* 月と犬 *
アガメムノン率いるギリシャ連合軍がトロイの侵略を志して、はや数年。
戦況は膠着状態に陥り、海辺の丘に位置する城塞都市の門前に展開したギリシャ軍の陣営には、兵士たちを相手に商売する酒場や物売りの店なども現れ、すっかり定着していた。
そのうちのひとつ、朽ちかけた船体の腹に帆布の屋根を差し掛けただけの小さな飲み屋が今回の話の舞台だ。ペロポネソス半島の向こう側から船に積まれて連れてこられ、足を負傷したために兵士としては働けなくなった壮年の男が、ひとりでその店を切り盛りしていた。
このあたりの農民たちから仕入れる安価な地酒と、大鍋一杯に煮られた海産物や野菜だけを出す店だ。兵士たちには「安くてうまい」と評判で、軒先につり下げられた目印のランプの色からして「赤提灯」という屋号で親しまれていた。(く、苦しい)
* * *
さて今夜、その店のベンチには、珍しく身分の高い客が座していた。
ひとりは雲を突くような大男で、顔にも身体にも、危険を顧みずに戦場へ飛びこんでゆく勇士ならではの傷跡がたくさんある。あの無敵を誇るアキレスとでも、武器を持たずに組み討ちすればどちらが勝つかわからない、とまで言われる勇猛な戦士、アイアスだ。
そしてもうひとりは、そのアイアスよりは頭一つ分以上小柄な・・・とはいっても、並はずれた大男であるアイアスと比較すれば、大抵のものは小柄に見えるのだが・・・すらりとした男だった。切れ長の大きな目と高い鼻をもった彼の端正な美貌を、編まずに短くした茶色の巻き毛が縁取っていた。
彼こそはギリシャ軍でも一、二を争って人望のある、小国イタケの王、智将オデッセウスだった。
「アイアス、さあ飲んでくれ」
「あなたもだ」
「いや、私はもういっぱいだ。だが君はまだまだいけるだろう。その体格ならばな」
ふたりは低いベンチに並んで腰かけ、めいめい酒杯と肴を入れた鉢とを手にして、にこやかに語りあっていた。定例の軍議が終わった後でひとときの憩いを楽しむために、彼らは時々こうして安い酒場を訪れることがあった。
特にこの店は、オデッセウスのお気に入りだ。彼はこの店のベンチに座ると、にこにことして両手をすりあわせ、まずこう頼むのが常だった。
「おやじ、酒だ! それとタコ! タコをどっさり入れてくれよ!」
彼が故郷のイタケでよく食べた好物が、この店にはあるのだ。ある晩、たまたまそれが品切れだったときの彼のしおれようときたらそれは激しく、横で見ていたアイアスもあまりの気の毒さにもらい泣きしそうになったほどだった。
ともかく彼らは今夜も兵士たちが飲むような店で、楽しく酒杯を傾けていた。だらだらと長い軍議が済んだ後とあって、時刻はかなり遅くなっていた。個々の天幕をもたない兵士たちはもう寝に行かなければならない時間だ。宵のうちはずいぶんにぎやかなこの店も、今はふたりの貸し切りといった状態だった。
そして、今も昔も、中間管理職がふたり集えば、話題は上司や部下の愚痴になると相場が決まっている。
このふたりも例外ではなく、ひとしきり酒を勧めあった後は自然にそういった話になった。なんといっても愚痴話の焦点は、強引かつ傲慢なギリシャ軍の盟主のことだった。
「・・・しかし、あの偉そうな態度だけはなんとかならんものか。全体から見れば筋のとおったことでも、あのように高飛車に言われては納得できるものもできなくなろうに」
オデッセウスが茶色の巻き毛を振り振り言えば、アイアスもぐびりと酒を飲みほして答える。
「ああ、まったくだ。俺には理屈はよくわからんが、大王になにか言われるとバカにされているようで無性にムカつく」
「うむ」
「その点あなたの言うことはわかりやすい。なるほどなと思うのだ」
「それはよかった、アイアス。さあもう一杯」
「おお。これはこれは・・・おおっとこぼれる・・・!」
