* 地図にない場所 *

海を渡ってくる風が、熱気に汗ばんだ顔に心地よかった。
俺はすべすべの木の手すりに肘を置いて、はるかな水平線を眺め透かしていた。
視界を遮るものは何もない。右手に細く延びる砂浜は麻布を敷きつめたように白く、藍と緑の狭間にあってきらめく海と見事なコントラストをなしている。
俺のいるテラスはその海の上に張り出していて、まるでガラスのように透きとおった海水の中を泳ぎまわる熱帯魚たちが間近に見下ろせた。なんて華やかなんだろう。
「気に入ったかい?」
後ろから声がかかって、俺は反射的に振り向いた。色とりどりのドレスをまとった魚たちは確かに美しいが、この声の主よりも魅力的なものなどあるわけがない。
両手にひとつずつグラスを持った彼は、俺の隣に立って自分も海を覗き込んだ。反射光が彼の顔にまだらな明るさを与える。ただでさえ深い緑の瞳が海と空の色を映して、画家たちが夢見ずにはいられないような絶妙な青みに染まった。

俺はもう魚のことも海の色のことも忘れて、その瞳に見入るしかなかった。
寸時を惜しんで、飛行機のタラップからまっすぐにタクシー乗り場をめざし、このコテージにやってきたのだ。久しぶりに会った彼に静かに抱きしめられ、喉が乾いた、と訴えたら笑われた。
「冷蔵庫にソフトドリンクがある。紅茶とコーヒーと、どちらがいい? ・・・ああ、ミルクティーしかないのか。ホテルに電話して、何か持ってきてもらおうか?」
ちょっと考えて、ノーと答えた。
彼との再会のひとときをエキゾチックなボーイに邪魔されるくらいなら、甘ったるいミルクティーのほうがましだと思った。


俺より七つ年上の彼は、TPOを重んじる英国紳士だ。こんな場所にいても、ちゃんと襟のついた白いシャツを着ている。麻のパンツにあわせてジャケットを羽織れば、そのまま五つ星のレストランにも入れるだろうというスクエアな出で立ちだ。
それにひきかえ、俺はそこらの量販店で投げ売りされているようなスポーツメーカーのロゴの入ったTシャツ、それにヒップハングのジーンズという格好だった。走りもしないのにランナー向けのスニーカーまで履いている。ドレスコードを決めておかなかったのはリゾート地での待ち合わせだということもあったが、彼が北半球に生まれて育った人間だという事実を甘く見ていたせいでもあった。
それでも彼はくつろいだ様子で、俺の手にグラスを押しつけ、にこりと笑った。
「きれいなところだろう? 私も実際に来たことはなかったんだが、友人に噂を聞いていたんだ。この湾は西に向いているから、夕暮れがとても美しいそうだよ」
そう言う、あなたの笑顔のほうがずっと美しい。
俺は言いかけた言葉を飲み込んで、手渡されたグラスに口を付けた。
紅茶と呼ぶのが馬鹿馬鹿しいような飲み物だった。似ているのは、ただ茶葉のにおいがするという部分だけ。砂糖がたっぷり入っていて、異国の花の香りがする。
ただ、その甘さがこの気候にはあっていた。頬を撫でる生ぬるい微風と、午睡の夢にふさわしい熱帯の飲み物。汗をかいて疲れた身体の芯に、じんわりとしみとおるだろう。
ごくごくと飲み干すと、彼がくすりと笑った。
「途中で水の一杯も飲めなかったのかい、ディヴィッド?」
「とても急いで来たんです」
氷だけが残ったグラスを小さなテーブルに置いて、俺は素直に答えた。
「あなたが先に来てることはわかってたから、待たせたくなかった。すこしでも早く会いたかった」
「どっちが本当なんだ?」
「どっちも」
顎をひいて、すこし上目遣いに見上げてみると、彼はまだ口をつけていなかったグラスをテーブルに置いて、呆れたように首を傾げた。俺の年上の恋人は、よくこんなふうに俺の若さを笑ってみせる。自分だって、とても理性的とはいえないような恋愛遍歴を誇っているくせに。俺ばかりじゃない、きっと英国人ならそんなことは誰だって知ってる。
じっと見つめているうちに、彼は困ったような顔になって、唇の端に微笑を刷いた。緑の瞳が悪戯っぽく光る。何かおどけたことを言おうとするときの彼の癖だ。
「私は、君を待っているのも楽しかったがね。まあ実際は、君が電話してくるまで昼寝をしていたんだが」
「昼寝? 嘘でしょう?」
「嘘じゃないとも。なにしろ、飛行機の中では一睡もできなかったんだ!」
空を飛ぶのがなにより嫌いな国際的ムービースターが、白い歯を見せてニコリとする。そういえば彼は夜明け前にこの島の空港に着いたはずだった。

