2001.10.23
この夏上映された
『夏至』という映画がある。
脚本には少々問題がある気もするけれど、美しい映画ではあった。
それはさておき、この映画の一場面のことを少々。
母親の命日に親戚が集まって食事をする。
日本でもかつてはどこでも見られた風景。
三姉妹が洗い場で鶏を調理している。
彼女らは、おそらく昨日まで飼っていたであろうその鶏を、何のためらいもなくあっさりと調理していく。絞め殺されたばかりの鶏が大きく映し出される。
よく言われるように、今日では、こうした光景に出くわすことは滅多にないし、ましてやそれを自分がすることもほとんどない。分業の発達によって、私たちは鶏の世話をしなくてもよくなったし、屠殺して毛をむしらなくてもよい。鶏肉は毎日のように食卓にのぼる。鶏肉業者の方々は、毎日のように鶏を屠殺し続ける。屠殺に関わらなくなったことで、多くの人にとって鶏を食べることはその固有の意味を失い、生命維持活動の関数のひとつに過ぎなくなっている。余計な手間も、余計な考えや礼拝もなく、私たちは手軽に鶏肉を食べることができる。
これは「進歩」だろうか。むしろこの光景は、現在の私たちがいわゆる「進歩」によって失った生活様式を描いているように映る。私たちは特定の仕事に専念することで、他の諸々の仕事から解放された。しかしそれは、「鶏を料理する」という人間の能力の点からすれば著しい退歩であろう。
今、失業した中高年の再就職が難しいと言われている。大きな原因の一つとして、彼らは特定の業務に従事し続けたために、それ以外の仕事をすることが難しく、また自信をなくしている。しかしリストラに遭うかどうかに関わらず、仕事を続けようとすれば、ほとんどの人は極端に分業化された環境に留まるしかない。私たちはすでに高度に分業化された社会に生きている。多少の変更は可能かもしれないが、基本的には、そこで生きていくよりほかはない。
高度な分業化が、食べ物に対する基本的な感覚を破壊し過ぎることのないように、どこかで折り合いをつけなければ、と思う。自分が「何を食べているのか」という感覚を忘れたくない。
付記
先日、名古屋納屋橋を散歩した。
堀川沿いの通りが変わってきている。以前、納屋橋饅頭本店のあたりには倉庫か風俗店しかなかったのだが、堀川改修に伴って新しいレストランが立ち並んでいる。
その中の一軒は、いわゆるフレンチ・アジアンと言われる流行を取り入れた店。どこかの結婚式の二次会が催されていた。監督の意図はともかく、映画『夏至』も、この流行の一端を支えるものであることは間違いない。
しかしその店、看板をよく見ると"COLONIAL"という触れ書きが。ベトナムとフランスの文化が融合したのは、紛れもなくフランスの植民地支配の影響。ちょっと複雑。はたして"COLONIAL"という言葉は「おしゃれ」なので使われているのだろうか?
けれども、そんな帝国主義がどうのと考えることもなく、今あるよいものを素直に受け入れることのほうがよいのかもしれない?
------------------------------------------------------------------------
2001.7.3
以前、社交体としての大学という考えを書いたことがあるが、最近、このような書き方では対処できないような深刻な事態が起こりつつあるようだ。先日、早稲田大学において大学当局と学生との物理的な暴力による衝突が発生した(参照リンク:
早稲田の論点、大学側の公示は掲示板に)。これはもはや対話が有効な手段として機能しなくなってきていることを示している。
そもそも、過去の学生運動によって獲得された部室などを現在も維持している大学はほとんど存在しない。明治大学で部室から凶器が押収された一件は記憶に新しい。大学は構内に警察・機動隊を招き、手に負えなくなった大学内勢力を強制的に排除することで統治能力を強力に回復しつつある。しかしこの回復は望ましいものだろうか。暴力的衝突において学生側が不利なのは目に見えている。学生は法人としての代表権限をもたないし、使用している部室も契約に基づくものではないからだ。占有権が有力な論拠として使えるとも思えない。このような状態で、学生は何をすればよいのか。
そこで、今回は大学側に対する学生側の交渉戦略について考えてみる。私のように実際に運動に携わっていないものは情報も少なく、適切な意見を言うことはできないかもしれないが、そのあたりは素人の意見としてご容赦願いたい。
まず、大学を国家と比較してみよう。大学は国家という枠組みの上に成り立っている自発的アソシエーションであり、緩やかな理念的結合と一定の安全保障に同意することによって成り立つ社交体(societas)である(2000.5.1記事参照)。大学は国家とは異なり暴力装置を独占しない。国家から逃れることは困難だが、大学から出るのはさほど難しくない。枠組みへの同意がメンバーシップの条件であるなら、同意しない者は退出すればよいからである。
