* 満ちてゆく潮/1 *
あの兜が脱がされたら驚いた顔をしなければならない。
私は胸のうちで呟きながら、戦場のただ中で惨めなため息をついていた。
ギリシャとトロイ、双方の軍がそれぞれ誇る”最強の戦士”。
彼らは乱戦の中、互いに吸い寄せられるように近づいて、私が気づいたときにはもう剣を交えていた。
振り向いた瞬間、「だめだ」と思った。
ガチン、ガツン、と火花が散るほどの激しさで、剣と盾がぶつかりあっているのがずっと向こうに見えた。
双方の軍の旗印ともいえる、英雄同士の一騎打ちがついに実現したのだ。
周囲を取り巻いた兵士たちはそれぞれの武器をおろして、喉も張り裂けんばかりに声援を送っていた。
「ワァァァッ!」
「ヘクトル!」
「アキレス!」
「討て、討て!」
戦うふたりの足取りは、いまスパルタの宮廷で流行っている踊りのステップのように軽やかだった。
ひらりひらりと身を翻しつつ、目深にかぶった兜の庇の下から互いに相手の隙を窺う。
「ヘクトル!」
「アキレース!」
熱狂しきった兵士たちの怒号が、耳をつんざく。
私は彼らを掻きわけるようにして、その中心へ出ていった。喉の奥に苦い胃液がこみ上げてきた。
止められるものなら止めてやりたかったが、この騒ぎの中ではとても無理だとわかっていた。
また、万が一彼が勝ったら、という考えが私の頭をよぎったのも事実だった。
私はいつから、そんな楽天家になったのだろう?
そう思ったら吐き気がますますひどくなった。
「ヘクトル!」
彼らは10回ほど全力で打ち合っただろうか。黒い甲冑をまとった青年の上半身が後ろへのけぞり、一瞬、兜と甲冑の間の、無防備な喉が現れた。
百戦錬磨のヘクトルは、そのわずかな隙をやはり見逃さなかった。
彼が長い腕で剣を一閃させると、ギリシャ軍の誇る「英雄」は、呻きながら砂上に倒れた。
倒れた男の喉から、鮮血の泡がごぼごぼとこぼれて甲冑の胸に散った。
しいん、とあたりからすべての音が消えうせた。
誰の目にも戦いが終わったことは明らかであり、あまりにあっけなくも見えた勝敗の行方に、見物たちもしばし声を失っていた。
周囲の重い沈黙を両肩で支え、荒い息を弾ませながら長身のヘクトルは敗者の上に屈みこみ、・・・相手の顔を隠していた兜を剥いだ。
(そうだ、ここで驚いた顔をしなければ)
私は自分にそう言い聞かせたが、そうするのに、さほど努力もいらなかった。
いかにも驚いたように口を開け、潮風と砂でひりひりする目を眇めながら、私は皆と一緒に倒れている男を見下ろした。
アキレスによく似た彼の従兄弟、パトロクロスの若い顔がそこにあった。
* * *
私が初めて彼に会ったのは、波の穏やかな入り江を見下ろす、ツタの絡んだ神殿の廃墟でのことだった。
私は、ミュケナイのアガメムノン大王の使者として、アキレスのもとを訪れていた。
アキレス、彼こそは世に隠れもなき戦場の英雄だ。
彼はプティアのペレウス王と、女神とも呼ばれるテティスの息子だった。齢はちょうど30を越えたばかりで、戦士としてはさほど大柄でもないものの、鋼のように鍛え上げた筋肉でその全身を覆っていた。
まだ若いが彼は、すでに数々の戦で勇名をはせてきていた。その名誉の大きさと、兵士たちに与える影響力の強さときては、おそらくギリシャ軍の誰も彼にはかなわなかった。たとえ大王アガメムノンといえども、彼の名声を無視することはできなかった。
なぜなら兵士たちは、口を揃えてこう言うのだ。
「アキレスとともに戦えば、生き残れる」
その言葉にはいくばくかの真実が含まれていた。
アキレスは常に彼自身の手勢、ミュルミドーン人の精鋭たちを率いて戦場へ出たが、彼らもまた一騎当千の戦士たちだった。
並ぶもののない英雄アキレスを先頭に、ミュルミドーンの男たちはまるで黒いつむじ風のように先陣を切って走った。少々矢を射かけられたくらいでは、彼らは毫もひるまなかった。
アキレスは彼らをまさしく自分の手足のように動かし、誰よりも多くの敵兵を倒した。
彼がどれほど戦場を駆けようが、決して敵の矢は彼を傷つけず、敵の剣は彼の甲冑をかすめることさえなかった。
もしアキレスが足首から髪の先まで深紅に染まって帰陣しても、水浴びを済ませてみると、彼の身体には髪の毛一筋ほどの傷も見えないのだ。
アキレスは神々の守護を受けている身だ、女神の息子だ、と人々が言うゆえんだった。
だが、いかに讃えられようともアキレスは人間だった。
私がからかってやるつもりでそのことを言うと、彼は笑いながら
「オデッセウス、あなたまで馬鹿なことを言うな。俺がほんとうに不死の身体なら、こんな甲冑を着るわけがないだろう?」
と答えたものだ。それは彼の気に入りの軽口らしかった。
アキレスのぴんと張りつめた肌の下、がっちりとした筋肉の下には、確かに熱い血が流れていた。
普段から無口な青年だが、実はとても鋭い洞察力と整然たる思考力の持ち主だった。そうでなければ、戦場で人の動きがあれほどよく読めるはずがない。私はそのことをよく知っていた。
そればかりではない。
冷たく冴えた目をしたこの男の、厚い胸板の下に渦巻いている激情をも、私は知っていた。
その激しさを、愛していた。
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とりあえずプロローグです。全力で見切り発車。
20040907