* fragile/53 *

ディヴィッドのガレージには合計三台の車があったが、そのうちの二台はあるじの専用車だった。使用人たちが屋敷の用に使うことを許されている一台を除いたそれらは、ディヴィッドが足を折ってからこのかた、しばらく日の目も見ていなかった。車の好きな門番の手でぴかぴかに磨き上げられてはいても、ハンドルを握られることのない車は薄暗いガレージの中で眠っているしかなかった。
だが今日やっと、そのうちの一台が長い眠りから覚めて覆いをはずされ、ガレージの扉から太陽の下へと勢いよく走り出ていった。
そろそろ西へ傾きかけた日差しを浴びて、そのオリーヴ色の小型車は水銀の玉が転がるように田舎道を進んだ。
対向車のほとんどない道だった。このあたりには今でも車が少なく、日に数便のバスが住民たちの主な移動手段なのだ。
ディヴィッドは思い切りよくスピードを上げ、埃っぽい道をひた走った。もちろん舗装などされていない地道だ。轍の跡にタイヤが乗ると、そのたびガクンと車体が揺れて、座席の上で尻が跳ねた。
しばらく運転しないでいる間に鈍ってしまった勘を取り戻すためには、もう少しゆっくり走ったほうがいいのはわかっていた。だが、そうするのはもどかしかった。

ただもう今は、急げ、急げと、誰かが叫ぶ声に抗えなかった。その誰かはディヴィッドの胸郭を内側からドンドン叩きながら、大声を上げ続けていた。

ディヴィッドはぐっと奥歯を噛みしめて、ぐんとまたアクセルを踏み込んだ。車体にくらべて馬力の大きなエンジンは歓喜して吼えたけり、車体の角に空気が当たって甲高い悲鳴が上がった。
景色は、車窓の外を飛ぶように流れてゆく。
ものみな眠っているような、けだるい午後の農村地帯だ。道路脇の畑で農夫が草取りをしている。悲しげな目をした雌牛が、エンジン音に興味を引かれて首を振り向ける。赤茶けた種まき前の畑の向こうには濃い緑の森林帯が見える。どれもディヴィッドの視界には入らなかった。彼に見えていたのはただ眼前に延びている道と、その先にあるはずの目的地だけだった。
そんな視野の狭い状態でも、これほど見通しのいい道では事故を起こす気遣いはなかった。けたたましいエンジン音に、歩行者のほうが気がついて道をあけた。ネズミ一匹、車の前を横切りはしなかった。
しかしやがて、その景色が変わりはじめた。
車がどんどん進むにつれ、あたりには農地が少なくなった。綺麗に畝のたてられた畑や柵で区切られた牧草地は姿を消し、かわりにじめじめと湿っぽい荒れ地ばかりが続くようになった。村の西側に広がる、低地帯の端にさしかかっていた。このあたりは昔から排水が悪く、よい畑ができないのだ。
まもなくディヴィッドは前方に小さな道標を見つけて、速度を落とした。前もって教えられていなければとても気がつかないような、古ぼけた木の道標だ。ゆっくりと近づいてみると、消えかけた文字はどうやら「ビーン」と読めた。
ディヴィッドは慎重にハンドルを切り、そこから脇道へ入っていった。


