第一章:迷子の迷子のストーカー
彼はストーカーではなかった。
少女は病院からなんの変哲もなくあらわれ、ひと目見て彼の心臓は激しい渇望に襲われ、気がつくと一定の距離をあけたまま少女の後をつけていた。ただそれだけだった。
彼は彼は自分でもわけのわからない衝動に突き動かされながら、決して距離を縮めることなく観察を続けた。
年は16,7であろうか。冬だというのに入院患者のような薄い水色の服を着て、サンダルを履いている。そして、左手にハンドバッグ、なぜか右手はコーヒーポットを握っている。彼はとっさに狂女を想像した。
ほの白い華奢な後ろ姿はどこか夢幻の世界で道に迷った幽霊を連想させた。幽玄の美しさだった。思わず触りたくなるほど研ぎ澄まされた刃。そんな危険な匂いが、少女のあどけなさや陰影の深い面影と同居している。じっくりと見て思わず息を飲む。今までに見たことのない、そのただならぬ魅力に彼はひと目でひきこまれたのだ。
彼は少女に気づかれぬよう細心の注意を払いながら尾行した。すぐにストーカーという言葉が浮かんだが一笑に吹き飛ばした。なにをしようというわけでもない。純粋な好奇心だ。今まで見たことのないあの不思議な感じが少しばかり気になるだけなのだ。
かといって、やましさがないわけではなかった。少女に気づかれたら嫌な顔をされるだろう。ひょっとしたら恐怖を与えてしまうかもしれない。そう思えばこそ、尾行はより慎重になるのだった。
周囲の景色は忙しく変わっていったが、それは彼の視界の外での出来事だった。彼は気づくと水族館の中にいて、薄暗く、人が多く、さらに魚が多く、天井まである水槽から差し込むアンニュイ光に溺れ、ともすれば雑踏の底に沈んでしまいそうな空気の中、少女だけを見つめていた。
この薄暗さは、気づかれずに尾行するためには願ってもない状況だったが、逆にそれが災いして少女を見失う危険もある。彼は魚の観覧に夢中になっている子供達に何度かぶつかった。慌てるのは決まって彼のほうだった。子供は平気な顔で魚を追いかけているが、彼は気を取られた一瞬の隙に少女がいなくなってしまうのではないかと気が気ではなかった。
春海水族館。ふと水族館の名前を目にして、彼は愕然とした。まったく聞いたことのない名前である。ここはどこの水族館なのか。どんな道を通ってここに辿りついたのか。それもまったくわからないのだ。少女を見失ったら迷子になる。彼は身震いをした。どっと汗が吹き出す。手足がふるえて目眩がした。少し咳き込んだ。さらに咳き込んだ。彼は嘔吐した。激しい悪寒が彼を襲った。鼻血が流れ出した。失禁した。彼は泣いていた。
迷子は嫌だ。
彼は絶対に少女を見失うわけにはいかなかった。
彼は野球帽を目深にかぶってサングラスとマスクをしていた。さらにその上に地味なジャンパーをまるごとかぶっている。マスクとサングラスはジャンパーのポケットに入っていたもので少女の尾行をはじめた時慌てて装着したものである。くしゃくしゃだったりフレームが曲がっていたりしたが、応急の処置にしては彼はこの変装に自信があった。一見、刑事に連行される犯罪者だが、外見から彼を判別できる人間はいない。
「あなた、ちょっと警備室まできてくれますか。」
ジャンパーの隙間から青い警備服を着た男が見えて、彼の心臓はきっかり3秒停止した。次の瞬間彼は脱兎のごとく逃げ出した。まるでゴミ箱をかぶってしまって必死にもがく猫のようだったが、それでも彼の足は図抜けて速かった。無我夢中で走ってなんとか逃げきると力尽きてその場にうずくまった。
しかし、完全に少女を見失ってしまった。必死だったので周りを見る余裕はなかった。むしろ、見えなかった。迷子になってしまったのだ。彼は嗚咽をこらえることができなかった。またしても泣き出した。
彼は泣きながら警備室を探し始めた。
続く
次回予告!
迷子になってしまった彼に訪れた僥倖・・・・!
