A.I. (2001) / Steven Spielberg




 彼はデジタルな存在、データ以上のなにものでもない。

 まず、この映画で、示され続ける大前提に、ディビッド=ロボット、それ以上のものではない、ということがあります。感情をインプットされた人工知能、それは、完璧なデータとして、そこにある、彼の努力や感情、といったものは、ただデータとしてそこにある、ゆえの絶対性が、あるのです。彼はインプットされたデータを、裏切ることはありません、ただ、忠実に、愛し、愛されることを欲します。
 人間にとって、記憶は、必ず変容するもの。しかし、それが、デジタルに還元されたデータであるのならば、記憶は絶対性をそこにもつ、そして何一つ変わるものではない。映画の進行のなかで、それは、明らかにされていることです。彼は絶対的に、母親を愛する、自らのアイデンティティを求めようとする(それは計画的に望まれていたことでもあった)、ただひたすらに、インプットされたデータに忠実に、そしてまた、無限に同じように増殖し得るものでもある(複数のディビッドによって示される、無限に、同一のものをコピーしうるのは、データであってこそです)、彼は絶対的に0と1に還元され、けしてそれを裏切ることがないのです(あるいは、外部からの変更を受ければ、変わるでしょう、しかし、冒頭で、変更不可能は示されている、そうする必要など、まったくないにも関わらず。ただ、物語的なクライマックスへ導くためだけの必要性だけが、そこにあるのです)。
 ここにおいて、後半に徐々に人間らしくなってゆくことなど、何も裏切りの範疇ではない、むしろそう仕組まれているだけ、ということ、そうしてみると「A.I.はどこまで人間に近づくか」という問いは、まったく意味を為さない、不毛ですらあるとおもうのです。その問いが問題となるのは、まったく人間の予想を越える裏切りが、もたらされるときであってこそ、ディビッドに比べて、HAL9000のほうが、明らかにその問題を提示していたようにおもいます、そして、HAL9000のほうが、人間的な姿形を伴わないでおきながら、余程、人間的であった、と言えるとおもうのです。この映画は、それが持たせようとしているテーマ性、というものに、まったくもって物語が反発している、それが意図的にそうなったというのならば、どうしても残酷だと言わざるを得ません。ジャンクフェアで行われる、人間対廃棄ロボットの構図、そして、人間対ディビッドの構図、は、そのまま、映画と観客の構図につながるのです。意図的ならば皮肉と言わざるを得ませんし、けして超越した視線で、それを見ているわけでもない、それがスピルバーグの悪いところなのかもしれません。いや、こんなことは言わなくていいことだとわかっているのですが、言うべきことでもないとわかっているのですが、やはり、キューブリックが撮るべきだったのです。
 スピルバーグは、確かに、表面的に、キューブリックをなぞろうとする絵を撮っています。キューブリックによる、かなりの示唆があったであろうことは予想できますが、かえってそれが裏目に出ている、最早彼は死んだ、彼のことなどそれほど気にかけることはなかったのだとおもう、スピルバーグとして、彼の作品として、撮るのだとしたら、まだ見れたものになっただろうとおもうのです、相容れないもの、それも片方は死んでしまった、そこには必ずや不和が生じるに違いないのです。鏡・ガラス・水、といったものを通した対象を撮る、そこに対象の異化をあらわすといったような映像。それでいながら、膨大な時間の流れを、たった一言で、ナレーションという(映像を放棄する)装置を使って、それによって説明してしまう(キューブリックならばけしてしなかったことのはずです、それだけは確かです)。
 スピルバーグは、観客を突き放すことはしません、だからこそ、(裏面的に)残酷さは、無意識に行われるのです。それは超越の視線とは程遠い。

 ディビッドのデジタル性、というものは、けして物語の最後まで、無視されるものではありません、しかし、演じる俳優は人間、映像の外で、わたしたちは、彼を人間として見ざるを得ない、そこを逆手にとって、(データでありながら)人間らしさに近づこうとする経緯を見せる、ただ、物語を追うだけの観客ならば、彼がデータであることは、もはや忘れ去ってしまう(あるいは認識すらされないかもしれません)、しかし、彼は、データ以上のものではないことは、ずっと、語られつづけてきたことです。それを忘れ去ってしまうことは、何も、スクリーン上に、見てこなかったことに他ならない。スピルバーグは、そういうことを甘んじる、あるいはどうともおもっていないに違いないとおもうのです。

 しかし、また、ここで、もうひとつ。あるいは、人間も、また、デジタルに組み込まれているのではないか、という問題が浮き上がってきます。もちろん、それは、母親の再生による問題に他なりません。このことを、友人に話したとき、遺伝子というものは、0と1に還元されるのだ、という話を聞きました。つまりはそういうこと、人間のクローンということです。デジタルな存在であり、人間の、肉体のもつ、オーガニック、というものが、結局意味をなさないのだとしたら、それは今までとは正反対の形で問われることになります、人間がロボットに近い存在なのでは、ということが、問いとなってあらわれるでしょう。人間もまた、コピーしうるデータでしかないのだろうか、と。しかし、また、これは、映画の中で否定されること、結局、人間は(クローン化されようとも)、瞬きのなかで生きるのだ、瞬きのなかにある限り、それは変容しうるもの、そして、それは、またはロボットの持つような、(外部の力がない限りの)データの永続性、というものとは、相容れない。
 どうしようもない、その救いのなさを、フィルターで包んで覆い隠そうとするのでは、意味のないことではないでしょうか、そこには、なにものもを絶対的につき放した視線で見つめるということがあってこそ、なのだとおもいます。母親と子供、ふたりきりの、時間・空間・世界など、どう考えても、ぞっとしません。

 けして、スピルバーグを批判したいというわけではなく、彼のはらんでいるものが(今までは見えなかった、あるいはフィルターで覆い隠してたもの)、浮き彫りになった、という点で、それは面白いことだとおもっています。しかしまた、SFとみたところでも、問題点は多い、今までの作品とは違い、多くの方が見られることでしょうから、何か、反駁等でも構いませんので、掲示板などにご意見をいただけたら、とおもいます。


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