* fragile/56 *
ショーンはディヴィッドの肩に頭をもたせかけて、静かに呼吸を整えようとしていた。ディヴィッドの上等な上着の衿には彼の涙の染みがついてしまったが、さすがに今はショーンも気にしている余裕がなさそうだった。
はあ、はあと低く、大きく息を吐いているショーンの背中をそっと撫でてやりながら、ディヴィッドは優しく言った。
「大丈夫か、ショーン?」
「す、すみませ・・・急に」
「ああ、わかる。急に思い出したんだな」
まだ涙が喉に詰まっているようなショーンが、こく、と頷いて答えた。頼りないほどに素直な反応だった。ディヴィッドは彼を慰めてやりたいと思ったが、気の毒だったな、とか、元気を出せ、とかいったような、ありきたりな言葉しか浮かんでこなかった。そしてそういった言葉はどれも、いまこの場にはふさわしくないような気がした。
だが、ディヴィッドがまだ言葉を選びかねているうちに、ショーンの様子はやや落ち着いてきた。
彼は自分のシャツの袖で、ぐいぐいと目元をこすった。それがあまりに強い調子に思えたので、ディヴィッドは彼の手首をつかんでやめさせた。
「よさないか。目に傷がつくぞ」
「・・・大丈夫です」
「おまえがよくても、私は気になるんだ」
舌打ちせんばかりに言って上着のポケットからハンカチを取り出し、ショーンの手に握らせようとしたが、拒まれた。
「結構です、旦那様」
「いいから使え」
「いいえ、もうほんとうに・・・ほんとうに大丈夫です。もう止まりました」
「見せてみろ」
ディヴィッドはぶっきらぼうに言い、彼の顎に手をかけてクイッと持ち上げた。
チラチラ揺れる燭光の中、ショーンは懸命な様子で目を見ひらいて、ディヴィッドの顔を見つめた。眼球の表面は涙の名残に濡れていたが、流れ出すほどではなかった。
瞳の緑色を判別するには、反射する光が暗すぎる。ディヴィッドはやや失望して、無彩色のその双眸に、記憶の中から引き出した鮮やかな緑を重ねてみた。
あのころ、ショーンはよく笑っていた。
いまのディヴィッドには、どうすればまた彼の笑顔が見られるのかさえわからなかった。
ともかく涙だけは止まった、と思いつつ、ディヴィッドは彼から手を離した。
「・・・なら、いい」
「はい、旦那様」
「落ち着いたか?」
「はい。すみませんでした・・・」
ショーンは答えて、おどおどとまた俯いてしまった。
だが、ディヴィッドを驚かせたことには、そのまま彼の首筋に顔を埋めたのだった。
これほど積極的なショーンというのは、ディヴィッドの記憶にはなかった。いや記憶どころか、空想すらしなかった。
ショーンはいつもディヴィッドの腕から逃げることばかりを考えているようで、自分から彼の胸に頭を預けてくるなどということはありそうにもなかったのだ。
ディヴィッドは努力して自分を抑えたが、足裏がふわふわとして床から浮きそうだった。
華奢なつくりの女相手であれば苦情を言われそうなほど強く、それこそ力任せに、ディヴィッドはショーンの胴を抱いた。唇にキスしたくなり、こちらを向かせようとしたが、ショーンはどうしても従おうとしなかった。
ただ、ディヴィッドに掻き回されて乱れてしまった髪の間から目だけを覗かせて、相手の表情を窺った。ディヴィッドにはその目つきが、ゾッとするほど艶っぽい流し目に見えた。
「・・・旦那様、すこしゆるめてください」
さすがに苦しそうにそう言われると、ディヴィッドはほとんど有頂天になった。
携えてきた質問も、あれほど重要なことだと思っていた疑問も、すっかり頭から抜け落ちてしまった。
いつもあれほど臆病だったショーンが、抱きしめられて逃げようとするどころか、彼の抱擁に応えてくる。・・・ディヴィッドの上着に、頬をすりつけてくる。
ディヴィッドがもう一度顔を上げさせようとすると、彼は嫌がって首を振った。その項も、半分髪に隠れた薄い貝殻のような耳も、ほんのりと赤く染まりかかっていた。ディヴィッドは彼の内気さをからかうように微笑って、中途半端な長さの髪をそっと後ろへ掻きやった。
「どうしたんだ、ショーン?」
「・・・」
「ショーン?」
「・・・です」
「なに? なんだ? 聞こえない・・・」
ショーンの耳にキスをしても、自分の耳の聞こえがよくなるわけではない。ディヴィッドはそんなことにも気づかず、ショーンの薄紅色をした耳朶にぱくりと食いついた。ショーンはとてもくすぐったそうに首をすくめて、自分もディヴィッドの耳に唇を寄せた。
「もう、お会いできないと、思って、いたんです」
ひとことひとこと、はっきりと区切って発音された言葉が、ディヴィッドを苦笑させた。
「それはおまえが馬鹿な真似をしたからだ。自業自得じゃないか。なぜ黙って出ていったりしたんだ?」
「・・・お会いしたら、止められると思って」
「あたりまえだ。おかげで、こんなところまで出向いてくるはめになった」
ディヴィッドがわざと憂鬱そうにため息をつきながら答えると、彼の耳元で鳩の声のような柔らかい喉声がクスクス笑った。
笑った。
