* 知られざる犠牲 *
アキレスを必要としているのは私ではない。
これは、私の戦争ではない。
なぜこの男には、それくらいのことがわからないのだ?
「彼を呼び戻すためには、まずあの女を返さなければなりますまい」
私同様、こんな茶番にはうんざりしきっているはずのネストルが老獪に言った。私もまったく同感だった。そもそもあの若い女はアキレスの手兵が見いだし、奪ってきた戦利品なのだ。
しかもその女はアポロン神殿の巫女だったというから、なおさらだ。なみの奴隷とはわけが違う。若く清潔な処女を大嫌いな権力者に取り上げられたとしたら、どんな若者でも臍を曲げてしまうに決まっているではないか?
私たちの眼前にいるのは、今やギリシャ全土の覇権を掌握しているといっても過言ではない男だった。各地に点在していた小さな都市国家の間に、力ずくで緩やかな同盟を結ばせた傲岸不遜な大王。
彼はネストルの意見を聞くと、信じられない、と言わんばかりに目を見ひらいてみせた。自分がどれだけこの戦争を危うくしているか、自覚がないのだ。
私は焦って訊ねた。
「女はどこです?」
「兵士どもに下げ渡してやった。儂は手をつけておらん。あんな女、欲しいとは思わんからな」
欲しくもないのに、なぜ奪うのだ!
しゃあしゃあと答えた馬鹿者を、私は怒鳴りつけてやりたかった。だが、私の立場で口に出せることではない。
せいぜい平静を装い、、立ち上がりながら訊ねた。すぐにも行って、兵たちの暴行を止めねばならない。たとえ間に合わないにしても。
「ミュケナイの兵たちですな? いつの話です?」
「つい今し方だ」
「わかりました」
私は頷いて、すぐにその場を立ち去りかけた。
ところが、天幕の出口にたどりつく前に、ゴホン、と意味ありげな咳払いが私を呼び止めた。
「オデッセウス、どこへ行く気だ? あんな小娘のことなど、よい」
「ですが、アキレスに」
「かまわんと言っているのだ。アキレスなぞおらずとも、我々はこの戦に負けはせぬ」
それよりも、と、傲岸不遜な男は口元に野卑な笑みを浮かべた。
「今日は儂も疲れた。ここにいて、酒の相手でもしてくれぬか」
「アガメムノン殿!」
私は、そんな硬い声を出すべきではなかった。私とて小さいながら一国の王という立場であれば、時には同盟軍の盟主を相手に辛辣な口を利くこともある。特に、相手が同盟国の王たちを軽々しくは扱えない軍議の場などでは。
だが、今そうしてはいけなかった。
こんな野営の天幕にまで仰々しい玉座を持ちこんだ大王は、私の口調に反抗の兆しを見てとると、その玉座にどっかりと腰を据えたまま不機嫌そうに目を眇めた。
「私の酒が飲めぬと言うのか、オデッセウス?」
「そうではありません。すぐに戻りますゆえ、しばしお待ちいただきたいと」
「もうよいと言っているのだ」
大きな獣が唸るような声で、大王は唸った。
「そこに杯と酒がある。クレタ島からの献上品だ。ここへ運んでくれぬか」
酒肴の支度など、奴隷の仕事だ。私は思わず頬に朱が散るのを感じたが、大王の玉座の傍らに控えていたネストルが山火事でも見守っているような顔をしているのに気づいて、あやうく口から飛び出しかけた罵声をぐっと飲みこんだ。
敗戦の夜もきらびやかな衣装を脱ごうとしない大王は、酷薄そうな唇ににやにや笑いを貼りつけたまま、じっと私の顔を見ている。
ぜひもなかった。私はできるだけ嫌そうに見えないように、すばやい足取りで大王の指した隅へ行き、酒瓶をとって戻ってきた。
「注いでくれ」
玉座の上からあたりまえのように言われて、怒りのあまり私の指は震えた。もしこの場でこの男を刺し殺したらなにかが変わるだろうか、と無益な想像をめぐらしてみたほどだった。
だが私は、命じられたとおりにした。
トクトクと豊かな音を立てて、暗い色の葡萄酒が銀杯に満ちる。それに火明かりが揺らめくさまは、まるで私の心が揺れるようだった。
酒を一杯に満たした杯を差しだすと、しかし大王はそれを取るかわりに、私の手をつかんだ。ああやっぱり、と思った私は、あやうくため息をついてしまうところだった。
大王は、私の手ごとつかんだ杯をゆっくりと持ち上げて、私の唇までもってきた。飲め、というのだ。
私はひとくちすすって、すぐに唇を離した。私の息で、ぴかぴかに磨き上げられた銀杯の内側がかすかに曇った。
「もうすこし飲むがいい。珍しい酒だ」
「・・・このような飲み方では、味がわかりません」
「ほう?」
でっぷりと太った男は、私の手からやっと杯を取り上げながら大げさに眉を跳ね上げた。
「イタケの王は、このアガメムノンの酒を味わえぬとでも言うのか? 儂のせっかくの好意を?」
私が抗えないのをいいことに、言葉で嬲るつもりなのだ。辛そうな顔など見せてやるものか、と私は胸のうちで反射的に叫んだが、すぐに、それは逆効果だと思い直した。
そこで私は玉座の傍らに片膝をつき、きわめて従順に頭を下げて、答えた。