しかしながら、そうやすやすと退出するわけには行かない。大学は学問的理念によってのみ成立しているアソシエーションではないからである。たとえば科学技術を企業へ輸出する機構として。学士取得者を社会に輩出する「象徴資本」の生産機構として。自由な時間と空間を消費するレクリエーションの場として。これらは明確に区別できるものではない。自由な時間を大いに消費した者が高い象徴資本を備えることがありうる(実際、多い)。科学技術の開発・移転件数と学士・博士の輩出数とは密接な関係にある。学生も、大学にこのような資本形成機能がなければ、見込んだ利益を得ることができないであろう(たとえば就職、権威ある専門知識、コネ)。他方、当局側もそうやすやすと学生を退出させるわけにはゆかない。大学の資本生産能力は大いに学生(また卒業生にも)に依存する。このように、大学のさまざまな機能を理解することによって、個人と大学の関係を合理的に捉えることが可能になる。
したがって、一方で大学側が「自由を制限しなければ大学の象徴資本生産機能を維持できない」と考えるのであれば、それは効率的であるかもしれないが、合理的ではない。大学は工場ではない。しかし他方、大学から学問的理念を剥奪し、安全保障を放棄することを「大学の自由」と呼ぶなら、それは「大学の解体」を意味する。アナーキーな牧歌的生活を大学全体に期待する者は誤っている。大学内部に原始共産社会が誕生する様子を描いたのは筒井康隆であった(『心狸学・社怪学』角川文庫)。このような場所は大学ではない。
肝心なことは、性急に「退出」してはならないということである。大学と交渉する者は、大学と学生の関係を合理的に捉えた上で少しでも多くの自由を獲得すべく活動するべきである。あからさまに規則に違反したり、当局の活動を妨害するのは得策ではない。逆説的に響くかもしれないが、大学の理念と安全を脅かすと解されないことが戦略的行動のための第一歩である。
すなわち、「少なくとも大学という機関は学生と学生の自発的な活動を必要とする機関であること」を学生が了解すること。そこから可能な自由を引き出すこと。アソシエーションを改良しようとするならば、アソシエーションの内側にとどまり続ける事が必要最低条件なのだ。「敵」と判定されたが最後、大学システムは自己同一性を維持するためにあらゆる手段を投入して「敵=外部」を排除・殲滅する。もはや当局は反対勢力をアソシエーションの一員としては考えない。自分の体に侵入した敵の橋頭堡を破壊するのに躍起になるのはある意味「自然な」反応である。このような反応を招くのは得策でない。それよりも「ワセダエクスポ」なるイベントに参加しないなど、市民的不服従のポーズをとってみてはどうだろうか。この時とばかりに、みんな授業に出席したりしてみるのも一興かと。
いかなる形であれ、メンバーとしての地位を保持すること、それ以外に生き残る道はない。大学当局を殲滅できると夢想する者が、大学にとって最も相手にしやすい「敵」なのである。
------------------------------------------------------------------------
2000.11.12
喫茶店の楽しみ方は人それぞれあるだろう。たとえば、友だちとお 茶を飲みながらおしゃべりをしたいとき、ひとりでゆっくり休むと き、本を読むとき、あるいは待ち合わせ、時間つぶし・・・
それぞれの目的に合った雰囲気やサービスを提供してくれる喫茶店 を探したり、知っておくことは、日々の生活をちょっと楽しくして くれる。
たとえば、友だちとのおしゃべりには、あまり静か過ぎないお店がよい。話し声や笑い声が隣の席にダイレクトに聞こえない方がよい(もちろん、節度は必要です)。デザートがおいしければなおよいでしょう。長居の理由になります。待ち合わせや時間つぶしならば、安くて気楽なところが都合よい。そして、ひとりで休むときは、何よりも珈琲(または紅茶)が美味しいところがよい。あまり騒がしいお客が多いところは敬遠したい。店内は明るすぎず、音楽は大きすぎず。
そして特に珈琲に言えることだが、喫茶店では珈琲の香りを楽しむ のはもちろんのこと、お店で珈琲豆を挽く香りが、実は何よりも楽 しみだ。焙煎された豆をミル(豆を細かくカットする機械)にかけ
たときに発生する強い独特の甘い香りは、自家焙煎の珈琲店でしか 味わうことのできない特権だと思う。
これを書きながらふと横を見ると、女の子がわたしとまったく同じ ことをしている。日付と店の名前をノートの上の方に記して、何や らものしている様子。彼女のあの日の文章も、このインターネット
に無限にあるサイトのどこかに存在するかもしれない。
阿佐ヶ谷駅南口 CAFE ACOGIDA(カフェ アコヒーダー)にて。
------------------------------------------------------------------------
2000.10.23
先日、とあるサイトで、ネット上での写真公開について議論になった。
