* インクルージョン *

ミナス・ティリスの白の玉座には、ときどき、王が座すことがある。

たぶん一日おきの平日の、午前中の数時間。
どうしても王が直々に謁見しなければならない重要な賓客、あるいは他国からの使者を出迎えるときにだけ、王は長いマントの裾をたなびかせて大理石の広間を横切り、昂然と上げた頭に王冠を載せて、その白い玉座に腰を落ち着けるのだ。


* * *


その日はイシリエンの大公が久方ぶりに王都を訪れて、玉座の前に跪いていた。鋼の甲冑の上に優美なマントをまとった大公のかたわらには、輝くような金髪を高く結い上げた彼の妻の姿があった。
「エレッサール陛下におかれましては、ますますご健勝であらせられ・・・」
「ファラミア、よしてくれ」
うやうやしく述べられ始めた大公の口上を遮って、高い玉座についた王はうんざりと手を振った。
「私たちの間柄で、挨拶もなにも必要ないだろう」
「いいえ、こういうことはきちんとしておくべきです」
そう言った大公の冷ややかな口振りは、前の戦争で亡くなった彼の父によく似ていたのだが、そのことに気づいた者はこの広間にも多くはなかった。
せっかく久しぶりに盟友と会い、気の置けない話をしようと思っていたらしい王は、つまらなそうに顔をしかめた。落ち着きのない指先が、黒っぽいあごひげを撫でる。
「・・・まあいい。ところで、東の国からきた隊商の話はきいたか?」
「話題を逸らされましたね」
「いや、そうじゃない。これは大事なことなんだ」
「わかっております。どうぞお続けください、陛下」
しゃあしゃあと言ってのけた大公の後ろでは、ローハンから彼のもとへ嫁いできた快活な妻が、不謹慎な笑いをこらえようと必死になっていた。

しばらくして、遠国との貿易に関する会談を終えた大公が王の御前を辞するために立ち上がったとき。
「・・・この匂いは、なんですの?」
大公が高い鼻梁をうごめかしたのと、彼の妻がそっとささやいたのがほとんど同時だった。
鋭くそれを聞きとがめた王が、にやりと笑った。
「女たちが厨房で、菓子をつくっているのだろう。・・・さっき言った隊商が、珍しい菓子を運んできたのだ。チヨコレエトとかいう」
「チヨコレエト? 初耳です」
「ずっと南のほうで採れる木の実の加工品だそうだ。東の国には、それで作った菓子を愛する人に贈るという風習があるらしい」
「ほう、美しい風習ですね。では陛下、我々はこれで」
大公は口早にそう言って、愛妻の白い手を引いた。いささか性急に過ぎる仕草だった。不思議に思った王は、つい彼を呼び止めてしまった。
「ファラミア」
後から考えれば、それは致命的な失敗だった。
「ファラミア、おまえと奥方のところへもいくらか持たせよう」
「いいえ、お気遣いは」
「ありがとうございます、陛下」
遠慮しようとした夫君を遮って、断固とした口調で大公妃が言った。
「わたくしも、愛する夫に贈り物ができれば嬉しいですわ。・・・王妃さまがたは厨房で、そのお菓子をおつくりですのね? わたくしもぜひその作り方を習って帰りとうございます」
ああ、と彼女の夫が小さくため息をついたのを見て、王はさあっと顔を青ざめさせた。

彼女にだけは「厨房」だの「手作り」だのという言葉を聞かせてほしくない。
それがこの聡明で勇敢なる大公の、切なる願いだったのだ。

仲むつまじく微笑み交わしながら大広間を出てゆく大公夫妻を、王とその側近はなすすべもなく見送った。
嬉しそうに笑っている愛妻に応える大公の笑顔が、どことなく引きつっているように感じられたのは、彼らの目の錯覚ばかりではなさそうだった。


* * *


ふたりの背後で扉が閉まると、玉座の下に座っていた王国の執政がゆっくりと立ち上がって、呟いた。
「・・・陛下も心ないことをなさる。彼女の料理の腕前は、陛下もご存じでしょうに」
「言わないでくれ、ボロミア」
「失礼な申し上げようですが、あなたも彼女も悪気がないだけに始末が悪い」
黒いマントを翻した執政は、大げさにため息をついて玉座を見上げた。王はしょんぼりとうなだれている。玉座の間を守る近衛の兵たちは、それを見て見ぬ振りをするのに忙しかった。

