第一次大戦が始まって間もない1914年8月、英ケンブリッジ大学で経済学を教えていたジョン・メイナード・ケインズは
一通の手紙を受け取った。大蔵省の高官からだった。
「君の頭脳を祖国のために貸してほしい。すぐ大蔵省にきてもらえないか」─―
あいにく列車の便の悪い日だ。彼の行動は素早かった。妹の夫で、やはり同大教官だったアーチボルト・ヒルに電話する。
後にノーベル賞を受ける生理学者だが、サイドカー付きのオートバイが自慢だった。
「急用ができた。私の人生がかかっている。ロンドンまで乗せていってくれ」
ロンドンまで約100キロ今でも車で2時間かかる距離を、将来の大学者が二人、サイドカーで突っ走った。その日の夕方、
まだ明るいうちにケインズは大蔵省に着いた。
相談ごとは、金融危機にどう対処するかだった。彼は一日で、ロイド・ジョージ蔵相あての進言を書き上げる。
評価は抜群だった。現実感覚も分析能力も申し分なかった。とくに、サイドカーでその日のうちに駆けつけた行動力が、大きくものをいった。
翌年、大蔵省は彼を採用する。待ち望んだ職だった。
入省後も、てきぱきした仕事ぶりが光った。19年1月には、戦後処理を決めるパリ和平会議に参加する。対外金融を取り仕切る
責任者となった。35歳の若さだった。
ロンドン大学名誉教授の森嶋通夫さん(76)はいう。
「会議には各国ともえり抜きの人材を派遣してきました。ドイツ代表団にはマックス・ウェーバーがいた。ケインズは英国政府が
将来のエースと考えた人物だったのです」
だが彼は会議が終わる直前に突然、辞表を提出する。会議は、支払えるはずのない巨額の賠償を敗戦国に押しつけようとしていた。
そんな会議に我慢できなかったのだ。
大事なのは、二度と大戦を引き起こさないことであるはずだ。その取り決めをすべきなのに、戦勝国側は国益優先の結論しか出せなかった。これでは欧州の安定は戻らない。
大学に戻った彼は「平和の経済的帰結」と題する本を書き、会議を激しく批判した。その主張は欧州の知識層の共感を呼ぶ。
著作は増刷を重ね、2年余りで11カ国語に翻訳された。彼は一気に有名になった。
1883年、ケンブリッジの著名な経済学者の長男に生まれる。ケンブリッジ大学を卒業後、インド省に勤務したが止め、
28歳で王立学会誌「エコノミック・ジャーナル」の編集者となる。かたわら、母校の講師として経済学を教えた。
ケンブリッジに住むおいの外科医マイロ・ケインズさん(75)はいう。
「叔父は決して教授になろうとしなかった。学生の指導や講義で時間を取られたくなかったのです。彼は自由に行動したかった」
パーティーと演劇、バレエが好きだった。妻のリディアはロシア人のバレリーナだった。ついには自分で劇場までつくってしまう。
経済学を教える一方で、自ら外国通貨の先物取引を始める。行動の人ケインズは、自分の理論を実際に試したかったようだ。
ドルには強気で、フランスやマルク、リラには慎重にのぞんだ。当時の価格で3万ポンドの投機ファンドをつくるほどもうかった。
29年の恐慌で大損をしてからは株式売買に重点を移す。古典的な名著「雇用、利子、貨幣の一般理論」の執筆中にも
相場は休まなかった。弟子の一人が後に回想している。
「仕事は午前中に必ず中断した。株の仲買人からかかってくる電話のためだった」
彼がのこした財産は総額45万ポンド。今なら20億円を超す額だ。投機の決算は、最終的には「大もうけ」だった。
ケインズ研究者の那須正彦・明海大学教授はいう。
「彼は40歳ごろから保険会社の役員になり、資産運用の指導にも当たっていました。その報酬も合わせると、
最も裕福な経済学者の一人といえるでしょう」
彼の周りには俊秀が集まった。経済成長の理論を研究するロイ・ハロッド。後にノーベル賞を受けるジェームズ・ミード。
女性経済学者として名高いジョーン・ロビンソン。需要と国民総生産の関係を解明したリチャード・カーン・・・。
最大の関心は、長い経済停滞に悩む英国の現実だった。
英国の失業者は第一次大戦後に百万人を超し、大恐慌後は三百万人に迫った。失業保険への補助金はうなぎのぼりに膨れ上がった。
政府は補助金を打ち切り、緊縮財政で危機を乗り切ろうとする。
赤字財政を続けることは悪である。失業は賃金の低下をもたらし、労働需要が増えるから、いずれ解消する問題だ――。
当時の伝統的な経済学に基づいた政策だった。
それでは失業者は救われないではないか。新しい経済学が必要だ。彼は若手学者たちと議論を重ねた。
「資本主義から、失業問題などの弊害を取り除く理論と政策を、彼は示したのです。その結果、自由な活動と経済の効率が守られ、
共産主義の方向には行かなかった」
25年、ケインズは講演のためにソ連を訪れ、社会主義の実際を目にした。ロシア革命から8年たったソ連では、レーニンが死に、
スターリンが全権を握っていた。
ソ連社会主義についての彼の評価はにべもなかった。
「賢明に運営されるなら、資本主義の方がはるかに効率的だ」
社会主義は、お金がほしいという人間本来の欲求、「貨幣愛」を中心にしていないと考える。そのため彼は社会主義を宗教だととらえた。
経済理論とは考えておらず、したがってライバル意識もなかった。
多くの知識人が社会主義を支持する方向に動いても、彼は関心を示さない。ソ連が独裁的になっていくと、彼は「あんな風になっては
いけない」と不信感を強めた。
ケインズが若手学者と例会を開き、熱い議論をかわした研究室は、ケンブリッジ大学キングズカレッジに今も残っている。
建物の階段を上がってドアを開けると、台所、バストイレ付きのゆったりしたリビングがある。机と本棚だけの日本の大学研究室とは
だいぶ様子が違う。
研究室には当時、窓と暖炉の間にケインズ専用のいすがあった。彼は長い足を暖炉の方に伸ばして座り、毛深いまゆと口ひげの間から
目をきらきらさせていた。濃紺のダブルの背広を着て、あか抜けた雰囲気をただよわせていたという。
第二次大戦では英国代表として、戦後の世界経済をどう再建するかを話し合う対米交渉に当たる。ブレトン・ウッズ体制など、
戦後経済の枠組みづくりに精力を傾けた。
戦争が終わった翌年の46年、心臓発作を起こし、力がつきたうように死んだ。62歳だった。
今も、彼が愛した大学街のたたずまいは変わらない。石づくりの教会、石だたみの道、美しい芝生、ケム川の流れ――。
しかし、彼が話題に上ることは少なくなった。英国ではサッチャー政権が規制緩和を進め、民間活力や自助努力が強調されるようになった。
経済での政府の役割は、次第に後退していった。
だが、ケインズの主張は通奏低音のように生きている。
一昨年、東南アジアで始まった通貨暴落は、たちまち世界に飛び火した。米国のヘッジファンドが破たんして大騒ぎになった。
市場は万能ではないのだ。
米ペンシルベニア大学のローレンス・クライン名誉教授はいう。
「市場を放置しておくのは危険です。最近の金融危機は、市場が自由になりすぎたことによるつまずきでした。東南アジアの場合も、
ヘッジファンドもそうです。市場には政府の指導が必要です。ケインズはそれを指摘したのです」
坂井 敏晃
10月10日
豊田喜一郎の乗用車づくりは、アメリカ車を徹底的にコピーするところから始まった。
1933年(昭和8年)9月、豊田自動織機製作所の常務だった喜一郎は、米GM社の最新モデル、33年型シボレーを買い込む。
それを一つ一つの部品まで分解し、本格的な研究と開発に乗り出した。
織機づくりは自信がある。鋳物のエンジンなど簡単にできると思っていた。ところが、難航する。
エンジンのシリンダー部分は中空になっているものが多い。織機とはくらべものにならないほど複雑な形をしていた。
鋳型で中空部分をつくるには、「中子(なかご)」と呼ばれる粘土などの型を使うが、形が複雑すぎて型くずれを起こしてしまう。
中子に油を混入した「油中子」方式を採用した。ところが、油の混合が悪く、真っ赤に溶けた鉄が工場の天井まで噴き上がった。
連日、噴出する溶鉄との格闘が続く。つくってはつぶしたシリンダーは、500個を数えた。
34年、どうにかエンジンができる。喜一郎はそのエンジンを積んで毎日のように伊勢路を走った。
喜一郎はボンネットを開けたまま車を走らせ、窓から体を乗り出し、「もっとスピードを出せ」といいながらエンジンの様子を見ていた、
と当時の部下が書き残している。
試作車第一号のA1型が完成したのは、自動車づくりに着手して2年近くたった35年5月だった。
1894年(明治27年)、織機王・豊田佐吉の長男として現・静岡県湖西市で生まれた。
祖父は大工だったが、佐吉は織機の発明に取りつかれ、身重の妻を残して東京に出奔してしまう。愛想を尽かした母は、
生後2ヶ月の喜一郎を置き去りにしてこれまた家出する。佐吉が再婚するまで、喜一郎を育てたのは祖父母だった。
喜一郎は、父の工場のすみで、ひとり機械いじりをして子供時代を過ごした。彼が無口で、どこか寂しさのかげがつきまとうのは、
こうした生い立ちのせいかもしれない。
旧制二高から東京帝大工学部に進み、父の経営する豊田紡機に入社する。会社は第一次大戦の需要で急成長をとげ、
押しも押されもせぬ大企業になっていた。
喜一郎は、父ゆずりの発明の才能を発揮した。
彼がつくった「G型豊田自動織機」は、杼(ひ)に巻いた横糸が切れたり終わったりすると、新しい杼が自動的に補給されるシステムだった。
一人の担当者で最大50台の織機を受け持てる。英国の大メーカーがこの機械に目をつけ、当時の金で100万円払って