裏表のないアイアスは、オデッセウスを疲れさせない。この剛勇な武人になにかを話すとき、彼はいつも表現をとても丁寧にかみ砕いて伝えた。小難しいことを言われるとアイアスは、「ぐうう」と獣のような唸り声を出して腕を組んでしまい、それきり一言も発せなくなってしまうのだ。最初はオデッセウスも怪訝な目で見たものだが、あるときそれが「彼が困り果てているときの表現だ」ということに気がついてからは、アイアスがそんなはめに陥らないように気をつけてやらなければならない、という義務感を感じるようにさえなっていた。馬鹿な子ほどかわいい、とはよく言ったものだ。
そしてまたアイアスのほうも、難しい話はしないオデッセウスと飲むのが楽しかった。ギリシャ軍きっての策士、智将と呼ばれ、軍議の場ではしかつめらしい顔をして彼には理解できない話ばかりするオデッセウスだが、こうして酒杯を手に向かいあったときには満面の笑みを浮かべて、やわらかい声で愉快なことばかり話すのだ。
「オデッセウス、さああなたも飲んでくれ。さっきからもじもじとして、どうした?」
アイアスは軽い気持ちで言ったつもりだった。
実は、先ほどからずっと気になっていたのだ。店に入ってベンチにかけてからずっと、オデッセウスはどうも尻が落ち着かない様子だった。もぞもぞと身じろぎを繰り返してはキトンの裾を引っ張り、いつもするように気軽に足を組んだりもしない。
単に不思議に思って訊ねただけだったのだが、そう言われるとオデッセウスはなんとなく顔を赤らめたようだった。
「いや、その・・・なんでもないのだ。ちょっとこのベンチは低すぎないか?」
「いつもと同じではないか」
「そうかな? そうだな」
オデッセウスは照れたように笑って、怪訝そうなアイアスの鼻先にまた酒瓶を突きだした。
「いいから飲め、アイアス。つまみはタコがうまいぞ、タコが」
「おお」
酒のにおいがプンと鼻孔をくすぐると、アイアスは嬉しそうに破顔してオデッセウスが注いでくれる酒をうけた。
「・・・それからな、アガメムノンのやつは、俺の兵士がさらってきた女を勝手に取り上げてしまったのだ」
「ふむふむ。それはひどい話だ」
「そうだろう? 俺もそう思って、苦情を言いに行ったんだ。そうしたら軍律がどうのこうのと言い出して、なにか証明しろと」
「ああ。どこで誰が奪ったものか、戦利品として正式に報告してからにしろというんだな」
「そうかな。わからんが」
「うむ。それで?」
「それでだな・・・」
女が奪われたのはもう何週間も前のことだという。今さら異議を申し立てたところでその女の身がいまどうなっているかも不明だし、たかが奴隷女のひとりくらいのことでアガメムノン大王に睨まれるのは得策ではない。
オデッセウスがそういったことを低い声で話してやると、アイアスはうむう、と喉声を出して口を尖らせた。先ほどから何杯も重ねた酒のために、彼の傷だらけの顔はもう真っ赤になっていた。
「では、しかたがないか」
「そうだな。その兵士には気の毒だが、君が元気づけてやれ。次の戦いで頑張れば、もっと若くていい女が手に入るかも知れないと言ってな」
「うむ!」
わかりやすい答えをもらったアイアスは自分も励まされたような気になって、いきなりその場に立ち上がり、たくましく筋肉の盛り上がった胸をバンバンと叩いた。隣にいたオデッセウスはむろんのこと、店の奥で杯を拭いていた主人までがびっくりして飛び上がるほどの勢いだった。
だがその驚きからさめると、オデッセウスは自分も白い歯を見せて大笑した。
「アイアス、まったく君は野性的だな! それにこの脚!」
彼はすぐ顔の横にあるアイアスの太い腿を、手のひらでぴしゃりと叩いた。オデッセウスの倍はあろうかという、マグロの胴のような太股だった。アイアスは体格を褒められた戦士が誰でもするように、にんまりとしてマッチョなポーズを決めてみた。すると、こちらも酔いの回りかけていたオデッセウスが喜んで笑った。
「ああ、君はなんとたくましいのだ、アイアス! ちょっとその筋肉を触らせてくれ」
「いいとも」
