島津義久という生き方。
〜戦国時代の2ちゃんねらー〜

島津義久(龍伯)という人物についてのよしなし事を
とどめておきます。起こった出来事や逸話は思いつくままに
触れるので順不同(失敬)。年表は気が向けば載せます。
第1回イントロ 第2回 見えない実態の背景(これから) 第3回甚大だったらしい影響力 第4回大物コテハン秀吉を叩け、煽れ(これから) 第5回おまけの逸話集 第5回2ちゃんの義久スレッド
さっそくの第1回は無難に彼の略歴を 島津義久(龍伯)  ・天文2年〜慶長16年  ・島津家16代目の当主  ・父は島津貴久、母は入来院重聡の娘雪窓夫人  ・男子がなく、娘が三人   島津義久は貴久の嫡男として生まれたが、彼の生まれた頃には 傍流の伊作島津家出身だった貴久は、祖父の忠良によって島津 の本家に入嗣し、戦国大名として勢力を伸長する、といった過 程にあった。また弟に義弘、歳久、家久と世に言う島津四兄弟 がある。子供についてだが、男子がなく、娘が三人。長女は島 津実久の嫡男義虎、次女は一族の彰久に嫁ぎ、忠仍を生んだ。 三女亀寿は弟義弘の子供久保、忠恒と嫁した。なお亀寿は秀吉 の九州仕置きの際人質として大阪に預けられ、更には関ヶ原の 戦の際にも、大阪城に人質となっており、また島津家家督相続 の鍵を握った女性でもあるという波瀾含みの人生を送る。 義久の時代に島津家は戦国大名として大きく飛躍し、一時は九 州のほぼ全域を掌握するに至った。関ヶ原後の変革期も隠居の 身ながら綱渡りの駆け引きを乗り切り、近世大名への転進を遂 げた。しかしその輝かしい履歴の割りに実態が掴みづらい人物 も珍しい。外交にあたったというが、基本的には何かの機会を 見つけて領土に引き返しており、関ヶ原前後も引き籠もり外交 である。いつからsage進行の人生を送るようになったのか。彼 についていろいろ触れていくうちにキーワードが見つかるよう な気がするかもしれない。 ・・・・見つからないかもしれないけど。
第2回は掴み所のない実態についての予定
第3回は当主義久の影響力について   ややもするとあまりにも名の知られた弟・義弘と比較されることが 多いが、ただし、決して影の薄い人物ではなかった事は、義弘 −忠恒親子が何かの政治的行動を起こす際には必ず「龍伯 様御一筋」といちいち強調していたことからも確かである。 彼の養子となった忠恒は、家康から偏諱を受けて家久と名乗 ったり、嗣子が生まれないために秀忠の次子国松(後に忠長) を養子に貰い受けようと画策するなど、徳川政権の力を借りる ことで義久の影響力を脱するため非常な苦労を重ねた。 また、義久の死後ようやく持てた側室との間に出来た嗣子・ 虎寿(後に光久)も、あくまで正室であり、義久の娘である亀寿 の養子という形をわざわざ取っている。 おまけだがこの島津忠恒という人物、かなりアクの強い人物で、 伊集院忠棟、忠真の誅殺にはじまり、義久が没した後は義久 の老中の平田一族を誅殺したり、幕府に妻子を人質として差 し出すという名目のもと、亀寿と事実上の別居をして、代わりに これまで我慢していた性欲を一気に吐き出すとばかりに側室を かかえた。結果、できた子供の人数が32人である(笑)。 実父義弘も忠恒の事が心配で、わざわざ酒と女には気を付け ろと手紙を書いている。芦名家あたりにいたら凋落のもとを作った 暴君と書かれること間違いないが、そうならなかったのはやはり島 津という家風と忠恒の政治感覚の賜物であろう。
第4回は中央政権への対策について
第5回はおまけの逸話集 その1 豊後の大友義鎮が特に可愛がっていた鷹が、ある日突然行方が分か らなくなった。その鷹は島津領・日向宮崎の久保山治郎という者の 在所に飛んできたが、そういう事情を知らない久保山はこれを捕ら えて義久に贈った。これを知った義鎮は非常に怒り、手の者を出し て久保山を捕らえた。 これを聞いた義久は義鎮のもとに使者をつかわし、鷹も返した上に 「大友お屋形のご秘蔵のものと知っていたなら、義久もとどめ置か なかったでしょうに。また、久保山ももしそれを知っておりました なら、お屋形のもとへ鷹を届けましたでしょうに。彼も知らなかっ たのです、彼の罪をこの義久に免じてお許しいただけませんでしょ うか」と、ねんごろに謝罪した。ところが義鎮はますます怒り、使 者の前で久保山の首をはねてしまった。 この話を聞いた人々の心は次第に大友家から離れ、島津家に傾いて いったという。 その2 義久は沖田畷の戦いにおいて、弟家久の手により肥前の龍造寺隆信を 討ち取りその首を挙げたが、これを幕下の赤星親家の仇だからといっ て彼の未亡人に届けさせた。 未亡人はとても喜んでその首を熟視し、夫や子の敵だからと木履でそ の首を踏みつけたという。義久はそれを耳にして非常に怒り、 「敵の首は、実検するにもそれ相応の礼儀というものがある。いかに 女であろうとも、武将の首を足蹴の恥にあわせるとは許せぬ。礼もな く儀もない愚かな女だ」 と言って、その後音信を絶ったという。 その3 薩摩の国・国分の城門は茅葺きであったが、破損したので家臣たちが 義久に「お城の門が壊れましたので、この際ご修理ついでに小板葺き にされてはどうでしょうか。他国から使者が来て、三ヶ国の太守がお わす城門が茅葺きでは、あまりにも粗末のように存じますが」 と言った。それを聞いた義久はこう答えたという。 「他国から使者としてよこされるほどの者は、きっと心ある者である。 使者としてくるからには、当国の地を数里も通ってくるわけだから、 それならば三ヶ国の太守の城門が茅葺きで粗末であっても、途中で目 に入る国民の風俗を見れば、国は富み栄え、仁政がさだめし厚く行わ れてているという大事なところにこそ気づくであろう。小板葺きにし て城門だけ立派になっても、百姓どもが疲れ切っているようでは、国 主のやり方が良くないことをちゃんと見抜くであろう。肝要のところ に気を配らず、どうでもよいところに気をつけるものではない。城門 など茅葺きであっても一向にかまわぬ」 その4 島津義久の文化人ぶりと比べて末弟の家久は上洛した時に明智光秀の 歓待を彼の居城坂本で受けた。その際光秀から茶をすすめられたが、 「茶は知らないので白湯でけっこう」と断ったと日記にある。 第6回は義久公もハマったという(嘘)2ちゃん情報 現在こちらで島津家スレッドが立っております。 南海の虎★島津義久★ http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1042467527/9 この書き込みみて「その通り!」と思ったわけですよ。 http://rekiju.hp.infoseek.co.jp/tegami/simadu.htm この文章に大爆笑。こんな事書いたから秀吉ににらまれちゃうんだってば。 http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1042467527/729-750 あたりがいい感じ。 島津維新【義弘】 いきなり>>1の島津龍伯が惟新の字を間違えているという笑えっぷり。 >>100あたりから面白くなってきている。今度期待のスレッド どうして島津の大河ドラマが無いんだよ!!! 戦国島津家主題の大河ドラマについて考えるスレッド。     島津義弘・・・・・渡辺謙     島津義久・・・・・中井貴一 の考えには大賛成でありまつ´-`)b このスレでは亀寿さんのイメージは こんな感じだそうです。何か一太郎持ってるよ
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