欧米での特許を買い取ったほどだ。
G型機による生産性を高めたのが「あんどん方式」だった。
織機に緑・黄・赤・白の「あんどん」がついている。緑は「製品完成」、黄は「布に傷」、赤は「故障」、白は「糸切れ」を示す。
工員があんどんを掲げると技術者がやってきて処理する。
この生産管理方式はのちに自動車生産でいかされ、現在の生産ラインでも使われている。
必要なだけの部品をジャストのタイミングで供給し、在庫を抱えない「ジャスト・イン・タイム」方式は、トヨタの合理化の代名詞となっている。
それも喜一郎が織物づくりで編み出した生産方式だった。
入社翌年の1921年(大正10年)7月、喜一郎は世界一周旅行をしている。欧米の紡織産業の視察が目的だ。
米西海岸から東海岸に回り、英国に渡る。翌年5月までかかる長旅だった。この旅で、彼は初めて欧米の車社会を目の当たりにし、
大きなショックを受けた。
トヨタの社内史料グループ主査、堀井信宏さん(57)はいう。
「欧米の豊かさは、日本にくらべて歴然とした差がありました。それは工業力の違いにある、と彼は考えたのでしょう」
喜一郎は、次第に自動車にのめり込んでいく。
自動車の将来を確信したのは、23年の関東大震災だった。
災害復興のため、東京市は急きょ米国から、フォード製トラックのシャシー800台分を緊急輸入し、バスに改造した。
いわゆる「円太郎バス」だ。それは市民の足として、急速に全国に広まっていく。
「これからは自動車の時代だ。だれもが乗れる大衆車で、日本の道をいっぱいにしてみせる」──。喜一郎はそう思い定めた。
当時の日本の自動車保有台数は1万5千台。大半が輸入車だった。現在の7千万台余にくらべればゼロにひとしい数だ。
幹線道路すら多くが未舗装で、民間の主な輸送手段は大八車や馬車だった。
そんな時代に自動車産業を興そうなどというのは、夢想家が考えることだ。幹部社員はこぞって反対した。喜一郎の妹婿で、
当時の社長だった豊田利三郎はいさめた。
喜一郎はこう考えたという。
「自動車産業をつくり上げるために自分が豊田財閥をつぶしても、おやじは文句をいうまいよ」
トヨタ自動車工業の三代目社長をつとめた故・石田退三によると、自動車づくりは父・佐吉の意志でもあったらしい。
佐吉、喜一郎より10年前に欧米旅行をしている。帰国してから「自動車、自動車」と口癖のようにいいはじめた。
佐吉は、遅れた日本の工業にいたたれず、織機の開発に心血を注いだ。その佐吉が、次代の工業としての自動車開発の夢を、
長男の喜一郎に託した、というのである。
喜一郎の腹心の部下でトヨタ自工会長を務めた故・斉藤尚一は、「喜一郎さんと仕事以外の話をしたのは二回ぐらいしかない」と
振り返っている。当時の幹部たちも、「雑談めいたことは一度もしたことがなかった」と口をそろえる。それほど寡黙な男だった。
最初はだれにもうち明けず、自動車づくりの準備に入った。
織機製作には不必要なほど精度の高い工作機械や、最新鋭の電気炉を購入し、工場の技術者たちに使わせて扱いになれさせた。
その上で利三郎を説得したのである。
そんな喜一郎に追い風が吹いた。陸軍が、国産自動車の量産を進めることを決めたのだ。
当時、陸軍は4トントラックが主体だったが、ぬかるみの多い中国東北部では使い物にならない。そこで28年、フォードや
GMの1トントラックに切り替えた。優秀だったが、今度は部品の調達で悩まされた。
車体の軽いトラックを、部品をふくめてすべて国産にし、民間に普及させる。有事の際にはそれを軍が徴用する――。
軍主導の「自動車製造事業法」は36年(昭和11年)公布された。試作車A1型ができた翌年である。自動車製造を国の許可事業とし、
生産は日本の会社に限る。部品もすべて国産とする、という趣旨だ。
最初に許可を受けたのはトヨタと日産だった。37年、トヨタ自動車工業が設立つされる。社長は豊田利三郎。
喜一郎は副社長に就任した。
翌年38年、愛知県挙母町(現・豊田市)200万平方メートルの工場が完成した。月産で乗用車500台、トラック1500台を生産できる
大工場だ。
41年、社長に就任する。しかしその年、太平洋戦争が始まった。物資が不足し乗用車の生産は禁止されてしまう。
つくれるのはトラックだけだった。「だれもが乗れる乗用車をつくる」という喜一郎の夢は壁にぶつかった。
45年、敗戦。今度こそ乗用車をと思うが、戦後不況には太刀打ちできなかった。車は売れず、給料の遅配が続いた。
このころ、日暮れどきになると、名古屋駅の東口広場に30人ほどの男たちが集まってきた。みんな手ぬぐいやふろしきでほおかむりをし、
顔を隠している。
販売店の青森トヨタ自動車社長、小野彦之S(85)はいう。
「月に1回、手形を持って名古屋を訪れるたび、ほおかむりの集団を見かけました。トヨタの部長や課長たちでした」
給料のでない彼らは、工場でなべやかまをつくって駅前で売り、家族をやしなっていたのだ。小野さんを見るとあわてて顔をそむけた。
工場には赤旗がはためき、労働歌があふれた。2ヶ月の争議の後、2千百人が退職し、喜一郎は50年、責任をとって社長を辞任した。
二十日後、朝鮮戦争が始まる。トラックの注文が殺到し、トヨタは息を吹き返す。喜一郎のタイミングは、いつも時代とひとつ外れた。
52年、社長復帰を要請された1ヶ月後、脳出血で急死した。
本格的乗用車トヨペット・クラウンが完成したのは、死後3年の55年元日、それから始まった大衆乗用車の黄金時代を、
喜一郎はついに目にすることがなかった。
丹治 吉順
10月17日
トマス・エドワード・ロレンスがケンブリッジの博物館館長シドニー・コカレルにあてた1924年1月13日付の手紙がある。
「東京大学教授の件ですが、たぶん私には向かないでしょう。・・・・文学を職業とすることは、私の役どころではありません」
東大文学部英文科は古くから、外国人教師として英国の小説家や詩人を招いている。詩人のロバート・ニコルズの契約が
その春で切れるため、後任探しが始まっていた。その候補として、35歳のロレンスの名が挙がったのである。
結局、後任は詩人のエドマンド・ブランデンに決まった。だが、なぜロレンスの名が挙がったのか。
歴史家でロレンス研究家のジェレミー・ウィルソンさん(55)はいう。
「コカレル館長は英国文化人の中に幅広い人脈を持っていた。そんな中から出てきた話でしょう」
断ったのは、ロレンスが当時、「知恵の七柱」改訂版の執筆にかかっていて忙しかったためらしい。
一八八八年、英ウェールズのトレマドックで生まれた。
貴族だった父チャップマンは子供の家庭教師のセアラと恋に落ち、妻子を捨てて家を出る。ロレンスは2人の間に生まれた。
戸籍上は私生児だった。
オックスフォード大に入る。十字軍と築城術についての卒論をまとめるため、1909年の夏、シリアを旅した。
4ヶ月かけて1800キロを歩き、40近くの城を調べている。中東との最初のかかわりだった。
ロレンスには生涯にわたって2つのコンプレックスがあった、とウィルソンさんは見る。「出生の秘密と、背の低さでした」
ロレンスは約166センチ。180センチ前後が多い英上流階級ではかなりの劣等感だったようだ。
「未婚の母から生まれたことで、弁護士や医者といった職業を選択できなかった。身長は自分でものろうほど気にしていました。だれもそんなことを気にしないところに行きたかった。たとえば、中東・・・・」
卒業後の10年、大英博物館の調査団に選ばれ、ユーフラテス河畔の発掘調査に参加した。
3年半の期間中にアラビア語を学び、シナイ半島やアカバ湾まで調査で回っている。
14年、第一次大戦が始まった。ロレンスは陸軍省の地図班に採用され、その後カイロの英陸軍情報部に配属される。
16年、アラビア半島の聖地メッカなどで「アラブの反乱」が始まった。当時、アラビア半島からパレスチナにかけての
広大な地域は、オスマン・トルコに支配されていた。予言者マホメットの子孫を称する族長のフセインが、
トルコ支配に反旗をひるがえしたのである。
中東進出の機会をうかがっていた英国にとって、願ってもないチャンスだった。英国はフセイン・マクマホン協定を結び、
アラブ独立の支援をフセインに約束する。
反乱軍と接触したロレンスは、フセインの三男ファイサルに会って意気投合した。「知恵の七柱」でこう書いている。
「一目見るなり直感した。彼こそが、アラブ人の反乱を大勝利に導いてくれる指導者その人だと」
ファイサル付きの軍事顧問となる。ファイサルの手勢は800騎のラクダ隊を含む8000人。ベドウィン遊牧民を巻き込み、
砂漠に点在するトルコ軍陣地を突破しながら、目的地ダマスカスを目指す。その道筋で起きたのがアカバ攻略だった。
紅海につながるアカバ湾は重要な軍拠点で、トルコ軍はエジプトからの海上攻撃に備えていた。
反乱軍は、鉄道をダイナマイトで吹き飛ばしながら北上した。だれもが、ダマスカスに直進すると思っていた。
しかし反乱軍はそこで突然反転し、アカバに向かう。
海の方向を気にしている敵の背後から、雄たけびを上げ、砂じんを巻いてラクダ隊が襲いかかった。
虚をつかれたトルコ軍は大敗した。
英軍は以後、アカバ湾を使って物資の輸送が可能になる。戦争の大勢を一気に決める勝利だった。
英軍と合流した反乱軍は18年10月、念願のダマスカス入城を果たした。
反乱軍が前進基地にしたヨルダン・アズラク城の元管理人、モワイヤドさんは、90歳に近い年だ。