アイアスは機嫌よく身を屈め、オデッセウスのすんなりと指の長い手がぺたぺたと腕や腿、また胸の筋肉を触るのを許した。恰幅のいい戦士たちに囲まれているとひとりだけ華奢に見えるオデッセウスは、口にこそ出さないがやはり自分の体格にコンプレックスを感じているのだろう。アイアスの分厚い胸板を撫で回しながら、憧れを秘めた目で彼を見上げた。
「すばらしいな、アイアス・・・」
オデッセウスはタコの切れ端を口に入れていた。それをくちゃくちゃと噛みながら言うものだから、とろみのある煮汁に濡れた唇がいやらしく動いて、見下ろしているアイアスはなんとなく腰のあたりがもぞもぞした。
ふと気づいてみれば、今日のオデッセウスはひどく短いキトンをはいていた。イタケから来た連中はだいたい膝小僧が隠れるくらいの丈のキトンを身につけているのだが、オデッセウスのそれはやけに短く、膝が半分ほども露わになっていた。ちょっと風でも吹けば股間まで見えてしまうのではないかというような丈だ。彼がなぜそんな格好をしなければならないかについては、読者のご賢察に任せたい。
そのオデッセウスが、(見ようによっては)恍惚とした表情を浮かべて、アイアスの身体を撫で回しているのだ。急にかーっと頭に血が上るのを感じて、アイアスはごくりと息を呑んだ。
(さ、誘っているのか、オデッセウス?)
すっかり酔っぱらった単細胞がそんな誤解をしたとしても、誰が彼を責められようか。
アイアスは自分でも意識しないうちにふらふらと手を伸ばして、オデッセウスの頭をつかまえた。やわらかい巻き毛の手触りと、おとなしい愛玩犬のように見上げてくるオデッセウスの顔つきに、なけなしの理性が吹き飛びそうになった。
「オオオオオデ・・・!」
しかし、彼がもう片方の腕を伸ばしかけたとき。
ガッターーン!
と傍らの古い船体が揺れるほどの大きな音がして、アイアスはあやうく舌を噛むところだった。オデッセウスはさすがに反応が早く、アイアスの大きな体を押しのけるようにして音のしたほうを確かめた。
「どうした! なんの騒ぎだ!」
先ほどとは別人のような鋭さで、オデッセウスの声が飛んだ。
答えたのはこの店の主人だった。
「すいませんが、旦那がた。もう店をしまいたいんですがね」
「・・・そうか」
「先にこっちのベンチを片づけてますから、それを召し上がっちまってください」
「ああ、わかった。遅くまですまなかったな」
確かに、時間はもうかなり過ぎていた。真夜中にならなければ上らないはずの月が、もう天頂近くにある。
客のふたりはガタガタと片づけの音が鳴る中、酒肴の残りを急いで腹におさめた。酒代を払って店を出るころには、アイアスはなんとなくしょげた気分になっていた。それがなぜかということは、本人にはわからなかったのだが。
ただ、店の主人にこっそり
「危ないところでしたよ。気をつけてください」
と囁かれて、いい気持ちはしなかった。
そして店を出てみれば、先に砂浜を歩いてゆくオデッセウスの姿があった。
彼は冴え冴えとした金色の月光の下、アイアスを振り返ってにっこり言った。
「アイアス。また来ような」
なんてかわいらしく笑うんだ、と思ったアイアスだったが、なぜ自分が泣きたいのか、なぜ夜の砂浜をどこまでも駆けていきたいような気分になるのか、それがどうしてもわからないのが苦痛でしかたがなかった。
アイアスにとって、こういうときの解決法はひとつしかない。
この次のときにでも、オデッセウスに相談してみるのだ。きっといい答えをくれるだろう。
そう考えたら、とても気が楽になった。
「そうだそれがいい。そうしよう」
「どうした、アイアス?」
「いや、なんでもないのだ」
ひとりごとのつもりが聞きとがめられてしまい、柄にもなく照れて、巨漢はぼりぼりと頭を掻いた。
アイアスの真摯な相談を受けて、ギリシャ軍きっての策士がなんと答えたかは、また別のお話。
* FIN *
■INDEX■
最初は掲示板のレスとして、20行くらいの小話を書きたいと
思っただけだったのに。
なにがいけなかったんでしょう。
「誰が」いけなかったかについては、RさんとPさんで決まり。
あんたらが変なことゆうから。<いや、マジで
200040621