* ウィークネス *

「・・・ド、リチャード?」
誰かがそばで呼んでいる。やわらかい発音、やさしい声。
ああ、誰の声だったろう?
思い出せない。
まどろみの底までは、その名前を持ってこなかった。
「リチャード・・・」

「起きろ、シャープ!」
命令口調で言われて、シャープはぱちりと目を開けた。
号令に反応せずにいるには、軍隊暮らしが長すぎる。ぼやけた視界をすこしでも明るくしようと、抱いている枕に片頬をつけたまま、親指の付け根できつく目頭をこすった。
ベッドの脇に立っていた壮年の男がそれを見て、喉の奥で笑った。先ほどからシャープに声をかけていたのは、この男だったのだ。
その名前を思い出したとたん、シャープはもたげかけていた頭をまたシーツに落とした。ポスン、と軽い音がした。
「下手な号令でした、サー・・・」
「君のようにはいかんな」
男はあっさりと認めた。そもそも軍団の最高指揮官たる彼に、大音声で号令をかける技術はいらないのだった。
むしろ彼が得意とするのは、議場で相手を怯え上がらせる静かな恫喝だ。
それから、いまシャープが聞いているような、紳士ならではのものやわらかな声と。
「寝起きが悪いのは相変わらずか、リチャード?」
「・・・疲れているんですよ。毎日こき使われていますからね」
「ほう、言うようになったものだな」
「失礼はお詫びします、サー」
口の中で呟きながらも、シャープはまだベッドの中でぐずぐずしていた。体温に暖められたシーツが剥きだしの肌にとても快く、どうしても起き出す気になれなかったのだ。もう一度シーツと上掛けの間に鼻先を埋めると、日向のにおいがした。

夜が明けかかっていた。室内は暗いが、カーテンの隙間から見える空にもう星は見えなかった。
近くの梢で囀りはじめた小鳥の声が、朝に弱いシャープをベッドから追い立てようとしているように聞こえる。

男は、いったん諦めたようなため息をついたかと思うとガウンを羽織って窓辺へ行き、外を眺めた。天候をはかっているのだろう、とまだぼんやりした頭でシャープは考えた。このアイルランド人はとても特徴的な鷲鼻の持ち主で、いまも薄青い空を背景にしたその横顔が、影絵のようにくっきりと映えていた。
「今日も暑くなりそうだ。朝のうちになにもかも済ませてしまわなきゃならん」
いまいましげなその呟きをシャープは無視した。ほかに言うべきことがあったからだ。
「窓から離れてください、サー。反王制派のゲリラに狙撃されるかも知れません」
「ここは三階だぞ?」
「たとえば、私の部下なら可能です。あなたは無防備に過ぎます」
「自慢をしているつもりかね、それで?」
またため息をつきながら、男は話題を切り替えた。
「今朝は何時だ?」
自分が指揮する中隊の、朝の集合時刻を訊かれている。今日は行軍がない予定だったので、遅くしたはずだ。さて何時だったか、そもそも決めたのだったか、と記憶の中を探りながら適当に答えた。
「8時です、サー」
「なら、まだ3時間ある。君はすこし寝直せるだろう」
「ええ」
曖昧に答えながらシャープは、すべらかな手触りのシーツの間にぐんと腕を伸ばした。この次、こういうベッドで眠れるのはいつのことだろう、と思いながら。
早く起きろ、と言外に促されていることはわかっていた。
だが、もうしばらくなりとこの安楽を味わっていたかったのだ。
ややあって、男がベッドへ戻ってきた。
横向きに身を丸めているシャープの上にかがみ込んで目の上にキスをし、それからなだめるような低い声でささやいた。
「リチャード、頼む。私はそろそろ従卒を呼ばねばならんのだ。起きてくれ」
シャープは笑った。


彼はただ一言”出て行け”と命じることもできる。シャープはそれに従うだろうし、不平も唱えないだろう。戦場ではもっとひどい命令にも従ってきた。それに比べれば、多少の眠気などどうということもないはずだった。
だがこの男は、そうは言わない。
シャープを虫けらのようには扱わない。
たとえ彼の思惑がどこにあるとしても、シャープにはそれが嬉しかった。


「イエス、サー」
わざと眠そうに生あくびをしてみせてから、シャープはベッドの上に起きあがった。
さて、シャツはどこへ放り投げたのだったか。ベッドの下かも知れないし、いくつもある椅子の背に隠れているのかも知れない。
重い長靴に足を押し込みながら考えていると、後ろから声がかかった。
「そうそう、リチャード。しばらく背中は誰にも見せないように」
「背中?」
反射的に振り返ると、男は笑いをこらえているような顔で頷いた。
「たくさんキスマークをつけておいた。君はよく寝ていたから、気づかなかっただろうがね」
「・・・ご冗談でしょう?」
「冗談に聞こえたかね?」
シャープはあんぐりと口を開け、それから肩越しに自分の背中を確かめようとした。だが、せいぜい見えるのは肩の後ろくらいまでだ。自分ではほとんど見たことのない、古い鞭打ちの痕だけがちらりと見えた。慌てて姿見を探したが、この部屋には見あたらなかった。
「どうしてそんなことを!?」
「君が無防備に過ぎるからだ、リチャード」
ついにこらえきれず、笑いだしながら男は答えた。
「将校たるもの、そんな傷痕のある背中など見せびらかして歩くものじゃない。何度も言っただろう?」
それから、またキスが降ってくる。
うろたえたシャープはそれを避けようとしながら、自分の窮状を必死になって訴えた。
「もし負傷でもしたらどうしてくれるんです、サー? そんな背中じゃ軍医にも診せられやしない! このクソ暑い国で着替えもせずに何日も・・・!」
なおも言い募ろうとしたシャープの唇を、男はまたキスでふさごうとした。顎をひょいと指先で掬いあげられ、ただそれだけだというのに抗えない。それどころか、言おうとして心に浮かべた言葉が次々と消え失せていってしまう。
この男の前に立つとシャープはいつも、自分が辛抱の足りない若造に戻ったような気になるのだった。


やがて、英国陸軍きっての策士は、ゆっくりと唇を離し、呟いた。
「もちろん冗談だ、リチャード。怒ったかね?」




* FIN *





■BACK■


書いてみてわかったこと。
「な〜んだ、こいつらもバカップルかあ」。
バカはあたしです。

この人、隊長よりいくつ年上なんでしたっけ。8つくらい?
あたしはヘイスティングスより、第一シーズンの人がいいなあ。

20030807暫定版アップ
20030808多少改訂