ずいぶん長く車が乗り入れていないらしく、道には雑草が生い茂っていた。見えない路面の凹凸にタイヤを取られないようスピードを落として進んでゆくと、やがて一軒の農家が見えてきた。
その家は、からまりあった灌木の茂みに抱かれるように建っていた。このあたりではよく見るような、板葺き屋根の古い家だ。ディヴィッドが入ってきた脇道は、ちょうどその家の前で行き止まりになっていた。
ディヴィッドは家のすこし手前で車を停めて、クラクションを鳴らしてみた。
じっと耳を澄ましてみたが、なんの反応もない。
留守なのだろうか、そもそもほんとうにここがショーンの家なのだろうかと不安に思いながらも車を降りて近づいてゆくと、その家のあまりのみすぼらしさに胸が痛んだ。
ディヴィッドの屋敷の一棟どころか、ガレージにすら及ばないほどの小さな小屋だった。
灰色の砂岩で積まれた壁は表面がぼろぼろになり、板屋根の縁が今にも滑り落ちそうに傾いていた。西側の壁面に差し掛けられた家畜小屋にも、動くものの気配はない。以前はその小屋で鶏や豚を飼っていたらしく、破れた飼料袋とその中身が周囲に散乱していた。
近隣の農家でよく目にするような、軒先につり下げられた保存食品の類もまったく見えない。玄関脇に大きな丸いものが転がっていると思ったら、ひびが入って用をなさなくなった陶器の水瓶だった。
とても人が住んでいるようには見えなかった。
ショーンはここに戻らなかったのかも知れない、という疑いがディヴィッドの頭をかすめた。そっと近づいて、ガラスのはまっていない台所の窓から中を覗きこんでみた。
家の中は薄暗く、無人のようだった。家具らしいものはほとんど見えなかった。ただとても大きなテーブルがあって、その上に食器やガラス瓶が散らかっていた。それらが埃をかぶっていないところを見ると、使われてからあまり日も経っていないらしい。
なおも手がかりを求めて、ディヴィッドはゆっくりと室内を見渡した。
奥の部屋へ続くドアの脇に、以前ショーンの部屋で見たことのある鞄が置かれていた。その上には、これも見覚えのある装丁の、薄い本が。
表題は読めなかったが、ディヴィッドが彼に与えた俗な小説本に間違いなかった。
ディヴィッドは、安堵のあまりすこし顔をしかめた。

ショーンはここにいる。ともかく、彼の鞄や持ち物がある。いまは出かけているようだが、いずれ帰ってくるだろう。

念のためにドアのほうへ回ってみると、取っ手に手をかけただけでひとりでに開いた。鍵がかかっていないどころか、きちんと閉まりもしていない。たとえ盗まれるようなもののない家にせよ、いくらなんでも不用心すぎる、と思った。
「・・・ショーン?」
奥へ向かって一応呼びかけてはみたが、返事はなかった。
ディヴィッドはいったん車へ戻って革張りのシートに身を沈め、長期戦の構えでショーンの帰宅を待つことにした。


* * *


それに先立つこと、一時間ほど前。
ディヴィッドは管財人と一緒に母屋へ戻り、一般の来客の目に触れる可能性もある応接室ではなく、ディヴィッドの居間へ上がって再び話し合いをもった。
そこへお茶の支度を運んできたのは、もちろん執事だった。
管財人は、お茶を味わうほかにはもう口を開こうとはしなかった。
かわりにディヴィッドが訊いた。
「・・・バーナード」
「はい、ディヴィッド様」
「おまえはショーンと親しいんだったな?」
「は、・・・親しいと言えますかどうか。あれの両親が亡くなりましてからは、あまり顔を合わせる機会もございませんでしたので」
いったいなんのための質問かと、執事は怪訝そうな顔をした。手にはまだポットを持ったままだった。
ディヴィッドはちらりと管財人の様子を窺ったが、彼はただお茶の香りを愉しんでいるだけのような態度で、会話にはまったく触れないつもりであるのが明らかだった。この席にいることすら忘れてもらいたい、と言わんばかりの顔だった。ことがディヴィッドの私生活に関わることだけに、自分の口から他人に語ることはなにもない、というのだろう。
それならそれでいい、とディヴィッドはあらためて執事のほうを向いた。
「実は、先週ショーンに金を貸した人間がいる。かなりな額だが、どうしてもと言われて貸してやったそうだ」
「も、申し訳ございません、そのような・・・!」
「いや、そのことを責めているんじゃない。ショーンはその金を、そっくり返してよこしたんだ。これが、その金だ」
ディヴィッドはテーブルの上に、紙幣の束と封筒をぱさりと投げ出した。封筒は裏を向けて、差出人の名前しか見えないようにしてあった。執事の目がそのサインに引きよせられるのを見て、ディヴィッドは訊いた。
「ショーンの字か?」
「は、はい。おそらく・・・似ております、確かに」
「住所がないが、今どこに住んでいるんだ?」
「それはもとの家でございましょう」
「家があるのか」
「はい、村の西はずれに。今ではショーンがひとりで住んでいるはずでございます」
そう答えた口調が、なんとなくしんみりとして聞こえた。ディヴィッドは違和感に眉をひそめ、じっと首を傾けて執事の顔を眺めやった。
なにかが変だ、と思った。
だがなにがどう変なのかが掴めず、曖昧に口を開きかけたディヴィッドの横から、それまで黙っていた管財人が軽く問いを投げた。
「彼には妹がいたのではなかったかね?」
「はい、リー様。確かに、おりました」
執事は静かに答えた。

