドのそばを離れ、ホールで待っていた女中の隣に並んで立った。自然な動作だった。
執事の手から杖を受け取りながら、ディヴィッドはそれを複雑な思いで眺めた。ショーンはまだディヴィッドのほうを見ているが、女中はいかにも心配そうに彼の傷ついた顔を見上げ、なにか話しかけたそうにしている。あたりまえのことだが、普段ディヴィッドの目には線が細く見えるショーンも、こうして小柄な女のそばに立つと立派に成人男性のたくましさを備えて見えた。
「・・・ショーン」
苦い思いが喉元にこみ上げてくるのを意識しながら、ディヴィッドは簡潔に訊いた。
「昨日の喧嘩の相手は、誰だったんだ?」
やや遠い距離から唐突に問いを投げられたショーンははっと息を呑み、腫れた口元をきつく引き結んで、そのディヴィッドの真意を探ろうとするかのように目をすがめた。彼の傍らに控えていた女中も、ディヴィッドの背後に立っていた執事もこの成り行きには驚いたに違いない。日頃のディヴィッドは寡黙な主人だった。ふたりとも、ぎょっと目を見ひらいてディヴィッドとショーンの向きあった顔を交互に見比べ、ショーンの答えを待って沈黙した。
やがて、ショーンはそれ以上耐えられない、と言わんばかりに首をがくりと折り、自分のつま先へ向かって答えを吐き出した。
「すみません、旦那様。言えません」
「ショーン、お話ししなさい・・・!」
たまりかねた執事が横から口を出すと、彼は苦しそうにいったんは顔を上げたが、小さく首を振ってまた俯いてしまった。
「・・・誰にも絶対に言わないって約束したんです。すみません」
「ショーン!」
「よせ、バーナード」
つかつかとショーンに歩み寄ろうとした執事を制して、ディヴィッドはくるりと踵を返した。止められた執事はなおも納得がゆかない様子でいたが、ディヴィッドが後も見ずに食堂へ向かったのを見て慌てて彼の後ろについてきた。
後に残されたショーンと女中がどんな顔をしたか、なにを話したか、ディヴィッドはもう知りたくなかった。
(誰にも絶対に言わないって約束したんです)
誰にも、と言ったショーンの言葉を、ディヴィッドは胸の中でもう一度だけ反芻した。
ディヴィッドにだけではなく、誰にも言わない、と言われたことがひどく重要なことのように、そのときのディヴィッドには思えたのだ。
それが単なるその場しのぎの言い逃れでも、または時間が経てば忘れられる薄っぺらな誓約であってもかまわなかった。
どうせ彼がこの屋敷にとどまるのはあと二週間足らずなのだから。
ショーンは秘密を抱いたまま去り、ディヴィッドがそれを知ることは永遠にないだろう。
それでいい、とディヴィッドは思った。
初めのころのように、ショーンがなにを思っているかなど考えなければいい。
そうすれば残りの時間を、あのころと同じほどには楽しむことができるはずだ、・・・そう思った。
* * *
煌々と明かりの灯された食卓につくと、執事が慣れた手つきで給仕をはじめた。
「今日は森番がハトを撃ちまして・・・」
たったひとりの晩餐だ。静まりかえった食堂に、ほんの数分前の動揺が嘘のように穏やかな声が響いて、今夜の献立を告げてゆく。
熟練した彼の手にかかると不安定な形に盛られた料理も決して倒れることはなく、しみひとつない純白のテーブルクロスには水の一滴もこぼれることがない。
ディヴィッドの前に温かいスープの皿を置きながら、その執事はなにげなく続けた。
「・・・さきほどのミリーという女中でございますが、近頃ずいぶんとよく気がつくようになりました。身元も確かで・・・ショーンもあの女の親類筋で、又従兄弟にあたると申していたような記憶がございます」
わざと曖昧に言っているが、この執事が確信もないことを口にするはずがない。
その女中の愛称をはじめて聞いたディヴィッドは口に運びかけていたスプーンをいったん止めて、
「そうか」
とおざなりな相づちを打った。
ついさきほど、この執事のことを気の利かない男だと思ったことなど、もう忘れていた。
執事は嘆かわしげに頭を振って、華奢なグラスに水をついだ。
「ただ惜しいことに、ミリーには長年つきあっている男がおりますようで。・・・そのうちお暇をいただいて結婚したいと言い出すのではないか、という気がいたします」
「・・・そうか」
「はい。せっかく仕事を覚えさせましても、近頃ではなかなか女中も長続きがいたしません」
憂鬱そうな口ぶりとは反対に、彼の口元にはかすかな微笑の陰が漂っていた。
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世の中、次から次へと悩みごとが。
お話の中だけに限ったことではなく。
20040114
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