* fragile/48 *
ソファにかけたディヴィッドの足元には古いシーツが広げられ、テーブルと向かい側のソファも脇へどけられた。美しい寄木の床を傷つけないよう、執事と医者がふたりがかりで持ち上げて運んだ。
はあはあと息を弾ませて階段を駆け上がってきたショーンが、ぼろきれに包んだ工具のようなものをそのテーブルの上にそっと置いた。シャツの腕を捲り上げていた医者はディヴィッドにはほとんど注意も向けないまま、まだ荒い息をついているショーンを振り返ってニコッと笑った。
「ご苦労様、速かったね」
「ほかに要るものはないですか、先生?」
「雑巾くらいだな。あとが汚れるから」
「はい、先生」
ショーンはまじめそうに頷いて、不要な布を探しにまた階下へ降りていった。足早に部屋を出てゆく彼の後姿を眺めながら、ディヴィッドは不機嫌そうにぼやいた。
「本当に大丈夫なんだろうな?」
「もちろんですとも!」
医者は朗らかに言い切り、工具を包んだ布をほどいた。
普通の半分ほどの大きさの鋸、ガッチリとして錆の浮いた大きな鋏。ナイフ。長いヤスリ。まっすぐな木の棒が二本入っているのは、添え木用だろうか。
それらの中からまず鋏を取り上げながら、ディヴィッドの主治医はどこか人の悪い笑みを満面に浮かべた。普段はニコニコと明るい男の顔が、そういう笑い方をするとまるで人食い鬼のような顔になった。
「私が、いったい何本の足を切って・・・いやいや、いったい何本の足のギブスを切ってきたと思うんです。慣れたものですよ。こどもの時分は大工仕事が大の苦手だったんですがね、近ごろずいぶん上達しました」
そんな台詞もユーモアのつもりなのだろうが、いまのディヴィッドは笑うどころの気分ではなかった。
執事が持ってきた空バケツを逆さにしてディヴィッドの足の下に突っ込み、片手には大きな鋏をこれ見よがしにシャキシャキと動かしながら、医者はまた笑った。
「さて、始めますか!」
異議を唱えたところで、どうなるものでもない。
医者は足をのばしたディヴィッドの前に膝をつき、ギブスの上をナイフの先でがりがりと引っかき始めた。鋸歯を当てる前に、とっかかりとなる刻み目を入れておくつもりなのだろう。ディヴィッドは自分の足を削られているような気がしたが、痛みはまったくなかった。
ふと目を上げてみると、医者の背後に立っている執事が、ひどく心配そうな顔をしていた。必要ないと言われたはずの消毒薬の小瓶が、その手にしっかりと握られていた。
自分の不安は棚に上げて、ディヴィッドは低く言ってやった。
「・・・バーナード、大丈夫だ」
「はい、ディヴィッド様。勿論でございます」
そう熱をこめて答えながらも、彼は茶色いガラス瓶を手放そうとはしない。ディヴィッドはあきらめてまた自分の左足に目をやった。ちょうど、ナイフを鋸に持ち替えた医者が浅い掻き傷の上に歯を当てようとしているところだった。
ゴリッ、ザリッ、と音を立てて、鋸の歯が立てられてゆく。表面に貼りついた包帯の糸くずを、医者は鋸を動かす手を止めもせずに、小指の先でちょいちょいと引っかけて下へ捨てた。ディヴィッドの足の下には大仰にシーツが広げられていたが、石膏の屑は思ったほど多くは落ちなかった。
薄い鋸は、らくらくとギブスに食い込んでいった。まるでやわらかなケーキを切り分けるナイフのようだった。ザリザリと何度か引き切られたあと、ディヴィッドの肌になにか尖ったものが当たったのがわかった。
「ま、待て」
「大丈夫です。わかっていますよ」
こともなげに医者は言い、下まで切れた部分を避けて、鋸の角度を変えた。ディヴィッドの足が動かないようギブスを片手で抑えながら鋸を操る様子は、いまにも鼻歌を歌いだすのではないかと思うほど気楽そうに見えた。
いつの間に戻ってきたのか、医者の後ろにはショーンが立っていた。後生大事に消毒薬を握りしめている執事の隣で、やはり心配そうな目をして医者の手許を見つめている。
医者は背後の気配を感じたのか、それとも腕が疲れただけか、しばし作業の手を止めて後ろを振り返った。
「なんだね、その顔は。大丈夫だと言っているだろう?」
「は、はい、それはもう。・・・ただ念のためにと思いまして」
「念のためにもなにも必要ないよ。もうすぐ切れる」
なおも不安げな執事に軽く言った医者は、さてと、と再び鋸の柄に手をかけた。
そして、わざとそっぽを向いているディヴィッドの顔を見上げて、楽しそうに言ったものだ。
「あなたの可愛い恋人に恨まれてはかないませんからね、彼の目の前でそんなヘマはやりませんよ」
一瞬、部屋に気詰まりな沈黙が落ちた。
執事はなにも聞かなかったふりを決めこんで、視線すら動かさなかった。みごとなものだった。その執事ほど人間のこなれていないショーンはぎょっとして医者の頭を見下ろし、見る見る顔を赤くした。
ディヴィッドはショーンがどんな反応をするか確かめたくて、ついつい彼の顔を見ていた。
その微妙な空気に、医者はきょとんとして再び手を止めた。
「・・・秘密のおつもりでしたかな?」
悪びれた様子など、すこしもなかった。その態度にはディヴィッドのほうがかえって呆れて、ため息まじりの苦情を投げた。
「秘密もなにも、そういう事実はない」
