土曜の午前6時、地下鉄のホームに立つと感じることがある。すなわち、このひんやりとした地下構造物が果たしている役割とは、ただ、トンネルの中を走り抜けていく空気の流れを、その道半ばで引き留めておくだけのものに思えてならないということだ。
日々、私を苦しめるラッシュも、複合的な要因によって引き起こされるダイアグラムの混乱も、こんな、人間の存在が希薄な空間にあっては信じがたい。なぜか、孤独感を認識させる空間にあっては…。
だが、そんな私のナルシズムと関係なく、必ず電車はやってくる。そして、私はそれに乗り込み地上へと運ばれる。これが、この数ヶ月間、毎週繰り返してきた私の生活サイクルなのだ。
線路を走る電車が、独特のリズムを刻まなくなってどれだけの月日が流れたのだろうか。そんなことは私にとってどうでもよかった。ただ、乗り心地とスピードが増したという二点は、今の私にとってなによりもありがたかった。
二時間近く自転車をこぎ続けた足を、わずか三時間半の仮眠によって、肉体以上に疲労しきった脳の神経組織を、早く我が家の煎餅布団に横たえたい。それだけが、配達を終えた朝唯一の望みだった。
だが、そんな私の日常に、懐かしさを装いつつ、「非日常」という野郎が割り込んできた。そいつは僕を無理矢理に記憶の海へと引きずり出し、結果、私は五年前に放棄されたある小島を発見してしまう。そのことを述べたいと思ったが、もうすぐ終着駅のようだ。
車掌がアナウンスを入れた。今日も定刻通りに七時三十分到着らしい。雨に濡れた窓の外には、切り開かれた森の残骸と、その上で愚かしくも尊大に威張り散らしている高層住宅が見えた。
後二つトンネルを抜けたら、たくさんの人々が立ちつくしているホームに私はおり立つ。バスに乗って、部屋に入って寝よう。夢なんて見ていられないくらい深い睡眠を楽しもう。
駅の西口から地下街へ潜る階段の脇で、私はある男に出会った。一見したところただのホームレス、新聞紙の上でだらしなく足を崩し、なにをするでもなく、ただ座っている。
せわしなく入れ替わる人の動きの中で、男は少女を見ていた。少女がその男の視線に気づいてから、四台目の上り列車がホームを出ようとしている。
その少女はいかにもといった女子高校生であった。間違えなく、その男のように、見て見ぬ振りをされるような存在ではなかった。「個性だわ。」そうつぶやいた。
彼女は流行紙を欠かさず読み、友人の和からはずれぬよう気を配った。また先立つものを得るために、父親ほどの年の肥満のとこの上にまたがったりもした。
訳もなく駅で靴下を履き替え、よく知りもしない女と一緒のシールを手帳に貼り、なぜかわからないが肌を黒く焼いた。
確かに「自分達」は独自の文化を築いたはずだった。そして確かに文化を先駆けるパイオニアであるはずだった。「なに、あの乞食。最悪。」そう言って、周りの分身たちとささやきあい、或いは、男の視線など気づきもせず、通り過ぎるはずであった…頬がひきつるほどの笑顔を振りまきながら。そうしなければならない立場の人間だった。
学校帰りに町に出るため、彼女はいつものように改札口の前で分身達を待っていた。いつもは三秒とかからずつながる携帯電話が留守番電話になっているのが気がかりだったが、ここで待っていれば必ず落ち合えるはず、それを疑うことはなかった。
七台目の列車は通過列車だった。「怒っているのかな、やっぱり。」 ふと、声に出さずにつぶやいた。リセットしようもない過去の上を、雑踏がもみ消していく。
十七台目の列車がホームに滑り込んできた。「まもなく電車が参ります…。」
無機質で冷ややかな視線をいくつか浴びるうちに、少女はさっきからずっと「あの男」を見つめている自分に気づいた。みんなが一様に同じ仮面をかぶっている中、奇妙に背骨の曲がった、その男だけが自分の顔を持っているように思えた。少女は、その曇った瞳に自分にはない、生気を感じた。少女は乞食に羨望を感じ、それを恥じようともしなかった。すべてに理由はなかった。
少女は男の前に立ち、男の瞳に映る、曇った自分を眺めていた。「ねえ。」
「…」
「これから、あたし…」
「…」
男は彼女を見ていたが、じっと見るだけで応じようとはしなかった。いつしか気の早い、街のネオンが視界の端を装飾するようになっていた。
話しかけるうちに、光は急速に失われ、恒常的な判断力が頭をもたげてきた。少女は、自分が乞食と「話をしようとしている」姿がどんなにか周りの人間に奇特な印象を与えているか想像し始めていた。すべては想像の産物だ、列車のレール音が引き起こす作用だ…。
『どうかしてたんだ。』
血液の中に入り込んだ空気を必死に外に出そうとしているような感触。『全部私のひとりよがり。』少女は自分にそう言い聞かせていた。
「なーにやってんだろ、あたし」 照れ隠しに言ったが、半分は自然に口に出た言葉だった。
「まもなく電車が参ります。」列車は変わらず定刻通り到着した。