* fragile/50 *

ディヴィッドがそれを知ったのは、午後遅くになってからだった。
急いで書き上げた数通の手紙を郵便局へ持っていかせようと、執事を書斎へ呼んだときのことだった。
「まだ午後の集配に間にあうだろう?」
こういったことは熟知しているはずの忠僕に、彼は何気なく訊いた。執事は封筒の束を両手で受け取りながら、みじかく答えた。
「はい、おそらく。ミリーに急いで持っていかせましょう」
その声に含まれた微量のほろ苦さが、ディヴィッドの注意を引いた。彼は書類ばさみを取り上げかけた手を止めて、執事の顔を斜めに見上げた。
驚いたことに、執事は顔を伏せず、またそのまま立ち去ることもせずに、ディヴィッドの目を見返してきた。ディヴィッドは胸の中にもやもやと広がる不快感の底を覗きこみ、そこに曖昧な不安を見つけてゾッとした。
「どうした、バーナード。言いたいことがあるなら言え」
明らかに、相手は答えを準備していた。
執事はいかめしい顔つきは崩さず、それでいて柔らかな語調で答えた。
「はい、ディヴィッド様。もちろん手前どもが申し上げるべきことではございませんが、まさか今日すぐにショーンを解雇なさるとは思いませんでした。たとえショーンのほうがそう願い出たにしましても、せめてもう何日か・・・一日だけでも、引き止めてやっていただきたかったのです」
執事がすべてを過去形で言ったことに、ディヴィッドはすぐに気がついた。

難しい言葉が使われたわけではなかった。だが、ディヴィッドの頭がその意味を理解するのにはひどく時間がかかった。
まるでパズルのピースがあるべき場所にひとつひとつはめこまれてゆくように、ディヴィッドの胸にもそれらの言葉が断片的にことん、ことんと降ってきた。そしてようやく一枚の絵になったと思った瞬間、またばらばらに砕けてしまったような気がした。

もしも今夜、屋敷にいたなら。
そう言ったときショーンはすでに、今夜自分がここにいないことを知っていたのだ。
だがそうは言わず、ディヴィッドをすっかり信用させておいて、そのまま消えた。
別れも約束もなしに、ただいなくなってしまった。
全身の血液が床についた爪先から流れ出てゆくような喪失感があった。ディヴィッドは椅子の腕木をぐっと握りしめて、それに耐えた。執事の顔を見上げている表情はいささかこわばったかも知れないが、どうやらこの家のあるじらしい威厳を保つことはできた、と思った。
「・・・確かに、おまえに言われるようなことではないな」
「はい。申し訳ございません、ディヴィッド様」
せいぜいいかめしく言ったつもりだったが、執事は主人のこういった反応も予期していたのだろう。執事は動揺のかけらも見せず、恭順の意を表すために頭を下げた。その薄くなりかけた頭頂部に向かってディヴィッドは、いらいらと付け加えた。
「だが、言っておくが、あれはショーンの勝手だ。私のほうからすぐに出て行けと言ったわけじゃない」
「はい、そのことは承知しております。ショーンもそう申しておりました」
「だったら、私にどうしろというんだ?」
「いいえ。手前はなにも・・・」
「私に、ショーンを引き止めてほしかったと言っただろう」
「申し訳ございません。差し出がましいことを申しました」
「最初から私のギブスが取れるまでという約束だったはずだ。仕事を満了して辞めたいというのを、止める理由がないだろう?」
「それだけでございますか?」
「あたりまえだ」
ディヴィッドは苦々しげに吐き捨てた。
「ショーンは、前から辞めたがっていた。だがあれがいないと不自由すると思って、最初の約束どおりに足が治るまではだめだと言ったんだ」
「・・・はい、それもショーンから聞いております」
「そしていざギブスが取れたら、その日のうちにいなくなる。私の意向もきかずに、だ。そういうやつとなにを話せばいいというんだ?」
自分に言い聞かせるように畳みかけると、執事はどこか痛ましそうな目で、主人を見つめた。その顔つきがまた、ディヴィッドの感情を逆撫でした。思わず手を振ったはずみに、机上に積み上げられていた書類挟みの小山が崩れてしまった。
ディヴィッドは、その上に手をついて立ち上がった。もう、足元にほとんど不安はなかった。
「そこまで嫌なら、勝手に出て行かせればいい。逆に、どうしてもここに置いてほしいというなら別だが、そうでなければ私の知ったことか。・・・バーナード、おまえも、私の個人的なことにまで口を出すんじゃない。下男がひとり辞めていった、ただそれだけのことだ」
ディヴィッドがそう言ったのは、本心だった。
だが指先に紙の手触りを感じても、両足でしっかりと床を踏みしめていても、ディヴィッドは自分が現実の中にいるような気がしなかった。目前にうなだれている執事の姿も、ギブスの取れた左足も、もうここにいないショーンのことも、すべてが悪い夢の中のできごとのようにぼんやりとしていた。
「ですが・・・」
厳しく言い募られて、執事もさすがにひるんだ様子を見せた。
長年の経験と理解に培われた冷静さの覆いが一瞬取り除けられると、そこに覗いたのは知り合いの青年を気遣う、気のいい小父さんらしい素顔だった。
彼は黒いお仕着せのポケットからハンカチを取り出し、それで額に滲んだ汗を拭いながら、ようやく言った。
「失礼ながら、旦那様。私は、ショーンをこちらへご紹介申し上げたことを後悔しております」
「後悔だと? ああ、好きなだけするといい。どうせ手遅れだ。・・・もう行け。その手紙を出してこい」
ディヴィッドは容赦なく言いつけて、彼を書斎から追い出した。
じわりじわりと長くなる夕暮れの日差しが、その足元を照らしていた。