都の執政は堂々とした偉丈夫で、片手に彼の職権を示す白い杖を持っていた。彼は数年前の戦争で瀕死の重傷を負い、一度は死んだものと見なされて川へ流されたが、いかなる奇跡によるものか、ある日ひょっこりとミナス・ティリスへ戻ってきたのだ。
そのとき、王はすでに戴冠しており、執政の杖は彼の弟の所持するところとなっていた。
しかし本来それを手にするべき兄が戻ったことを知ると、イシリエンの大公は彼の前に跪いてその杖を差し出し、どうか執政職を継いでくれと涙ながらに懇願したのだった。
こうして、ゴンドールの王都ミナス・ティリスには、ほぼ千年ぶりに王と執政が揃うこととなった。
白い塔の上には黒地に白の木と七つの星が描かれた王旗と、純白の執政旗が誇らかに並んで翻った。城壁を守る衛兵たちは喜ばしげにそれを見上げ、頭上からトランペットの音が降ってくると弾む足取りで家族の待つ家へと帰っていった。
ゴンドールは申し分なく平和だった。
それに、もうすぐ春が来るのだ。

だがいま、この大広間には少しばかり冷たい空気が漂っていた。
弟の苦境を目の当たりにした執政は不機嫌そうに王を眺め、してはならぬ失敗をしでかした王はがっくりと肩を落としている。
そして、甘いチヨコレエトの芳香。
弟とよく似た鼻をぴくりと動かして、執政はその香りを追った。顎に手を当てて彼を見下ろしていた王は、その仕草を見てふと言った。
「そういえば、君はチヨコレエトを食べたか?」
「いえ、まだ」
「なかなかうまかったぞ。それに栄養がある」
「さようですか」
執政は王を振り返って、曖昧に頷いた。
「愛する者に贈るにふさわしい、貴重なものですな」
「まったくだ」
王は心から言い、玉座の上からぽーんと大きく言葉を投げた。
「ボロミア、もちろん君もチヨコレエトを贈ってくれるのだろうな?」
「は?」
そう答えた執政は、ぽかんと口を開けて玉座を見上げた。
「私が?」
「そうだ」
「・・・陛下に?」
「あたりまえだ」
そのとき、ぷっと小さく吹き出す声がして、剛勇並びない大将でもある執政はぎろりと視線をそちらへ向けた。視線の先ではつい笑いをこらえきれなかった若い近衛兵が、背中に冷や汗をかきながら凍りついていた。
「ご冗談もほどほどになされたい」
無礼をしでかした衛兵を見つめながら、執政は冷ややかに呟いた。今度だけは許してやる、とその目が言っていた。
「なぜこの私が、厨房になど入らねばならぬのです。アルウェン王妃がお作りになっているチヨコレエトでは足りないと仰せですか」
「いや、別に君に手作りしろと言っているわけではない」
「・・・そうでなくとも、なぜ私が」
「よく言う、ボロミア。あの夜のことを忘れたとは言わせないぞ」
「あ、あの夜?」
どの夜だ、とばかりぎょっとして執政は、思わず辺りを見回した。だが幸いなことに、玉座を守る近衛兵たちは「王と執政のご冗談がまた始まった」とばかり平気な顔をして、正面を向いたまま微動だにしないでいる。
要するに、彼らはこんな会話にはもうとうに慣らされてしまっているのだった。

王はゆったりと長い裳裾をさばき、玉座を降りてきて執政の正面に立った。
「あの夜だ。アンデュインの岸辺で、熱烈な求愛をしただろう? ロリアンでも似たようなことはあったが。・・・君がどうしても一緒にミナス・ティリスにきてくれと言うから、私は」
「な、なにを言っているんだ、こんなところで!」
執政は慌てて声を低めたが、まさしく手遅れだった。すっかり会話の主導権を握った王は、彼の顔を覗きこんでにんまりとしている。
「だいたい、あなたはうんとは言わなかったではないか!」
「あのときは、もっと先までフロドを護衛していくつもりだったんだ」
王が熱をこめてしゃべると、勝手に彼の腕は動いた。銀糸で豪奢な縫い取りのされた衣装の袖がひらひらと翻り、窓から差し込む明るい日差しにきらめいた。
「それとも・・・」
王はまたにやりと笑い、執政の腕に手をかけた。
「・・・君は、私を愛していないのか? ボロミア」

すたすたと、執政は大股に大広間を出て行った。両開きの扉の向こうは、白の木がある空中庭園だ。
黒い執政の椅子にへたりこんだ王は、赤くなった片頬をおさえて、その後ろ姿を見送っていた。
ゴンドールの版図がどれほど広がろうとも、王を殴っておいて不敬罪に問われない人物はあの執政以外にはありえない、と考えながら。


* * *


その午後、王の私室にはふたつの菓子箱が届けられた。
淡い金茶のリボンがかけられた美しい化粧箱には、エルフ族の王妃お手製の、まさしく芸術品ともいえるようなみごとなチヨコレエト菓子が詰まっていた。
そしてもうひとつ、たったいま隊商から買い取ってきたばかりのような木箱が。

王はクスクス笑いながらその箱の蓋を開け、ぽいとひとつ、口の中に放り込んでみた。
異国の菓子は舌の上で甘く溶けたけれども、あとにかすかなほろ苦さを残した。
それすらも美味だ、と王は思った。



* FIN *





■INDEX■


もう、なにもかもがゴメンナサイとしか。(笑)

20040212
20040213ちょっぴり修正