そもそもインターネットは非常に匿名性の高いメディアである。ごまかせないのは接続先のホストコンピュータの場所ぐらいのもので、それ以外に対してはあらゆる操作が可能である。個人の名前はハンドルネーム(HN、ネット上で自分を表すための名前)によって表されるのが一般的であるし、その人の容姿、さらには住所、電話番号に至っては情報は皆無である。特定の個人に連絡をとるために利用できるのは、掲示板や電子メールのみである。
掲示板や電子メールは非同時メディアである。非同時メディアとはつまり、送信者が情報を発信するときに、受信者が同時に応答しなくともコミュニケーションが成立するメディアである。ちなみに(この反対語である)同時メディアのもっとも原初的な形態は対面コミュニーケーションであり、電話、テレビ会議、チャット、のろし(!)などがこれに含まれる。非同時メディアはほかに電報、手紙、留守番電話などがある。
さて、非同時メディアの特徴はいろいろあるが、ここではその「身体性からの乖離」に注目してみたい。
直接会って話したり電話したりする際に、われわれは相手の声、身振り、口調などが付随した情報を受け取る。これらは純粋な言葉の上での意味情報よりも多い意味情報をもたらす。たとえば、「今日は疲れた」ということばをこのように活字で表示しても「今日は疲れた」という意味以上のことは(前後に文脈がない限り)把握できないが、面前で相手がくたびれた声で「今日は疲れた〜(ふぁ〜)」と言えば、「あいつは今日、本当にくたびれてまったりしているようだ」と理解することができる。逆に、「今日は疲れた」とはきはきとした口調で相手が言ったならば、「こいつは本当に疲れているのか?早くうちに帰りたいからそう言ってみただけなんじゃないか?」などと勘ぐられることになる。すなわち、身体性は言葉に対してある種の文脈を提供するということができよう。これと同じ理由で、同じ言葉でも子供の発話と老人の発話は異なった意味を持つと受け手に解される。「女性と男性」、「あのことこの子」などでも同じことが言えるだろう。
したがって要約すれば、わたしたちは言葉そのものによってのみ意味を理解しているのではなく、身体性によってさまざまに附加された文脈情報の助けを借りて多様な発話の意味を理解しているということになる。これは大きな長所である。なぜなら、われわれはこの身体性によって、言葉の意味をそれほど明確にしなくても自分の意図するところを相手に伝えることができるからであり、また、より具体的な場面において適切な発話を行うことが容易になるからである。手紙は、この身体性をかなりの程度排除するメディアであるが、電子メールなどのコンピューターメディアは、相手の住所、さらには筆跡までも排除するという意味で、現在のところ最も身体性の低いメディアであるといえるだろう。
しかし、この「身体性」には短所もまた存在する。
身体性、あるいは社会性にまつわる附加情報によって、情報発信者の地位が左右されることがある。たとえば会社組織においてそれは顕著なのだが、社長や専務の発言はみなが注目し、その是非を熱心に議論する(あるいは盲目的に受け入れる)のに対して、一介の社員の言うことに皆が真剣に耳を傾けることは少ない。また、「美人」や「かっこいい」人の話は聞いても、そうでない人の話は聞かないといったことだってありうる。電話においては「いい声」がその条件となる(うぐいす嬢という言葉をわれわれは耳慣れている)。その理由は、身体などによって附加された情報が、受け手に先入見を生じさせるがために、語り手の言葉に対する解釈が違ってきてしまうことにある。
もちろんこの先入見は、われわれが「誰と話しているのか」を知る上で必要な情報でもある。友人と話しているのか、教師と話しているのか、父親と話しているのか、あるいは街角で話しているのか、法廷で話しているのか、これらが区別できなければ、それぞれに固有の関係や、特定の状況における適切な発言というものはまったく維持することができない。
しかしながら、インターネットにおける会話によって関係を持つ人々の間には身体的・社会的文脈はあまり必要ない。そこにおいてもっとも主要な会話の文脈を提供するのは性別や年齢といった身体的特徴ではなく、社会的地位のようなネットワーク外の社会的特徴でもない。そうではなくむしろ、ネットワークというそれぞれの「場」が提供する固有の話題なのである。それに加えて、その人が過去に行った発言の蓄積も、その人の発話に強力な文脈を提供することになる。すなわち、発言を行う人は、現在の発言が将来のその人の発言の受け取られ方に影響を与えるということを了解した上で発言を行わなければならないことになる。そうしなければ、彼が実際にはいかなる人物であろうとも、そのコミュニティから排除されることは必至である。なぜなら、身体性・社会性が極端に薄いこのようなコミュニケーションにおいて、その人のアイデンティティを証明するものはその人の発言以外にはないのだから、過去に信用を失う発言をしたものは、いかなる外的要因・手段によっても自分の信用を回復することはできないのである。信用を回復する唯一の手段は、その場において弁明を行うことである。
