* fragile/45 *
ショーンは、主人のいいつけをきちんと守った。それこそ、命じたディヴィッドのほうが奇妙に感じたほど生真面目に、彼は常にディヴィッドの目の届くところにいようとした。
ディヴィッドの部屋の窓から見えない、ということは、その窓が見えない場所へは行かない、ということだ。
ディヴィッドのほうはいつものように、気に入りのカウチを窓辺に置いて、その上で午後の大半を過ごしていた。
小切手を書いたりするためには書斎へ行ったが、管財人が届けてきた競売のリストや、共同事業主である又従兄弟から送られてきた新規事業の見積書を眺めるにはそこで充分だった。山と積み上げたクッションに頭をのせて昼寝をしたり、例によって例のごとく東西の旅行記のページを繰ることもあった。
そうする合間にディヴィッドは、しばしば窓の外を眺めた。
だだっ広い芝生の広がり。その明るい緑の絨毯の上に、小さな星のように散らばっている赤とピンクのヒナギクの花。ずっと遠くへ目を移せば、猟場でもある林との境界に涼しげなあのシナノキの木立が見える。
そして、その眺めのどこかに、必ずショーンはいた。
窓のすぐ下のあたりで庭師の親方と話をしていることもあれば、ずっと向こうのバラの植え込みで腰をかがめていることもあった。伸びすぎた芝生を刈っていることもあれば、足元にじゃれつく犬たちを叱りながら水のバケツを運んでいることもあった。
午前中と日中、ショーンの影は小さく黒々と彼の足の下に蹲っていた。
夕暮れになると彼は、長々と伸びた影法師を道連れに、芝生を横切って戻ってくるのだった。
そしていつでも、ディヴィッドの視界の中にいた。
ふとした折に、姿が見えないなと思って庭の中へあちこち視線を走らせると、思いがけないところから金髪の頭がひょっこりと出てきた。黄色い花をつけた潅木の茂みや、柵の向こう側から。また木立の影や、母屋の庇の下から。
そのたび、ショーンはディヴィッドのいる窓を見上げた。近くにいたときには、下を眺めているディヴィッドと視線があうと、ペコリとひとつ頭を下げて仕事に戻っていった。遠くにいるときにはディヴィッドがどこを見ているのかわからないのか、しばらくこちらへ顔を向けていたかと思うとそのまま別の仕事を始めることもあった。
一度、こんなことがあった。
ある日の、午後も遅い時間に執事がお茶を運んできて、ディヴィッドは読んでいた本を閉じたはずみに、すっかり癖になった仕草でちらりと庭へ視線をやった。
ショーンの姿は、どこにもないようだった。
だがそろそろ日差しの影が長くなってきた時刻のことでもあり、その陰影にまぎれて見えないような場所にいるのだろうと、ディヴィッドはあまり気にもせずにいた。
ディヴィッドはゆっくりとお茶を飲んだ。ベリージャムとリキュールを落とした、濃くて熱いお茶だった。
空になったカップをトレイに置いたとき、ふとまた気になって、ディヴィッドは開け放たれた窓の向こうへと視線をさまよわせた。
ショーンの姿は、どこにも見えなかった。
「・・・バーナード、ショーンを見たか?」
「はい。先ほど、お台所で」
「今日は庭じゃないのか」
「いいえ、朝からずっと庭におりましたが、お台所で荷運びの用ができまして、今はそちらを手伝わせております。女たちだけでは運べませんので」
「そうか」
「それがどうかなさいましたか? ディヴィッド様」
あいたカップにもう一杯紅茶を注ぎながら、執事はさりげないふうで答えた。もっとも、この鋭い目をもった初老の男が、ディヴィッドの質問の意図に気づいていないはずはなかった。
それでも確かめてよかったと、ディヴィッドは思いながら、二杯目の紅茶をそろそろとすすりはじめた。
おかげで、なんの用事もないのにショーンを呼ぶベルを鳴らす、という愚挙を犯さずに済んだからだ。
夕方になると、庭師の親方は手伝いの若者たちを庭のはずれの農具小屋のそばに集め、一日の労をねぎらい、あるいは叱ってから解散させる。その様子はディヴィッドのいるところからは見えなかったが、日焼けした顔の上に帽子を載せた若者たちが同僚と笑い交わしながら帰宅の途につくさまは見下ろせた。
その中には、ショーンも混じっていた。
庭師たちは近隣の村から雇われてきている、通いの男たちだ。同じく近くの村に家のあるショーンとは、以前から顔見知りなのに違いない。
彼らの会話は、ディヴィッドの窓までは聞こえてこなかった。断片的な言葉は聞き取れても、それだけでは意味をなさなかった。
ただ、彼らの声は朗らかで、若々しく、楽しそうだった。大きな麦藁帽子を頭に載せた男たちが笑いさざめきながら歩いてゆく姿は、見る者にこれから彼らが家族や恋人たちとすごすはずの団欒の和やかさを思わせた。
しかし、ショーンはすぐにその小さな一団を外れることになる。
彼らが母屋の端までくると、村へ戻る青年たちは裏木戸のほうへ、屋敷に残るショーンは台所へと、それぞれの行き先が分かれるからだ。
そのショーンの姿も母屋の影に見えなくなり、庭には風にそよぐ草木と犬たちしか動くものもなくなり、とろけた金色の円盤のような夏の太陽が林の向こうに大きく傾いてゆき・・・そうして、食堂の鐘が夕食の時刻を知らせると、やがてディヴィッドの部屋のドアに軽いノックがある。