次回「カツオのたたきは突然に」
そこに愛はあるか・・・。
また来週(ToT)/~~~
第二章:カツオのたたきは突然に
「ねぇねぇおじさん」
不意に声をかけられ彼は直立してしまった。いまや彼の変装は野球帽とサングラスとマスクだけになってしまった。
首をかしげるようにして彼をのぞきこんだのは、あの少女だった。水族館の真ん中で声をあげて泣いている成人男性を心配して声をかけてくれたのだ。気づくと彼は喜びのあまりジャンパーで羽ばたいていた。思った通り、彼女は優しい心の持ち主だった。彼が緊張して凝視すると、彼女は言葉をつむいだ。
「おじさんって魚でしょ?」
少女は確信を持って言った。彼は愕然とした。
「は?あ・・?え?なんと?」
「だから、おじさんって魚でしょう。私にはわかるの。ドキドキしちゃう。こんな大きな魚初めて見たよ。」
少女は嬉しくてたまらないといった様子で彼に微笑みかけた。手に握られたハンドバッグとコーヒーポットが胸の辺りでわくわくと揺れている。彼は悩殺された。秒殺だった。少女が妖精のように見えてしかたなかった。少女の瞳は大きな期待でキラキラと輝いていた。
「か・・・完璧な変装をしてたのになんでばれたんだ!すごい。奇跡だ。君は透視でもきるのかい?」
彼は半ば自棄糞だった。すると、彼女はうれしそうに微笑んで、彼の白いマスクを指差していった。
「えらが出てる。」
彼は愕然とした。少女の目は純粋で滞るところはなく、本気だった。
「なんてこった。」彼は絶句した。「いや、ああ、ほんとだ。うっかりえらが出てた。」
それがせいいっぱいだった。少女はうれしそうに指をのばして、彼のマスクをツンツンと突ついた。コーヒーのいい匂いがした。
「おじさん10年物くらいでしょ。よくがんばったね。ここまで大きくなるには大変だったろうなぁ。」
少女はなおも楽しげだったが、彼は恐怖を感じた。
「私の名前は花沢さん。花沢さんでいいわ。おじさんの名前は?」
彼は少し照れた。女の子との出会いなど今までの人生で皆無だったからだ。
「磯野勝男。磯野でいいよ」
すぐに花沢さんと名乗った少女の顔に嬉しい驚きが広がっていくのがわかった。
「私カツオのたたき大好きよ!ほんと?おじさんカツオなの?」
「ああ、ほんとだよ。たたきって・・・。」
「ねぇ、たたいていい?たたいていい?少しだけだから」
彼女はジェスチャーをくわえながらいった。
「え?あ・・・?ああ・・・。え?たたくの?」
「うん。とってもおいしいのよ。ちょんちょんってにんにくをいれたコーヒーにつけて食べるの」
「変わってるんだね」
彼は笑顔でいった。不思議な優しさが心に溢れていた。全然おかしいことはない。彼女は水族館にまでコーヒーポットを携帯するほどのコーヒー好きなのだ。そしてちょっぴり世間知らず。
心の奥で反論し警鐘を鳴らすなにかを、彼は無理矢理納得させた。
「ねぇ、たたいていいでしょ?」
「ああ。あまり痛くしないでくれよ」
彼がそういうと、彼女は天使のように微笑みかけた。そして、手に持っていたコーヒーポットをものすごい勢いで振りかざした。彼は一気に血の気がひいた。
「ちょっと待て!」
「どうしたの?」
「それで叩くのか?」
少女は答える変わりににこりと微笑んだ。彼が沈黙したまま動かないのをみると、少女はもう一度コーヒーポットをふりかざした。
「待て待て!」
彼の慌てた制止に少女はきょとんとした表情を見せた。
「君はなにか勘違いしている」
彼は背は冷や汗でぐっしょりと濡れていた。
「私の名前は花沢さんよ」
「花沢さんはなにか勘違いしている」
少女は首をかしげた。
「カツオのたたきっていっても、たたけばいいってもんじゃない。俺がたたき方を教えてやるよ。いいかい?」
「わかった!」
少女はうれしそうにいった。
「まず第1に絶対にコーヒーポットじゃたたかない。普通は手とか包丁の背で――」
彼の言葉を聞いて、不意に少女の手がハンドバッグにいれられた。彼は戦慄した。
「ほ、包丁は使わなかった。武器で殴っちゃだめだ。手だ。刃物も鈍器も駄目だ。いいかい絶対に、手でたたくんだ。普通は武器は絶対に使わない。いいな?」
少女はうなづいた。
「第2に優しくたたくんだ。痛いくらいたたいたら、魚が痛むからな。わかるかい?」
少女はうなづいた。
「第3に――」
彼はあらゆる危険を想定した。優しく、手で、たたく。これさえ守られれば、とりあえず命の危険はない。
「だいたいそんなとこかな。いいかい?優しく手でたたくこと。これが守れるならたたいてもいいよ」