父がロレンス指揮下の兵士だったといい、ロレンスのアラブ服姿の写真を大事に保存していた。
「ロレンスはアラブ人によくとけ込んで、毎日、アラブ料理のマンサフを手づかみで食べていた。そうおやじから聞いている」
しかしロレンスは、ファイサルら少数の人を除いて、アラブ人との接し方には腐心した。
後に英軍人向けに「アラブ人と付きあうための27カ条」という文を書いている。
「アラブ人を扱う最大の秘けつは、絶えず彼らを研究すること」
「アラブ服をつけるなら、最上の物を。服装は重大な意味を持つ」・・・・
アラブ人は彼にとって「扱う」ことの対象だったようだ。
反乱に命をかけているとき、ロレンスはサイクス・ピコ協定の存在を知る。英国はフセインに独立を約束しながら、
仏露との間では戦後の中東分割を決めていたのだ。
彼は政府に対し、約束通りアラブの独立を認めるよう訴える。ファイサルをシリアの王にし、ダマスカスを首都に、など。
しかし訴えは通らなかった。 パリ講和会議で、シリアは仏の、イラクは英の委任統治領に決まった。
ロレンスはファイサルにうそをついた形になった。彼は怒り、落ち込む。
内閣はよこしまな連中の集まりだ」
皮肉なことに、そのころから「アラビアのロレンス」の名が高まっていく。
高めたのはロ−ウェル・トマス。米国の従軍記者である。ロレンスに同行してアカバの戦跡などを取材したトマスは、
英米で映画とスライドを使った講演会を開き、ロレンスの活動を紹介した。
「アラビアンナイト」の地に、アラブ服を着た英国人が登場し、スクリーンいっぱいに砂漠やラクダが映る。
うわさはたちまち広がり、ロンドンでは100万人がこの興行を見た。トマスは4年をかけ、カナダやニュージーランドまで回る。
ロレンスは世界的有名人なった。
トマスの息子で元アラスカ州副知事のローウェルさん(76)はいう。
「父は、生涯ジャーナリズム界に身を置くことができたのはロレンスのお陰だと感謝していました」
ロレンス自身、トマスの講演会を5回は見ているという。
「講演会が始まって暗くなるとこっそり入ってきて、電気がつく前に席を立ったといいます」
チャーチルに見込まれたロレンスは、植民地省中東局の政治顧問になる。21年のカイロ会議で、ファイサルがイラクの国王、
兄アブドッラーがヨルダンの国王に就いた。反乱以来の約束がやっと一応の決着をみた。彼は顧問を辞任する。
「私の仕事は終わった。あのロレンスとはお別れです」
22年、偽名を使い、一兵士として空軍に入る。それがばれると、別の偽名で陸軍戦車隊にもぐり込む。
配属はボビントン基地だった。
このとき、基地の近くに家を持つ。そこで「知恵の七柱」の改訂版を執筆し、モーツァルトを聞いて過ごした。
スピードに熱中し、オートバイを乗り回した。東大教師の話が出たのはこのころだった。
英BBC放送の元プロデューサー、マルコム・ブラウンさん(69)は、この時期をこう解説する。
「有名になりたかった。しかし一度有名になるとわずらわしい。無名に戻りたくなったのです」
「安全で、挑戦されない場所がほしい。将校では責任がつきまとう。責任のない一兵士でいたかった。自分と社会への嫌悪感、
逃避の気持ちが強かった」
35年5月13日。
すでに退役していたロレンスは、自宅からオートバイで郵便局に電報を打ちにいった。帰り、
2人の少年が乗った自転車を避けようとして横転、頭を強く打つ。意識不明のまま6日後に死んだ。
少年の1人フランク・フレッチャーさん(78)は、当時14歳だった。
「転倒したのは基地の兵隊だと思っていた。それがあのロレンスだったというのは、後で知った」
5年前、友人たちに現場の案内を頼まれ、行ってみた。現場はすっかり変わってしまっていた。
「アラビアのロレンスの映画?ああ、見たよ。オートバイが転倒する冒頭のシーンを見たときは、思わず手がふるえたね」
「ウー・フロンティス」。自宅玄関の飾り石に、ギリシャ語でヘロドトスの言葉が彫られている。ロレンスが自分で彫ったのだという。
直訳すると「気にするな」という意味だが、歴史家ウィルソンさんの解釈はこうだ。
「それがどうしたっていうんだ。世界がどうなろうと、私には関係ない」
村松 崇夫
10月24日
山道を下りながら、こう考えた。赤門をくぐり、朝日新聞社に入った。ロンドンにも住んだ。文筆を業としている。ひげを生やしたこともある。
漱石とみな同じだ。「一杯のビールで顔がほてって街を歩けぬ」のも似ている。これだけそろったら、100年後、
1円硬貨の裏にでも顔か何か出ていなければうそだ。
思うに、ロンドンまではいい勝負だった。漱石・夏目金之助も、愛媛の松山中学と熊本・五高の悪がきどもに英語を教えていた、
ただの人である。それが、ロンドンで天地の差がついた。
「余は下宿に立て籠もりたり」
漱石は2年の英国留学の過半を、テムズ川のはるか南の下宿に閉じこもり、400冊という洋書を買って格闘した。
文学とは何か、近代とは何か。文学書以外の哲学、歴史、自然科学などの書を徹底的に読む。
「本代を浮かすため、安い下宿を探したんですよ」と、クラパムコモンのその下宿の向かいに「漱石記念館」を構える恒松郁生さん(48)。
ついに神経衰弱になる。その「最も苦しみに満ちた」日々の中から、「西欧への幻想を捨て」、「真に自己本位になれ」との結論を得た。
西欧のど真ん中にいてそう考える普通ではない。
1900年10月から2年間の滞在だった。ビクトリア女王の葬儀を、下宿のおやじの肩車で見た。七つの海を支配した大英帝国が、
かげりつつ20世紀へ入る。その世紀の節目にいあわせた漱石は、ついている。
日本は折からその大英帝国と同盟を結び、国をあげての祝賀である。漱石は養父に「貧人が富家と縁組みしたうれしさの余り、
鐘太鼓を叩いて村中をかけ回る様」と書いた。
「西洋人の尻馬に乗って空騒ぎ」し「絶えず外からの力で外発的開化を続ける」日本。それは「おそらく永久に」変わらないと
今日を見通していた。一方、石炭の煤煙でたんまで黒くなる大都会で「人間の不安は科学の発展からくる」と考えた。
「100年後に名を残す人間になりたし」と考える明治の人である。文部省派遣の英語留学生第1号の重圧もある。下宿でひとり
「国のためまだ何もできず、誠に申し訳ない」と思い悩む。そこに文部省から「留学成果の中間報告を遅れ」。白紙を送った。
坊ちゃん型だった。
下宿の建物は、100年の時を何事もなかったように刻んでいた。3階の漱石の部屋には今も住人がいる。
「閉じこもったまま泣いている」のを、下宿の女主人が心配して医者を呼び、近くの坂道で自転車の練習でもしなさい、と進めた。
そのラベンダーヒルの坂道は舗装され、バスや車で混雑していた。広い道幅、自転車練習にはちょうどよさそうな坂。
それが漱石の痛々しい姿を想像させた。
がたごとと、かすかに列車の音がする。教会の鐘がなる。どちらも、漱石が聞いたその音である。
「夏目狂セリ」。文部省に打電した男がいる。文部省はすぐ「夏目精神ニ異常アリ。保護、帰朝セヨ」と、
別の留学生に訓令した。いつの時代にもこういう手合いはいる。ねたみ社会である。
帰国した漱石は36歳。一高、東京帝大の講師に職を得た。マクベス、リア王など、彼のシェークスピア講義は大教室があふれた。漱石がシェークスピアの翻訳を残していれば、と惜しまれる。すばらしかっただろう。
神経衰弱が進んでいた。作家・半藤一利さん(69)の話では「漱石の神経衰弱はほぼ5年周期で悪化と回復を繰り返していた」。
半藤さんの義母は漱石の長女筆子。彼女から聞かされた話である。
病気は日清、日露など戦争の時期に悪くなった。
日清戦争前の25歳、北海道に籍を移して徴兵を逃れた。「送籍という男が・・・・」などと後に冗談めかしたが、
倫理観の強い人だから、戦地におもむく友を見て、自己嫌悪にさいなまれたろう。ふいと東京から松山に「都落ち」するのは、
日清戦争の時だった。
「吾輩は猫である」。名を100年後に残した名作は、ロンドン帰国後のこの病の中で書かれた。
夜中にどたんばたん、書斎で火鉢をひっくり返す、ランプを壊す。訳もなく、さむい庭に飛び出す。
妻の鏡子や子供たちに当たり散らす。おぜんをぶちまける。ついには鏡子を実家に追い返す。
見かねた友人の高浜虚子が、気分転換に何か書いたらどうかとすすめた。何日かして、にこにこと出してきた。
「猫」の第一章だった。翌春「坊っちゃん」を二週間たらずで書き上げる。秋には「草枕」。作家のつもりはない、「癒し」の筆。
自由かったつ、小気味よいリズムに満ちている。
「狂セリ」のレッテルを張られた、その狂気と天才の縄目から、名作がすらり出てくる。人間、不思議なものだ。口語調で写実的。
「ただの人」がいつ、どこでこんな表現力を身につけたのか。
松山の道後温泉。「坊ちゃん湯」につかってそれを考えた。「泳ぐべからず」の張り紙を横目に坊ちゃんが泳いだ、あの湯である。
番台のおばあさんは「漱石さんにはボロクソに書かれとるが、道後を有名にしてくれたけん・・・・」。赤手ぬぐいを貸してくれた。
「坊ちゃん団子」で一服。子規記念博物館に長谷川孝士館長(73)を訪ねる。
「子規が漱石を生み出す産婆役でしたね」。子規が教えた俳句が、表現者・漱石を誕生させたという。
正岡子規は松山の人。2人は一高の同期で、寄席でぐうぜん出会った仲。数少ない親友である。
幼少期は孤独で不幸だった。江戸牛込馬場下横町(現・新宿区喜久井町)の名主、夏目家の八番目の子。
邪魔者扱いで里子に出された。そこは古道具屋で、「がらくたと一所に小さなかごに入れられ、毎晩、四谷の夜店にさらされていた」。
