* fragile/51 *
夏はまだ盛りだった。その週も天候は晴れ続きで、大きな麦わら帽子をかぶった庭師たちが動き回っている庭には、眩い陽光がさんさんと降り注いでいた。生け垣に沿って一列に植えられたヒマワリが、黄色い晴れやかな笑顔を彼らへ向けている。
乾いた夏風はディヴィッドの居間へも吹きこみ、開け放たれたドアから廊下を走って、広壮だが古めかしい屋敷の隅々まで新鮮な空気を運んだ。普段は使われていない客間の隅やクローゼットの裏まで、風はすっかり覗いてまわり、有能な使用人たちですら拭えない湿気や黴臭さを追い払ってくれた。
だが、その軽やかな風ですら、屋敷のうちにひっそりと垂れこめた沈鬱な雰囲気を吹き払うことはできなかった。
ショーンが出て行ってから3日が経っていた。
行動を制限していたギブスが外され、自由に歩き回れるようになったディヴィッドは、ずっとはけなかった細いズボンに足を通した。両足にきちんと革靴を履いた。常に彼の手元に置かれていた松葉杖も、いつの間にか居間から持ち去られていた。
しばらく使われないでいるうちに筋肉が落ちて弱ってしまった足を回復させるため、ディヴィッドは暇さえあれば庭や廊下を歩き回った。以前にもまして口数は少なくなっていた。
足下に短い影だけを従え、芝生の上や、タイムの茂る脇道を黙々と歩き続けるディヴィッドの姿を、彼の雇い人たちは遠くから眺めていた。近頃ひどく気むずかしくなった感のある主人が、彼らにあれこれと世話を焼かれるのをうるさがることがわかっていたからだ。
きらきらと輝く風が芝生を渡り、ヨモギの銀色の葉を優しくなぶる。いい香りのする草を踏みしめながら歩くディヴィッドの頭上では、小鳥たちが彼らの愛を語らっていた。
歩き疲れると彼は、どこへでも腰を下ろした。仕立てのいい衣服が草の汁で汚れることなど、気にもしなかった。以前はそれを防ぐために、下男が敷物を抱えて彼の後をついてきたものだ。彼の服についた染みについて、執事も女中たちも苦情は言わなかった。また、自分がついていきましょう、などと言い出すこともなかった。
広大な庭には、ありとあらゆる緑が溢れているように見えた。ディヴィッドは、これまでにもそうしてきたように、つらい記憶をこの庭に埋めてしまいたかった。
この庭に、たったひとつ足りない緑の思い出を。
* * *
その日も、午後いっぱいをディヴィッドは庭で過ごした。どうしても会わなければならない来客があれば、執事が呼びにくることになっていた。
地面に涼しい影を投げかけている広葉樹の下に横たわり、紗を張ったような薄青い空が輝くのを眺めていると、いくらか気持ちが落ち着くのを感じた。
ざわざわと風に揺れる梢の音に全身を濯がれながら、ディヴィッドは身体の力を抜いて瞼を閉ざした。
明るい闇のスクリーンに、いくつかの面影が浮かび上がっては消えていった。
その中にはショーンの顔もあった。
と、遠くで誰かが呼ぶ声がしたような気がした。
ディヴィッドは自分がそうしているという意識もなく、首だけを持ち上げてぐるりと庭を見渡した。眩く光をはじき返す芝生は白っぽく輝いており、まるで一面の鏡のようだった。
その縁を、のろのろと動いてくるふたつの黒点があった。ディヴィッドは目の感光機能がうまく働かないのに苛立ちながら、だるい手を庇のように掲げて、もっとよく見ようとした。
黒い点と見えたものは、母屋からこちらへ向かってくる人の姿だった。この暑いのに黒っぽい上着を着ている人間が、ディヴィッドの目にはそのように映ったのだ。じいっと見つめているうちにその姿は徐々に鮮明になり、やがてディヴィッドの目にも顔がはっきり見分けられるほどになった。
ディヴィッドは、ゆっくりと後ろに肘をついて身体を起こした。
ふたつの人影は、彼の執事と管財人に間違いなかった。
老齢の管財人の足下を気遣ってか、ディヴィッドのいる木陰までの直線距離をとらずに、手入れのされた小道を迂回してゆっくりとこちらへ近づいてくる。そうするくらいならいっそ執事だけがディヴィッドを呼びにきたほうが早いのだが、昔気質な管財人が、自分のために屋敷の主人を呼びつけることを許さなかったのだろう。
執事と管財人は、内心じりじりしながら待っているディヴィッドの気を知ってか知らずか、なにごとか話し合いながらのんびりと歩いてきた。彼らの歩速は、ディヴィッドには太陽の運行速度よりも遅く感じられたほどだった。
だが、やがてそのふたりもディヴィッドの座っている木のそばまでたどり着き、管財人が帽子を取って挨拶すると、執事は急ぎ足にやってきて、脇に抱えてきた折り畳みの椅子を開いた。椅子は二脚用意されたが、ディヴィッドはそれに目もくれずに地面にじかに座り込んでいた。