したがって、インターネットにおける発言は、一見すると無秩序でありながら、実は高度に倫理的な要素を伴っていることがわかる。もちろん、インターネットにおいてもその外部の身体的・社会的文脈(すなわち権力関係)を持ちこむことは常に可能であり、そのようなことを前提としたサイトも現に無数に存在する。
ここでわれわれはディレンマに立たされるようである。すなわち、文脈を追求すれば権力関係が顔を出し、かといって文脈を可能な限り殺ぎ落とせば、意味のある会話もままならないというディレンマである。これら相対立する要求をどのようなバランスで配合するかが、そのサイトの特色を決定していると言えなくもない。身体性や社会関係から自由な会話を楽しもうとするならば、そのサイトにおいては、そうした外部的要素をその「場」における話題と慎重に選り分けて、コミュニケーションを阻害するものを排除していく努力が必要になるだろう。ここにもコミュニティを維持するための強力な倫理性がはたらくのである。
このような倫理性を認識した上で、文脈が希薄なコミュニケーションを考えてみると、そこにはこれまでにないさまざまなコミュニケーション形態の可能性が存在するのだと言いたい。人間の生の充実に欠くことのできない「言葉の交換」を、それにまつわる苦痛をできるだけ減らした形で享受することは、完全な形では叶わぬながらもひとつの理想ではないだろうか。そのような場が現に存在するのならば、私はそこを守りたいと思う。
------------------------------------------------------------------------
2000.9.13
日本のお弁当には、梅干しがつきものである。ちょっと譲歩して、つきものであると言われる。
一人暮らしの学生は弁当を買いに行く機会が多い。わたしは大学近辺にいくつもある弁当屋を気分に応じて使い分けるのだが、どこの店に行ってもきまって気になるのは、「梅干しの貧弱さ」である。たいていが小梅である。しかもたいていがいわゆる「かりかり梅」である。これは正確には梅干しではなく、梅の実を酢漬けにしたものだ。このような梅干しはわたしの食欲をむしろ減退させる。いつから弁当の梅干しは、いわゆる「パフェの上のさくらんぼ」の役割を果たすようになったのか。
飲み屋に行く。最初はビールだが、だんだん強い酒を飲む。たまには焼酎も飲む。だんだん弱い酒を飲んだ方が合理的ではないかと思わなくもないが、それより問題なのは焼酎である。以前「焼酎のお湯割り」を頼んだ時のこと。そこにはなんと、豪華にも大きな「梅干し」が入っているではないか。しかも見たところ、かなりしっかりと漬けられた立派な梅である。食べても美味い。にもかかわらず、立派な梅干しは(比較的少数の例外を除いて)食されることなく、明日には生ゴミとなる運命を背負っている。
食べるのが当然であるところの弁当の梅が食用に耐え難く、食べる必然性のない焼酎の梅がかくも立派という逆説。この逆説に直面したわれわれの採るべき態度はいかなるものであるか。
------------------------------------------------------------------------
2000.7.14古来より、人間社会は「追放による解決」を当たり前のこととしてきた。すなわち、社会の内側にある諸々の不都合を外へと排出することによって、その秩序を保ってきたのである。
たとえば古代ギリシャにおける陶片追放はそのもっとも典型的な例として挙げることができるだろう。犯罪者、異端者、僭主、その他諸々の違背者は、追放、処刑、投獄によって共同体から排除され、それによって共同体はその安全と同質性を保ってきた。
シェイクスピアの作品における「荒野」は、そのような共同体の「外」としての役割を果たしている。都市と都市、村と村の間に広がる茫漠たる荒野は、人の住まわぬところであり、超自然的なものが支配しているところである。共同体の内側を正気と常識の世界だとすれば、そこは狂気の領域といえる。
ルソーの『社会契約論』における解決も明快である。彼の共和国においては、もはや一般意志に一致しない人々は、構成員の一人ではないとみなされる。社会契約は、共同体にとって危険である要素をあらかじめ排除しておくための方策でもあるのだ。
しかし現代においては、このような思考様式はもはや自明のものとすることができないように思われる。国民国家が高度に発展し、国境が隙間なく世界中にはりめぐらされている状況において、「荒野」が存在する余地はない。国土はすべて、人が占める場所となった。超自然的なものたちは国境線の狭間に消えたのである。
荒野の消滅は、もはや追放による解決が不可能であることをわれわれに教える。しかしながらわれわれは、外が存在しないにもかかわらず、依然として「内」と「外」のカテゴリーで考えてしまう。