そこから戻ると、今度は養子に出された。九歳で養父母が離婚、また夏目家に戻ったが、実の父母を祖父母と思い込んで暮らした。
21歳で夏目家に復籍。過去の養育費が養家に支払われた。「今後とも不実不人情にならない」の一札を
金之助は養父に差し出す。金でやりとりされる自分だった。
松山で英語教師をしていた漱石の下宿に、日清戦争から帰った子規が転がり込む。すぐ句会を開催。漱石は熱中した。
同居50日余で子規は東京へ。月給80円の漱石から10円借金して、途中、奈良に遊ぶ。校長の月給が60円だった。
子規は奈良から、借用書がわりに一句送ってきた。
「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」
漱石は漢籍を14歳、英語を16歳から学んだ。どちらも抜群である。漢詩は中国人をも感嘆させた。
帝大時代に方丈記を英訳したが、「ゆく河の流れは絶えずして」の冒頭を読むだけでも鳥はだが立つ。
松山中学の生徒がごちゃごちゃいうと、「それは辞書が間違っている」と言い放つだけのことはあった。ロンドン前から、
どうもただの人ではなかった。
落語、相撲、そば、ふろ、床屋、謡曲好き。江戸っ子の高慢さがまたよかった。「西函嶺をこえて海鼠に眼鼻なし」などと
ぽんぽん書いた。西函嶺は箱根の山のことだ。もちろん、江戸のなまこにも目鼻はない。
「草枕」「野分」の後、教職を去る。朝日新聞に入社。約束された帝大教授の名誉と安定を捨てた。「やりたきは創作」。
小説記者・漱石の誕生。40歳。9年後に世を去る。短い作家生活だった。
朝日との契約は周到だ。破格の月給200円、盆暮の賞与4ヶ月、社主による地位安全の保証、などを条件に、作品の一切を
朝日紙上に、毎年「長いものを一回または坊ちゃんのようなものを2、3篇」書く、と書面にした。印税も細かに記録していた。
こんな契約や印税の概念など珍しい時代である。
「虞美人草」「三四郎」「それから」「門」「行人」「こころ」、そして絶筆の「明暗」。
書いては胃かいようで倒れ、また書いては血を吐きつつ、漱石はこの契約を守った。すでに退路は断ってしまっていた。
総理大臣の西園寺公望が文人たちを招待したとき、漱石は執筆を理由に断った。「はがきで断るのは・・・・」と周囲がいうと、
「なあに、これで用が足りる」と一首添えた。
「ほととぎす厠なかばに出かねたり」
文学博士号を授与するという文部省の手のひらを返すような決定を、がんとして拒んだ。こんな漱石を、読売新聞は「変人」と
書いている(明治40年11月17日)。
なるほど雅号「漱石」は頑固、変物の意だが、この勉強家の和洋漢ないまぜた知力と筆力、端正な姿勢は、
ひげを生やしたぐらいでは、はるか遠く及ばない。降参降参。
死の3ヶ月前、芥川龍之介への手紙に添えている。
秋立つや一巻の書を読み残し
遠藤 正武
10月31日
「ヘレン・ケラー、結婚へ!」
1916年11月18日、米ボストンの地方紙は、こぞってこの地元有名人の結婚話を取り上げた。ヘレン36歳の初恋だった。
「花婿はヘレンの秘書で元新聞記者ピ−ター・フェイガン」
「市役所に結婚届を提出」
ボストン・デイリー・グローブ紙によると、記事が掲載される10日ほど前にフェイガンが市役所を訪れ、結婚届を提出した。
書類にはヘレンの四角張った筆跡もあった。
「手続きは極秘に」というフェイガンに、市職員は答える。
「ヘレン・ケラーは全国的な有名人。そんなことはできません」
彼は届け出を受理せず、その経緯を新聞記者に語ってしまった。
フェイガンは29歳。ボストン・ヘラルド紙に数年間勤務したことがあり、「いい記者だった」という元同僚のコメントもついていた。
ヘレンの自宅では大変な騒ぎになった。母親のケートに、ヘレンは何も話していなかったからだ。
ケートはもともとフェイガンの存在を快く思っていなかった。
「お前はあの男と何をしていたの。新聞に恐ろしい話がいっぱい出てるじゃないか。お母さんにはっきりいいなさい」
ケートは手をぶるぶる震わせてヘレンにつめよった。ヘレンは「そんなこと知らないわ」としらを切りとおす。ケートの怒りは静まらず、
フェイガンは秘書を解雇されてしまう。ヘレンは故郷のアラバマ州に連れていかれ、妹ミルドレッドの家に幽閉されてしまった。
「ヘレンとフェイガンが駆け落ちを企てたのは、その直後でした」
アラバマ州タスカンビアに住むミルドレッドのひ孫、ケラー・ジョンソン(29)は、祖母から聞いたエピソードを教えてくれた。
ヘレンが幽閉されてからも、2人は点字の手紙で連絡を取り合った。それが暗号だったという話もある。点字タイプのキーを一つ右にずらし、
AはS、JはKといった具合に置き換えて打ったというのだ。
ある日、手伝いの女性を介してフェイガンから手紙が届いた。
「夜中にポーチで待て」
駆け落ち決行の夜、ヘレンはこっそりス−ツケースに荷物を詰め、ポーチの隅で待ちつづける。しかしフェイガンは来なかった。
顔にそそぎ始めた太陽の熱で朝の訪れを感じたヘレンは、深く悲しんだ。
実はフェイガンはその数日前にアラバマに来ていた。ミルドレッドの夫が銃を突きつけて追い返していたのだ。フェイガンは身の危険を感じ、結婚をあきらめた。
家族が反対した理由について、ケラーはいう。
「理由は三つあったそうです。フェイガンが有名人のヘレンを利用しようとしているのではないかという懸念。ヘレンに
結婚して子供を育てるふつうの家庭生活ができるのかという疑問。それと、フェイガンが社会主義者だったことです」
綿花畑が広がるアラバマ州は米国南部の保守的な地域だ。ヘレンの家は、広大なプランテーションを経営する
典型的な南部の名家だった。彼女は自伝で書いている。
「短命に終わった恋は、暗い海に浮かんだ歓喜の小島として、私の生涯にいつまでも残ることでしょう。愛され、
求められた経験が持てただけで、私は幸せです。愛したことが間違いだったのではなく、環境が許してくれなかったのです」
自伝の中にフェイガンの実名はなかった。
フェイガンは失意のうちに故郷のミシガン州に戻った。アルコール依存症で入院するなどあれた生活をしていたが、やがて立ち直り、結婚して4人の娘をもうけた。
3女のアン・フェイガン・ジンジャー(74)は今、カリフォルニア州で弁護士をしている。46年にフェイガンが死んだあと、
父親の大学時代の親友だったという神父から、こんな話を聞かされた。
「彼は駆け落ちして、フロリダ州にあった私の教会で結婚式をあげることになっていたんだよ」
アンは「結婚を阻止したヘレンの家族に怒りを覚えます」といった。
ヘレンは1882年、生後19ヶ月で熱病にかかり、視力・聴力を失ってしまう。言葉や理性を身につけることができず、
すぐ暴力をふるう手のつけられない子供に育った。
7歳になる直前、家庭教師としてアン・サリバンがやってきた。サリバンは、そんなヘレンに根気よく、指でアルファベットを教える。
井戸水に触ったヘレンが声を上げ、言葉を取り戻す感動的なシーンは、映画「奇跡の人」で有名だ。
ハーバード大のカレッジの1つラドクリフ女子大に進み、在学中に自伝をあらわしたヘレンは、
三重苦を克服した障害者として知られるようになる。
軽業師や動物たちといっしょに見せ物の舞台に立った。障害者を見せ物にする風潮を逆に利用したのだ。
客の好奇の目を浴びながら、障害者の生きる意味と隣人愛を訴えた。
1968年、87歳で死ぬまで、アメリカ盲人協会の活動に多くの時間をさいた。盲人の待遇改善運動に取り組む一方、
労働者のストライキや黒人の公民権運動を支持し、保守派の反発を買ったこともあった。
しかし駆け落ち騒ぎの前後から、ヘレンの社会的な活動ぶりが大きく変わっていく。
当時、米国は第一次大戦への参戦をめぐって揺れていた。世界産業別労働者組合の反戦運動に参加して以降、
ヘレンは政治活動を控えるようになる。資産家から障害者のための寄付を募るためには、その方が得と考えるようになっていた。
夢に挫折した彼女が、現実を直視するようになったからなのか、それは分からない。
アメリカ盲人協会のカール・オーガスト会長(53)はいう。
「ヘレンの業績は2つあった。自らの生き方を示すことで、障害者に希望と感銘を与えた。また、障害者に対する偏見をぬぐい去り、
彼らもふつうに社会生活を送れることを示したことです」
世界各国を回り、日本を3度訪れた。第二次大戦中は傷病兵の慰問を続けた。
「多くの人にとって、ヘレンに会うことは宗教的な意味を持っていたのだと思います」と、昨年ヘレンの伝記を出版した作家
ドロシー・ハーマン(58)はいう。
ヘレンは「完璧な障害者」のモデルだった。教養があり、容姿も美しく、人格的にも深かった。いつしか、
聖女伝説は揺るぎないものになっていった。ドロシーはそれを冷静に見つめる。
「聖女のイメージを汚さないように、サリバンやヘレン自らが演出していた面もありました。
うつりの悪い写真はマスコミに出さなかった。年を取って髪が薄くなると、かつらを使った」
サリバンの母校、ボストンのパーキンス盲学校を訪ねた。ヘレンも学んだ学校だ。
目と耳の両方に障害のある子供を教育する国際プログラムの担当部長、マイク・コリンズ(52)は、
ヘレン・ケラーを誇りに思うとしながら、こう語る。
「ヒーローは純粋な存在でなければならない。ジャンヌ・ダルクのように扱われてきたヘレンにとって、結婚問題は大きな転機だった。