「ああ! 失礼しました。ご承知のとおり、こういった田舎では他人の噂話が最大の娯楽というわけでしてね」
「先生、ショーンはただの雇い人ですので」
見かねた執事が口を挟んだが、隣に立っているショーンが真っ赤な顔をして俯いているのでは、その言葉にも説得力はあまり感じられなかった。
ディヴィッドはひらりと片手を振って執事を黙らせ、鋸が食いこんだままのギブスを指の関節でコツコツ叩いて、主治医に作業の続行を促した。
「どうでもいいだろう。言いたい連中には言わせておけ、困るわけでもない」
「そういった割り切りは、現代を生きる上では重要ですな。私もぜひ見習わせていただくとしましょう」
明るく言いながら医者は、またギブスの上に身をかがめた。
それまで黙っていたショーンが、ついに口を開いたのはそのときだった。
「ほんとうに違うんです、先生。変な噂は困るんです」
「・・・ほう?」
さすがに首をかしげながら、医者はショーンを振り向いた。
ショーンはどぎまぎとしつつも、その顔をしっかりと見据えて言った。
「わ、私はもう辞めるんです。次の仕事ももう決まりかけてて・・・」
「そうなのかね? いや、別に私は君を悪く言っているつもりはないんだよ」
「でも、村の人たちは悪くとります」
頑なな口調で、ショーンはなおも言い張った。よしなさい、と執事に小さな声でたしなめられると、日焼けした顔が泣き出しそうにぎゅっと歪んだ。
ディヴィッドはといえば、波立つ感情を抑えるのに精一杯で、彼にかけてやる言葉を選ぶこともできなかった。
ただ、この状況から救い出してやろうとだけは思って、声をかけた。
「ショーン、ここはいい。ギブスが取れたら足を洗いたい、下へ行って湯を沸かしてこい」
「・・・」
「ショーン?」
彼はなおもその場でぐずぐずしており、なにか言いたいことがあるのは明らかだったが、ディヴィッドは無視して彼をせきたてた。
「返事をしないか! いつからこの家では、使用人が主人の命令をきかなくなったんだ?」
やや厳しい調子で言われて、ショーンは俯いたまま一歩後ろへ退いた。
「・・・はい、旦那様。すみませんでした」
彼は誰の顔も見ずに答えて、そのままくるりと踵を返し、開け放たれたままのドアから出ていった。
気まずい沈黙を破ったのは、やはりディヴィッドの主治医だった。
「・・・この季節に、足を洗うのにお湯が要りますか?」
いささか的外れな疑問だったが、ようやくまた鋸が動き出しただけでも、ディヴィッドはずいぶんほっとした。
* * *
重く不恰好な石膏の塊は、その屑が散ったシーツごとすみやかに階下へ運ばれていった。
主治医はお茶すら飲まずに帰ってしまい、位置を変えられたままのテーブルとソファは動かしてくれる手を待っていた。
ディヴィッドの手垢で柄の黒ずんだ松葉杖が、ひっそりと部屋の隅に立てかけられている。もう必要のないものだろうに、まだ誰もそれを運び出すことに気がつかずにいた。このままでは来年までもずっと、この居間の片隅に取り残されているかも知れなかった。
ディヴィッドはひとりで歩けるようになり、ショーンの介添えはもう必要なくなった。最初はおぼつかなかった足取りも、数歩も歩くうちにまったく痛まないことがわかってしっかりとしたものになった。
ショーンも執事も、知らせを聞いて駆けつけてきた女中たちも、主人が以前と同じように杖にすがることなしに歩いているのを見て嬉しそうに笑った。
ディヴィッドだけが笑わなかった。
静かな部屋には、ぴちゃぴちゃというかすかな水音がしていた。
カウチに寝転んだディヴィッドの足を、ショーンが湯に浸したタオルで拭っている音だった。
医者は、自分で言ったとおりディヴィッドの足に引っかき傷ひとつつけなかった。だが膝の裏には湿疹がすこし出ていて、ショーンはその部分を特に気をつけて擦った。
「・・・痛くありませんか、旦那様?」
「ああ」
「痒いところは?」
「今はない」
ぎこちない、短いやりとりになった。ショーンはすっかり顔を下へ向けて、ディヴィッドの視線すら拒むような素振りを見せていた。ディヴィッドはその彼に対して、自分がなんと言ってやりたいと思っているのかさえわからなかった。
また「おまえのせいじゃない」と慰めてやりたいのか、それとも「この関係がそれほど嫌か」となじってやりたいのか。
そのどちらもが、いまとなっては無駄だという気がした。
しかたなくディヴィッドは言葉をあきらめ、ショーンの濃い金髪にそっと指を差し入れた。ディヴィッドの足を拭っていた彼は、それを予期していたかのように自然な動きで顔を上げた。
緑の目が、微笑んでいた。
「・・・足が治ってよかったです、旦那様」
この数十日間ですっかり筋肉が落ちてしまい、右に比べてふた周りほども細くなってしまった左足を濡れたタオルで拭きながら、ショーンは静かにささやいた。
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いよいよギブスが取れました!
「もう一生取れないんじゃないかと思っていました」
「旦那様は、もう片方の足を折るべきです」
等々、皆様のあたたかい励ましのお言葉あったればこそです。
しかしこの医者、ひどいやつだ。オニ。悪魔。
20040330