Cecil B. DeMented (2000) / John Waters




 ハリウッドに背を向けて、ハリウッドを継承して、ウォーターズは、どこへゆくのだろう。
 いや、本当に、このひとは、こわいひとだなぁ、とおもうのですよ。あるいは、ふしぎなひと、でもいい。まあ、それは置いておいて。

 この映画が、映画秘宝のような雑誌で、もてはやされているのを見ると、何とも言えない気持ちになるのですが、もちろん、そういったターゲットに受けるのは当たり前の(上品な)悪趣味ジョン・ウォーターズ、しかし、今回のセシル・B/ザ・シネマ・ウォーズは、そういった映画馬鹿を取り巻く映画、ハリウッドなんか糞食らえ、本当のリアリティを見せてやる、とばかりに、映画のなかで映画馬鹿たちが映画を作る、ハリウッドの良識・金儲け主義映画をどこまでもコケにし、ゲリラ撮影を繰り広げる。
 こういったストーリーから、待ってましたとばかりに、この映画に飛びつく人々がいるでしょう、が、もちろんのこと、この映画は、映画のなかで描かれているように、本当のリアリティなどは、追求していない、それどころか、カメラの視線が、過剰な演技を繰り広げる登場人物たちを擁護するわけなどなく、どこまでも客観的に、突き放したように、彼らを捉えています。この齟齬を、わたしたちはどのようにとらえるでしょうか、もちろん、この映画はハリウッドに対する反問を詰め込んでいるわけですが、そこに同時に、インディペンデント映画、アンダーグラウンド映画、に対する反問、疑問が、そこに、見て取れはしないでしょうか。

 映画のリアリティを追求する、というと、どうしても、あの、トリアーを筆頭とする、ドグマ95の面々が、思い出されてしまいます。確かに、制約のなかで生まれるものもあるでしょう、しかし、彼らは、あの制約は明らかに無意味です、リアリティは制約より生まれるものではありません。映画のなかのセシル・Bと、そしてドグマ95は、同様に映画のリアリティを目指しているわけですが、そこへの過程が違いすぎる、かたや制約、かたや何でもアリで死傷者まで出てしまう(もちろんこちらは虚構なのですが)、ウォーターズ自身が彼らを意識していたことはないでしょう、しかし、どうしてもそれが皮肉な構図におもえてしまうのです。
 制約と、ゲリラ、この対極にあるふたつの、どちらがよりリアリティを追求しているか、ということが、ここで持ちあがってくるかもしれない。しかし、そんなことは、どうでもいいことなのです、制約か自由か、といくら言ったところで、水掛け論になってしまうにすぎません。そのような思惟以前にカメラはリアルに対象を捉えているのであって、物語が現実(リアル)に忠実である必要はなし(というよりも、いくら忠実であろうとしても、忠実であることは結局不可能なのです)、結局は、手法ってところに落ち着けよ。って話ではないでしょうか。リアルと、リアリティは、明らかに区別されるべきものです、それらを混同してはならない。ドグマ連も、"誓い"だの何だの言っていないで、素直に、手法と言いいなさいな、とわたしは言いたいのです。(<飽くまでも映画的な>リアリティをそこに表現させる手法、つきつめても、それ以上のものではないというのに)

 脇道に逸れましたが、セシル・B、確かに、何も考えず、笑って済ませられる映画であるでしょう。自分が言いたいことを全部映画がやってくれた、とだって、考えられるでしょう、そりゃあ、パッチ・アダムスの完全版など、わたしだって見たくはありません。要するに、エンタテインメント、すべての人には受け入れられないかもしれないが、一部には熱狂的に迎え入れられるエンタテインメント、しかし、それで済ませてしまってよいのでしょうか、何か、重要なことが、抜け落ちてしまってはいないだろうか。

 何よりも先ず、熱狂を持って映画はそこに在り、熱狂を持って観客に迎えられ、一見、映画と、観客との、共に熱狂する、共同的な(しあわせな)イマージュがそこに生まれるかのように見えます、しかし、どことなく、そのなかに、一つの冷たい視線のようなものを、感じるように、おもうのです。


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