ヘレンの中には、ふつうの女になってしまっていいのだろうかという苦悩もあったのではないか」
障害者の人権や社会進出を訴えたヘレン。「ふつうの生活」ができることの大切さをだれよりも知っていたその人が、
ふつうの女性としての幸せを断念せざるを得なかった。
ヘレンの後見人は、電話の発明で名高いグラハム・ベル博士だった。彼女は博士に語っている。
「愛なんて、私にとっては触れることのできない美しい花のようなものです」
「私といっしょになるのは、彫像と結婚するようなものです」
「私のような障害者と結婚したら重荷を背負いこむだけです」・・・・
彼女は結婚を強く意識しながら、引っ込み思案だった。
ヘレンとサリバンは一心同体で生きてきた。お互いの人生を重ね合わせすぎたために、相手なしでは生きられない状態だった。
どこまでがヘレンの考えで、どこからがサリバンのものなのか、2人にもよく分からなくなっていたようだ。
「結婚話は、ヘレンが生涯で一度だけサリバンや家族に反抗し、自分の人生を歩こうと決意したときだったのです」と
ドロシーはいう。
ヘレンは首都ワシントンの国立大聖堂に埋葬されている。
みやげ物を売る店が並ぶ地下の廊下を抜けると、小さなチャペルがあった。観光客もあまり立ち寄らないその一室の柱に、
金属製のプレートが取り付けられている。
「ヘレン・ケラーと、終生の伴侶サリバンは、このチャペル裏側の墓室に埋葬されています」
英文の下に添えられた点字はすり減り、変色していた。
平井 公
11月7日
1994年6月23日、金日成は平壌近郊の野菜試験農場を視察した。熱心に畑を見て回る。目に留まったのは、
地面にさした木の枝に、穴を開けたビニールパイプを渡しただけのかんがい装置だった。彼は満足げにほほえんだ。
「これはいい。かんたんで経済的だ。首相や党の幹部も見て、全国に普及させなさい」
この年の正月早々、「農業部門に火が付いている」と幹部に檄を飛ばし、農業改善に力をそそいだ。
連日のように農業指導に回った成果の一つが、あまりにも素朴なかんがい設備だった。
北朝鮮は58年、農業協同化を100%達成し、自給自足の夢が近づくかに見えた。「コメは社会主義だ」の看板が全国に立った。
だが、過度の密植に肥料不足が追い打ちをかけ、穀物生産は低下する。金日成は時間を惜しんで視察を続けた。
農業勤労者同盟平壌市委員会の女性委員長、許福徳さん(54)は前年の8月、そんな主席の姿を見ている。
「主席は雨の日でも現地を回っていました。炎暑のある日、周囲が止めるのを振り切り、田んぼに入って稲穂を抜き、
何粒入っているか聞くのです。私が数え終わると、主席は自分で数えはじめました」
国の一部農業幹部が指導をきちんと実践しなかったから農業がだめになったのだ、と許さんはいう。
「しかしいずれにしろ、北部寒冷地の米作はむずかしかったかも知れません」
北朝鮮では主席の死後、何度も水害や干ばつに見舞われた。餓死者も出た。段々畑の乱開発による土砂の流出などが
原因だと指摘された。
今年8月末から9月にかけて北朝鮮を訪れた。今年の穀物の生育は全国的にはほぼ順調だといい、兵士たちがきびきびと農作業を支援していた。しかし地方農村にはなお水害の跡が残り、あちこちに立ち枯れたトウモロコシ畑が目立った。
「日韓併合」から2年後の1912年4月、平壌郊外の大同江のほとりで生まれた。本名は金成柱。代々、小作農の貧しい家庭だった。
旧満州・吉林で中学生だった17歳のとき、抗日組織に加わる。父が運動で逮捕され、拷問を受けたことも動機だったようだ。
31年、満州事変。振興する日本軍に対し、20歳の金日成は遊撃隊を組織し、満州各地でパルチザン活動を続ける。
中国共産党が主体の「東北抗日連軍」の傘下で、朝鮮人主体の部隊のリーダーとなった。
満州の酷寒と飢えにさらされ、厳しい戦いだった。食糧がつき、松の樹皮や草の根を食べてしのぐこともあった。
金日成夫妻と親しかった女性闘士、李在徳さん(81)は北京で健在だ。
「腹が空いて歩けず、1`進むのに半日かかったこともありました。私の部隊でも3人が餓死しました。
後にソ連領の野営地で私が子供を産んだとき、主席が大きな川魚を贈ってくれたのを覚えています」
金日成が「白頭山の虎」の勇名をはせたのは、37年6月の普天堡襲撃だった。朝鮮への反撃の第一歩となった事件だ。
約200人の部隊で町の駐在所や役場を襲い、現金や物資を奪った。新聞はこれを大々的に報じ、彼は一躍「英雄」となった。
「勝ち目のある戦いだけおこない、勝ち目のない戦いは避けた」と自身が書いている。現実的で臨機応変の戦術家だった。
首に1万円の賞金をかけられた金日成が戦い続けられたのは、民族主義者も組織に取り込んで活動の基盤を広く固めたことが大きい。
彼の部隊には、地主層の一部までが内通していたという。
だがついに、飛行機まで動員した日本軍に追い詰められた。40年、ソ連領に逃げ込む。
ハバロフスク近くのソ連赤軍88特別狙撃旅団に編入された。
45年8月、満州にいた朝鮮人部隊は、対日宣戦布告したソ連軍都ともに日本軍を破る。しかし金日成はその戦闘に参加できなかった。
15日、日本が降伏してしまったからだ。後に振り返っている。
「出撃準備を完了し、トラックで飛行場に向かったところで降伏の知らせが入り、引き返さなければならなかった。残念でならない」
解放後、ソ連軍大尉としてウラジオストクからソ連艦に乗り、9月19日に元山に上陸した。朝鮮半島は米ソによってすでに分割され、
北半分はソ連が占領していた。
10月14日、平壌で開かれた解放祝賀大会に、ソ連軍服のまま登場した。「白頭山の虎」を練達の将軍だと思い込んでいた市民は
33歳の若さに驚き、「にせ者ではないか」との声が出たほどだ。
ソ連の後押しで党と政府の主導権を握り、矢継ぎ早に土地改革や産業国有化などの政策を打ち出す。
50年に始まった朝鮮戦争は、金日成にとってはパルチザン当時から構想した「祖国解放戦争」だった。
スターリンと毛沢東の開戦支持を取り付け、米国が後ろ盾の韓国に対して一気に南進を始める。しかし結果は、
双方で200万人を超す人命を失って痛み分けに終わった。
51年7月29日夜半、平壌近郊の秘密司令部を米軍機が襲い、機銃掃射した。一発が司令官室の壁を貫通し書斎の礎石に当たった。
金日成が座っていた場所から1b余り。彼の強運ぶりを示す瞬間だった。
58年、労働党の会議で「わが国の経済は日本に追いつき、追い越す」とぶち上げる。戦火による廃墟から、彼は経済復興を軌道に乗せた。
しかし「わが国には金などの鉱物資源が多い」とくじけない。
だが、地下資源を繰り出す技術と資金がままならない。92年に訪朝した三木元首相夫人、睦子さん(82)に対し、
「環境破壊につながることはしない」と、暗に金鉱開発が難しいことを認めざるをえなかった。
「人民に学べ」が口ぐせだった。民衆に向けた顔は儒教的な「家族国家」の家長そのものだった。一方で権力争いでは容赦なかった。
建国当初の党、内閣の有力メンバーの相当数が姿を消したあと、満州で抗日闘争をともにした同志らが中枢を占めた。
カリスマ的支配の「枠」を外れる者に対する顔は厳しかった。
冷戦が崩壊し、得意の中ソ等距離外交は終わった。孤立からの出口は米国、日本との関係改善だった。
北朝鮮の核疑惑で国連が制裁決議に動いた94年6月、金日成は訪朝したカーター米元大統領と会談し、
米朝高官会談の第3ラウンドが開かれる間は核開発計画を凍結することを言明した。米国が軽水炉への転換を支援し、
北朝鮮を核攻撃しないことを保証するという条件付き。したたかな取引だった。
カーター元大統領に対し、韓国大統領の金泳三との南北首脳会談の橋渡しも頼んでいる。「南北関係に進展がないのは双方の責任だ」と。
金泳三がこの提案を受け入れ、南北和解の機運が高まった。
晩年、経済はじり貧の道をたどった。最大の支援者だったソ連の崩壊のあおりを受けて、93年に終わるはずの第3次7カ年計画は
目標を達成できなかった。核問題で制裁圧力が強まる中、あせりはつのる。
94年7月6日、西部工業地区。会議場の大きな机に身を乗り出し、彼は居ならぶ経済幹部を見渡して語気を強めた。
「少なからぬ幹部は、言葉だけは忠誠をとなえながら、形式主義と要領主義、敗北主義におちいっている。だから、
からまった環がうまくほどけない」
経済の大転換に向けて電力の確保や肥料の増産に全力をつくすよう、幹部たちをしかりつけた。
「先頭に立つべき幹部が事務室でおしゃべりばかりしている」
いら立ちを爆発させた金日成の顔は紅潮し、声がかすれた。胸苦しいのか、左の胸をこぶしでたたいた。医師に禁じられていたたばこに
火をつけたあと、「このごろ吸わなかったのに」とつぶやいた。
秘書はこう記している。
「幹部たちは全員うなだれ、場内は息を止めたように静まり返ってしまいました」
首領の死はその2日後だった。
妙香山の執務室の机上には、南北会談関係の書類が残されていた。統一を望んでしたためた最後の署名は、
石碑に刻まれて板門店に立っている。
ソ連旅団当時の指揮官仲間だった吉林省在住の中国人、王明貴さん(89)はいう。
「彼は聡明な人で、敬服している。でも、毛沢東もそうだが、社会主義建設を急ぎすぎたのは欠点だ。誤りはやり直すべきだったよ」
朝鮮近代史に精通する徐大粛ハワイ大学教授はこう見る。
「独立のために戦った経歴は、民族として誇るに足る者です。しかし、南北の体制競争が、それを革命神話にしてしまった。
個人崇拝や神格化は、金日成の業績を曇らせました」
小田川 興
