* fragile/55 *

ディヴィッドはそっと足音を忍ばせて正面へ回り、ドアを開けた。
キィ、とかすかに蝶番が軋んだが、このドアはいつも簡単に風で開くのかも知れない。ショーンは気にした様子もなく、テーブルの上に顔を伏せたまま動かなかった。不安定な燭光が彼の金髪やテーブルの上のガラス瓶の上で、ちらちらと躍っていた。
戸口にもたれかかったディヴィッドの脇を、湿った夜風が吹き抜けてゆく。
その風が蝋燭の火をまた揺らしても、ショーンは相変わらず身じろぎさえしなかった。

こうして見ている限りは、まるで一枚の絵のように静かな光景だった。
その絵を壊すことも、またその中へ踏みこんでゆくことも今さらながらに躊躇われて、ディヴィッドもまたしばらくは動けずにいた。
だが、いつまでもそうしているわけにはゆかなかった。
夜明けまでそうして見守っていたところで、彼の後ろ姿からは答えのひとつも導き出せないからだ。

ディヴィッドは軽く曲げた指の関節で、コン、とドアを叩いた。
「不用心すぎるんじゃないのか、ショーン?」
そう言ったのと、ショーンがいきなり立ち上がったのとが同時だった。大きな音を響かせて、椅子が倒れた。
彼は、翡翠の色の瞳をいっぱいに見ひらいて、戸口に立っているディヴィッドを見つめた。どうして、という形に唇が動いたが、声は出なかった。ディヴィッドはその問いに簡潔に答えた。
「おまえが黙っていなくなるからだ」
「でも・・・」
「私が、待ちくたびれてもう帰ったと思ったか? いったいどこに隠れていたんだ?」
ディヴィッドはこれ見よがしにため息をつきながら、一歩部屋の中に踏みこんだ。じり、とショーンは後ずさろうとしたが、すぐに背中がテーブルについてしまった。たとえ彼がまた逃げだそうとしても、ディヴィッドにとっては幸いなことに、この家にドアはひとつしかない。ディヴィッドが背にしている、建てつけの悪いドアだけだ。
逃がすものか、とディヴィッドは胸の中で呟いた。
「生憎だったな、ショーン。私はこう見えても諦めの悪いたちなんだ。・・・おまえには、訊ねたいことがたくさんある」
「帰ってください、旦那様」
ショーンはディヴィッドの視線を避けようとして、青ざめた顔を背けた。
「私はもう、あなたの使用人じゃありません。なにも答える義務はありません」
その言いように、ディヴィッドはあきれた。
「冗談じゃない。そんな馬鹿な言い分が通ると思うのか」
「帰ってください。ここは私の家です」
「おまえは家に客がきても、椅子も勧めないのか?」
「わ、私がお招きしたんじゃありませんから」
「なるほどな」
うんざりとディヴィッドは言い、相手との距離を無造作に数歩、詰めた。ショーンはテーブルの端に追いつめられてゆく格好になったが、やはりここが彼の自宅であるためか、その口調はかえって落ち着いてきた。
「ほんとうに、旦那様。もう帰ってください。なにもお話しすることはないんです」
「ところが、私のほうには訊きたいことがあるんだ。そう言っただろう?」
「帰ってください!」
ショーンは勢いよく頭を振って、苦しそうに歯を食いしばった。
「・・・ここは、あなたがこられるような場所じゃありません。なにかご用があるなら、私がお屋敷へ行きます。ですから今日は帰ってください」
「言い逃れにしか聞こえないな」
「そんなことは・・・」
「また屋敷へくるというのは、いつだ? 明日か? 来週か? 私がおかしいと思ってまた見にくるころには、この家は空き家になっているんじゃないのか?」
ショーンがぐっと唇を噛んで押し黙ったので、それが図星であることがわかった。だがそんな推測が当たったところで、ディヴィッドには嬉しくもなんともなかった。
ディヴィッドは、部屋の隅に置かれている鞄をちらりと見やった。蓋も留め金もきちんと閉じられたそれは、もう荷造りが済んでいるのだろう。実際、ディヴィッドは危ういところで間に合ったのかも知れなかった。
「どこへ行くつもりだったんだ、ショーン?」
苦々しげに、ディヴィッドは訊ねた。この家の生活感のなさからすれば、ショーンが長く不在にするつもりでいたのは明らかなように思えた。
ショーンは、しばらく答えなかった。
俯いたきり動こうともしない彼のつむじを見下ろしたまま、ディヴィッドも黙っていた。彼が答えるつもりになるまで、何時間でも待ってやろうと思っていた。どうせふたりのほかには誰もいない荒れ地の小屋だ。空っぽな静けさが、耳を打つようだった。
ただ、風だけがこの小さな家を取り巻いて鳴っていた。