地球の裏側から、大嫌いな夜のフライトを経て、俺に会いに来てくれた。その事実に胸が躍るような気がする。
束の間の逢瀬にこの場所を選んだのは彼だ。ゴシップを狙う記者やカメラマン、それにサインをねだってくるファンたちの近寄れない場所で、しばらくふたりきりですごそう、と。
(たった三日間だよ、ディヴィッド。でも私はとても楽しみにしているんだ)
先月の末、時差を気にしながらかけた電話口で、彼は弾むような口振りで言ってくれたものだ。
(早く会いたいな、もう3ヶ月も会ってないだろう? 君はハンサムだから、私のことなんかすぐに忘れて新しい恋人を作ってしまいそうで、心配になる・・・)
どこまで本気で、どこからがジョークなのかわからない。けれども深夜の電話にはつきものの眠気などすっかり吹き飛んでしまって、俺はベッドの上にあぐらをかいた。足元に丸くなっていた黒トラのブチ猫が、抗議の声を上げるのもかまわずに。
「それはこっちの台詞じゃないですか、ショーン? 俺がそばにいないからって、フラフラ誘われないでくださいよ。あなたはちょっと気がよすぎるんだ。誘われると断れないとこがあるでしょう?」
そうさ、そんなことはわかってる。でなきゃ3度も離婚したりできるものか。さすがに自覚はあるらしく、電話線の向こうで彼はちょっと言葉に詰まった。
そうしてぽつりと呟くには。
(・・・だが、そうでなければ君ともこうはならなかったんじゃないか?)
ああ神様、俺が浅はかだったよ。


いま、彼は微笑みながら俺の傍らに立っている。海と俺の顔とを交互に眺めて、そのたびにすこしずつ目尻の皺が深くなる。にやり、と唇を片方だけ上げて、彼は唐突に言った。
「ミルクティーはあまり好きじゃないんだ」
「え?」
「よければ、君がもう一杯飲むといい。私は味見だけさせてもらうから」
テラスの屋根を支える柱にゆったりとよりかかって、親指の爪を噛むようなふりをする。彼にそんな癖がないことくらい、わかってる。薄い唇の上を思わせぶりになぞる指を見せつけて、俺を誘惑しようとしているだけだ。俺が逆らえないのは承知の上で。
たまらずに腕をつかまえて引き寄せ、ゆっくりと唇を重ねると、彼は喉の奥でくつくつと笑った。きちんと糊のきいたシャツをベージュのボトムから引き出し、その下に手を差し入れて胸と言わず腹と言わず撫で回してやる。しっとりとして豊かな、彼の肌の質感がとても好きだ。
軽いキスを繰り返しながらシャツを剥いでゆく。自分のことは棚に上げて、道徳家ぶった言葉を吐く彼が憎らしい。
「ディヴィッド、デイヴィー・・・これじゃ、せっかく景色のいい場所へ来た意味がないじゃないか?」
「あなたが悪い」
「私が誘惑に弱いなんて言ったのは誰だい?」
「そんなこと、忘れた・・・」

甘く、よく冷えたミルクティー。
彼が俺を呼ぶ声の甘さにはとうてい及ばないながら、喉の渇きだけはいやしてくれる。
彼の不足に干からびた胸を潤してはくれないが、キスの口実くらいはつくってくれる。

互いに気が済んで身体を離したときには、すっかりぬるくなってしまっていたけれども。


* FIN *





■INDEX■


我が愛しのちみ先生(がけろま混沌)に捧げます。
やっぱりハムはへたれやがりましたが、こりゃもうどうしようもないです。

縞ブチのネコは、ちみ先生ちのぶーちゃんがモデルです。
実際のハムがネコアレルギーとかだったらごめんなさい。

20030804
20030805ちょっぴり修正してアップ