* fragile/52 *

管財人は、すぐには答えなかった。
夏の、さわやかな風が吹きすぎる木立の下にしゃんと背筋を伸ばして座り、芝生越しに母屋のほうをまっすぐに見据えていた。その姿はまるで、長い時間の流れに磨かれた古代神の木像のようだった。
ディヴィッドは内心の葛藤のためもあってひどく苛立ち、、封筒からまた紙幣の束を引き出して、それでぱたぱたと空気を叩いた。杖の握りの上に置かれた老人の指が、ピクリと震えた。
「結構な額じゃないか?」
いち、に、とこれ見よがしに紙幣を繰りながら、ディヴィッドは呟いた。
「いつだったか、おまえがショーンに金を渡してやるのを見た。あのときの金だろう?」
「・・・ご覧になっていたとは存じませんでした」
老人は、それを聞くとゆっくりと視線を巡らし、ディヴィッドの顔を見た。
「まあ、盗み聞きをされたからと言って苦情を申し立てる権利は、当方にはございませんな」
「盗み聞きなどしていない。ただ見ただけだ」
「似たようなものです」
「それがどうした」
ディヴィッドは自分の膝に封筒と紙幣を投げ出して、老人のいかめしい顔をじろりと睨めつけた。
「あれはなんだったんだ? 答えろ」
「ショーンからお聞きになりませんでしたか?」
「いいかげんにしないか、クリストファー!」
どん、とディヴィッドの拳が傍らの地面を叩いた。管財人はやはり棒を呑んだようにまっすぐに腰を伸ばして座ったまま、瞬きすらしなかった。
しばし押し黙ったふたりのそばでは、ミツバチが眠気を誘うような羽音を立てながら飛び回っていた。

やがて、老人はゆっくりとした調子で話し出した。
「・・・最初に彼に会ったとき、私は、とても好感を持ちました」
その声は、まるで遠い昔の思い出を語っているように深く、低かった。
「あなたから、新しくお雇いになった下男に倍の給金を払う、という手紙をいただいた日です。そんな馬鹿な話があるものか、と私は思いました。もちろん、あなたがご自分の資産をどうお使いになろうが、あなたのご自由です。ですが、もしあなたがなにか愚かな気の迷いを起こされているとすれば、それにご意見申し上げるのが私のような年寄りの役目でもあろうかと思ったのです」
管財人は緩やかに首を振り、続けた。
「そこでお屋敷に伺ったところ、ドアを開けてくれたのがショーンでした。私は、この新顔の下男があなたに金をせびっているのかと思い、厳しい目で見ようとしましたが、難しいことでした。彼は親切で、よく気のつく若者でしたからな」
「ああ」
ディヴィッドは前を向き、芝生の明るさに目をすがめた。
「おまえのことを、いい年寄りだと言っていた」
「さようですか。・・・まあ、そのようにして気に入っただけに、よりにもよって彼があなたの情人だと知ったときには腹が立ちました。真面目そうな素振りで人を信用させてあなたのような資産家に近づき、たぶらかす機会を狙っているような不埒者だったのかと」
「それは逆だ。私のほうから誘ったんだ」
誘った、とは、いささか穏便すぎる形容だった。ディヴィッドは苦虫を噛みつぶしたような顔で言ったのだが、管財人がそれに気づいたかどうかはわからなかった。彼はディヴィッドにはほとんど注意を向けず、記憶の糸をたぐり寄せることだけに専念しているように見えた。
まさかそうは思いませんでした、と老人は呟いた。
「あなたにそのようなご趣味がおありとは、ついぞ伺ったことがございませんでしたからな。・・・それで、下へ降りてまた彼に会ったとき、私は彼に相当手厳しいことを言ってやりました」
「・・・ひどい話だな」
「ええ、まったく。・・・ショーンは黙って聞いておりました。本当にひとことも反論しませんでしたので、私はますます彼に対する怒りを強くしました。自分が不道徳な行いをしているとわかっていながら、言い訳をするつもりもない確信犯だと思ったのです。そこで、これ以上ディヴィッド様にご迷惑をかけないうちに出ていくなら、私が相応の手切れ金をやる、と言ってみました」
そう告白する管財人の声は、さすがに乱れた。ディヴィッドは相づちを打つ代わりに、深く頷いて続きを促した。
「ところが彼はその申し出を断りました。私は、なんと強欲な若者かと呆れました。あなたのおそばにいて、それ以上の金品をねだるつもりだと思ったのです」
「そういうやつに見えたのか」
「なんとも申し上げかねます。ですがそれを申せば、そもそもあなたと淫らな関係を結ぶような人間にも見えなかったのです。私は・・・裏切られたような気分になりました」
苦々しげに言葉を吐き出しながら、管財人はゆるく首を振った。皮肉なことに、ディヴィッドにはその心情がよく理解できた。

