* アンタイトルド *

「・・・その絵が、ずいぶんお好きらしい?」

そう、声をかけたのはほんの気まぐれだった。とある小さな美術館の、抽象画の展示室でのことだ。
たまたま近くに仕事があって、時間つぶしのためにふらりと入ってみたそこで、私は一枚の絵を熱心に見上げている男に目を留めた。
彼はすらりとして背の高い、金髪の男で、仕立てのいいスーツを着ていた。その立ち姿の端正さに、私はしばしほれぼれと見とれた。彼はとても姿勢がよく、絵を見上げるために反らされている項から肩への線がすっきりと美しかった。腰の後ろで組まれた手指もほっそりと長く、綺麗に手入れがされていた。顔は見えなかったが、年頃はおそらく私と同じくらいではないかと思った。
どんな容貌の男だろう、と衝動的な興味がわいた。
私は同じ部屋の展示物を見て歩く振りをしながら、ゆっくりと彼に近づいていった。
彼は、私がすぐ横まで近づいても、なんの反応も見せなかった。それほど絵に夢中になっていたのかも知れない。

「・・・その絵が、ずいぶんお好きらしい?」
隣に立った私が穏やかに声をかけると、彼はハッとしたように顔をこちらへ向けた。
その顔の怜悧さに、私のほうこそ驚いた。彼は、私のどんな予想をも上回るほど美しい顔立ちをしていた。決して女性的ではないが、切れ長な緑の目にも、唇の質感にも、ほのかな艶が感じられた。
私は、いささか不躾なほど彼の顔を見つめていたと思う。ふと我に返ってみると、礼儀正しい微笑を浮かべた彼が答えていた。
「そう、好きというよりは、・・・興味深い。この画家の作品の中ではもっとも評価が高いそうだが、ほかの絵と比べてどこがそれほどいいのか」
「ああ。私もこの画家にはそれほど詳しくないがね。これは特に生き生きとしたタッチがいいと言われているようだ。・・・たとえばこの、ここにいる少女。今にも走り出しそうに見える」
そう指摘してやると、彼は考え深げにまた絵を見つめ、かすかに頷いた。
「ああ、なるほど。たったこれだけの陰影なのに、この一塗りがずいぶん効いているんだな」
「そうだね」
私は鷹揚に言って、彼と一緒に絵を見上げた。
実を言えば、私はその画家があまり好きではなかった。色選びのセンスが私の好みに合わない、というだけのことだ。似た画風ならば、ほかに手に入れたいと思う画家の作品がいくらもあった。
だが、人がせっかく気に入って眺めているものに文句をつける趣味は、私にはなかった。
しかもその相手が、めったに出会えないような美貌の持ち主とあれば、なおさらだ。
私は絵を眺めながら、すぐ隣に立っている彼の横顔をちらりと盗み見た。彼は、この展示室のどの美術品よりも値打ちがありそうだった。

すると、彼がその視線に鋭く気づいてこちらを見た。
「・・・私の顔に、なにかついているかい?」
「いいや」
私は動揺した様子などかけらも見せまいと、できるだけのんびりと答えた。
「どこかで見たような顔だと思ってね。どこかで・・・たとえば、雑誌の記事とか」
そう言ったのは、口から出まかせだった。彼はどう見ても上流階級の人間らしいノーブルさを身にまとっていたし、これほど端正な美男子ならモデルや俳優の仕事をしていてもおかしくないと思ったからだ。もっとも、後者のほうにはそれほど可能性を感じてはいなかった。彼には、商売人めいた崩れたところがまったくなかった。
それを聞くと、彼は妙におかしそうに頬をゆるめた。
「私のほうこそ、そう訊きたかったんだが。・・・そう、」
彼はカツン、と靴の踵を鳴らして、私に向き直った。
「初対面で失礼だが、君には年の近い兄弟がいないか? たとえば、生き別れた双子の片割れとか?」
「? なんの話だ?」
「でなければ、君は本当に・・・いや、そんなことはあり得ないな。君は彼じゃない。彼はいま、中東にいるはずだ」
ひとりで言って、彼は唇に拳を当ててクスリと笑った。とても魅力的な笑顔だったが、私はわけもなく不愉快になった。彼が、どうやら私に似た男を知っているらしいのがわかったからだ。私は、自分と話している相手には私のことだけ考えていてもらいたかった。
私が答えなかったので、彼はすこし表情を改めた。そして、失礼、と言った。
「すまない。実は、君がこの部屋に入ってきたときから、よく似ていると思っていたんだ。まさかと思ったが、間近に見ると本当にそっくりだったものでね」
「私が入ってきたときから? いや、私がここへ入ってきたときには、君はもうこの絵を見ていたよ」
「絵だけ見ていたんじゃない。ほら、あそこのメタルプレート」
そう言われて目をやると、床に置かれた注意書きのプレートに、ぼんやりと周囲が映っていた。彼の位置からは入り口のあたりが映って見えるのかも知れない。いずれにせよ、そんな気配はまったくなかっただけに私は驚いた。
「これで人の顔がわかるのか? だが、ずいぶん用心深いことだ」
「それは・・・現代社会に暮らしていれば、用心はするに越したことがない。そうじゃないか?」
彼はニコリと笑って、わざとらしく手首を見た。青いフェイスのシーマスター。彼のような人物がそんな手頃な時計をつけているのは不思議だったが、それもやはり個人の好みの問題だろう。
「ああ、そろそろ行かないと。美術のレクチャーをありがとう」
「どういたしまして。ここへはよく来るのかい?」
「いいや。たまたま立ち寄っただけだ」
「そう。残念だな」
「残念? そうだな、私も残念だよ」
そうは言いながらも、彼はさっさと出口に向かって歩き出していった。その場に置き去りにされた私は、最初に私の目を引きつけたしなやかな後ろ姿を見送ることしかできなかった。

が、ちょうど出口まで半分ほどまで歩いたところで、彼はくるりと私を振り向いた。
そして、にこやかに言った。
「せっかく教えてもらったが、私はやはりその画家の絵は好きになれないな。もちろん君のように専門的なことはわからないがね、そう・・・色の使い方に品がない。こんなことを言うと、ここの人たちには睨まれるかも知れないが」
そう言いながら彼は、ドアの脇にいかめしく立っている警備員のほうにちらりと流し目をくれた。仕事熱心な警備員は気づきもしなかったようだが、私はその目つきのセクシーさにすっかり気持ちをもっていかれてしまった。
私が黙って微笑むと、彼もまた肩越しに笑みを返した。眩しいような笑顔だった。そのあとはもう、展示室を出てゆくまで一度も振り返らなかった。

それが、彼と出会った最初だ。
せめて名前くらい聞いておくんだったと、後でずいぶん悔しい思いをしたよ。



* FIN *





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ちょっと書いてみました。
ボンドよりも、ある意味トーマスのほうがいい男かも知れない。
理想の恋人?(苦笑)

20040412
20041413修正してアップ