「でも、もっとすぐかと思っていました。旦那様が・・・その、旦那様がきてくださるのではなくても、お使いの人か、手紙の・・・」
「自惚れるな、ショーン」
今朝までの逡巡は棚に上げて、ディヴィッドは軽く舌打ちをした。
「私は、ほかにも用があって忙しいんだ。それにまだ足がよくなかった」
「・・・はい、旦那様。すみません」
微笑をひっこめたショーンが、しょんぼりと身を縮める。それがまたディヴィッドの気には入らなかった。
「だいたい、私はおまえがどこに住んでいるかも知らなかったんだぞ。それでどうやって使いを出せというんだ」
「えっ?」
恨みがましく言ってやると、ショーンは意外そうに、すこし身を離して目を見ひらいた。
「・・・でも、その日のうちにお使いの人はきましたから」
「なに?」
今度はディヴィッドのほうが驚く番だった。もとより、そんな覚えはなかった。
ショーンは困ったような口振りで続けた。
「この家のことで。この間ブルームさんっていう人がきて、旦那様のお使いだって言ってました。リストをもってて、私の名前も家の場所も、ちゃんと書いてありました」
「ブルーム? その男が、私の名前を出したのか?」
「はい。このあたりはみんな立ち退きになるって。・・・自分の土地なら、割のいい値段で買ってもらえるそうです」
ディヴィッドは記憶の中を慌ただしく探った。
わざわざディヴィッドの名を出してこのあたりの土地を買っているということは、ディヴィッドの会社で雇っている人間だろうか。事業のことならばあの管財人か、共同経営者のジョンの管轄だ。
ブルーム、という名前には、どこかで聞き覚えがあるような気もしたが、思い出せなかった。
「その男に土地を売ったのか?」
「えっ、いいえ!」
ショーンはおかしそうに、小首を傾げて答えた。
「ここはもともと、旦那様のご領地ですから」
ディヴィッドは、自分の迂闊さにあきれ果ててものも言えない気がした。
屋敷で雇われる以前から、ショーンは彼の借地人だったということだ。この家の所在地がわからないと言われて、ショーンが不審がった理由がやっとわかった。
書斎に積み上げられている台帳を見れば、どこかに彼の名前とこの家の場所、そして借地料が記されているに違いない。
ショーンはこの家を借りておくのに、年間いくら支払ってきたのだろうか。ディヴィッドには、まるで見当もつかなかった。小作の地代の相場など、いちいち気に留めてはいなかった。
「・・・それで、立ち退き料をもらったのか」
「はい、旦那様。ここは取り壊して、新しい家を建てるそうです。向こうの湿地を畑にするのに、新しい人たちがたくさん入ってくるんだそうです」
「ああ、なるほどな・・・」
そこまで説明されて、ようやくディヴィッドにも合点がいった。
ちょうど幾日か前、管財人にサインさせられた書類にそんなことが書かれていた。村の西側の湿地帯を干拓するのに、土地が必要だという話だったはずだ。
まさかあの管財人も、立ち退かせる借地人のリストにショーンの名前があるとは思わなかったに違いない。
おそらくは管財人の雇ったブルームという男がショーンに金を渡し、ショーンはその金をまた管財人の事務所へ送ったのだろう。人の手を巡り巡って管財人の手元に戻った金は、もともと彼の事務所にあったものだったのだ。
ディヴィッドはほっと嘆息して、もう一度彼の身体を引き寄せた。
「クリストファーに、大金を借りていたそうだな」
素知らぬ顔で言ってみると、ショーンはぎくりと身をかたくした。ぴたりと重なった胸の奥で、彼の心臓の拍つ音までが急に高くなったような気がした。
どこまで知っているのか、と言わんばかりにショーンは目を上げて、ディヴィッドが怒り顔をしていないのを認めると、ほうっと静かに息を吐いた。
「はい。でも、もうお返ししました」
「その立ち退き料とやらが入らなければ、踏み倒すつもりだったのか?」
「いいえ、絶対にお返ししようと思っていました」
「返すあてもないのに、か」
「・・・期限は決まっていませんでしたから」
最後のほうは、ささやくように低い声になっていた。明らかに彼は、痛いところをつかれたのだ。
しょげてしまったショーンを慰めようと、ディヴィッドはわざと音を立てて彼の額にキスをした。ショーンがはにかんで腰を引こうとしたが、その背中はすぐにテーブルに当たってしまった。
「なぜ私に言わなかった? 何に使う金だったんだ?」
ショーンはその問いには答えず、黙ってディヴィッドの首に長い腕を巻きつけた。
体よくごまかされたとは思ったが、目先の欲望に目が眩んだディヴィッドには、もうどうすることもできなかった。
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このペースじゃどう考えても間に合わないので、
いろんなものをしばらく封印することにしました。
ホテルにカンヅメになりたいのは、リヴではなくあたしです。(泣)
各方面でご心配をおかけしているみなさま、すみません!
20040509