* * *


夕食を、ディヴィッドは自室でとった。
給仕をつとめた執事はやはり口数が少なく、申し分のない食事も酒も、ディヴィッドの気を引き立てることはできなかった。


しぶとく地平線の上に残っていた日がようやく沈み、空が葡萄の青色に染まるころになると、ディヴィッドはいつものカウチの上にごろりと身を横たえて暗い天井を眺めた。片手には琥珀色の酒を満たしたグラスがあった。
ごくり、と一口飲みこむと、またすぐに次の一口がほしくなった。最初の一杯がなくなるのに、何分もかからなかった。
グラスが空いたので腕を伸ばしてテーブルに置いても、新しい酒を注いでくれるショーンはいない。
やむなく起き上がって両足を床に下ろし、グラスの上に屈みこむようにして酒を注ぎ足した。今度は、前の一杯よりも多めに入れた。
その酒も、またすぐにディヴィッドの喉を流れ下って消えてしまった。

酔っているときにはいつもそうであるように、今もディヴィッドにその自覚はなかった。
ただなんとなく頭が、首の後ろがこわばって痛いな、と思い、いったん目をつむったら開けられなくなってしまった。
今日の午後は足慣らしのためにずっと歩いていたので、左足が疲れたのか、だるいような痛みがあった。無意識にその足を揉もうとして手を伸ばしたが、上体を起こすことができず、太腿までしか届かなかった。

ショーンがいれば、この足を撫でてくれた。

閉じた、暗い瞼の裏に、熱のあるディヴィッドを介抱してくれた青年の顔が浮かんだ。
濡れた布でディヴィッドの身体を拭きながら、ショーンは恥ずかしそうに目を伏せていた。ディヴィッドはほんのりと淡紅色に染まった目元を眺めているうちにたまらなくなり、口での奉仕を求めたくなった。
彼は、泣き出しそうになりながら従ったものだ。
「ショーン・・・」
ディヴィッドは低く呟き、太腿に置いていた手をそのまま横へ滑らせた。ガウンの上からでも、そこが熱をもっていることはわかった。
耳の中で、血がドンドンと鳴っている。また空になっていたグラスを自分の胸の上に置き、両手で包むように股間を覆った。着衣を汚したくない、と思ったのも一瞬のことだった。ガウンの前をはだけるのももどかしく、裾のあわせから利き手を滑りこませて、ディヴィッドはそろそろと前をまさぐった。
やわらかく立ち上がりかけたものをじかに握り、軽く揉むととても気持ちがよかった。
「・・・ん・・・っん」
ため息まじりの声が、勝手にこぼれた。それがおかしくなってディヴィッドは、目をつむったままで微笑した。
いま、ここにショーンがいないのが不思議で仕方がなかった。
なぜ彼はディヴィッドのそばにいないのだろう?
いれば、またあのときと同じようにしゃぶらせてやるのに。

ディヴィッドはもう少し足を開こうと、腰を捻った。そのはずみにグラスが床に落ちて転がったが、もう気にもならなかった。







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ああ、言い訳がしたい! ものすごくしたい!!
でももう適切な言葉が見つからない。(涙)

20040406