* fragile/9 *
二度目の情事も、そう違ったものにはならなかった。
ショーンは、前の週よりはずっと遅くなってからディヴィッドの部屋を訪れた。
彼が姿を現すその瞬間まで、もしかしたらショーンはもう来ないのかも知れないという疑念を拭いきれずにいたディヴィッドだったが、薄れかけた金色の夕日の中で所在なげに佇んでいる青年を眺めていると、それもただの杞憂に過ぎなかったのだと安堵を覚えた。
来ないわけがない。
ショーンは倍になった給金を受け取り、何事もなかったかのようにディヴィッドに仕え、そうして一週間が経つうちには身体の傷も癒えたようだった。主人に呼ばれたなら以前と同じように、弾むような足取りで階段を駆け上がってくることができるようになった。
* * *
昼間、昼食が済んで自室へ引き上げるときに、ディヴィッドはショーンの介助を受けた。
「お気をつけて、旦那様」
「大丈夫ですか? 旦那様」
階段を上がるとき、ショーンは口癖のように何度もそう口にしたが、ディヴィッドはすっかり彼にバランスとペースを任せていて、あとは感覚のないギブスのつま先が段差にひっかからないように気をつけているだけでよかった。むしろ案じられるべきは、自分よりもウェイトのあるディヴィッドを支えなければならないショーンのほうなのだ。
彼はディヴィッドの杖を片腕に抱え、もう片方の腕をディヴィッドの背に回して、日に何度も階段を上り下りした。この日の午後のように、ディヴィッドが気晴らしに庭へ出たい、と言ったときには、敷物や飲み物の入ったバスケットを持ってついてゆくのもショーンの仕事だった。
松葉杖の間に挟んだ身体を振り子のように動かしながら、ディヴィッドは庭のはずれまでのんびりと歩いていった。帽子の縁から仰ぎ見ると、空はまるで銀を張ったように明るく晴れている。きれいに刈り込まれた芝生の果てるあたりには、ディヴィッドが気に入っているささやかな木立があった。彼はほんの子どものころから、昼寝をするならこのシナノキの木陰がいい、と考えていた。
あのころは服が草の汁に汚れるのもかまわず寝ころんでいたが、今はそうもいかない。ショーンに命じて樹下に刺し子の敷物を広げさせ、その上にごろりと横になった。
ショーンはその傍らに膝をついて、持参したバスケットから布で巻いた瓶とグラスを取り出していた。
「お飲みになりますか?」
「ああ」
そう答えたディヴィッドは、グラスがひとつしかないのに気がついた。当然のことだった。これはディヴィッドのために用意された飲み物で、バスケットを用意した執事はショーンがその相伴をすることなど考えてもみなかったに違いないのだ。
晴れた夏の昼下がり、ディヴィッドの支配下にある庭はうとうととまどろんでいるようで、物音ひとつしない。ショーンの重そうな靴に踏まれたタイムの香りがかすかに漂ってくる。
氷で冷やされ、果物が浸けられたワインはかすかに甘く、軽い喉ごしだった。添えられていたチーズは田舎風のよく熟した山羊だ。ほんのすこし前歯で囓りとっただけで、口中いっぱいに豊かなうまみが広がった。
さわさわと、遙かな梢を風が鳴らしてゆく。
ショーンはすこし離れた木陰に腰を下ろして、芝生越しに母屋のほうを眺めていた。
「おまえも飲むか、ショーン?」
軽い気持ちで声をかけたのだが、ショーンはぎょっとしたようにディヴィッドのほうを振り向いて、慌てたように首を左右に振った。
「いえ、けっこうです」
「かまわないから、飲め」
「だめです」
差し出されたグラスから目を逸らしながら、ショーンはきっぱりと言った。
「仕事中に酒なんか飲めません。叱られます」
「誰にだ?」
眉をひそめてディヴィッドは言ったが、なるほど、昼間から酒臭い息をした使用人などこの屋敷では見たこともない。彼の執事はとても有能な男なのだ。
「・・・私がいいと言っても飲まないか?」
目の高さまで上げられたグラスの中で、赤く透きとおった酒がゆらゆら揺れた。ショーンはちらりと母屋のほうを見て、それからディヴィッドの顔に視線を戻した。
強い意志を湛えた二粒の翡翠が、憂えるようにディヴィッドを見つめてくる。芝生の緑、広葉樹の緑。それらを映して、彼の瞳の色は幾重にも深みを増していた。
それから、ふっと声を弱くして、ショーンは言った。
「どうしてもと言われるなら、いただきます。・・・でも、本当に困るんです」
ショーンの言いたいことは、とてもよくわかった。彼は使用人たちの間で、仲間はずれにはなりたくないのだ。
主人に特別な扱いをされる使用人は、純粋な友情には縁遠くなってしまうだろう。
その顔にじっと視線をあてたまま、ディヴィッドはぐいとグラスを干した。自分でも驚くほど、冷たい声が出た。
「まあ、いい。・・・今夜のことは覚えているな?」
ショーンは答えないまま、ついっと目を伏せた。麦藁色の髪が風に揺れる。草の上に置かれた拳に、張りつめた静脈が浮いて見えた。
「皆が出かけてからでいい。必ず来い」
ゆっくりと、まるで引力に逆らうように持ち上げられた瞳が、木漏れ日に透けてちかりと光った。
* * *
ショーンは、身体の後ろに隠すようにして陶製のマグを持ってきていた。農夫がビールを飲むのに使うようなものだ。単純な好奇心に駆られて
「それは?」
と訊ねると、コトンとテーブルの上にそれを落として、口ごもりながら答えた。
「その・・・油を。すみません。台所からいただきました」
料理番の女がなかなか出かけなかったので、ここへ来るのが遅くなってしまったのだ、としなくてもいい言い訳を口にする。咎めるつもりもなかったディヴィッドは、いささか気を悪くした。
「油だと? 油をそんなマグに入れてきたのか?」
ショーンは答えなかった。なぜそうも不機嫌そうに言われるのかわからず、なすすべもなくテーブルの脇に立ちつくしている。
「来い」
短く命じられると、マグをテーブルの上に置き去りにしたままディヴィッドのそばへ来てしまった。
金色の夕日をいっぱいに受けて、セピア色になった瞳がディヴィッドの顔色を窺う。人間には言葉という便利なものがあるのに、ショーンの目はそれよりも雄弁だ。
私はなにか悪いことをしたでしょうか?
そう言わぬばかりに細められた目を見ていると、ディヴィッドはもう冷静ではいられなくなった。
カウチの袖にもたせかけてあった松葉杖を取り上げ、くいっと顎をしゃくった。
「向こうへ行くぞ。それを忘れるな、ほんとうに使ってほしいならな」
けれどもやはりその夜もショーンは、とうとう快楽を訴えはしなかった。
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しばらく更新ができなかったら、抗議と励ましのお便りを何通か頂きました。
正直、びっくりしました。
このシリーズに、そんなに需要があるとは思わなかった・・・。
でもすごく嬉しかったです。やはりお便りは何よりの励みになります。
蜜より甘いです。
20030825