このことは、オウム信者受け入れにおいてそれが顕著に表れているように思える。すなわち、共同体の「普通の」構成員にとって、彼らは異質者であり、社会学的に言えば「リスク集団」である。したがって、先に述べた伝統的な思考カテゴリーに従っている人々は次のように考えるかもしれない。すなわち、「彼ら」は「われわれ」のコミュニティから排除されるのが当然である、なぜならそうしなければ「われわれ」の安全と共同意識は損なわれてしまうからだ、と。
しかし異質なものはもはや「外」に排除できない。「リスク」は常に、共同体の「内」にある。アパートの隣人がひょっとしたらとんでもない「リスク」を潜在させている人かもしれない。現代の(特に都市)生活は、異質者=余所者をコミュニティの内部に(潜在的にであれ)含み「つつ」も、成り立っているようである。
今日、われわれは具体的な危険が常に潜在している社会状態に「耐え」なければならないのだろう。
------------------------------------------------------------------------
2000.6.30
早稲田界隈には奇妙な店が多い。
たとえば三号館を出てすぐのところに「ジャポカレー」というのがある。筆者はまだ入ったことはないが、そこは「本屋」の奥に「カレー屋」があるという、未だかつて見たことがない構造になっている。ネーミングも独特。しかもメニューも奇妙らしい。(報告求む)
そこから少し歩いたコピー屋にいる店主は、二次大戦中の秘密資料が早稲田の奥深くにあるの無いのと、延々と話しかけてくる。筆者はそれ以来そこにはコピーをとりに行っていない。
踵を返して正門から東に歩いていくと、「コーヒーと地酒の店」という看板に意表を突かれる。いったい何の店なんだ。しかも昼のメインメニューは「わっぱめし」。丸い蒸籠(せいろ)のような器に味ご飯が入っているあれだ。たぶん、東北出身の人が経営している店なのだろう。店内のつくりは昭和40年代の喫茶店の趣で、ここだけ時間が止まっているような感じ。
こういう店がさしたる違和感もなく、平然と営業しているのが、この界隈である。
言わずと知れた「チョコとん」の店も、他の場所ではおそらくキワモノであるにもかかわらず、この界隈では何の違和感もなく、収まってしまっているのである。学生も何事もなかったかのように店に入っている。
もちろん良い店もある。特製ケーキが有名な「Cafe Goto」や、月に数度チェンバロ生演奏が聴ける「茜屋珈琲店」はお気に入りだ。しかしその「茜屋」にしても、マスターの話好きと頑固さでは他の追随を許さないものがある(何度か行けばわかると思う)。
やはりこのあたりでは、どこかそういったアクの強さがなくては生き残っていけないようだ。おそるべし早稲田界隈。
------------------------------------------------------------------------
2000.05.10禁煙は好きではない。いろいろと理由はあるが、つまるところ煙草が好きだからだ。そこで、禁煙をする代わりに、「煙草を非日常化する」というのはどうかと思いついた。
煙草が日常化すると,それはもはや「嗜好品」ではなくなる。つまり、そこでは煙草は、生活の単純さの中にあって経験を切断し「リフレッシュ」させるという効果を失い、日常習慣の一部となってしまう。こうして煙草は終わりも感動もない消費のサイクルの中に取り込まれてゆく。
資本主義社会が、非日常の経験を限りなく日常化することによって加速していく社会構造をもっているとすれば、煙草、珈琲、酒、セックス、麻薬に至るまで、あらゆる享楽を日常化し消費し尽くすことが、この社会構造の加速と強化に大いに役立つことは疑いがない。
消費し尽くすこと。それはそれでこの社会構造への埋没から脱するひとつの(逆説的な)方法だとは思うが、いかんせん欲望の種は尽きることがない。あらゆるものを消費し尽くそうと思えば、たちまちにしてその巨大な渦に飲み込まれてしまうか、消費が個人の生産能力を追い越して、散財の憂き目に遭うだろう。
だとすれば、今まで日常化していた諸々の欲望を非日常化することは、なかなか良い戦略であるように思える。
煙草の吸い殻があちこちに投げ捨ててある。なぜか。煙草が日常生活の中にあまりに深く浸透しており、その消費のプロセスが適切なルールの枠組みの中で処理しきれないほどになっているのだ。煙草が生活の大きな部分を支配しているそのような人にとって、街角には常に灰皿の数が足りない。逆に、煙草が生活の中で非日常的な位置を占めているとすれば、嫌煙者でなくとも、街角にはどうしてこうもたくさん灰皿があるのだろう、と思うに違いない。
東京の街には驚くほど多くの灰皿が設置してある。それでもなお煙草が捨てられるということは、いかに頻繁に煙草を吸っていないと落ち着くことができないか、ということである。地方に行くと、灰皿の絶対数の少なさに気付かされる。交差点に灰皿が設置してあるわけでもない。コンビニエンスストアの入口にはあることが多いが、コンビニ自体が少ない。ある意味、灰皿の多さが喫煙頻度を決定しているとも言えるだろう。