11月14日
1945年5月10日。米国の核開発の拠点、ロスアラモス国立研究所で、日本への原爆投下候補地をしぼる「標的委員会」が開かれた。
空軍が6カ所、防潮部がカ所の候補地を提案した。米議会図書館に、そのときのジョン・フォン・ノイマンのメモが保存されていた。
「京都 + 心理的効果」
「広島 + 軍事的効果」
「+」は「標的として有効」の意味で、「心理的、または軍事的効果があるから」というわけだ。
A4サイズの黄色いメモ用紙。その両面に、あまりうまくない字が並ぶ。彼の学校時代の成績表は「優」が圧倒的だが、
習字は合格ぎりぎりの「可」だった。メモは続く。
「皇居 心理的効果」
「+」の記入はなく、消極的だ。新潟は「情報不足」として反対。小倉については広島同様「+」で、「軍事効果」としている。
最終的に、京都は文化破壊への強い反対があって除かれた。小倉は投下当日の8月9日に視界が悪く、予備候補の長崎に落とされた。
ノイマンがつくったコンピューターは今、ワシントンの国立米歴史博物館に、原爆の外殻とあわせて展示されている。説明にこうあった。
「原爆を開発し、その破壊力を推定するために、科学者たちは膨大な計算をしなければならなかった。・・・・コンピューターと核兵器は、
ともに第二次大戦の産物であり、いっしょに成長したのである」
核兵器開発に携わる中で、生まれたてのコンピューターの可能性に目をつけたのがノイマンだった。
1903年、ハンガリーのブダペストで生まれた。父親はユダヤ人の裕福な銀行家で、経済への貢献で貴族に叙せられている。
6歳で、父親と古典ギリシャ語で冗談をいいあうほど早熟だった。
とくに数学の才が際立つ。大学にも入らないうちに2つの論文を書く。その後ドイツに移り、23歳でベルリン大学で教え始めた。
ナチスが台頭するドイツを去り、33年、米国に創立されたばかりのプリンストン高等研究所の4人の教授の1人として、
アインシュタインらとともに招かれた。29歳だった。
第二次大戦中は、ロスアラモス研究所で原爆の開発に参加した。
「核物質を効果的に爆発させるための圧縮用火薬の配置は」
「爆弾の規模と破壊の程度は」
「爆発の高度とその破壊力の関係は」・・・・
ロスアラモスの同僚で、後にノーベル物理学賞を受けたハンス・ベーテ博士(93)は、ニューヨーク州イサカで健在だ。
「多くの計算が必要でした。ノイマンはとくに、核物質の圧縮装置の設計に重要な貢献をしました。彼が使う数学はとても明晰だった」
当時の計算機は電気機械式で、電流のオン・オフを電磁リレーで切り替えていた。金属片を電磁石で動かすので、重くて動作が遅かった。
同じ悩みを、アバディーンの陸軍弾道学研究所も抱えていた。砲弾を命中させるための射程表をつくっていたが、
第二次大戦で膨れ上がった需要に、計算が追いつかない。
陸軍の発注を受けたペンシルベニア大学で、真空管でオン・オフを切り替える「電子式計算機」、すなわちコンピューターが開発された。
これが「エニアック」だった。
真空管式の採用で、処理速度は約千倍、つまり電気機械式で1ヶ月半かかった計算が、1時間でこなせるようになった。
44年夏。エニアック開発計画を管理していたハーマン・ゴールドスタイン博士は、アバディーンの駅で偶然出会ったノイマンに話しかけた。
ノイマンは、コンピューターの持つ可能性をただちに理解した。
戦争が終わると、2人は共同で、プリンストン高等研でコンピューターの開発に取り組むことになる。
ゴールドスタイン博士は現在86歳。心臓発作で入院していた病院からフィラデルフィア近郊の自宅に戻った直後で、つえを頼りに1歩1歩、
歩いて出迎えてくれた。
「あの天才をコンピューターの世界に誘い込んだことを、とても誇りに思っています。アインシュタインでも彼ほど頭はよくなかった」
博士は一度、ノイマンの記憶力を試そうと「二都物語」の書き出しを尋ねたことがある。ノイマンはすぐ暗唱を始め、
10数分後に博士が止めるまで続けたという。
「紙と鉛筆」を尊ぶ高等研の空気は、必ずしも彼らに温かくはなかった。コンピューターの製作は地下のボイラー室で始まった。
研究資材は不足し、唯一のオシロスコープも軍からの借り物。真空管の寿命など、さまざまなテストを行う器機も自作しなければ
ならなかった。予定の倍の6年近くを費やし、完成したのは52年だった。
ノイマン型コンピューターの最大の特徴はプログラム内蔵方式だ。
今のパソコンなら、新しいソフトもすぐにセットして使える。しかしエアニックでは、新しい作業をするたびに多数の配線をつなぎ替え、
新プログラム用の回路をつくらなければならなかった。数分ですむ作業の準備に2、3日がかり、ということになりかねない。
二進法も要点の1つだった。電流のオン・オフだけで数を表現できるので効率的だ。しかし当時は、入力や出力の際にわずらわしい
のでは、と迷いがあった。エニアックが採用していたのは十進法だ。「私たちはその誤りを指摘した」とゴールドスタイン博士は書いている。
特徴はほかにも、逐次処理、プロセッサーとメモリーの分離、などがあった。ワシントンの国立航空宇宙博物館で
コンピューター史を研究するポール・セルージ学芸員は語る。
「ノイマン型のアイデアは、1つ1つは必ずしも彼の独創ではありません。しかし彼は、それらを採用することがシステムにとって
なぜ重要なのか、どう具体化したらよいか明確に示した。それによって人々は、コンピューターとは本質的にどんな機械であるか
理解できたのです」
ノイマンはコンピューターを使って水爆の開発に加わるとともに、米国の軍事政策に積極的にかかわった。国防総省の軍事史家、
アルフレッド・ゴールドバーグ氏は「彼はソ連への先制核攻撃すら考えていた」という。ライフ誌はノイマンのこんな言葉を伝えている。
「もしあなたが、なぜ明日にでもソ連を爆撃しないのかと問うなら、私はなぜ今日ではないのかと聞く。今日の5時にというのなら、
なぜ1時でないのかとたずねたい」
55年、政府の原子力委員に就任する際、議会公聴会でこう述べた。
「私は猛烈な反共主義者で、おそらくほとんどの人よりずっと軍国主義的でした」
「物心ついて以来ずっと、マルクス主義には大反対でした。とくに1919年、ハンガリーで約3カ月間それを体験してからは」
ハンガリー貴族のノイマン一家は、ブダペストのビルの最上階に18室を占めて生活していた。郊外の別荘には、窓の上にノイマンら
3人の兄弟のあだ名にちなんだ動物の浮き彫りがあった。
19年に共産主義政権が成立したとき、その生活が崩れた。8つ違いの弟ニコラスさんは、フィラデルフィア近郊で弁護士をしている。
「共産政権が樹立されると、住宅の一部を接収するため、共産主義者がやってきました。父がピアノの上にまとまった額の
ポンド紙幣を置くと、それを取って立ち去りましたが・・・・。それで私たちはイタリアに逃れました。もし母国にとどまり、共産政権が
長続きしていたら、命がなかったでしょう」
コーネル大学のマイケル・デニス助教授はいう。
「彼が委員会を務めた空軍のフォン・ノイマン委員会は54年、核弾道ミサイルの開発を進言しました。冷戦期の米国の戦略方針の
画期的な転換でした」
ソ連も同じ道を選んでいた。防御不能な核ミサイルによる「相互抑止」という、その後の半世紀を支配する構造ができあがった。
オッペンハイマーのように、核兵器の開発にかかわりながらも複雑な感情を抱く科学者は少なくなかった。だがノイマンは「兵器に
強力すぎるということはない」といい切った。ロスアラモスの同僚、ベーテ博士は「彼は倫理ということを理解していなかった」という。
だが、オッペンハイマーが「ソ連のスパイ」と攻撃されたとき、ノイマンは無実の論陣を張る。核開発のもう一つの拠点、
ローレンスリバモア国立研究所の初代所長、ハーバート・ヨーク博士は振り返る。
「ソ連と対話すべきだというオッペンハイマーの姿勢は、彼には認められないものでした。しかし彼は公正な立場をとり、人々の反応は
あまりに極端だと見ていました」
57年、がんのため53歳で死去した。空軍は彼の病室に9人の軍人を派遣し、不寝番をさせた。「丁重な看取り」は、うわごとで
機密を口走ることを警戒したためだった。
武居 克明
11月21日
いま裕仁天皇の写真集をひもとくと、第二次大戦の前の天皇は陸軍か海軍の軍装を着ていることが多く、大戦の後はもっぱら
背広を着ていたことに気づく。
もうひとつ、軍装の天皇はあまりに若く、しかも笑わず、それに比べ背広の天皇は徐々に年老いて、穏やかな笑みを惜しんでいない。
戦争の顔と平和の顔。天皇の服装と表情は、昭和という時代の断層をくっきりと映し出していた。
昭和9年(1934年)11月、群馬県の利根川流域を川風が吹きすさぶ。裕仁天皇は、33歳、大元師の軍服を着て、
当地での陸軍特別大演習を統裁した。
「白馬にまたがって神聖だった。日本の伝統を体現しているように思えた」。のちに首相となる中曽根康弘は高崎中学生。
38式歩兵銃を持って参加、はるかに天皇を望見したことを覚えている。
だが、このあと天皇が桐生市を行幸したときに、思わぬことが起きた。先導の警察官の車が道順を間違え、目的地に早く着きすぎて
丁重なお迎えができなかった。その警察官は誘導の責任を感じて、天皇のお召し列車が前橋駅を離れる花火を合図に
日本刀でのどを切り、自殺を図る。苦しんでいるところを発見されて一命をとりとめる。
「なぜ自殺しようとするのか、そこまで責任を感ずる必要があるのか」。中曽根青年は驚いた。