ショーンは、あの従順な態度の陰に、確かに自分だけの考えを持っていた。そしてそれをディヴィッドにはほとんど語ろうとしなかった。たとえ悪気がないにせよ、彼の謎めいた行動にはひどく困惑させられた。
ディヴィッドでさえそうだったのだ。

老人は、声を励ましてなおも続けた。
「また、私は彼に、ディヴィッド様のお立場をよく考えて、悪い噂のたつような真似は決してするな、とも言いました。こんなことがいつまでも続くはずはない。ほんの一時ディヴィッド様の歓心を得られたからといっていい気になるな、と」
「・・・それで?」
「彼は、わかっている、と言いました。あなたの足が治るまでという期限を持ち出して、あなたも彼も、それまでの関係だということは了解している、と言ったのです」
そう話しながら管財人は、ギブスの取れたディヴィッドの足をちらりと眺めた。
「その程度では私の気は済みませんでしたが、いちおう期限が決まっているというのはよいことだと思いました。そこで、くれぐれもあなたとお家のお名前に泥を塗るようなことをせぬように、と釘をさしておいて、その日は帰りました」
「まったく、ぬれぎぬもいいところだ・・・」
「なぜショーンは、そう言わなかったのですかな。・・・そして次に会ったときには、彼はひどいケガをしていました。私はもちろん驚いて、なにがあったのかとしつこく訊ねましたが、彼は頑として答えませんでした」
「ああ、私にも言わなかった」
「あなたに殴られたのかと訊きますと、それだけは違う、とはっきり否定しました。そこでぴんときまして、では金の問題かと訊きましたら、返事に困ったようでした」
管財人は、そこでいったん言葉を切った。その表情の落ち着きようだけを見れば、ごく当たり前の事務的なことを話しているときの彼とすこしも変わらなかった。
「・・・そして、今日すぐに出ていけば、前に私が言った手切れ金をもらえるのか、と言ったのです」
さすがに、ディヴィッドも絶句した。
頭上の木の葉がざわざわと鳴る音に混じって、あの最初の水曜日にショーンが言った言葉が、耳元によみがえってくるような気がした。

「妹が、町の病院に入っているので」
「せいぜい高い値をつけてください、旦那様」
「金が要るんです」

そう、金だ。
ショーンには金が必要だった。そのために彼は、ディヴィッドの不道徳な申し出を受け入れざるをえなかった。ショーン自身はこのうえなくまっとうな倫理観の持ち主であったにもかかわらず。

ディヴィッドが黙っているのをなんと思ったのか、老齢の管財人はふと声を和らげた。
「私は、馬鹿なことを言うなと彼を叱りました。最初からあなたの足が治るまでの関係だと言っていたではないか、と。その期限が近づいた今になって、以前と同じ条件で金をよこせなどとは、あまりに虫のいい話ではありませんか。・・・ショーンもさすがに恥じ入ったように聞いておりましたが、ではあなたの足が治った後もただ働きをするから、来月分の給金を前借りさせてくれとまで言い出しました」
そのときの驚きを思い起こすように、管財人はまた声を強めた。
「そこまで言うならと、私は彼に金を貸してやりました。個人的な融資です。ただし、今後決してあなたにご迷惑をおかけしないことと、いったん仕事を辞めたら二度とお屋敷には近づかないように、という条件をつけました。ショーンは最初からそのつもりだったと言いまして、その金を取りました」
「で、それを返してきたというわけか?」
ディヴィッドは胸を灼く苦痛に表情をゆがめながら、膝の上に置いた紙幣をハタハタと叩いた。管財人はその金を横目で見やって、頷いた。
「はい。ですが、まさか全額返してくるとは思いませんでした。先ほどバーナードに訊きますと、彼はもう辞めて出て行った後だということでした。妙な話です。先週にはあれほど金をほしがったくせに、今週には割のいい仕事を辞めて、急に出ていってしまう・・・」
そこで初めて、管財人はまともにディヴィッドのほうを向き直った。そのとき初めて、彼の炯々とした黒い瞳にある種の倦怠感のようなものをディヴィッドは認めた。
「・・・実を申しますと、私は彼のことが少々心配なのです。今もバーナードと話しましたが、彼もやはりショーンのことでは心を痛めているようでございました。まさかこの金の話などできませんでしたので、詳しくは聞けなかったのですが」
「話せばよかったんだ」
舌打ちせんばかりに言いながら、ディヴィッドは立ち上がった。
「おまえといいショーンといい、なぜ誰も彼も私に隠しごとばかりするんだ? 手切れ金だと? 話がまったく逆だ、金がほしいなら私にそう言えばよかったんだ。いくらでも払ってやったのに」
「そのようですな」
「部屋へ戻ろう。バーナードがなにか知っているだろう」
きっぱりとそう言われると、管財人のいかめしい唇に、ほんのわずかな安堵の笑みが浮かんだ。







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20040422