煙の流れる空間は、ある意味、絵になる。ある種の文学や哲学には、紫煙が欠かせないとも言われる。こうした空間、雰囲気を満喫し、かつ維持するためには、日常生活においては逆に煙草は厳格な規制の下に置かれるのが良いのかもしれない、とも思う。煙草にせよ何にせよ、習慣を意識的に非日常化することは、それはそれは、驚きと喜びに満ちた生活をもたらすに違いない。食事も、入浴も、会話もまた然り。
------------------------------------------------------------------------
2000.5.1
政治哲学者マイケル・オークショットの言葉に「社交体」(societas)というのがある。
社交体というのは、複数の人間が特定の目的のために集合したものではなく、むしろ、相異なる目的をもったひとびとが、市民としてお互いを尊重するために、一定の「作法」あるいは「マナー」にのっとって成り立っている共同体のことである。そこには必ずしも信念や価値意識の共有はなく、構成員の間にはある意味「浅い」関係が成り立っている。
その対立概念が「統一体」であり、これは営利企業や宗教団体など、ある目的を一つにする人々が寄り集まってできた共同体のことである。ここではそれぞれの共同体固有の価値意識に基づいて、共同体を規律する約束事が定められる。このような共同体の構成員は、社交体のそれに比べ「深い」絆で結ばれることが多い。
さて、今日考えたいのは「大学は社交体たるべきか、統一体たるべきか」ということである。
大学は、ある一定の目的を持った人々が集まっているのだろうか?ある意味ではそうである。大学に集まる人々は大学教育を必要としている。中世ヨーロッパの大学は、学生が教師を組織的に雇って勉学を授けてもらうという目的をもった一種のギルド組織であったという。その意味で、大学は目的「統一体」の側面を持つ。
しかし、大学がある意味で目的統一体であるということは、(少なくとも現代の、特に日本の)大学が単一の価値意識に基づいて編成されているということを、必ずしも意味しないことは明らかであろう。統一体においては、ある基礎的な価値体系、生活様式が構成員に共有されており、人々の声(言説の種類)は多かれ少なかれ、単一のものとなる。エホバの証人の共同体の中に無神論者は(おそらく)いないだろうし、人権団体の中に拷問愛好者はいないだろう。そのような考えを持てば、その人は即座にその共同体から追放されることになろう。しかし大学は、あえて言えばそのような(時に相容れない)価値体系が複数語られており、また世界にはそのような価値体系が複数存在すること「について」語っている場である。
大学には理念があるではないか、という人がいるかもしれない。たしかに建学の理念はある。しかし、大学の理念とは、ある意味憲法の理念のようなものであって、個々人の信念や生活様式、人生の目的を「直接」規定するものではないし、そうあってはならない。われわれは偶然、同じ「場」に居合わせた者であって、この「場」そのものに自分の人生の目的を見出しているわけでもなければ、「場」に奉仕するために日々生活しているわけでもない。むしろ「場」は、社交のための手段として供されているのである。
それゆえ結論はこうである。大学当局(あまり使いたくないが、他に言葉が浮かばない)は社交体の運営者として、構成員の複数の(時に相容れない)声の共鳴を、つまり会話を、維持するための努力を払うべきであって、大学の理念を振りかざして構成員の思考を一元化するいかなる試みも、慎まなければならない。そこでは法の支配が理念の支配に優位する。立て看板やビラの規制は許容されるが、大学の美観は決して会話の継続に優位する価値ではないことは、念頭におくべきである。
他方、学生運動団体の構成員は、一方的な喧伝による公共空間の破壊を慎むべきである。拡声器は会話を生まず、むしろ他の声を沈黙させる効果があることを心していただきたい。連帯は価値体系の共有ではなく、固有の信念を持った個々人を尊重し、それに対して寛容であるところから生まれると考える。
大学は、一定の「浅い」ルールを構成員に受容させつつ、複数の「深い」、親密な結びつきを育む「場」であってほしい。
------------------------------------------------------------------------
2000.3.12
東大の佐々木毅教授は,東京新聞(中日新聞とも言う)に,時事評論を時々書いている.今日のテーマは「司法制度改革の核心」.
論旨は,司法制度改革は内閣‐官僚という二つの政治主体に裁判所を第三のアクターとして位置づけ,「法の支配」の確立を試みることであり,その政治的な意義は,公正さの確保という観点からの社会の「法化」と,司法サービスの受け手の利益を守るための人的基盤(要するに弁護士など)の充実,という点でである,というものであった.