「天皇陛下だってトイレに行くでしょう。当時から天皇陛下を神様だとは思っていませんでしたから」
だが、時代の空気はますます神がかりになって日本はいつ果てるともない大戦争に突き進んでしまう。
果たして裕仁天皇自身は、警察官の責任の取り方に心安らかだったのか。あんな大戦争に進んでいくことを望んでいたのか。
時代は、大正にさかのぼる。
「石地蔵のごとき」と評されていた堅物の裕仁皇太子がヨーロッパを歴訪した。「それまではカゴの鳥のようだった。外国に行って
自由を味わうことができました」とのちに述べているように、それは生涯の楽しい思い出であったろう。そしてまた裕仁皇太子の、
天皇として生きる指針「立憲君主」の思想を得た旅でもあったのである。
裕仁皇太子はケンブリッジ大学で「英国王室とその国民との関係」という講義を聴いた。
「立憲王国では王の権利が制限される。国王の意志は議会によって裏書きされなければならない」
英国の名門貴族アソール公の居城で、三日間を過ごした。その舞踏会で、アソール公が農家のおかみさんの手をとり、夜会服の公夫人が
農家のじいさんと組んで踊っていた。裕仁皇太子はこう感嘆した。
「アソール公のように簡素な生活をすれば、ボルシェビキなどの勃興は起こるものではない」
フランスに渡って、第一次大戦の戦跡を見た。砲弾の破片や機銃で穴のあいたヘルメットの残骸を見て、裕仁皇太子は、
「悲惨の極みである」と吐露した。その見聞は終生、深く心に刻まれる。
とすると、あの昭和の暗い時代を、裕仁天皇はどんな気持ちで過ごしていただろう。自らを神とする狂信の渦中で冷めていたのか。
「立憲君主」たらんとしてあえて口をつぐんでいたのか。それとも、軍国の最高指導者として、積極的に戦争遂行に加担したというべきか。
利根川の下流、千葉県関宿町は、終戦時の首相鈴木貫太郎が最晩年を過ごした土地、いま木立の中にささやかな記念館があって、
そこに裕仁天皇が「聖断」を下した御前会議を描いた2枚の絵がある。皇居の防空壕で開かれたあの会議の記念写真はあるはずもない。
1枚の絵は昭和20年(1945年)8月9日、もう1枚は8月14日を描いている。
玉砕か、終戦か。かつて裕仁天皇の侍従長を務め、2・26事件で危うく命をとりとめた鈴木とは、あうんの呼吸だったのであろう、
鈴木からゆだねられて裕仁天皇は「立憲君主」の禁を破る。「わが国が焦土となり、万民にこれ以上の苦悩をなめさせるのは忍びがたい」
と述べ、「私が国民に呼びかけるマイクの前に立つ」と言明した。
裕仁天皇が終戦の詔書を録音するのに立ち会った当時の侍従、入江相政はこう書き残している。
「陛下は、その場にふさわしくないほどの勢いのいいお声で『もう一遍やってみようか』とおっしゃった。あれはまさしく『日本をもう一度、
繁栄させなければ』という意気でおっしゃったに違いない」
入江が侍従長になり、その下で、長く侍従を務めた卜部亮吾(菊葉文化協会常務理事)は「終戦は、陛下にとって、わが意を得たり
ということだったのでは」と振り返る。とすると裕仁天皇は、軍国日本の「立憲君主」の役柄はやはり心の底ではいやだったのではないか。
のちに裕仁天皇は「立憲政治にこだわりすぎたために、戦争を防止できなかった」としみじみ述べたのである。
東大を出て内務省に、そして海軍に入った中曽根康弘はミンダナオから台湾へと転じ、戦局の悪化とともに日本に戻され、
8月15日正午の天皇の放送は高松で聞いた。
「そのとき天皇の声を初めて聞いた。かねて敗戦はあることだという気はしていた。我々の世代に日本の歴史は汚辱の1ページを記した、
という感じが強かった」
その悔しさをバネに、中曽根は青雲の志を立てて、故郷群馬から衆院議員に名乗り出る。
が、ともあれ裕仁天皇は、戦争の顔から平和の顔に変わった。日本の新しい支配者としてマッカーサーがやってきたけれども、裕仁天皇は
うれしそうに全国各地を巡幸にでかけた。それは、あの警察官が自殺を図った大元帥の行幸と違って、汽車の中でも学校でも泊まり、
炭鉱にも漁港にもでかけ、人々の歓呼にソフト帽を高く掲げ、人々の話を聞いては「あ、そう」と答えた。
「陛下にとってあの時期の地方巡幸はアソール公の舞踏会だったと思うんですよ」と卜部は見る。皇居の防空壕が
コウモリの住み家になるのを妨げないように、との言葉を覚えているのも卜部である。
入江はこう書き残している。
「負けたおかげでやっと手に入れた、このノビノビとした調子、ピチピチと生きがよくて、いのちが通っている。これを失ったら
負けたかいがなくなってしまう」
さて、国会に登場した中曽根は、昭和27年(1952年)1月、天皇の退位問題を吉田茂首相に質問した。「退位を望む者は非国民」と
吉田が答弁したテーマを、中曽根はなぜ取り上げたのか。
「天皇が東京裁判にかけられるかどうかの大問題を無事、切り抜けられた。しかし昭和天皇という方は非常に良心的な方だから、
ご自分で退位しようというお気持ちならそれを妨げてはいけない、と述べた。それが天皇制の道徳的基礎を強めることになると思ったのです」
恐らく、心の奥に「戦争責任」を潜ませながら、裕仁天皇は戦後の40余年をよく「国民統合の象徴」として生き抜いた。人々に
手を振り続けた。台風や地震のときは「被害はどうか。何かあったら起こしてくれ」と言いおいて休んだ。デモやストライキをとても心配した。
ともかくも平和で、人々がつつがなく暮らしていることを望んだ。
生活ぶりは質素だった。生物学研究所の顕微鏡は古くなっても替えなかったし、鉛筆はちびるまで、ノートは余白を残さなかった。
洋服の新調も消極的だった。不自然なものは嫌いで盆栽を好まなかった。
NHKの朝の連続ドラマを楽しんだ。夜は水戸黄門の時代劇が好きだった。きっと黄門様みたいにわずかなお供をつれて
あちこち行きたかったに違いない。「私はただ平凡に過ごしてきた」とは、裕仁天皇の自身の人生への感想である。
昭和63年(1988年)8月15日の「戦没者追悼」の式典に出席の後しばらくして、裕仁天皇は最後の病の床についた。下血、吐血、
そして輸血。いったん重体に陥りながら、よく持ちこたえた。
秋も深まって「十三夜」の夜、寝室の窓に、すすき、はぎ、おみなえし、きぬかつぎ、くり、かき、だんごを供え、お月見をした。
ひさしが邪魔になって、ベッドの裕仁天皇には見えない。侍従がベランダに鏡を持ち出して、月を映した。
侍従が「見えますか」と聞くと、天皇は答えた。「見えた。少し欠けているね」
若き日に天皇退位論を口にした中曽根も、首相として5年間を裕仁天皇と接し、「天皇陛下はこちらから甘えたい気持ちを
起こさせる方だった。政界の打ち明け話も興味深く聞いて下さった。日本もここまで繁栄した。天皇が退位せずに我慢して、
がんばってくれてよかったな」と思い至っていた。
病床の裕仁天皇が「十三夜」の月を鏡に映して見たことを知って、中曽根は一句つくった。
帝賞でしわれも仰ぎし十三夜
早野 透
11月28日
孫のカーチス・ルーズベルトさんは、ニューヨークのホテルに会いに来てくれた。国連を退職してフランスに住んでいるが、
たまたま故郷ニューヨークを訪れていた。
69歳になる。笑うと目元が祖父にそっくりだ。
家族でシアトルに住んでいた1941年12月7日(米時間)、真珠湾攻撃が起きた。11歳の時だ。
「真珠湾が攻撃されるなら米西海岸も危ない。シアトルは一時パニックになりました。祖母(エレノア夫人)が心配し、
ホワイトハウスに戻りなさいといってきました」
それを押しとどめたのがルーズベルトだった。
「そんなことをしてはいけない。大統領の一族が最初に逃げ出したらまずい例になる」
カーチスさんはルーズベルトの長女の息子だ生後間もなく両親が離婚し、母親、姉と3人で祖父の家に住んだ。
祖父が大統領になるとホワイトハウスに移る。25人いる孫のうち、祖父と一緒に暮らしたのはカーチスさん姉弟だけである。
「祖父は私をバズと呼び、かわいがってくれました。いっしょにベッドで寝たり、本を読んだり。毎朝スタッフと
会議していましたが、入っていくと中断して遊んでくれました」
「陰謀説」をどう思うか尋ねると、真剣な表情になった。
「祖父は大の英国びいきで、服や靴はロンドンで買っていました。しかし日本文化の機械にはまったく無理解でした。
祖父にとって、日本は単に侵略国というイメージでした。陰謀などではなく、無理解だったのだと思います」
フランクリン・デラノ・ルーズベルトは1882年、ニューヨーク州で生まれた。米国有数の名家。金円に26代大統領のセオドアがいる。
ハーバード大を卒業し、一族の娘エレノアと結婚した。
39歳で小児まひになる。半身の自由を失うが、不屈の再起を果たす。ニューヨーク州知事を経て1933年、第32代大統領に就任した。
しかし、ホワイトハウスでは大難題が待っていた。
29年に始まった大恐慌が収まる気配を見せない。失業者は1280万人に達していた。国家財政のてこ入れで景気回復を目指す
「ニューディール政策」を打ち出すが、効果はなかなか上がらなかった。
39年、ドイツと英仏の間で第二次大戦が始まった。ルーズベルトは英国を助ける決意を固めていたが、国内では欧州の戦争に
かかわりたくないという世論が支配的だった。
「ルーズベルトはアメリカを戦争に引きずり込もうとしている」
三選を目指す彼は、ライバルの共和党候補から激しい攻撃を受ける。「自国領土が攻撃されない限り、青年を戦場に送ることはしない」と
公約せざるを得なかった。