「・・・いいお天気ですな、ディヴィッド様」
そう言いながらやってきた管財人は、ディヴィッドを見下ろすように立って、手にしたステッキに体重を乗せた。ディヴィッドは無言で頷いて、執事が平衡を確認している椅子のほうをチラと見やった。いいから掛けろ、という意味だった。
いまだ矍鑠とはしているがさすがに膝関節の硬い管財人を、執事が助けてその椅子に座らせた。彼がディヴィッドを上から見下ろす形にならないよう、執事は気をつけて遠目の場所に椅子を据えていた。
この礼節にやかましい管財人が、分別もわきまえないこどものように草の上に腰を下ろしたままでいる自分をなんと思ったか、そう考えるだけで小気味がよかった。
軽く手を振って執事を去らせ、明るい芝生に視線を向けたままでディヴィッドは冷たい声を出した。
「今週は、おまえに会う用はないと思っていたが?」
「ええ。私もです」
両膝の間にステッキを突き、ディヴィッドと同じく前方を眺めながら管財人も答えた。今日の彼は、例の分厚い書類鞄を手にしていなかった。
「・・・こちらへ伺う予定はございませんでしたが、今朝の郵便でこれが届きましてな」
そう言いながら、管財人は上着の内ポケットからふたつに折った封筒を取り出した。ディヴィッドが黙って手を差し出すと、彼はその上に封筒を置いた。
封筒は見るからに粗悪な紙でできており、ごわごわとした手触りだった。表面に書かれた管財人の事務所の宛先はひどくすり減ったペンで書かれたのか、青いインクがボタ落ちして滲んでいた。字体は几帳面で間違いなく読めたが、あまり字を書き慣れたものが書いたようでもなかった。
差出人の名前は、二つ折りになった内側になっていた。
ディヴィッドはある種の期待に指先を冷たくしながら、それを開いて、裏返してみた。
そこにはやはり、ショーンの名前があった。住所は書かれていなかった。
「・・・どういうことだ?」
「どうぞ、中をごらんください」
管財人は、風が吹きすぎるのと同じほど平然とした声で言った。ディヴィッドは他人の手紙を盗み見る後ろめたさを忘れて、封筒の中をあらためてみた。
やはり安っぽい用箋の間に、四つに折り畳まれた高額紙幣が数枚、挟まれてあった。ディヴィッドはその枚数を確かめて封筒へ戻し、用箋だけを開いた。
”お金は返します。途中で逃げ出してすみません”
宛名も、署名もなかった。
そのたった一行を、ディヴィッドは何度も何度も繰り返して読んだ。
彼はショーンが書いた字を見たことがなく、それどころか彼に字が書けるかどうかすら知らなかった。だが、簡潔すぎるその一行を眺めていると、薄青い用箋の上に内気そうなあの横顔が浮かび上がってくるような気がした。
彼は、これをどこで書いたのだろう? 手がかりを求めてディヴィッドはまた封筒に目を注いだが、切手の消印はかすれていて、ほとんど読めなかった。
ろくに考えもせずに、ディヴィッドはふたたび声を上げた。
「どういうことだ、これは? ショーンからか?」
「それはそうでしょうな。封筒に、差出人の名前が書いてあります」
「そんなことは、見ればわかる。この金はなんだ?」
そう言いながらも、ディヴィッドは彼らの間に金銭的なつながりがあることを思い出していた。
先週の、確か月曜のことだ。
顔にひどいケガをしたショーンが、薄暗いホールでこの老人から金を受け取っているのを見たことがあった。
あのときディヴィッドは、彼らを問いつめておくべきだったのだ。
なぜそうしなかったんだろうと考えたら、その前日のショーンの泣き顔が記憶の淵に浮かび上がってきた。
ショーンはあの日、もう着られるシャツがない、と言って泣いた。そのことを思い出すと、ディヴィッドは胸を引きむしられるような気がした。
あのときはあれ以上ショーンを追いつめたくなかった。彼の行動にどんな裏があるにせよ、今すぐ出ていくなどと言い出さずにいてくれるなら、多少のことには目を瞑っていられた。
ショーンがなにを考えていてもよかった。
ディヴィッドのことをどう思っていてもかまわなかった。
ただ、できるだけ長く傍らに置いておきたかっただけだ。
・・・できるならば、ずっと長く。
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派遣の仕事をバックレてやろうと思ったら、今月末が契約期限だから
それまでは勤務してください、と諭されました。
しょうがない。
「呪われろ、呪われろ、○○!(<企業名)」かーすちゅー・・・。
20040412
20040416誤変換を修正!
20040424誰も気づかなくとも自分が(略