* 木馬 *
英雄アキレスは孤独を好む。
少なくとも、彼の配下の荒くれどもとたき火を囲むよりは、野営の天幕の中でひとり静かに杯を傾けていることのほうが多かった。もちろん、娼婦や奴隷女が手に入らないときには、という意味だが。
その夜も、彼はそんなふうにしていた。
トロイの老王が彼の天幕をひっそりと訪れた、次の夜だ。
怒りにまかせて疑いもなく屠った男の遺骸と、彼の女を連れて王は去った。
そのときはそれでいいと思ってしたことが、後になってみるとどうしようもなく間違っていた、ということが、アキレスにはよくある。
今度のこともそうだ、とアキレスは考えていた。
あの男を殺したことも、死体にむごい仕打ちを加えたことも、・・・そしてまた女を帰したことも。
全部間違いだった。
この戦争に加わったことが、もう間違っていたのだ。
あのまま故郷にいて、母や従兄弟と平和に暮らしているべきだった。
そうすればこんなやりきれない気分など、一生味わわずに済んだかも知れない。
アキレスは苛立っていた。
彼は自己の死など恐れはしない。人はいつか死ぬものだし、こうして生きていてもさほど楽しいこともない。
だが、こんなふうに憂鬱なのは嫌だった。
金で打ち出した杯で酸っぱいワインを飲み、暗い目で天幕の壁を見つめていた。
* * *
そこへ、彼の配下が来客を告げた。
いや、客というよりは、この間違いのそもそもの元凶だ。
アキレスは皮肉に笑って、客を通すように命じた。
すると昔なじみのイタケの王が、満面の笑顔を湛えて現れた。
「・・・荒れているようだな」
彼はアキレスの顔を見ると、ちょっと困ったように眉尻を下げた。とはいえ、そのまま立ち去ろうとはしていない。アキレスがなにも言わずにじっと見ていると、彼との距離を測るように天幕の入り口に立ったまま、ニコリと笑って小首を傾げた。
「すまない。きっと君は機嫌が悪いだろうと思ったんだが、どうしても話したいことがあるんだ」
「なんだ? またアガメムノンの命令か?」
「違う、作戦の相談だ」
アキレスが口を利いたのにほっとして、客であるオデッセウスはすたすたと彼のそばへ歩み寄ってきた。
その時初めてアキレスは、彼が片手に羊皮紙を持っているのに気がついた。
「それはなんだ?」
「これがその作戦だ」
オデッセウスはアキレスの傍らにどっかりと座り、秘密めかしてクスクス笑った。
「さっき、ちょっとした妙案を思いついた。・・・君の意見をぜひ聞きたいと思ってね」
「見せてみろ」
アキレスはもったいぶったオデッセウスの態度を嫌い、その手から素早く羊皮紙を奪い取った。鍛え抜かれた筋肉が水が流れるように動き、オデッセウスがあっと思ったときには羊皮紙はもうアキレスの手の中にあった。
ゆるく巻かれた羊皮紙を広げてみると、そこには黒ぐろと、「なにか」が描かれていた。文字はなかった。
さて、これはなんだろう?
アキレスは数秒考えたが簡単に諦め、傍らのオデッセウスを振り返った。
オデッセウスは嬉しそうに、しかしやや心配そうに、アキレスの反応を見ていた。
「どうだ?」
「・・・どうだと言われても、答えようがない。これはなんだ? ヒトデか?」
不鮮明な五本の突起があって、いびつな形をしたものだ。裂けたヒトデか、でなければ広げた手をつぶしたようなものかも知れなかった。
だが、そう言われるとオデッセウスは憮然とした顔をした。
「違う」
「じゃあなんだ? あんたが描いたんだろう?」
「馬だ」
「馬?!」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまい、アキレスは自分でもぎょっとした。
それから慌てて怪しげな図形を見直したが、それはやはり馬には見えなかった。
馬だ、と答えを聞いても、まったくそう見えないのだ。
自分はからかわれているのだろうか、とアキレスは疑い、曖昧な声で笑った。
「馬か、これが! どれが首だ?」
「アキレス、冗談を言ってるんじゃない」
オデッセウスの目に、さすがにもう笑みはなかった。
彼はアキレスを説得するときにいつも見せる、辛抱強そうな微笑を瞳に湛えて、自分が描いた「馬」を指さした。
「船の廃材で巨大な馬を作り、こちらは退却したと見せかけて、浜辺に残しておくんだ。ポセイドンへの捧げものだとわかるようにしてな。・・・ポセイドン神殿はトロイの城壁の中だ。彼らは神殿へ、その馬を運ぼうとするだろう」
「ふん。馬を、な?」
「そうだ。大きな馬で、中は空洞になっている」