この深刻なジレンマを救ったのが、日本の真珠湾攻撃だった。
41年7月、日本が仏領インドシナに進駐。制裁措置としてルーズベルトは対日石油禁輸を決める。ハル国務長官は11月26日、
日本軍の中国大陸と仏領インドシナからの撤兵を要求する「ハル・ノート」を突きつけた。日本側はこれを最後通牒と受け止める。
そのころイエール大学に、事態を憂慮する日本人の教授がいた。福島県出身の朝河貫一である。彼は、ルーズベルトから天皇に
打電してもらおうと、大統領親書の草案を英文で書き上げた
朝河はこのとき67歳。祖国を破滅から救いたいをいう一心だった。草案は、日本に対する具体的な要求は避け、日米友好を大統領が
天皇に訴えるという内容である。
友人のハーバード大学フォッグ美術館のラングドン・ウォーナー東洋部長が協力し、草案を米政府に持ち込んだ。
ルーズベルトは日本時間の12月7日、親書を打電した。宮中に届いたのは8日午前三時。しかし、内容は朝河草案とまるで違い、
仏領インドシナからの撤兵を強く求めていた。日本側は黙殺した。
かねて日本軍部の独走を強く批判していた朝河は、親書の内容を知って米政府にも失望する。
「日本の国民性と歴史への理解がまったく入っていない」
宮中に親書が届いた約25分後、日本海軍機動部隊がハワイの真珠湾攻撃を開始した。ルーズベルトは議会で演説した。
「日本帝国の無警告攻撃で戦争状態に入った」
世論は一転、「参戦」に変わる。数日後、ドイツも対米宣戦を布告した。武器製造のため、全米の工場はフル生産の態勢に入る。
失業者は44年、67万人にまで減った。
ルーズベルトにとって都合がよすぎる事態の推移だ。そこから、米国内で、「陰謀説」が登場する。
「ルーズベルトは日本を経済制裁で追いつめて先制攻撃を誘った」
「真珠湾攻撃を事前に察知しながら、ハワイの太平洋艦隊に知らせなかった」――
しかし現在、米国の歴史学者の多くは極めて否定的だ。コーネル大のウォルター・ラフィーバー教授やワシントン大のロバート・ビュートウ名誉教授は異口同音にいう。
「ルーズベルトは、ナチスは倒さねばならないと思っていたが、日本との開戦は避けたかった。二正面作戦になるし、それでドイツを
引き出せる保証もなかった。陰謀説はあり得ない。しかし、経済制裁が日本に与える打撃がどの程度か分かっていなかった。
そこに誤算があった。」
今月5月26日、米ニューヨーク・タイムズ紙が「真珠湾の司令官が汚名を返上」というニュースを報じた。真珠湾の備えを怠ったとして
退役させられた元太平洋艦隊司令官の故ハズバンド・キンメルら2人の軍高官の名誉回復を、米上院が決議したという内容だった。
デラウェア州に住むキンメルの三男、エドワードさん(78)はいう。
「ワシントンは、日本軍の動きを知りながら父には知らせなかったと私は確信しています。ルーズベルト個人が知っていたかどうかは
コメントしないが、人々が考えるよりずっと多くを知っていたと思います」
「陰謀」があったのかどうか、決定的な証拠はない。ただ、ルーズベルトが日本軍の攻撃を予期していたことはない。陸軍長官の
ヘンリー・スチムソンは、41年11月25日の閣議の模様を日記にこう書き残している。
「大統領は『日本から、来週の月曜(12月1日)にも攻撃を受けるかもしれない』といった」
ラフィーバー教授は「彼は、日本が攻撃するとしたら東南アジアのどこかだと考えていた」と語る。
米国側は、日本軍の能力をみくびってもいた。航空機の性能や操縦士の技量は劣悪で、はるかハワイまで攻撃をかけることなど
不可能と信じる軍高官が多かったという。
予想もしなかった真珠湾の大被害にルーズベルトはがく然とするが、逆に参戦世論の高揚に利用した。
ルーズベルトは老練の政治家だった。新聞やラジオなどのメディアを巧みに利用した最初の大統領といわれる。ラジオで国民に
直接語りかけた「炉辺談話」は有名だ。
しかし、短気で気難しい一面もあったようだ。ホワイトハウス詰めの名物女性記者、サラ・マクレンドンさん(89)は、尊敬しているが
好きにはなれなかったという。
「記者会見にはいつも早めに行って最前列にいたのだけれど、お気に入りの記者の席が6つしかないから私は立っていました。
いやな質問が出ると、痛烈な皮肉を飛ばすんです。額に青筋を立てているのがはっきり見えました。駆け出しの私は、怖くて質問など
できなかった」
45年2月から3月にかけて、太平洋諸島の硫黄島で日米両軍が死闘を繰り広げた。
3月末、米海兵隊員が一通の手紙を見つけた。戦死した日本軍士官が身につけていた。硫黄島の海軍守備隊司令官の市丸利之助少尉が
ルーズベルトにあてて書き、部下に託したものだった。市丸は最後の戦闘で戦死する。
「我今我ガ戦ヒヲ終ルニ当リ一言貴下ニ告グル所アラントス」
原文は毛筆の方かなまじり文で、英訳まで付けられていた。
「貴下は真珠湾の不意打ちをもって対日戦争唯一宣伝資料となすといえども、日本をして・・・・この拳に出づる外なき窮地にまで
追い詰めたる諸種の情勢は、貴下の最もよく熟知しある所と思考す」
米国の覇権主義と欧米の植民地支配を難じる文章が続いている。
手紙はメリーランド州アナポリスの米海軍兵学校博物館に今も保管されている。硫黄ガスのこもる洞くつ陣地で書かれた手紙は、
くまなく黄ばんでいた。学芸員がいった。
「一般には公開していません。当時の日本軍人の考えに批判的な人がまだ多いですから」
硫黄島陥落から間もない45年4月12日、ルーズベルトは脳出血で死去する。63歳だった。
市丸少尉の手紙は、おそらく読んでいない。
落合 博美
12月5日
「待っていてくれ」
哲学教師ジャンポール・サルトルは、数人の生徒にそういって娼婦と階段を上がっていった。残された高校生達は、一階の酒場で
ビールを飲んでいた。
フランス北部の港町ルアーブル。
「ホテル黒猫」はガリオン通りにあった。
教師が女と消えて、だいぶ時間がたった。
「どうしているんだ。探そう」
悪童たちは階段を上がり、次々とドアを開けた。教師は、もらったばかりの給料を全部取られていた。生徒たちは女の引き出しから
金をわしずかみにし、用心棒と乱闘が始まった。教師もお得意のボクシングで立ち向かい、相手がひるんだすきに逃げ出した。
15bほど走って、急に立ち止まった。
「あっ、眼鏡を忘れた」
サルトルはよく、生徒を相手にボクシングの練習をした。後に母校の英語教師になったジャン・ジュスティニアーニさん(86)は思い出す。
「リングでは眼鏡を外すでしょう。先生は片目が不自由なので、相手の動きをよく見ずにパンチを出す。どこから飛んでくるか分からないので往生した。用心棒相手のときも強かったですよ」
全国の秀才が集まるパリの高等師範学校を卒業し、教授資格試験を首席で合格した。「人生は冒険」と日本で教師になることを志望する。
しかし選考に落ち、1931年にルアーブルのフランソワ一世高等中学の教師になった。26歳だった。
生徒への賞品授与式があった。新任教師が、来賓や生徒の前でスピーチをするのが伝統だった。
秀才中の秀才ととうわさされていた。ところが新任教師は礼儀をわきまえずいいたい放題。当時は有害とされていた映画を礼賛する
演説を延々と続けた。
「ご両親は安心なさってよろしい。映画は悪の学校ではありません。ひんぱんに行きなさい。l」
有力者たちの間ですぐ、教師の敗訴運動が練られてたほどだ。ジュスティニアーニさんはいう。
「映画を見ると悪魔に近づくと親にいわれていた。実に挑発的でした。後の五月革命を先取りするような異議申し立てでした。」
翌年の式には姿すら見せない。前夜遅くまで、海岸で一緒に酒を飲んでいたジュスティアーニさんが心配し、下宿まで迎えにいった。
ひどい二日酔い。かつぐようにして壇上に上がらせたが、十五分後にはいなくなってしまった。
考え方も型破りだった。
教材も持たず、パイプをくわえているだけ。教壇の机に座って「君たちも吸っていいよ」。もっぱら自分の経験を情熱的に話す。
試験はあまりしなかった。ただ、視学官は見抜いていた。
「たぐいまれな情熱、独創性、並ぶもののない知的な力、第一級の配慮を備え、輝かしい将来が約束される」
だがサルトル本人は失意のどん底にあった。高等師範の友が次々に偉くなっていく。ポール・ニザンは「アデン・アラビア」を書き、
レイモン・アロンも著作を発表し、大学で哲学を教えていた。
サルトルは一発逆転をねらった。「嘔吐」の執筆だ。ルアーブルでの生活を哲学小説風にした。パリに転勤後にようやく出版された。
「戦争は私の人生を真っ二つにした」と自分でいうように、戦争と捕虜体験が田舎教師を変えた。
動員兵士サルトルは39年、北仏ナンシーの砲兵連隊観測班に配属される。気球を上げて弾道計算に必要なデータを収集した。
40年、ドイツ軍の捕虜になる。フランス国境に近い古都トーリアの捕虜収容所に家畜用車両で移送された。モーゼル川と市街地を見下ろす
丘の上に三階建ての木造バラックが並び、2万5千人が収容された。今は建て直された兵舎が、ブドウ畑の中で静まり返っている。
ドイツ兵にしりを蹴られて命令された。自分ではどうしようもできない権力を体で知り、ほんろうされ、生き抜く。ナチズムの中で
生身の社会や政治を体験した。
ただ、ブルジョアの育ちに後ろめたさを感じていた彼は、大衆の中にいる自分を楽しんでもいたようだ。
「サルトルはトーリアで準備された。ここから本当の社会に入っていった」
サルトルの評伝をまとめた作家のアニー・コーエン・ソラルさんはそう見る。