附録と補遺 02 01


三島試論

 三島由紀夫の小説は、けっして内面を試みようとはせず、ただ非常に精密にかたちづくられた形のなかで、あるいは深部を撫ぜるようにして、形を終局するという、そういった姿勢でもって、貫かれている。三島が小説家としては高くは評価されず(もちろん、すべての意見がそうだと云うわけではない)、劇作家としては素晴らしかったと云われる所以はそこにあるのではないかとおもう。
 滅びの美学、戯曲では弱法師に代表されるようなそれは、ただうつくしさを、外面的なうつくしさをみとめるだけ、どこかで内面へと連結するのではない、形というものは、外面と内面の境目でありながら、目に見えるものとしてそれは外面に終始する、不可視であり不透明のものであり、無論形を介した内面と外面の関係性は複雑なのではあるが、三島はそういった複雑さを捨象しているようである。かれは虚構をみとめ、だからこそ、そこに差し迫ったもの、真を見ようとすることは、あさはかなのだ、わたしたちは滅びの真を見るのではない、滅びの美を見る。真とかけ離れているというのは、それは自然などの美とは違う、精密な、虚構としてあるがゆえの、人為の完成をそこに持ち込むがゆえの美なのであり、人為の完成を提示するためにこそ、滅びはそこに至上のうつくしさとして描かれるのである。
 明らかに、右翼としての三島は、ポーズ、形であった、と言わねばならない。そもそも、日本の本質などというものは、もとをただせばありえないのだから(何も、ナショナリズムへの対抗として、わたしはそういうのではない、ナショナリズムをつきつめたときその本質へ迫ろうとするとき、わたしたちは幻想の在り処をそこに見る)、その日本的というものの外面性、それを導き出す形態、そして三島の物語が呈する形、それを意識するとき、三島が自分そのものをひとつのポーズの中でまっとうする、ということは、何もふしぎなことではなく、むしろ自然におもわれてくる。三島が神経衰弱のために自殺したのではない、ということは、確かに意味を持っている。
 仮面の告白において、誕生のときを確信し、そして小説内にとどめずに、実生活、かれ自身において、最後の瞬間をみずから確信しようとつとめたのだ。彼の死がなんらかの変革を起こすことははじめからありえなかった(内部への外面的な楔とは成り得なかったという意味合いで云うのだ、かれ自身もまた承知であったのではないかとおもう)、ただひとつの外面的事件として取り扱われたことは必至だった。
 かつてない鮮やかな自殺。かれはみずからそれを認めつつ、遂げた点において、非常に特異な存在だったのだ。(01.08.25)



映画館かビデオか?

 色々なレビュゥサイトを見ていて、映画館で見ることを推奨する方がいるのは当然なこと、ビデオ否定派の方もいれば、しかしまたビデオ擁護派の方(映画館で見ることを推奨してもビデオを否定するわけではないのですが)もいる、まあ、どちらの意見も否定するわけではないです。m@stervision映画瓦版を見ていておもったのですけれど。そういえば、下記の「すべての不毛な批評家たちへ」で書いたことを考えつつ、m@stervisionさんは良いサイトだとおもっていますが、映画瓦版どうにかした方が良いのでは、実を言うとこのサイトへの批判も、多少、書いたときは意識していました。m@stervisionさんのコラムでの服部氏批判は痛烈、読み応えもあって楽しいです、そうそう近々レビュゥサイトへのリンクも、貼りたいとおもっています。
 まあ、それはさておくとして、映画館で見ることが良いと、もちろんおもいますけれど、わたしももちろんビデオで見るわけです、むかしの作品を映画館で見れる機会は少ないですし、たとえあったとしても、時間的に難しかったりもするわけで、ビデオで見ることが必ずしも悪いことではないとおもうのです。
 さて、考えてみると、現在の映画のルーツはもちろんリュミエールのシネマトグラフにあるわけですが、ビデオはといえば、もちろんテレビというものがあってこそというのもありつつ、エジソンのキネトスコープにあるのでしょう。ビデオにはもちろん利便性(いつどこでも見ることができる、安く見れる、停止や再生が容易)があるのが特徴、しかし、また、それが個人的な経験というものである、ということにもあるのではないでしょうか。個人の経験として、それがあるというのは、やはり覗き穴形式で映像を見たという、キネトスコープにつながるものだとおもいます。映像研究家の那田尚志氏はおもに実験映像や個人映画を研究していますが、彼はむしろビデオ推奨派で、個人が繰り返し見ることに耐えるビデオを推奨し、映画館にはあまり行かないといいます。そのことと、彼が個人映画等を研究することは、けして無縁であるとはおもいません。
 ビデオが、キネトスコープの個人性というものに、つながっているのは、確かなことで、それに反して、映画館で映画を見るということは、周囲の状況が非常に大切となるという、映画館という場所、暗い館内、ともに同じフィルムを鑑賞する観客、というものがあって、それが個人的ではなく、どことなくほかの観客と同時的に見て、つながる、映画体験とでも云うべきものであるということなのだとおもいます。つまるところ、映画体験と、個人経験の差がここにあるのではないかと。映画館という場所と、そしてそのときどきの状況が、映画館で映画を見ることにとって、重要となってくるのは、確かなことです。映画館で声を立てて笑ったり、泣いたり、周囲にひとがいても、そういうことができるという、共同体験、コメディ映画で他の見知らぬひととともに笑う、というのは結構気持ちいいことだとおもいます。
 共同的で特異な(その状況が日常とはすこし離れた)場所として映画館があり、その場所性に惹かれるひとが多いのは当然と云えるのでは(まあ、わたし自身もそのひとりですが)、そう考えるとビデオは状況が個人の家であるとかいうことを含めて、個人的な日常のうえにあるのかも。もちろんのこと、スクリーンの大画面と音響というものが重要なのも確か、ビデオでは小さな画面とテレビのスピーカーの音、大きさ的に見ても、多数とともにする大きな会場と個人用のテレビ、この差は明らかでしょう。あ、ホームシアターはどうなるんだ、なんてことは、つっこまないように。(01.08.13)



