* 誘惑 *

薄暗いフロアは、静かな喧噪に満ちていた。
華奢なグラスが触れあう音、着飾った紳士淑女たちがくすくすと笑い交わす声。隅のステージでは若いピアニストがひどく憂鬱そうにサティを奏でている。彼女の染めた金髪は細く絞られたスポットライトの下、月を隠した雲のように淡く輝いていた。

ジェームズ・ボンドは19時きっかりに姿を現した。
一目でテイラーメイドとわかるディナージャケットに身を包み、ゆうるりと歩を運ぶ。彼の堂々たる風采は、連れのあるレディたちの目を惹きつけた。
彼は、目的もなく歩いているようにも見える。
だがその実、一見穏やかそうなブルーアイズは冷酷なほどの鋭さで周囲を探査しているのだ。どこかで見た顔はないか、不審な動きはないか。顔見知りのボーイたちのことさえ一度は疑う。そうでなければこの商売、長生きは望めない。
だがここには、疑う必要のない人物がひとりだけいた。

ジェームズがカウンターに歩み寄ると、ちょうど彼の前にカクテルグラスが差し出されたところだった。明るいライムグリーンの酒、おそらくは一杯目のギムレット。彼の瞳の色によく映るだろう。
「やあ、アレック」
毎日そこで会っているかのような気軽な調子だった。するりと隣の椅子に滑り込んだジェームズをちらと見やって、金髪の先客は挨拶がわりにグラスを数ミリばかり持ち上げて見せた。グラスの縁まで一杯に注がれた酒がほんのすこしこぼれて、彼の優美な指を濡らしてしまった。
人差し指の第一関節に、小さな切り傷がある。すでに血は止まっていたが、脆そうな瘡蓋はまだ鮮やかな赤色をしていた。
晴れやかに微笑みつつ、MI−6の誇る優秀なスパイは同僚の男に歓迎の意を表した。
「まったく悪運の強い男だ」
「君こそ。・・・マティーニを、ドライで」
バーテンダーはすでにウォッカのボトルを取り上げかけており、ジェームズの注文を聞くと心得ていると言わんばかりに頷いた。アレックはそれを待たずに、ゆっくりとカクテルをすすりはじめた。彼の癖のない金髪はまだすこし湿っていて、櫛目のあとまではっきりと見て取れた。
「泳いできたのか?」
「ああ。君は?」
「私もだ」
「ヘヴィだったんじゃないか?」
「そうだな。すこし疲れたよ」
なにも知らない人間が聞いたなら、有閑階級の男たちが午後のエクササイズの話をしているのだと思っただろう。
やがてジェームズのマティーニが来て、バーテンダーはほかの客の注文を聞くためにカウンターの向こうの端へ行ってしまった。
「・・・君の無事に乾杯しよう、ジェームズ」
半分になったグラスを持ち上げて、アレックが意味ありげに微笑んでみせた。先ほどまでの礼儀正しい微笑とは違う、熟れた果物を思わせるような甘い香りのする笑みだった。
どうしてもとせがんだのはジェームズのほうだったはずだったのだが。
誘われている、と感じたのがおかしくて、ジェームズは軽く声を上げて笑った。
「では私は君の無事に、アレック。食事はどうする?」
「要らない」
それよりも、早く部屋へ行こう。
言外にそう伝えながらアレックは、唇につけたグラス越しにジェームズの目をじっと見つめた。ライムの淡い緑も美しいが、彼の瞳の緑はさらに美しい。最高級のエメラルドのように、透明でありながら色が深く、滴るように豊かな輝きの底には小さな瑕瑾が見えるのだ。

ジェームズは、マティーニを三口で干して立ち上がった。


* * *


ふたり、もつれあうように入ったベッドルームには、黄色い明かりが灯されていた。互いに服を脱がせあう手間すらもどかしく、高価なジャケットやシャツが皺になるのもかまわず、ぽいぽいと椅子の上に投げ出してゆく。

最上階のVIPフロア専用であるのをいいことに、エレベーターの中でもうキスをはじめていた。ドアが開いて、ボーイに出迎えられたときには荒くなった呼気を静めるのに苦労した。
アレックの指に掻き回されてくしゃくしゃになった髪と、上気した頬がすべてを裏切っていたかも知れないが、気にしている余裕はなかった。だいいち男ふたりでスイートルームに泊まろうというのだ。今さらボーイが何を思おうと、知ったことではない。