論旨の是非はともかく,このような論評活動を行う氏の意図は何かをぼんやりと考える.氏はもともと政治思想史の分野で業績を上げた人である.たとえば評価の高い『マキアヴェッリの政治思想』など.もちろん長年の研究活動から,日本の政治状況についても相当の知識を蓄積されているとは思うのだが,日本の政治制度を専門にしている学者からすれば,氏は明らかに「アマチュア」の部類に入るだろう.
しかし,氏の活動には「オピニオン・リーダー」という位置づけが可能なのではないか,と思う.
伝統的な西洋政治思想で言われるような,特殊政治的なるものや公共性の復興が絶望的と見られている現在の(とりわけ日本の)状況において,こうした,一見すると地味な話題に対して政治思想の論客が意見するということは,学者の能力を発揮できる数少ない隘路のひとつなのではないか,と思う.政治思想家が例外なく「形而上学」に傾倒しているわけではない.もちろん,政治社会について深く考察する以上,思惟の世界を避けて通ることなどできない相談ではあるが,じっさい,多くの思想家たちは現実の社会について公然と意見してきたし,さらには実際に政治家・官僚の職にあった思想家も少なくない.
「オピニオン」というのは,世間に流布する「意見」,ドクサ(doxa)であり,政治というものは,哲学的「真理」よりもむしろ,そのような「意見」から出発し,意見に関わっていくものであるというのが,現代で言えばハンナ・アーレントをはじめとする政治思想家の見解である.マス・コミュニケーションによる情報の洪水の中にあっても,それがなお「オピニオン」と呼ばれうるものである限り,政治(学)に携わる者はやはりそれに対して積極的に関わる責務がある,というのは,アーレントの考えとは異なるかもしれないが,正論であろう.個々の制度についての専門的な知識ももちろん重要である.しかし,通俗的な言い方ではあるが,個々の制度間の均衡や調整にあたって発揮されるべき知識は,更なる専門的知識というよりは,むしろバーリンが言うように,政治的な「現実感覚」をそなえた判断と配慮にあるのではないだろうか.専門的知識はオピニオンの判断基準となることもあるが,それ自体にはオピニオンを形成する力は乏しい.いったい,事件が起こるたびに登場する犯罪心理学者や教育学者の学説を鵜呑みにして,われわれが取るべき進路が明確になったことがあっただろうか?「○○学の見地からの説明」以上のことを,われわれは必要としているのではないだろうか.
地味ながらも,氏の活動はそれなりの重要性をもっており,政治思想が果たすべきひとつの役割を示しているように思えるのだが,それに対するこのわたくしの読みの是非は如何に.
たまにはちょっと真面目なテーマを書いた.つもり.
------------------------------------------------------------------------
2000.3.6
大学の図書館で人権関係の本を探すが,見つからない.あるべき場所に本が見当たらない.検索では確かに「利用可能」になっているにもかかわらずだ.
そこで書庫カウンターに問い合わせると,どうやらその本は一年ほど前から行方不明になっているということが分かった.だったら図書の状態を「不明」にしておいてくれ!早稲田のシステムでは(大概どこの図書館でもそうだと思うが),他図書館への紹介状を発行してもらうためには,早稲田の図書館にその本が存在しないことを示す必要がある.ところがレファレンスの図書館員は情報端末の状態で判断するので,紹介状を書いてくれない.うまく紹介状を取りつけるために,地階の書庫カウンターと二階のレファレンスカウンターを何度も往復する羽目になった.
広い図書館は蔵書が豊富である一方,それぞれの係がシステム分化している.それゆえに,このような面倒なケースも起こりうる,ということだろうか.
------------------------------------------------------------------------
2000.2.27
我が家には現在テレビがない.正確には,受像機はあるのだが外してある.
試験の一ヶ月ほど前に外したまま,今日まで放置.一瞬,テレビがないとちょっと寂しいかなとも思うが,よくよく考えれば,今ある受像機も,11月に友人がくれなければここに存在しなかったものなのだ.そういう意味ではほぼ「脱テレビ化」した人間になった.けれど正月は,箱根駅伝を往路も復路も観ていた,,,人のテレビ欲はアルコール依存症のように恐ろしい力をもっているようです.「もう治った」と思った時がいちばんあぶないらしい.
そして,何といっても読書や勉強の前&後のテレビは良くない.目が疲れて,頭も「ぼー」としてくるからだ.それに,私のような主に読み書きを業とする者にとって,テレビによって視界が塞がれている間は「全然何も」していないことになる.やっぱラジオかレコードでしょ.