「とんでもありません、アガメムノン殿。よろしければ、もう一口いただけますまいか」
「おお、もちろんだとも」
大王は尊大に笑って、私の手に杯を渡した。私は両手でその杯を受け取り、上目遣いに大王の丸顔を見つめながら、ゆっくりと酒を飲み干した。
「・・・ふう」
手のひらで口元を拭い、横目でちらりとネストルのほうを見ると、さっき見たときよりもすこし入り口のほうに近いところにいてくれたのでほっとした。私がこの場を離れられないなら、彼に行ってもらわなければならない。むろんネストルは私の思惑をわかっており、大王の注意を引かぬよう気配を消して、天幕を出てゆく機会を窺っているのだ。
私はやや安堵して、無理につくった笑みを浮かべた。
「いい酒でした、大王。あなたにもお注ぎしましょう」
「ふむ」
「さあ、杯を取られよ」
まるで奴隷女がするように玉座の傍らに身を屈め、私は大王の杯に酒をなみなみと注いだ。玉座の肘掛けにどっしりとよりかかった男は、そうする私の顔を満足げに目を細めて眺めていた。
と、急に。
肘掛けに置かれていた片腕がいきなり上がったかと思うと、それがするりと私の腕を撫でた。私は驚きよりも嫌悪感のあまり、あやうく酒瓶を取り落とすところだった。
なおも私の腕を撫でさすりながら、大王はにやにやと言ったものだ。
「オデッセウス、ここは人の出入りがありすぎて落ち着かぬ。儂の寝所へ行って、ゆっくり話でもしながら飲もうではないか」
「話を?」
私はわざと軽く笑い、相手の冗談をいさめる口調で続けた。
「よいではありませんか。どうせもう人など・・・」
「オデッセウス」
大王はゆるゆると首を振り、にんまりと笑ったままで、今度は私の手首をつかんだ。剣や槍を握るような、容赦のない力で。
「・・・向こうへ行く。よいな」
低く言い切られると、もう私に反論はできなかった。大王がちょっと持っていろとばかり手渡す酒杯を受け取ると、その空いた両手が私の尻にまで伸びてきて、柔らかい肉をぎゅっとつかまれた。露骨に性的な手つきだった。
私は内心のため息を隠して、ネストルのほうを目だけで見やった。
白髪の老人はいつのまにか光の当たらないところに移動しており、大王はもうその存在を忘れ果てているように見えた。そうでなければこれほど淫らがましく、イタケ王の尻に手をやったりできるはずがない。
私はしおらしく俯いて、大王の手にそっと自分の手を重ねた。嫌だと言ったところでどうせ奪われるのなら、こちらから差しだして機嫌をとったほうがいい。
「アガメムノン殿、では・・・」
私は、不似合いな玉座にふんぞり返っている男に優しく微笑みかけた。
「・・・あちらへ参るとしましょう。しかし、あなたも物好きなことだ」
「物好きだと? いいや、このあたりで手に入るような女など、”これ”に比べれば・・・」
大王は口が耳まで裂けるのではないかというほど大きく笑い、私の腰を軽く抱き寄せた。私は反吐が出そうな嫌悪感をやっとのことで微笑の下に隠した。手に持たされたままの酒杯を、そのにやにや顔に叩きつけてやりたかった。・・・衛兵の槍を奪い取って、飽食に肥え太った腹に突き刺してやりたかった。
だが、今は無理だ。この男を殺せば、身内の報復があるだろう。
手を下した私ばかりか、国民までが皆殺しの憂き目にあうだろう。
私はぐっと奥歯を噛んでなおも笑って見せ、男の手を取って立ち上がらせようとした。大王はだらしなくしなだれかかるように私の肩を抱いたが、急に気が変わったのか、その腕にぐいと力をこめて、私の身体を引き寄せた。
「うわっ!」
私が手にしていた杯の酒が膝の上にこぼれて豪奢な衣服を濡らしても、大王は気にした様子もなかった。その濡れた上に倒れこんでしまった私のほうが不快な思いをしたに違いない。
おそるおそる、だが笑みは消さないように見上げると、ちょうど相手の太い指が私の短衣の胸元へ滑りこんでくるところだった。
こんな明るい場所で、と思うと身が震えたが、ネストルが静かに天幕を出てゆく後ろ姿が視界の端に入っていた。おかげでいくぶんか気が楽になった。
間に合えばいいのだが、と考えていると、野卑な笑い声が頭の上から降ってきた。
「オデッセウス、よい格好だ。そのように物欲しそうに・・・」
自分がしたくてしているわけでもないのに、後ろへ突き出される格好になった尻を剥きだしにされ、子どもにするようにぴしゃぴしゃと叩かれた。私はあっと叫びかけた口元に拳を当てて、大王の膝にしがみつくようにして身体を丸めた。できるだけ、相手に媚びて見えるように。
そのときなんとか飲みこんだ悲鳴は、だが、夜通し私の頭の中で響き続けていた。
「いつか殺してやる」
* FIN *
■INDEX■
映画を見てまず考えたのは、このシチュでした。
ありがちすぎると思ってなかなか手が出なかったんですが、
まあ一応・・・。
自分で言うのもなんですが、いまいち面白くない。悔しい。
そのうちリベンジします。
20040620