* fragile/49 *
昼食の食堂へ降りるのにも、ショーンの助けは要らなかった。
一階の食堂でいつものように鐘が鳴らされるのを、ディヴィッドは書斎で聞いた。今週出向くはずだった首都の医者のところへ、地元の医者に依頼してギブスを外させた顛末を知らせる手紙を書いていた。
だがすぐにショーンが迎えにくると思い、いったんそこでペンを置きながら、ディヴィッドは何気なく部屋の中を見渡した。
立ち上がるための杖を、目が勝手に探したのだ。
「・・・癖になったな」
ディヴィッドはひとりで苦笑して、机に両手でつかまりながら、ひとりで立ち上がってみた。
そろそろと足を前へ運ぶと、最初の数歩は足裏がちゃんと床についていないような感じがした。杖なしで歩くのには、まだ不安があった。体重をかけると弱ったほうの足が膝からがくりと折れてしまいそうな気がする。
だが、二、三歩歩いてみるうちに、それが杞憂に過ぎないことはすぐにわかった。
折らなかった足よりすこし細い左足は、一本だけでもディヴィッドの体重を充分に支えることができた。飛んだり走ったりするにはまだいくぶん頼りないが、少なくとも屋敷の中を歩く分にはなんの支障もなさそうだった。
ゆっくりと木の床を踏みしめて歩いてみていると、ちょうどそこへショーンが現れた。
部屋に入ってくるなり彼は、ディヴィッドがひとりで立って歩いているのを見て、嬉しそうに唇をほころばせた。
「もうおひとりで大丈夫なんですか?」
「ああ、なんとかな」
ディヴィッドはわざと返事に含みをもたせた。自分の手助けが要らないとわかったショーンがそれ以上近づいてこないのが不満だった。
ディヴィッドの気を知ってか知らずか、ショーンは戸口から動かずに、両方の足にきちんと靴を履いた主人の足元を眺めてしみじみと言った。
「そうしてらっしゃるのが、なんだか・・・不思議です」
「そうだな。まっすぐに立ったのは久しぶりだ」
「あなたはもっと背の低い方かと思ってました、旦那様」
「それがどうした」
おかしな感想だな、と笑いながら戸口へ歩いてゆくと、ショーンがしなやかな身のこなしでその通り道をあけ、ドアの脇に控えて頭を下げた。執事がそうしているのを見て覚えたのだろう。
ディヴィッドは彼の横を通りかかると、足を止めてその頬へ手をのばした。
ショーンは、目に見えて動揺した。
開いたままのドアの前ですることではなかった。ほかの使用人たちはこの時間、階下で昼食の支度に忙しくしているはずだが、たまたま用があって二階へくる者がないとも限らない。
「人がきます、旦那様・・・」
「かまわない。どうせ噂になっているそうじゃないか」
脅すように言われると、それまで落ち着いていた表情がサッとこわばり、すこし伸びかけた前髪の下からまたあの怯えたような目が覗いた。そのとたんに瞳の反射率が狂い、透明感のあるエメラルドは孔雀光沢のある翡翠に変わる。
ディヴィッドはその美しい目を深く、深く覗きこんだ。頬にあてていた手をするりと滑らせ、下から顎を掬い上げてゆっくり顔を近づけてゆくと、その瞳の中に自分の顔が小さく写っているのが見えた。
鼻先が触れあうまで近づくと、ショーンがようやくディヴィッドの意図を理解して目を閉じた。ディヴィッドは喉の奥で笑いながら、その唇にくちづけた。ショーンが反射的に首を振ろうとしたので、ディヴィッドの額を彼の不揃いな前髪がパサと叩いた。
ショーンはディヴィッドの胸に思わず手を突いたが、相手を押しのけようとまではしなかった。
「んっ・・・!」
「ショーン、ほら・・・ドアが開いている。誰かに見られたら、言い訳ができないな?」
ディヴィッドが言ったとおり、彼の背後では廊下へのドアが開けっ放しになっていた。誰かが階段を上がってくれば、ふたりのしていることは嫌でも目に入るはずだ。
ショーンは身を捩ってディヴィッドの腕から抜け出せないかと試みたが、ディヴィッドがそれを許すはずがなかった。こうして立っていても、いまは両手が自由だ。その自由な両手でショーンの腰と後頭部をつかまえ、鼻がぶつかるのを避けて、かみつくようにまた唇を重ねた。