ディヴィッドがいつまでもなにも言わずにいるので、ショーンは不安になったらしく目を上げた。その瞳には、ディヴィッドがよく知っている寂しげな光がいっぱいにたたえられていた。
そして、ディヴィッドが驚いたことには、彼はその目にかすかな笑みを浮かべた。
はかないような、泣き笑いのような、それでもそれは確かに微笑だった。
「すみません、旦那様。嘘を・・・嘘だったんです」
「・・・ああ」
ディヴィッドは曖昧に頷いて見せたが、ショーンの次の言葉は彼にとって衝撃だった。
「私は、船に乗るんです」
「なんだと?!」
「来週出航する、カイア・アンドロス号です。大きな客船なので給仕も大勢必要なんだそうです。お屋敷で執事さんにすこし教えてもらったことを言ったら、すぐに雇ってくれました」
ショーンの口振りに悲壮感はなかったが、聞かされたディヴィッドの心は暗く沈んだ。
ショーンが船に乗る。
そう聞いただけで、耐えられない気がした。
両親の訃報を聞いたあの朝の、新聞の大見出しが脳裏に躍った。
「だめだ!」
考えるよりも先に、言葉が口をついて出ていた。
「船になんか乗ることはない。絶対にだめだ」
「いいえ。もう決めたんです」
頭ごなしに言われたショーンは、彼にしては珍しく反発した。
「私はもう旦那様に雇われているんじゃないんです。どこで働こうと、私の勝手のはずです」
「なぜわざわざ船なんだ? 給仕の口なら、町にだってあるだろう」
「遠くへ・・・」
そう言いかけて、ショーンはまた言葉を切った。ディヴィッドは彼のためらいを感じ取ったが、なにも言えなかった。
「・・・遠くへ行きたいんです。ここにいたって、もう・・・誰もいないですし」

ディヴィッドは黙って頷いた。それだけでショーンにも、彼が自分の妹の死を知ったことがわかったようだった。
「どこか遠い外国へ行って、気に入ったところがあったらそこに住むつもりなんです。誰も私のことを知らないところで」
「なぜそんな馬鹿なことを考えるんだ?」
「・・・馬鹿でしょうか?」
「あたりまえだ。知り合いも親戚もみんな捨てて、ひとりっきりでどこへ行こうというんだ」
「でも・・・」
ショーンは悲しそうにまた俯いて、ぽつりぽつりと続けた。
「・・・私がここにいると、その人たちにも迷惑がかかりますから。親戚は怒ってるんです。私が・・・身持ちの悪い女みたいなことをしたと言って。無理もないです。村でもだいぶ噂になってましたから」
その口調に、ディヴィッドを責めるような調子はまったくなかった。小さな灯火を背にして、自分のつま先をじっと見下ろしているばかりだった。
ディヴィッドはゆっくり彼に近づき、両肘のあたりをそれぞれつかんで、背後のテーブルにやんわりと押しつけた。やっと彼をつかまえた、と思ったら、心の底からほっとしてため息が漏れそうになった。ショーンのほうはどう思ったかわからない。痩身をびくりと震わせたが、逃げようとまではしなかった。
どうしても顔を上げようとしない彼の耳元で、ディヴィッドはささやいた。
「・・・それは、おまえが悪いんじゃない。私のせいだと、何度言えばわかるんだ?」
「そんなことは理由になりません」
ふたりの間で、これまでにも幾度か繰り返されてきたやりとりだった。ショーンは相変わらず頑固に首を振り、彼を悪く言う誰よりも厳しく、自分を批判しようとした。
「私は、それが嫌ならすぐに逃げ出せばよかったんですから」
「だが、それだけ金が必要だったんだろう?」
「それだって私の都合です」
ショーンはゆるゆると首を振り、床へ向かって苦笑をこぼした気配がした。
「・・・後悔はしていないんです。いただいたお金のおかげで、あの子にはいい薬を買ってやれました。最後もあまり苦しまずに・・・眠るように息を・・・よかったと・・・」
それまで淡々と話していたショーンの声が急に乱れたかと思うと、彼の高い鼻梁の先から、一滴の涙がぽとりと床へ落ちた。ディヴィッドは、いつまでも相手の腕をつかんだままでいた自分の迂闊さを呪いたくなった。彼がそうしていたために、ショーンは涙を拭えなかったのだ。
彼はショーンの腕を放し、かわりに、力なくうなだれている金髪頭をそっと抱きしめた。







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みなさまのかわりに、僭越ながらひとこと。
「がんばれ、旦那様!」
・・・え、違いましたか?

20040503