そこまで言ってオデッセウスは言葉を切り、まだ不審そうに羊皮紙を見下ろしているアキレスの横顔を見つめた。
「・・・中には我が軍の精鋭が入っていて、折を見て飛び出し、城門を内側から開けるというわけだ」
「ふうん」
「どうだ。君ならどうする? そんなものが海辺に残されていたら」
「さあ。俺なら焼いてしまう」
「絶対に運ばないか」
「運ばないな。・・・だが、あの王ならそうするかも知れない。とても信心深い老人だ」
アキレスは頷きながら言って、意味をなさない羊皮紙を相手に返した。オデッセウスはにっこりと白い歯を見せて笑い、
「実際にプリアモスと話した君がそう言うなら、試してみる価値はある。さっそく明日、アガメムノンに進言してみよう」
「その絵をもってか?」
「そうだ。わかりやすいだろう」
あまりに邪気なく笑って答えられたので、アキレスはすっかり毒気を抜かれてしまった。
* * *
そう、そもそもアキレスがこんな遠国へやってきたのも、もとはと言えばこの男のせいなのだ。
アキレスは、こんな馬鹿げた戦争に加わるつもりはなかった。
表向きの口実は、スパルタの王妃ヘレンを奪ったトロイへの報復ということになってはいるが、実際はアガメムノンの侵略戦争だ。
アキレスはアガメムノンが大嫌いで、向こうもそう思っていることを知っていた。
アガメムノンというのはまったくいけすかない権勢欲の化け物で、彼らの盟主と仰がれるだけの値打ちはない男だと、アキレスは常々思っていた。
あんな男のために命を懸けて戦ってやるのは、もう絶対にごめんだった。
ところが、戦局はアキレスを必要としていたのだ。
アガメムノンに言いつけられて、アキレスを招請するために訪れたオデッセウスは、こう言った。
(では、私のために戦ってくれ、アキレス)
(君がそばにいてくれれば安心だ)
そして彼は、アキレスの腕に手を置いてニコリと笑った。アキレスはそれを許した。
オデッセウスはあのとき口には出さなかったが、もしアキレスを説得できずに帰ったとなれば、アガメムノンは決して彼を許さなかっただろう。
アキレスはそのことに思い至っていた。
そして、そう言わないオデッセウスを水くさいと思った。
オデッセウスがひとことも口を利かない前からもう、彼の術策にのせられていたのだ。
だが、いまはどうだろう?
決してそうは見えない「馬」の絵を見せて、にこにこと笑うオデッセウス。
もしかしたら、これも彼の策なのかも知れない。
あるいはそうではないかも知れない。
なんとなく、違うような気がした。
* * *
アキレスはふーーっと深い息を吐き、立ち上がろうとしたオデッセウスの腕をつかんで引き留めた。
「待て。それだけじゃ、中の仕組みがよくわからない」
「そうか?」
「そうとも。アガメムノンはあまり飲み込みがよくない。もう少し詳しい絵を描いていったほうがいい」
アキレスが言うと、オデッセウスは顎髭を撫でながら考え深げに頷いた。
「なるほど。骨組みくらいは描いたほうがいいな」
「あんたが説明してくれたのを、俺が描こう。そのほうがよく頭に入る」
「ふむ」
オデッセウスが頷いたので、やれやれ、納得してくれそうだと思ったアキレスは、つい笑った。ずいぶん久しぶりに、自然に出た笑顔だった。
それを見たオデッセウスがしみじみ言った。
「アキレス、君はいつも私によくしてくれるな。・・・君が一緒にいてくれると、それだけで安心だ」
「ああ、あんたのことは好きだからな」
アキレスはさりげなく答えて杯を置き、天幕の外で番をしている部下を大声で呼んだ。
「新しい紙をもってこさせよう」
そうして二時間ほどをかけて大きな木馬の絵を描き上げ、このために女も呼べなかったのだからと、暴れるオデッセウスを寝床に押さえつける頃には、さっきまで感じていたやりきれなさも苛立ちも、どこかへ消えてしまっていた。
それがなぜだろうとさえ、アキレスが考えることはなくなっていた。
* * *
オデッセウスはギリシャ軍きっての策士で、謀略家だ。
彼がその夜見せた隙がほんとうに見かけどおりのものだったのか、アキレスにはいつまでもわからなかった。
* FIN *
■INDEX■
大きなものを作るときには、設計図が必要だと思います。
豆ッセウスに描かせたら、ともかく馬じゃないものが
できあがってしまうことは間違いありません。
あなたも、彼の芸術に愛を試されたことがあるでしょう?
20040527
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