すべての不毛な批評家たちへ

 今までに読んだ音楽評というもののなかで、唯一、感嘆したものといえば、ファジル・サイがたったひとりで、多重録音で、ピアノだけで演奏した、ストラヴィンスキーの「春の祭典」の評(ライナーノーツというのだろうか)を、書いていたひとのものなのですが、彼はこんな表現を使っていました、「彼(ファジル・サイ)はピアノに淫している。」
 CDは、今現在人に貸していて、手元にないので、そのひとの名前や、批評の正確なところは覚えていないのですが、この表現に感嘆したのは、彼が定型文的なわかりやすさから敢えて離れているところにあるのだとおもうのです。
 それまでは、わたしは音楽評というものを、どこか軽蔑していて、ライナーノーツなどは好んで読む気にならず、音楽雑誌などまるで見ない、といった感じだったのですが、それはたぶん、それらの批評というものが、そこにある作品の本質を何もあらわさずに、ただ定型文的わかりやすさでもって、作品の勝手な位置付けを行っていることに対する、反発のようなものからだったのだとおもいます。それは、また、映画評にあっても言えることで、最近の雑誌などで見られる映画評の大半が、何一つ読む価値がなくおもえるのは、彼らがそのわかりやすさのみに従事しているからなのです。
 批評という行為は、不毛なことです。映画、音楽といった、本来、言語に属さないものを、言語化して置き換えて、それをあらわそうとすることが元々にあって、たとえば解体などという言葉を使っても、結局、不毛のなかで、逃れられずに収斂されてしまう。しかし、けして、不毛だから意味がない、というのではない。問題とされるのは、批評家が、そのことに無自覚であることです。彼らは、もっと、その不毛に、自覚的でなければならない。そして、また、扱う言葉に対しても、自覚的でなければなりません。もちろん、批評家は、言葉で芸術を表現するために、いるのではありません(それを担うのは、小説家や詩人といったひとたちですし)、しかし定型文に頼ることは、作品にたいする真摯さを失っていることに他ならないのではないでしょうか。
 そしてまた、ジャンルという言葉で覆ってしまうわかりやすさ。しかし、取捨選択の利便性以外に、それが重要となる要素など何一つなく、ジャンルというものに頼ってしか、作品に対する言葉を連ねられないでいるのは、非常につまらないことでしょう。
 こうして文章を紡ぐことは、普段話している言葉とは、同一のものではありません。書き言葉ということに、無自覚ではいけない。それが、書かれたとき、文章はひとより分離はするものの、ひとはそこに責任を負うのです。文章は、ひとつひとつの言葉の関連によって、その独自性をもつもので、そしてまた、それは文章の構成というものが、いかに以前より(生まれる以前の歴史のなかに、そして自分の意識下に)あった繰り返しのものであっても、それを書く自分が、今・ここ、にいる限り、厳密に言えば、自分の現在の身体を離れられないものである限り、他人の文章をそっくりそのまま写す、ということを除けば、けして同じものにはなりません。作家などは、そのことには、自覚的です。模倣というものはなく、影響である、ということを知っている。それは否定されることではありません。言葉というものが以前からあったものであろうとも、文章は、今・ここ、で、生まれるもの。批評家は、いつまでもそれに無自覚ではいられません、彼らもまた、わかりやすさから、逃れねばならないのです。(01.07.29)




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