アレックはとてもクラシカルな、手で結ぶタイをしていた。それを床に投げ捨てながら、ジェームズは彼の耳朶を甘く噛んだ。その間にもアレックはもうジェームズのズボンの前を開け、ブリーフの上から彼の股間を撫でていた。
「アレック、急かさないでくれ・・・」
その手をやんわりと押しとどめて、かすかに洗髪料の香りが残るこめかみにキスをする。アレックは不満そうに目を上げたが、なにも言わなかった。
ジェームズがベッドスプレッドを剥いで、そこへ裸のアレックを座らせた。アレックの体は鍛えられているが、無駄な筋肉はついていない。この職業なら無理もないことだがそこかしこに古い傷痕があり、肩には銃弾のあとまで残っていた。
「口でしてやろうか、ジェームズ?」
にんまりと笑いながら、アレックが言う。焦らされるのが嫌だという彼らしい、直截な申し出だ。
「いや、今はいい。・・・ほら、目を閉じて」
「君のペースはゆっくりすぎて」
「優しくされるのが嫌いなわけじゃないんだろう?」
「そうじゃない。だが、もどかしいんだ」
そう言いながらも目の縁はうっとりと赤く染まっている。言われるがままに目を瞑り、そこでしか息ができない、というように唇を半開きにして、アレックは自分の足の間に手を伸ばそうとした。甘いキスと雰囲気に煽られて、そこはもう勃ち上がりかけていた。
「だめだ」
はしたない両手をつかまえてシーツに縫い止めると、アレックは薄目を開けてひどく恨めしそうにジェームズを見上げた。自分もベッドに乗り上げてきたジェームズが、互いに硬くなりかかったものを重ねて腹の下に敷き、ゆるやかに擦りつける動きでアレックの反応を見た。
汗と体液で濡れはじめた局部に互いの体毛が絡む。アレックは眉をひそめてジェームズの肩を押し戻そうとしたが、嫌そうなそぶりにも関わらず彼のものも膨張を続けていた。
「よくないか、アレック?」
「こういうのは苦手なんだ・・・」
「じゃあどうしてほしい? 言ってみてくれ、そのとおりにする」
「・・・君はそういうことを言うから、嫌いだ」
聡明なアレックは、言葉で辱めようとするジェームズの意図を正しく見抜いて顔を背けた。しっとりとした髪が白いシーツに散らばり、サイドランプの光を受けて明るく輝いていた。

「私は、君が好きだがね・・・006?」
アレックの視線が、ゆっくりと戻ってくる。ジェームズはすこし腰を浮かせて、ぴったりと重なった腹の間に片手を差しこんだ。先端の塊をゆるくつかんで、やわやわと揉んでやる。敏感な裏側の筋を撫でられると、アレックははあっと熱い息を吐いた。
「君がしてほしいとおりにしてあげるよ、だから言ってくれ。どうしてほしい?」
「ま、またそんな言い方をするじゃないか!」
「ほかにどう言えばいいんだ」
ジェームズの指は巧みだった。苦笑と共に耳元に吹き込まれる囁きはひどく低くて甘く、アレックの腰に気だるい快感を集めてゆく。アレックが無意識のうちに腰を引き、ベッドのスプリングに尻を押しつけた。扇情的な眺めだったが、ジェームズは見ないふりをしてやった。
「君の望みをかなえてあげたくてうずうずしているのがわからないかい? 何でも言えばいい、アレック。何が望みなんだ・・・?」

不意に、アレックが両腕を伸ばしてジェームズの首にすがりついてきた。突然だったのでジェームズはどきりとして、アレックのものを強く握りしめてしまった。うっ、と低い呻きが上がったが、それも一瞬だった。
「くそ、ジェームズ。私を嬉しがらせるために言ってるんなら、いい加減にしろ。何でもだと?」
「そう、何でも」
「君は嘘つきだ」
「ひどいな・・・」
今、この熱に浮かされた状態で囁かれる言葉が、なにもかも真実のはずはない。それでも嘘など言ったつもりはなかったが、アレックの詰問はジェームズを動揺させた。
「アレック、嘘じゃない。君に嘘はつかない」
そう言ったのは本心だった。

ふと気がつくと、アレックの手がジェームズの指をつかまえて、太股をくぐらせようとしていた。自分の後ろを触らせたいのだ。
さめかけた気分がまた戻ってきて、ジェームズは愛撫を再開した。なだらかな丸みのある肩先に歯を立て、痕が残るのもかまわず吸いつくと、アレックの身体がぐんとしなった。自分だけが熱くなりたくはないのか、また気を逸らすような質問をしてくる。
「では、もしも私が望むなら英国を裏切ることもできるんだな?」
「馬鹿な・・・」
苦笑し、ゆるく頭を振って、ジェームズはアレックの膝を開かせた。もう濡れて光っているものが、足の間で揺れている。彼の声を聞くのはいつでも楽しいが、そろそろもっと甘い声を聞かせてもらっていいころだった。
「・・・馬鹿なことを。この私が、女王陛下の信頼を裏切るような男に見えるのかい、アレック?」
それを聞いて、アレックがふわりと笑った。相手の首に回していた手を引き上げて、髪といわず顎といわずめちゃめちゃに撫で回す。まるで犬を甘やかすような仕草で、最後にはジェームズの鼻先にちゅっとキスまでした。
「ほら、君は嘘つきだ。スパイの鑑だよ。ご褒美に私を舐めさせてあげよう」