ああ、そうだったのか。

その瞬間、ディヴィッドの周囲で空気が破裂したような気がした。音のない衝撃に頭をガンと殴りつけられ、その苦痛に目が眩んだ。
ディヴィッドはガタンと椅子を鳴らして立ち上がった。その弾みに彼のカップが倒れて、熱いお茶がテーブルの上に流れ出した。そこに広げられていた紙幣も封筒も、すっかりお茶に浸ってしまった。
「デ、ディヴィッド様!」
慌てて執事が手を出し、管財人も椅子から腰を浮かしかけたが、ディヴィッドは自分の服が濡れるのにもかまわず、チカチカする目をじっと見開いて相手の顔を見つめた。実を言えば、そこに映っているのはもうどちらの顔でもなかった。
ショーン。

「いつだ、バーナード?!」
「な・・・なにがでございますか?」
みるみる広がる褐色の染みにナプキンをかぶせながら、執事は上の空で答えた。彼にとってはその質問よりも、上等なクロスに紅茶の染みがつくことのほうが重要なのだ。ディヴィッドはかっとなって、彼の腕を強くつかんだ。理不尽な怒りであることは百も承知だったが、自分では止められなかった。叫ぶような声になっていた。
「彼女が死んだのは、いつだ?!」

だが、答えを待つまでもなく、ディヴィッドにはわかっていた。
あの朝だ。
ショーンがディヴィッドの窓の下で雨に濡れて佇んでいた、あの朝。
あのとき彼は泣いていなかったか?
まるで死人のような顔色だ、と言われて、動揺したショーン。
知らなかったとはいえ、なんと残酷なことを言ってやったのだろう。

「バーナード、ショーンの妹が死んだのはいつだ?! 先週だろう? 先週の、月曜か・・・日曜の夜だ」
「さようで・・・さようでございます。私も後で知らされたのですが」
「だが、先週は一件も葬式などなかったはずだ」
もし教区内で死人が出れば、ディヴィッドは必ずその葬式に献花をしてきた。ディヴィッドの祖先の代から、もうずっと続いてきた通例だ。もし遺族が知らせてこなくとも、誰かの葬式の前日には教会のほうから連絡があると決まっていた。
ディヴィッドの剣幕に驚いたのか、執事はめったに見せない動転した顔で、こくこくと首を振った。
「あの子は、ま、町の叔母の家に引き取られておりましたので、埋葬もあちらでしたそうでございます。ショーンがそう申しておりました。まさか・・・まさかご存じなかったのでございますか?」
「知っていれば、わざわざ訊くと思うか?」
「ですが、ショーンが。・・・ショーンは、ディヴィッド様が妹の葬式に、素晴らしい立派な花輪を贈ってくださったと申しておりました。女中のミリーもでございます。ディヴィッド様がお贈りになった花とカードを、確かに見たと。あれも親戚ですので」

もちろん、ディヴィッドにそんな覚えはなかった。ということは、誰かがディヴィッドの名を騙ってその花を贈ったのだ。
その犯人が誰かは考えるまでもなかったが、理由がわからなかった。
直接本人に訊ねてみる以外に、知るすべはなさそうだった。








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お気づきのかたもいらっしゃるでしょうが、このシリーズでは
「実在する地名と商標名を書かない」というシバリを
自分でかけています。(うちでは多いけど)
だから時々、すごく不自由!
車のメーカーとか、紅茶の産地とか、ひとこと書けたら
すごく楽なのにな〜(苦笑)

20040423