しかし,日曜の夜だけ,『世界遺産』を観るためにテレビを繋ぐのも,やや面倒.要検討課題.
------------------------------------------------------------------------
2000.2.24
時計の電池を替えに新宿に行く.
試験は明日だが今更何をやっても大して結果は変わるまい.時計をわざわざ直しに行くのは,明日の試験で使う時計がないから.どでかい目覚ましもどうかと思うので.結局ヨドバシカメラで交換してもらう.
ついでに紀伊国屋に行く.バーリンは最近新刊が多い.発売予告のあったFirst and Last が並んでいた.まだ読んでいないが,おそらくNew York
Review of Books などに記載された追悼記事集であろうと思う.さらに,去年私が大枚はたいたイグナティエフによるバーリンの伝記が,ペーパーバックで売られていた.まあまあ売れていることを示しているようで少し嬉しかったが,しかし半額以下になった本を見て,,,しばし沈黙.
ついでにA.J.エイヤーの評伝も出版されていた.同じ出版社.これも暇があれば目を通したい.彼らは半生を共にオックスフォードで過ごした親友なのだ.
------------------------------------------------------------------------
2000.2.20
雨の日曜日.寒い.一人暮らしの部屋はとりわけ寒い.
家に居ても大抵は「取るもの手につかず」の状態になるので,こういう日は極力,喫茶店などで本を読むことにしている.今日は,バーリンの原典に辞書と,駅前のミスタードーナッツには似合わない重装備.店内はうるさくても一向に平気.誰も居ない静かな場所よりも,誰も知らないうるさい場所の方が,何故か読書がはかどるのだ.しかし,
ドーナツを三つ取ってレジに行くと,すかさず「お持ち帰りですか??」と聞かれ,
「いえ,それとアメリカン珈琲ください,,,」.
世の中にはドーナツ屋でドーナツを三個食う青年は,あまりいないのだろうか.
帰りにスーパーで買物.卵のパックを手に取ると,賞味期限が「3月2日」.もうすぐ三月だ.冬が終われば,東京に来て一年が経つ.が,同時にこの事実は,試験まであと四日しかないということを思い出させた.八宝菜作って食ってる場合じゃない.ついでに言えば,こんなもの書いてる場合じゃない.
------------------------------------------------------------------------
2000.2.17
大学入試が始まったせいで,5時で図書館を追い出される.こんな時期に!
早々に家に帰るのも癪なので,久々に大学近くの「茜屋」に行く.個人的な好みはあるだろうが,ここの珈琲は絶品だ.ただ,常連でない者には少々敷居の高い(どうってことはないが,なんとなく)店だ.ここでまたドイツ語をやる.三時間近く居座る.珈琲一杯500円だから,それぐらい居ても罰はあたらないはず.ただ,連日入り浸るには,ちょっとした財力が必要.うぅ.
------------------------------------------------------------------------
2000.2.16
久しぶりにチャカのCDを買う.長年PSY・S(サイズ)の曲に親しんできただけに,その後のチャカの活動もおのずと気になってくる.そんなわけで,レコード店で偶然見かけた去年発売のシングルを購入.ところが,,,
これまでハズレと思ったことはあまりなかったにもかかわらず,今回のシングルは明らかに「ハズレ」であった(これはあくまで個人的な判断であることを,念のため,お断りしたい).うーむ.チャカ自身は今回のシングルで作曲にも挑戦しているが(これまでは一部の作詞のみを行ってきた),個人的に言えば,チャカはシンガソングライターというよりも「歌姫」だと思う.よい楽曲の提供を受けてこそ,彼女の本領は発揮されるのだ.本格的なユニット結成を期待したい.
------------------------------------------------------------------------
2000.2.15
今日からここに,適当に思いついたことを書くことにする.
オーストリアで極右政党を含む連立政権が発足したことに対して,各方面から非難が挙がっている.今日の東京新聞夕刊には,これに対してスティング(ミュージシャン)がウィーン公演のボイコットを表明した旨が伝えられた.
彼は昔から,政治色の強い楽曲を数多く発表している.人権問題にも関心が高く,昨年大学で催されたアムネスティー・インターナショナルの講演を傍聴した際にも,彼がチリ軍事政権時代の虐殺の事実(いわゆるピノチェトで再び有名となった)を世に伝えるために楽曲を提供したと,司会者が述べていたことを記憶している.
Dancing with their fathers,
Dancing with their sons,
Dancing with their husband,
...They dance alone.
(Sting,‘They Dance Alone (Cueca Solo)’)
今日,最も端的な形で政治的なものが顕わとなるのは,こうした人々の活動においてなのかもしれない.そして,彼らの活動がいかなる政治的影響を及ぼすのか.オーストリアの今後の政治情勢に注目したい.