コン、コン。
「入れ、ショーン!」
はっきり聞こえるように声を張ると、大きなドアが静かに開いて、綿のシャツを着た青年が入ってきた。
その白いシャツは、彼が今まで庭で着ていたものとは明らかに違っていた。洗い立てらしく、伸ばされた袖にもほとんど皺が寄っておらず、見るからに清潔そうだった。
「着替えてきたのか?」
ショーンに杖を渡されて立ち上がりながら、ディヴィッドはその袖をちょっとつまんで訊いた。ショーンは当然だと言わぬばかりに、はい、と答えた。
「庭で汚れましたから。・・・お気をつけて、旦那様」
テーブルの足に杖が引っかからないよう見守りながらショーンは言ったが、彼の身体には土と草のにおいがすっかりしみこんでいるようだった。ディヴィッドは苦笑して、なんとなく薄汚れたように見える彼の頬を斜めに見やった。
「次からは手だけでなく、顔も洗ってくることだ」
「・・・はい、旦那様。すみません」
そういえば、とばかり、ショーンはいきなり手をあげて、自分の頬をするりと拭った。ディヴィッドが止める暇もない、あっという間の出来事だった。
「ショーン、手が汚れるぞ」
「え? あっ・・・」
慌てて彼がひらいた手のひらには、黒っぽい土ぼこりが筋になっていた。
ショーンはその場に立ち止まり、ふーっと大きく息をついて、がっかりしたように首を振った。
「すみません。私は・・・私は、ばかなことばかりしていますね」
ちょうど階段の上にたどりついていたディヴィッドは、その声音に含まれた苦々しさに驚いた。どう答えても的外れな気がして、ショーンが追いつくのを黙って待っていると、元気のない顔をした彼は、真っ白いシャツの裾で手のひらをごしごしと拭いながら歩いてきた。
なにをしているんだ、と言いたいのを、ディヴィッドはぐっとこらえた。
そのときちょうど階段の手すりに手を伸ばそうとしていた彼に気づいたショーンが、慌てて駆け寄ってきたからだ。
「旦那様、杖を。・・・どうぞ、大丈夫ですか?」
ショーンはいつもと変わりのない、低くてやわらかい声で呟くように言いながら、ディヴィッドの腕をとった。
彼の身体にしみついた夏の庭の幻影、太陽の滴のように甘くて刺激的な汗のにおい。
くん、とかいだ瞬間に、ディヴィッドは彼がわざわざ自分のシャツを汚してまで手を綺麗にした理由に思い当たった。そこまでする必要はないと、誰でも考えただろう。
彼は、汚れた手で主人に触れるわけにはゆかない、と思ったのだ。
だが、ディヴィッドは口に出してはただ、こう言っただけだった。
「汗くさいな」
「・・・すみません、旦那様」
「そんなふうに服を汚していると、また着替えがなくなるんじゃないのか」
「大丈夫です。新しいのを買ってもらいました」
「執事にか?」
「はい。・・・気をつけてください、その段は滑ります」
ディヴィッドの身体をしっかりと支えて、ショーンは一段ずつゆっくりと足元を確かめてゆく。階段のうちには何段か、ひどく絨毯の磨り減った段があり、ディヴィッドは以前そこで踵を滑らせかけたことがあった。ショーンはその箇所を覚えていて、ディヴィッドがその段を踏もうとするたび、必ず声をかけるのだ。
ディヴィッドはその段を難なくやり過ごして、心に浮かんだことをそのまま口に出した。
「今夜もし妹のところへ行くなら、また着替えるんだろう?」
「はい」
ショーンは間髪いれずに答えた。彼にしては、いささか速すぎる返事だった。
不思議に思ってディヴィッドが横目で見ると、彼の端正な横顔はまるで氷を刻んでつくった彫刻のように冷たく、こわばっていた。
だがそれも、一瞬のことに過ぎなかった。ディヴィッドがこちらを見ているのがわかると、彼は不意に口元を緩め、淡い苦笑を浮かべた。
「・・・ちゃんと着替えていきます。明日も晴れですから、洗っても乾きます」
「今夜は行くのか?」
「はい。・・・旦那様がよろしければ」
ショーンが言い添えたとき、ふたりはちょうど最後の段を降りてホールへ降りついた。
ディヴィッドには、行くなとは言えなかった。
* * *
その週の残りは、単調に過ぎた。
晴天が続く限りショーンは野外で働き、二日目からは誰に与えられたのか、びっくりするほど大きな麦藁帽子をかぶるようになった。彼の肌のなめらかな手触りが好きで、度を越えた日焼けで傷めさせたくないと思っていたディヴィッドには好都合だったが、みすぼらしいその帽子はショーンにあまり似合わなかった。
週末には思いがけない来客があったので、ショーンとはほとんど顔をあわせることもなく一日が終わった。
日曜日になると、ショーンは普段の週と同じように教会へ出かけていった。やはり気の進まないディヴィッドは今週も屋敷に残ったが、ショーンから目を離さず連れて戻るように、と執事に厳しく釘を刺すことだけは忘れなかった。
昼前になって使用人たちが屋敷に戻り、ショーンも無事に戻ったと執事から報告を受けたときには、なんとなくほっとした気分になったものだ。
そしてそれと同じほど強く、腹の底にどろどろとした熱がたまるのを感じてもいた。
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お客さんはジョンです。
20040324