「わかったわ。守れるわ。たたくわ。」
少女はにっこり微笑んでから、手にしていたハンドバッグとコーヒーポットを置いた。彼に向き直った少女の拳は硬く握られていた。
「パーだ!グーじゃ駄目だ。パーでたたくんだ!平手でたたくんだ。グーだとたたきじゃなくて殴るになっちゃうからね。手は開いて優しくたたくんだ。いいね?」
少女の手がゆっくりと開かれた。彼は白くてすらりとのびた細い指に見惚れた。
「じゃあ、叩くわ」
「ああ」
「あ、ちょっと待って」
彼女はしばらくハンドバッグ中ををごそごそとやって、紫のライターを取り出した。
「先にあぶらなきゃ」
「待て!あぶるなっ。落ちつけ。深呼吸だ。そうだいいぞ。もう一回。よしOK。大丈夫。頭を冷やせ。あぶらなくても大丈夫だ」
「でも、火をとおさないとカツオのたたきにはならないわ」
「そ、そんなことは知ってるんだ・・・」
思いのほか少女がまともなことを言ったので、彼はいっそう焦った。
「いや、それは確かにそうだ。花沢さんのいうとおりだ。だけど、それはそこらに売っているカツオの場合だろ?おじさんはとびきり新鮮なんだ。わかるだろ?な?だからおじさんは大丈夫なんだ。わかってくれたね?」
彼はなにを言っているのかわからなかった。しかし、少女は納得してライターをしまうと、平手をかまえた。
「じゃあ、叩くわ」
少女は少し緊張した面持ちで、手を伸ばし優しく彼をたたいた。ピチピチと優しく頬を叩かれているのにもかかわらず、脳みそが激しく揺さぶられるようだった。少女の手が頬をたたくたびに、温度や匂いが彼に伝わった。彼は恍惚となり、半ば夢心地だった。
(たたきにされるのがこんなにいいとは・・・)
ようやく満足したのか、たたきが終わった。彼は晴れてカツオのたたきになったのだ。彼がゆっくり目を開くと、少女が照れくさそうにいった。
「おいしい?」
彼は絶句した。困惑が顔に出る前に、大急ぎでうなづいた。
「良かった」
少女は笑った。彼も少しぎこちなく笑った。そこは間違いなく2人だけの空間だった。なにものにも邪魔をすることは許されない完全な空間だ。時間すらのけものだった。少女がバッグを探っている間も、彼は放心していた。
叩かれる快感。彼は禁断の喜びに目覚めてしまったのかもしれなかった。しかし後悔はない。彼も満足しているし、少女も満足しているという確信があったからだ。
「これ食べな?」
少女がハンドバッグから山のようにサラミをとりだして、優しい声で彼にすすめた。またもや予想外の行動だったので、彼は困惑したが、それも一瞬のことですぐに手を伸ばし笑顔でサラミをむさぼりはじめた。こうして彼の驚きの感覚は徐々に麻痺していくのだ。彼女はコーヒーポットも彼に差し出した。
彼は脂っこいサラミを口一杯に頬張り、丁度喉がかわいていたのでコーヒーポットに口をつけてラッパ飲みした。彼は一口飲んで全部吐き出した。
コーヒーポットの中身は醤油だった。
彼の脳裏に、ひょっとして嫌がらせをされてるのか、という疑念が浮かんだ。よくよく考えたら全ておかしいことだらけだった。最初はたたきといってコーヒーポットで殴られそうになった。もし静止が間に合わなかったら血まみれだ。
確認したわけではないが、彼の言葉に反応してバッグに手を入れたとこから見ておそらく少女は包丁を携帯している。16、17ほどの少女がライターや醤油を携帯しているのもおかしいし、そもそも、ハンドバッグに山のようにサラミを携帯しているなんていかれている。
最初に戻れば、そもそも彼はカツオのたたきではない。磯野勝男である。えらじゃなくてマスクだ。10年ものじゃない。20歳だ。少女が少し変わっているのかと思ったが、一度頭をもたげた疑念は容易に払拭されなかった。彼をからかおうとしているならばその異常性も充分論理的に説明がつくのだ。
だが、少女の行動は彼の想像力でとらえられるほど凡庸ではなかった。少女は彼の疑惑を一瞬で打ち払ったのだ。少女は突然彼を真摯なまなざしで見つめ呟いた。
金属のハンマーで頭蓋骨を叩かれたような衝撃だった。彼は少女の瞳に吸いこまれて、ひとつの細胞になった。
少女はそれだけ言うと顔を伏せ、身を翻し走り出した。それは始まりにすぎなかった。
「おい!」
少女は振り向かない。彼の言葉は宙に放り出された。
続く
次回予告!!
狂いそうな恋に心を焦がす勝男は彼女をつけまわすことに喜びを覚え始める。
勝男自信ですら抑えのきかなくなった衝動はついに・・・!
次回:「ローリング・ストーン」
また来週!(ToT)/~~~