促されるまま、淡い体毛に覆われた股間に顔を埋めてゆきながら、ジェームズはあやうい満足感を味わっていた。


* * *


バスルームから出てきたアレックは、今度こそ濡れたままの髪をざっと掻き上げ、くしゃくしゃになったシャツを床から拾い上げた。ディナージャケットとその付属品などといったものはどれも似ていて、彼が最初に取り上げたズボンはジェームズのものだった。
「どこへ行くんだ?」
「下で飲み直してくる」
「酒ならここにもあるが?」
まだベッドに寝ころんでいたジェームズは、眠い目をこすりながら身体を起こした。青い双眸がわずかに曇る。
アレックはゆったりと微笑んで振り返り、皺の寄ったシャツをズボンの中にたくしこんだ。
「いいんだ。ちょっと外の空気が吸いたい」
「・・・アレック?」
ジェームズは裸のままでベッドを降り、身支度をしているアレックの瞳を至近距離から覗き込んだが、アレックは不思議そうにその目を見つめ返し、邪気のない微笑を浮かべただけだった。どこかこの場面にはそぐわない、美しいけれど感情の感じられない笑顔だった。
「先に寝ていてくれ、ジェームズ」
「戻ってくるのか?」
「さあ、どうかな。着替えは向こうの部屋に置いたままなんだが」
「アレック!」
肩をつかもうとしたが、するりと逃げられた。
「ジェームズ、何もそう苛立つことはないんだ」
聞き分けのない子どもに言い聞かせるような、忍耐強い口調だった。
「そうやって所有欲を露わにされると、私は息もつけないような気分になるよ。君の欠点だな」
くすくす笑いながらアレックは、部屋を出て行った。彼が戻らないことは明らかなように、ジェームズには思えた。
アレックは戻ってこない。
彼のために、せっかく眺めのいい部屋を用意したというのに。一度もカーテンを開けることさえなく。
ジェームズはベッドに戻り、乱れたシーツの上に静かに腰を下ろした。
何がいけなかったのか、彼にはわからなかった。
わかるはずもなかったのだ。


* * *


コツ、コツ、コツ。
暗い石畳の街路を、金髪のスパイが歩いていた。身体にぴったり合った仕立ての礼装はだらしなく着崩れて、タイもただ首の回りにひっかかっているだけだ。
やや疲れた足取りで歩く彼の背後に、目深に帽子をかぶって顔を隠した男が追いついてきた。アレックは振り向きもしなかったが、それが誰かは足音だけでもわかっているに違いなかった。その証拠に、訛りの強い英語でいきなり呼びかけられても彼の肩は微動だにしなかった。
「残念だったな」
アレックは男と目もあわせず、同じ速度で歩き続けながらシャツの袷を探って、ボタンをひとつ引きちぎった。みじかく答えた。
「あの男は無理だ。諦めろ」
「君で無理なら、誰にも無理だ。だが、いささか淡泊だったんじゃないかね?」
「彼に疑われたくはないからな。危険は冒せない」
舌打ちをしながら言ってアレックは、小さなボタンを前方へ転がした。数歩でそれに追いつき、靴の踵で踏みにじる。じゃりっ、と音がして、ボタンは粉々になった。
最新式の盗聴器だった。
帽子の男は、それでもまだ諦めきれないように、やや未練がましい口調で言った。
「君に夢中のようだったがね」
「それとこれとは話が別だ。彼は女王陛下の忠実なる飼犬さ」
「気の毒なことだな」
そういって含み笑いを漏らし、男は離れて行った。数十メートル先は大通りだ。夜通し明るく照明された繁華街は、彼らのような人種には不釣り合いなのだった。

アレックは疲れ果てた身体をただ前へ向かって運びながら、007と呼ばれる男のことを考えていた。
海のような碧眼と、それが微笑にきらめく瞬間のことを考えていた。
とろけるように巧みなキスのことを考えていた。

だが、彼は敵だ。
今はそうでなくとも、いずれ取り除かなければならない障害になる。
アレックは彼を失うが、そのかわりに世界を手に入れるのだ。

あとわずかで街灯の光の中に入ろうかというところで、アレックは足を止めた。
前方の通りを車のヘッドライトが流れてゆく。あそこまで歩いてタクシーを拾い、自分のホテルへ帰ろう。
だが、疲れた。もう何時間眠っていないのだろう。身体だけではない、精神もささくれだってガサついている。
早くホテルへ帰らなければ、と思うが身体が動かない。
アレックはどうしても次の一歩が踏み出せないまま、路上駐車の車に寄りかかった。深夜のことで、周囲は物音ひとつせず、彼をとがめる人間もいなかった。

「だから先に寝てくれ、ジェームズ・・・」
思わず声に出してそう呟いていたことに気がついて、アレックは傷ついた指で自分の口元を覆った。
それから、静かに涙を流しはじめた。


* FIN *





■INDEX■



予想というものはね、裏切られるためにあるんですよ!
誰も彼も、もうホンットにごめんなさい。
どうせちょこちょこまた直すんですが、即アップ。

20030913
20030921彼の名前は「ジェームズ」で。あと少し修正と訂正。