ショーンは抗わなかったが、喜んで応えもしなかった。
彼の唇は、貝の身に似た弾力がある。ディヴィッドはその薄い下唇に噛みつき、真珠粒のような歯列を割って、どんどん奥へと舌を侵入させた。縮こまっている彼の舌を追いかけて誘い出し、やわらかな肉塊にむしゃぶりついた。口腔内のとろりとした粘膜を舌先でこすり、ショーンがごくりごくりと喉を鳴らすのに不思議な満足感を覚えた。
そうしてしばらくショーンを味わった後、離れ際にディヴィッドは、彼の舌の先をわざときつく吸いあげた。
ぴちゃ、と淫らな音がした。
時間にすればわずか数十秒のことだったが、いまはそれだけで精一杯だった。
すっかりびくついてしまったショーンは、それ以上を強いれば今度こそディヴィッドの手を逃れて走り出してしまいそうだった。
一階の食堂ではきっと執事が、ディヴィッドの降りてくるのを今か今かと待っているはずだ。不審に思った彼がいつ階段を上がってきてもおかしくはない。
それでもディヴィッドは、まだ彼を離したくなかった。
ショーンは羞恥に頬を染め、彼の腕の中でじっと身を硬くしている。その首筋に顔を寄せ、ディヴィッドはかすめるようなキスを落とした。ショーンがくすぐったそうに身じろぎをする、その襟足からほんのりと彼の体温が立ち上ってくるのを感じた。
ディヴィッドは目を閉じてその芳香をうっとりと味わいながら、やさしく訊いた。
「・・・今週はもう、庭の手伝いはいらないのか?」
「は、はい。ドミニクが元気になったので、もういいんです」
「そうか。だからシャツが汚れていないんだな。・・・今夜はどうするんだ?」
「・・・今夜ですか?」
「妹のところへ行くのか、ショーン?」
「わかりません・・・まだ」
「もし出かけないなら、部屋へこい。ほかの仕事が済んでからでいい・・・」
ディヴィッドは赤く染まった耳朶を噛むようにしてささやいた。
その声に熱がこもりすぎている、と自分でも思っていた。
ショーンは、しばらく口をきかずにいた。ディヴィッドの腕の中におとなしくおさまったまま静かに息をついているばかりだった。
こうしてじっと抱いていると、どきどきと彼の心臓が拍つのが聞こえる。
清潔なシャツの上から、ディヴィッドは彼の背中をゆっくりと撫でた。ショーンはひどく恥ずかしがって身を捩った。
それから、小さく答えた。
「はい、旦那様。もし・・・夜お屋敷にいれば、行きます」
ディヴィッドは一瞬、強く彼を抱きすくめた。ショーンの腕が軽く上がって、その背を撫でるように動いた。それだけでディヴィッドは、全身の血液が沸騰するような気がした。
離れがたい気持ちを押し殺して無理に腕をほどくと、ショーンは顎が胸元につくほど項垂れて、自分の爪先を見ていた。その金髪頭をくしゃりと掻きまぜながら、ディヴィッドは笑って言った。
「おまえは後から降りてこい。顔の赤いのがおさまってからな」
「・・・はい、旦那様」
ショーンは俯いて答え、キスされたばかりの唇をそっと手で覆った。
昼食には取って置きのシャンパンが出された。
急なことで、料理番は特別な献立を用意できなかった。だが彼女は料理の皿のそこここに、心づくしの祝福を飾ってくれた。青いルリチシャの花、砕けた水晶のようなコンソメのジュレ。高価なシャンパンには、それに見合うだけのチーズも添えられていた。
ディヴィッドは機嫌よく食べ、給仕についた執事も明るい表情をしていた。その執事の手伝いをするショーンは普段にもまして俯きがちだったが、話しかけられれば微笑んで答えた。
だが、その笑顔がただの見せかけに過ぎなかったことが、夕食の前にわかった。
午後のうちに、ショーンの姿は屋敷の中から消えていた。
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旦那様の心中たるや、いかに。
いたいけちゃんいなくなる・パート2。
20040331